紀伊國31座 大13、小18




伊都郡[イト]:2座 大1小1

小田神社[オタ]
小田神社[おだ]「物之部武彦命」
 饒速日命を祖先に持つ物部大連公、後に小田の連公(第9代開化天皇の妃の兄)は大和より当所小田に移り住居し、祖先物之部武彦命を祀られ小田神社を建立した(1400余年前)。和歌山県橋本市高野口町大字小田字宮田76 玄松子の記憶

丹生都比女神社[ニフツヒメ](名神大。月次新甞。) 
丹生都比賣神社[にぶつひめ]「丹生都比賣大神、高野御子大神、大食都比賣大神、市杵嶋比賣大神」 丹生都比売大神は天照大神の御妹神で別名稚日女尊(わかひるめのみこと)と申します。 織物の祖神と言われ、御子の高野御子と共に大和地方を巡歴され、農耕殖産を教え導かれこの地に鎮座されました。
 神功皇后に協力された功績で応神天皇より紀ノ川以南の広大な地を神領として与えられました。
 古くは弘法大師が当社の側に曼陀羅院を建立し、その後神白、神黒、2匹の犬の導きで高野山に真言密教の道場を開き、以来当社は高野山の守護神として崇拝されています。
 第3、4殿には鎌倉時代の初め行勝上人により、敦賀の気比神宮、安芸の厳島神社を勧請され、4柱の神を各殿にお祀りして以来4社明神とも呼ばれてお導きの神として参詣者が絶えません。
 当社の特殊神事の1月4日の御田祭、4月22日の花盛祭及び渡御の儀は平安時代の古式そのままに行われています。和歌山県伊都郡かつらぎ町大字上天野230 今夏公式 紀伊天野社(丹生都比売神社)多宝塔 玄松子の記憶


那賀郡[ナカ]:3座並小

荒田神社2座[アラタ]
荒田神社[あらた]「天疎向津姫命、氣長足姫命、譽田別命、大山命 ほか」 当神社も天平の兵火のため、伝うる文書等は一つも存在していないが、紀伊続風土記に次の様に記され往時が偲ばれる。和歌山県岩出市町大字森237 玄松子の記憶

海神社[アマ]
海神社[うなかみ]「豐玉彦命、國津姫命」 当神社は、豊玉彦命・国津姫命を主祭神とし、垂仁天皇の御代、忌部宿祢が神のお告げによって、創建したものと伝えられている。和歌山県紀の川市打田町大字神領272 玄松子の記憶

名草郡[ナクサ]:19座大9小10

日前神社[ヒノクマ](名神大。月次相甞新甞。)
日前神宮[ひのくま]「日前大神」
國懸神社[クニカゝス](名神大。月次相甞新甞。)
國懸神宮[くにかかす]「國懸大神」
日前國懸神宮御由緒
 謹みて按するに日前國縣大神は、天照大神の前霊に座しまして、其の稜威名状すべからざりと社伝にあります。
 太古天照大神が素盞嗚尊の行いを嘆き、天岩窟に幽居ましてしまい、世界が闇となってしまった時は、思兼命の教えに従い種々の幣帛を備え、大御心を慰め和しめし奉るに当たり、石凝姥命が、天の香山の金を採って大御神の御像を鋳造られました。「日本書紀」第一の書に、時に高産霊の息思兼神といふ者有り。 思慮の智あり。乃ち思ひて白して日さく、「彼の神の象を図し造りて招壽ぎ奉らむ」とまうす。故、即ち石凝姥を似て冶工として、天香山の金を彩りて、日矛を作らしむ。 又真名鹿の皮を全剥ぎて、天の羽鞴に作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前なり。 とあり、この時鋳造されたのが、伊勢神宮奉祀の八咫の鏡、日前神宮奉祀の日像鏡、國縣神宮奉祀の日矛鏡であります。
 「日前國縣両大神宮本紀大畧」によると、神鏡者則日前大神也日矛者則國縣大神也とあり、天照大神(日神)招壽ぎ奉るのに鏡を用いたことが窺われます。 御鎮座の次第は、天孫降臨の時、天道根命は日像、日矛の両鏡を奉斎して持ち来り、神武天皇二年名草郡毛見郷浜宮に祀り、垂仁天皇十六年名草万代之宮、すなわち現在の地に鎮座したと伝えられています。 以来、天照大神の御神体として祀られており、八咫鏡の御同体として、古代より朝廷の崇敬厚く、藤原定家が献幣使として神馬を奉った記録もあります。 両神は天道根命の子孫である紀氏の手により代々奉斎され、平安時代には四七年ごとの遷宮もされていたと伝えられています。
 「紀伊国造系図」によると始祖は天御中主命にはじまり、高皇産霊尊を経てその子を天道根命とし、紀伊国造は天道根命が始祖といわれ現在にいたっています。
和歌山県和歌山市秋月365 神社公式 玄松子の記憶 

伊太祁曾神社[イタキソ](名神大。月次相甞新甞。)
伊太祁曾神社[いだきそ]「五十猛命 配 大屋都比売命、柧津姫命」 伊太祁曽三神は「木の神」であられる。日本書紀神代巻上には「父神素戔嗚尊と共に新羅に降られ、曽戸茂梨という所に居られたがのちに我が国全土に樹種を播かれて大八州国をすべて青山となされた。 その神業に依りて有功神と称された。即ち紀伊国まします大神が是れである。」と記されている。
 全国を緑化せられて最後に鎮座せられた地を木の国(のちに紀伊の国)と称するので緑化の神様であり、紀伊の国の祖神様である。
 御祭神は播種され育てられた各種の樹について例えば檜は瑞宮をつくる。杉、樟は浮宝(船)をつくる。MAKIは葬具の材などとそれぞれ用途まで示されたので以後、林業・木材業・建築業の祖神と仰がれている。
 また、浮宝の神として漁業航海方面の信仰も強く、また大国主命が何回もの厄難をうけられる毎に、(稲葉の白兎で有名)この大神にたよられ難を免がれたので、「いのち神」として古来大難病難を除ける信仰がつづいている。
(注)文中のMAKIは、「木」偏に「皮」です。和歌山県和歌山市伊太祁曽558 神社公式 玄松子の記憶

大屋都比賣神社[オホヤツヒメ](名神大。月次新甞。) 
大屋都姫神社「大屋都姫命」 御祭神は、天照皇大神の皇弟素戔嗚尊の神女で五十猛命の妹神である。 この神柧都姫神命と御父神の勅を奉じ給い、御兄五十猛命の神業を助け八十木種を筑紫の国より播き始め、大八州国島の八十国残る隈なく播種し終りて、当地に鎮り坐す木種播殖に著大な御功績のある神であり樹木の守護神として御神徳もあつい。
 なかでも大屋都姫命は住宅、船、車、木具、薪炭など木製品の守護神として崇敬されている。
 当社古くは五十猛命、柧都姫命とともに日前宮の地に鎮座あるものち伊太祈曽村に遷座し、太宝二年三神を3所に分遷したとき北野村古宮の地に遷り、更に今の宇田森神ノ木の地に遷座される。和歌山県和歌山市宇田森59 玄松子の記憶

都麻都比賣神社[ツマツヒメ](名神大。月次新甞。) 
都麻津姫神社[つまつひめ]「都麻津姫命 相殿 吉礼津姫命 脇殿 五十猛命、大屋津姫命」 本国神名帳に名草郡従五位下吉禮津姫神とある。この神は古書に見ることがない。和歌山県和歌山市吉礼911 玄松子の記憶

都麻津姫神社「都麻津姫命」 当神社は続日本紀、大宝二(702)年二月己未、伊太祁曽、大屋都比賣、都麻津比賣命三神社を分遷す。とあり、これにより、三神、所を異にして鎮まり坐す、その都麻津比賣命神社に当たると考えられる。 和歌山県和歌山市平尾957 玄松子の記憶

高積神社「たかつみ]「都麻都比賣命、五十猛命、大屋都比賣命」 五十猛命、大屋都比賣命、都麻津比賣命ともに今の日前國縣神宮の鎮まる地に在わしたが、垂仁天皇十六年日前國縣神が浜の宮より遷座されたので、五十猛命の三神その地を去り、山東の地に遷り給い、更にその後大宝三年三神分遷の勅命があり、三神所を異にして鎮り座したのである。都麻都比賣命は高積山に遷り給った。和歌山県和歌山市祢宜1390 下宮(玄松子) 上宮(玄松子)

妻御前社「都麻都比賣命、五十猛命、大屋都比賣命」三神分祀の際の都麻都比売を祀った神社と思われる。高積神社に合祀されたが、跡地でも祀られている。 和歌山県和佐関戸405の東隣。 

鳴神社[ナル](名神大。月次相甞新甞。)
鳴神社[なる]「速秋津彦命、速秋津姫命」現在の祭神は後世に祀られたもので、元々紀伊忌部氏の祖「彦狭知命」もしくはその祖神「天太玉命」と考えられている。和歌山県和歌山市鳴神1089 玄松子の記憶

香都知神社[カツチ]
鳴神社境内の香都知神社「軻遇突智命」和歌山県和歌山市鳴神1089

加太神社[カタ] 
加太淡嶋神社[かだあわしま]「少彦名命、大己貴命、息長足姫命」和歌山県和歌山市加太116 神社公式 玄松子の記憶
加太春日神社「天兒屋根大神、武甕槌大神、經津主大神、天照大御神、住吉大神」 加太春日神社の創建は「紀伊国造家旧記」によると、天道根命が二種の神宝を奉じて加太浦に上陸し、頓宮を造営して天照大御神を祀ったことに始まるという。 和歌山県和歌山市加太1342

伊久比賣神社[イクヒメ] 
伊久比売神社「伊久比賣神」土地の人は「市姫大明神」といっている。 この土地は、紀ノ川の川口にあってたびたびの洪水に侵され、或るいは兵火のために焼失して当社の由来も絶えて詳ではない。和歌山県和歌山市市小路330 玄松子の記憶 
山口神社「伊久津姫命」熊野王子社の山口王子を合祀している。和歌山市谷377 玄松子の記憶 

朝椋神社[アサクラ]
朝椋神社[あさくら]「大國主命」 和歌山県神社明細帳(明治十二年)によると「勧請年月不詳、延喜式名草郡朝椋神社、紀伊国神名帳従四位上朝椋神、紀州名勝志朝椋神社伝へ曰ク上古鎮西将軍不何御子知何許人攻代之砌為寂勲故ニ建造、寛弘二年五月摂社修葺云々。 マタ永徳二年五月、應永十八年四月、永享十年十二月、康正三年八月、永正年間等造営ノ事アリ。 ソノ後天正十二年国乱ニ罹リ社領等掠取ラレ、当時ノ神官杉原景政秘ニ神櫃ヲ負テ山林ニ隠ル。 海部郡栄谷村渓間有国津神谷号神櫃暫鎮坐ノ地。」という。
 その後文禄五年、桑山修理大夫宗栄再建。萬治二年十二月、旧殿回禄に罹り徳川氏再営す。 明治六年四月、村社と記されている。また紀伊続風土記には往古境内に「社霊の松」として松の大樹あり、本居宜長の献詠歌に「広まえに緑も深く枝たれてよにめずらしき神かきの松」と記し奉献いるとある。 昭和二十年七月戦災に罹り焼失し、昭和三十六年現社殿が再建された。和歌山県和歌山市鷺ノ森明社丁2 玄松子の記憶

刺田比古神社[サシタ]
刺田比古神社[さすたひこ]「大伴道臣命、大伴佐・比古命」 刺田比古神社は延喜式神名帳、紀伊国神名帳等に記載された古社で、岡(広瀬・芦原・大新・番丁・新南・吹上)の産土神で岡の宮で知られ、和歌山城鎮護の神社でもあり、八代将軍吉宗公の仮親として出世、開運の神社として有名。 古昔道臣命十世の孫刺氏比古命より世々岡の里を采邑し、刺氏比古命二十世の裔大伴武持がこの地に住むに及んで、此の祖神との神霊を岡の里に斎祀し、この地を開始経営給いし神として里人等其の神徳を仰ぎ産土神とし、国主の神、大国主神と尊崇した。 大伴武持二十八世の孫、岡本信濃守武秀始めて城を岡山に築き、世々之に住居し、最も厚く崇敬した。
 続日本紀の神護景雲3年(769年)の条に、陸奥國牡鹿郡の俘囚であった大伴部押人が申し出て言うには「自分たちの先祖は紀伊國名草郡片岡の里の出身である。先祖が蝦夷を征討するべく陸奥國小田郡に居を構えていたところ、子孫が蝦夷に捕虜にされて俘囚となっていた。そこで俘囚の名を取り除き調庸の民に戻してほしい。」と願い出、これが許されたとある。  白鳥伝説下82 谷川健一氏
和歌山県和歌山市片岡町2丁目9 神社公式 玄松子の記憶

麻爲比賣神社[マヰ]
日前神宮国懸神宮境内末社の菟佐神社に合祀 和歌山県和歌山市秋月365 未確認
津秦天満宮に合祀「主 菅原道眞、配 麻爲比賣命、名草彦命、名草姫命」 麻為比賣神社(知和夜姫神社)の由緒は以下の通り。延喜式神名帳に「麻為比賣神社、本国神名帳従四位ノ上麻為比賣神」、国造家正平二十年検田取帳に「知和夜二段、知和夜姫敷地」とある。 御社は兵乱に廃絶して石銘を建て、「麻為比賣神享保甲辰」の九字をきざむ。この石銘は古は現在の天満宮の南、百メートルの位置にあったものを、いつの時代か現在は天満宮境内本殿丑寅の方にお祀りしている。 数年前伐採した松の配置から見ると、周辺一体は天満宮の境内であっただろうと思われる。現在、麻為比賣社跡は松は切られ、小高い草山が残っている。和歌山県和歌山市津秦83 玄松子の記憶

竈山神社[カマヤマ]
竈山神社[かまやま]「彦五瀬命 配 神日本磐余彦命、御毛入沼命、稻飯命、高倉下命、可美眞手命、天日方奇日方命、天種子命、天富命、道臣命、大久米命、椎根津彦命、頭八咫烏命」 御祭神の彦五瀬命は大一代神武天皇の皇兄に坐し、大和平定の途中、孔舎衛坂で長髄彦の軍と戦い、流れ矢に当たり給いて戦傷、雄水門に至りて遂に崩御遊ばされ、竃山の地に葬られ給う。 今の社地は即ちその遺跡である。
 寛政六年冬、国学者 本居宣長はこの社に詣でて、
をたけびの かみよのみこゑ
  おもほへて あらしはげしき
   かまやまのまつ
と詠んだ。
和歌山県和歌山市和田438 玄松子の記憶

高積比古神社[タカツミヒコ]
高積比賣神社[タカツミヒメ]

高積神社「たかつみ]「都麻都比賣命、五十猛命、大屋都比賣命」 五十猛命、大屋都比賣命、都麻津比賣命ともに今の日前國縣神宮の鎮まる地に在わしたが、垂仁天皇十六年日前國縣神が浜の宮より遷座されたので、五十猛命の三神その地を去り、山東の地に遷り給い、更にその後大宝三年三神分遷の勅命があり、三神所を異にして鎮り座したのである。都麻都比賣命は高積山に遷り給った。和歌山県和歌山市祢宜1390 下宮(玄松子) 上宮(玄松子)

伊達神社[イタチ](名神大)
伊達神社[いだて]「五十猛命、神八井耳命」 五十猛命は素戔嗚尊の御子にして、大八州に数々の木種を播殖し給い、かつ国土経営の功績顕著なるをもてって、別の名を「有功の神」と申し上げる。 また神八井耳命は、神武天皇の御子にして園部の氏神に当たらせ給う。
 園部兵衛重茂はこの神の後裔であるという。
 又、神名「伊達」は伊太氏にて山東庄に鎮まりませる伊太祁曾神と同神なり、土人当社を一宮大明神と称う。当社に中野島村志摩神社、和田村静火神社の三神を紀三所の神と称え奉るという。
和歌山県和歌山市園部1580 玄松子の記憶

志磨神社[シマ](名神大)
志磨神社[しま]「中津嶋姫命」 新抄格勅符抄に、大同元年(八〇六)紀伊国志磨神社へ神封七戸寄奉るとあり、御祭神中津姫命(市杵島姫命)は、天照大神、素戔嗚尊との、御誓約の三神の一つにして、 生気凛々、清楚にして、瑞々しい女神様であり、古典続日本後記十四に、承和十一年(八四四)正五位下、文徳実禄に貞観元年(八五八)正三位、 十七年(八七五)正三位、紀伊国神明帳に正一位と神階が進められた史実によっても、当社が悠久の昔より連綿と続いているのは明らかである。
七月十四日の夏祭は和歌山市随一の風物詩として知られ、数万人の参拝客で賑わう。和歌山県和歌山市中之島677 玄松子の記憶

静火神社[シツヒ](名神大)
竈山神社の境外摂社静火神社[しずひ]「火結神」和歌山市和田字前山855 玄松子の記憶

堅眞音神社[カタマ]
鳴神社境内の堅真音神社「神吾田廉葦津姫命」かっては鳴神社の西一丁程にあった。和歌山市鳴神1089 
堅真音神社「木華咲耶媛」鳴神社から勧請し再建。和歌山市神前鳴神253



在田郡[アリタ]: 1座大

須佐神社[スサ](名神大。月次新甞)
須佐神社[すさ]「素戔嗚尊」 和銅六年十月(紀元一三七三年)今より一二七六年前(平成元年)大和国吉野郡西川峯より勧請したと伝えられておりますが定かではありません。
 当初、御社は、当神社山上に西面して創建されましたが、海洋往来の船舶等が、崇敬の至誠を捧げなければ、事故が多く発生したため、元明天皇の勅命により、現在の地に遷座したといわれております。
 千田祭(例大祭)十月十四日
 和歌山県下では「千田のけんか祭]ともいわれ、氏子をはじめ、多くの参拝者で賑わいます。中でも「大みこし渡御」「鯛投げ神事」は、けんか祭の異名のとおり有名です。又、各地区の組太鼓(現在八基)の奉納は千田祭の神事の特徴を充分にあらわしております。 子供神輿、稚児行列、餅投げ等もまつりの賑わいをましております。  粥占の神事(かゆうらないのしんじ)一月十五日
 当神社の「粥占」は千年の昔より伝えられている神事であり、 近在近郷より、この占いを知るために、多数参拝におとずれ、「あずき粥」を賞味し、家族の無病息災を祈願します。  夏祓(なつはらい)毎年六月中
 氏子をはじめ、崇敬者が各家庭のけがれをとりのぞくため、夏祓の祈祷をおこない、注連縄、疫神斎の神符、榊等を受けるため、参拝に訪れます。
和歌山県有田市千田1641 玄松子の記憶


牟婁郡[ムロ]:6座大2小4

熊野早玉神社[クマノハヤタマ](大)
熊野速玉大社[くまのはやたま]「熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子命、天照大神、天忍穗耳命、瓊瓊杵命、彦火火出見命、草葺不合命、國狹槌命、豐斟渟命、泥土煮命、大戸之道命、面足命、天之御中主神、高皇産靈神、神皇産靈神 配 伊弉諾尊、伊弉冉尊、國常立命」泥は下に土がある。
熊野大権現熊野速玉大社由緒 神代の頃、神倉山(新宮市西南)に祀られ、景行天皇の58年(西暦128年)に今の処に新しく境内・社殿をつくって移られたので、神倉山の旧宮に対して新宮と称した。御神木はなぎの木である。
和歌山県新宮市新宮上本町1  神社公式 玄松子の記憶

熊野坐神社(名神大) 
熊野本宮大社[くまのほんぐう]「家津美御子大神、素盞嗚尊、速玉之大神、伊邪那岐大神、事解之男神、伊邪那美大神、天照皇大神」 第十代崇神天皇65年に社殿が創立されたと(皇年代略記)(神社縁起)に記載されております。
 明治22年の熊野川の大洪水にて中州から現社地に遷座。和歌山県田辺市本宮町本宮1110 神社公式 み熊野ねっと 玄松子の記憶

海神社3座[アマ]
潮崎本之宮神社[しおざきもとのみや]「上筒男命、中筒男命、底筒男命」 神功皇后後凱旋の折り紀伊に赴かしたが南海に漂うた末に当地の大水門浦につかれ、その時住吉三神を祭られ海神社御本之宮と称した。和歌山県東牟婁郡串本町笠島1517  玄松子の記憶
熊野本宮大社旧社地大斎原の海神社(摂末社合祀別社)「底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神」和歌山県田辺市本宮町高倉 玄松子の記憶

天手力男神社[アメノタチカラオ]
熊野本宮大社旧社地大斎原の御戸開神社(摂末社合祀別社)「高倉下命、穗屋姫、天手力男命 ほか」和歌山県田辺市本宮町高倉 玄松子の記憶
力侍神社[りきし]「天手力男命」  本国神名帳には従四位上両、手力男命元は旧海草郡神波村領地に鎮座していたが、中古上野村八王子社境内に遷し、 寛永三丙寅年三月、神託に依り、両社とも此地(和歌山市川辺字稲井六一番地)に遷座する。 寛永記に八王子社は、嵯峨天皇弘仁年中に建立したものと云われている。
熊野御幸記に、記載されている川邊王子であって、現王子社はこの神社である。 後世、この地に遷座し、昔の社殿とは異なる所はある。
 力侍神社は、延喜式神名帳には牟婁郡の雨手力男神社とあるが、現在その地に其神なく、後世に至ってこの地に遷座したことによって、本国神名帳の名草郡巻に記録されている。和歌山県和歌山市川辺61 玄松子の記憶
熊野速玉大社境内の手力男神社(鏑の宮)「天手力男命」和歌山県新宮市上本町1 玄松子の記憶


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