上野國:12座 大3小9


片岡郡[カタヲカ]:1座

小祝神社[オハフリ]
小祝神社[おぼり]「少彦名尊 合 五十猛神 ほか」
由緒
当社は、「延喜神名式社上野国片岡郡一座小祝神社」として国内神名帳に正一位小祝 明神とあり、記録に元慶四年五月二十五日、授上野国正五位下小祝神正五位上勲十二 等とあり。また、神道集に上野の七宮に数えられて、その稜威は国史に輝きつたえり 。高崎城主代々は崇敬厚く、中でも安藤対馬守重信、間部越前守詮房等は特に崇敬せ られたり。正徳年中、間部越前守によりて神殿を造営されたのが、現在の御本殿であ る。明治五年、社格御制度により第五大区郷社に列記せられ、明治四十一年六月十八 日、許可を得て、本殿内に少彦名命他二十柱を合祀せり。
群馬県高崎市石原町1245 神社公式 玄松子の記憶

甘楽郡[カンラ]:2座大1小1

貫前神社[ヌキサキ](名神大)
一之宮貫前神社[いちのみやぬきさき]「經津主神」 女神一座があったと伝わる。本来は[貫前][抜鉾]の二神二社であった。この神々にかかわる山、神社の方位にも複雑な関係がある。この地域は半島からの渡来人が多く、彼らによって六世紀には成立しており、祭神は女神であり、水の神、織物の神、財の神であり、小舟神社−貫前神社−荒船山につながり、そこへ磯部君=物部氏に統率される男神・武神の抜鉾が合わさったものである。(日本の神々11田島桂男氏より)
一之宮貫前神社
上野国一宮、元国幣中社、一之宮貫前神社、群馬県富岡市一ノ宮鎮座。
「一番はじめは一ノ宮」と古くからわらべ歌にうたわれている通り、一之宮貫前神社 は上野国の一宮で、経津主神と姫大神を祀り、開運、治安、農耕、機織、縁結び、安 産の神として県内はもとより、遠近の人々に信仰され親しまれている。 神社は、鏑川の清流に臨み北に妙義、南に稲含、秩父の連山、西に神津荒船の連山を 仰ぐ景勝の地にあり、小高い丘陵を登り、見上げるような丹塗の大鳥居をくぐり、北 斜面の下り参道をおりて参詣するという全国でも珍らしい形態を持ち総漆塗極彩色の 社殿が鬱蒼と繁った杜に囲まれ巧に配置散在する様は、恰も日光の東照宮を見るよう な華かなもので、小日光と呼ばれている。

御祭神
経津主神、姫大神。
経津主神は磐筒男、磐筒女二神の御子で、天孫瓊瓊杵尊がわが国においでになる前に 天祖の命令で武甕槌命と共に出雲国(島根県)の大国主命と協議して、天孫のために その国土を奉らしめた剛毅な神で、一名斎主命ともいい建国の祖神である。 姫大神は祭神不詳で、恐らく綾女庄(一ノ宮地方の古称)の養蚕機織の守護神と考え られる。

由緒
社伝によれば、碓氷郡東横野村鷺宮に物部姓磯部氏が奉斎、次で、南方鏑川沿岸に至 り蓬ケ丘綾女谷に居を定めお祀りしたのが安閑天皇元年三月十五日である、天武天皇 白鳳二年三月十五日初度の奉幣があり、清和天皇の貞観元年に宸筆の額を賜り、神位 の昇る毎に書き改めて今に残っているものに正一位勲五等抜鉾神社とあり、即ち勅額 で楽翁公の集古十種に記されている。

醍醐天皇の御代、延喜の制には名神大社に列し、上野国一ノ宮として朝野の崇敬を衆 め、武家時代に至って、武家、地方豪族が格別に崇拝して数々の献品をなし、奥方連 中からも奉納品等があって女神様の信仰も篤かったことが知られる。 明治四年国幣中社に列格、昭和二十一年、社格制度の廃止により一之宮貫前神社と称 し現在に至る。

この間御修理に御下賜金、皇族方の御寄進或は御親拝(昭和九年)皇族方の御参拝等 御神威彌彌高く農耕、殖産、開運の神として神徳四方に遍く一朝国家有事の際は賽者 踵を接する。

社殿と境内
現在の社殿は徳川三代将軍家光の命により改築したもので、寛永十二年(約三百三十 年前)の造営である。元祿十一年、五代将軍綱吉が大修理をした、江戸初期の総漆塗 精巧華麗な建造物というだけでなく、その構造が、いわゆる貫前造と称する特異な点 から重要文化財(旧国宝)に指定されている。

拝殿、楼門及び東西両廻廊は同時代の建築である、実に徳川家の抱え大工が日光廟と いう世界的美術建造物を完成する道程の中にあるものといえる。 境内は約二万六千坪、北斜面の森林で、本殿裏に樹令約千二百年の杉の御神木があり 、一名藤太杉とも云う、その昔、藤原秀郷(俵藤太秀郷)が戦勝祈願をこめて年令の 数即ち三十六本を植えたと称するもので、現在はこの御神木一本だけが残っている。 西の門内は式年遷宮祭の御仮殿敷地、東の門内は往時神仏習合時代の僧堂敷地で、観 音堂跡、三重塔跡、鐘楼跡等がある、不明門内にある鳥居は勅額鳥居と称え昔は遥か 南方正面田島字鳥居の地にあったと伝えている。

宝物
総て四百点余、鏡、武具をはじめとして、御神衣、古文書、神楽面等古来の崇敬信仰 を語るに足る諸品を蔵している。
鏡、百数十面、奈良、平安、鎌倉、室町、吉野、桃山、江戸の各時代を通じて大観し 得るものとして金工美術上珍重されている、内重文に指定されているものは次の通り。
白銅月宮鑑、唐鏡、約二千年位前の作。
約三百六十年程前文禄三年頃小幡竹千代の乳母奉納、 梅雀文様銅鏡、約七百六十年前、鎌倉時代、 竹虎文様銅鏡、約五百年前、室町時代。
御神衣、六十余領残存、元和九年以来遷宮毎に新調奉納。

群馬県富岡市一之宮1535 神社公式  玄松子の記憶

宇藝神社[ウケ]
宇藝神社[うげ]「倉稻魂神、建御名方神、速玉之男命、伊邪那美命、大山津見神、事解之男命、大日尊」 白鳳年間創祀。群馬県富岡市神成1178 玄松子の記憶

群馬郡[クルマノ]:3座大1小2

伊加保神社[イカホ](名神大)
伊香保神社[いかほ]「大己貴命、少彦名命」垂仁天皇御代の勧請。榛名山を祀り同名社は群馬東部に分布、同山を祀る榛名神社は西部に分布する。 群馬県北群馬郡伊香保町伊香保1 玄松子の記憶

榛名神社[ハルナ]
榛名神社「はるな」「火産靈神、埴山姫神」鎮座地厳山は奇岩奇渓が存する深山である。
榛名神社ご由緒
第三十一代用明天皇元(丙午)年紀元一二四六年(西暦五八六年)、創祀と伝えられ 、延喜式内の古社で上野十二社の六の宮である。南北朝時代から座主執行の二職が置 かれ、徳川時代の末期に至る迄神仏習合の時代が長く続き、東叡山上野寛永寺の管下 に属し、別当兼学頭が派遣されて一山を管理して居たが、明治初年神仏分離の改革に より榛名神社に復した。

御祭神
火産霊神(ほむすびのかみ)[鎮火・開運]
埴山姫神(はにやまひめのかみ)[五穀豊穣]
例祭五月十五日

社殿は寛政四年(百九十年前)の改築、周囲の巨厳と調和して建立されたもので荘厳 の極致を表している。御祭神は社殿の後ろに立てる御姿岩の洞窟中に祀られている。 榛名神社の太々御神楽(神代舞)三十六座は享保時代(約二百七十年前)以前より伝 えられたもので、その舞と拍子は極めて荘重古雅で昭和二十七年三月無形文化財に指 定されている。

御宝物と古文書
大織官藤原鎌足公真筆経文一、小野道風の真筆経文一、平相国清盛公真筆経文一、庁 宣一、足利持氏の許状(応永三十年三月二十八日)一、鎌倉御所入道知行書一、長野 伊予守立願書一、鎌倉執事上杉憲房の制札、同上杉憲政の制札一、武田信玄の高札 鏡之部八ツ花形(鏡経六寸白銅製奈良朝以前の物という)一、円形鏡(経五寸四分 乳鏡)一、円形鏡(経八寸裏に松喰鶴の模様あり)一、円形懸仏(経八寸七分十一面 観世音細線の像あり奈良朝の物という)一、円形懸仏(経八寸四分裏に大檀那源氏女 弘安四年八月とあり)一、円形懸仏(経六寸五分裏に富士権現とあり)

随神門(旧二王門)  一八四七年(弘化四年)上棟、棟梁は埼玉県宮内の関根修理 、神仏分離までは二力士像があって雲慶の作と伝えられていた。

矢立の杉  四百年前武田信玄が箕輪城(城主長野信濃守)攻略のみぎり矢を立て 戦捷祈願せられたる杉の巨木で周囲十米余、枝南七米余、北五米余ありさながら天を つくが如くである。近くに矢の久保、のぞき岩等の古戦跡がある。昭和八年文部省一 般史蹟に天然記念物として指定されている。

双龍門  八棟造りの建物で、原山宿大工棟梁清水和泉の建立したもの、彫刻は熊 谷宿長谷川源太郎の作で、中国の三国史から取材したものである。

尚榛名神社社殿(幣殿、間殿、拝殿)国祖殿、額殿、神楽殿、双龍門の七棟及び鉄燈 篭(元享三年奉納)一基は昭和五十七年四月二十日、県より重要文化財として指定せ られた。

群馬県群馬郡榛名町榛名山849 神社公式 玄松子の記憶

甲波宿祢神社[カハスクネ]
甲波宿禰神社[かわすくね]「速秋津彦神、速秋津姫神」宝亀二年創建。群馬県渋川市川島1287 玄松子の記憶
甲波宿禰神社[かわすくね]「速秋津比古命、速開都比命」延暦四年、川島から勧請。
由緒 沿革    
宝亀二年(七七一年)、延喜式上野十二社の一つ川島の甲波宿祢神社が創建されまし たが、本社はそれより後、延暦四年(七八五年)、早良親王の謀反に組したためこの 地に流されたという小野金善が川島鎮座の甲波宿祢神社から勧請したといわれます。 中世になってからは白井城主長尾氏の崇敬が厚く、長尾景春が神宝として太刀一振を 献上し、社殿の修築をしたといわれます。

祭典は、往古は万福寺住職が奉仕していましたが、明治になり神官奉仕となりました 。尚当社は古昔は正一位宿祢大明神といわれましたが、明治元年、神祇官布告によっ て甲波宿祢神社と改称されました。

宝物は神鏡・太刀・神輿(天正三年作と伝えられる)があります。表鳥居に享保一九 年宿祢大明神とあり、社殿は当時のものです。拝殿の石立端柱の獅子一二頭屋根下の 鶴と鴨居の龍の彫刻格天井に画かれた狩野派の絵画等いずれも貴重な文化財でありま す。尚明治初年、社務所の火災で残念ながら古記録すべて焼失しました。

群馬県吾妻郡東村箱島1136 玄松子の記憶
甲波宿禰神社[かわすくね]「速秋津彦神、速秋津姫神」群馬県渋川市行幸田673  玄松子の記憶
武内神社[たけうち]「建内宿禰命 配 宇氣母智神、速須佐之男命」甲波宿禰神社が宿禰大明神と略されてから後世武内がつけられ宿禰が消えたのもである。甲波は川であり、大和吉野の丹生川上神社のように上中下の三座並んでいた神社の可能性もある。群馬県渋川市祖母島499  玄松子の記憶

勢多郡[セタ]:1座大

赤城神社[アカキ](名神大)
赤城神社[あかぎ]「赤城大明神、豐城入彦命、磐筒男命、磐筒女命、經津主命」群馬県勢多郡富士見村赤城山小鳥ヶ島 神社公式 玄松子の記憶
赤城神社[あかぎ]「大己貴命、豐城入彦命」赤城山を神体として鎮座する。赤城山の東側は大己貴命、西側は豐城入彦命を祭神とする社が多い。この社の背後の荒山の尾根に[櫃石]と呼ばれる巨石がある。周囲からは祭祀に使われた物が出土している。磐座であり神社成立以前の自然崇拝の跡である。
由緒

関東の大平野の北に並んでいる山々の最前列にそびえているのが赤城山であり、その 何面の中腹に群馬県勢多郡宮城村大字三夜沢の地がある。赤城神社の鎮座地である。 赤城山中央、荒山の下方山麓の景勝の地にあたる。海抜五七〇メートルである。 赤城山は背後の諸山を従えて、長く裾を引き、雄然とあたかも王者のように大平野に のぞんでいる。頂には黒桧岳、駒ケ岳、地蔵岳、荒山、鍋割等の峰が東から西にかけ て見えていて王冠のようである。その間に大沼、小沼があり、小沼からは粕川が流れ 出して、滝や渓谷をつくり、裾野をうるおし、また粕川、荒砥川とともに、平野の潅 がいに利用されている。その流域には御分社が多い。平坦地では赤城山を「御山」( おやま)とよんでいる。神山と仰ぎ尊んでいたものである。

神社のうしろの荒山から下だってくる尾根の端には神跡「ひつ石」がある。古代祭シ の遺跡で、ここからは関東平野が一望のうちにおさめられ、その間を流れる利根川の 末は雲煙の彼方太平洋をしのばせ、南方はるかに秩父山脈を越えて富士の霊峰を望む ことができる。

赤城神社の名が歴史書に見え始めたのは、今からおよそ一千百年余り前の仁明天皇の 承和六年(西紀八三九年)のことである。その時に従五位下の神位を授けられている ので、それ以前に既に朝廷から祭祀を受けられ、官社となっていたのである。延喜式 の神名帳では、名神、大社に列せられ、神位は次第に昇叙されて、九条家本廷喜式裏 文書には正一位と記してある。

このように古くから著名な神であったのは、古代の上毛野国(群馬県全体)を支配し ていた上毛野君という一族がまつっていたからである。上毛野君は豊城入彦命の子孫 と伝えられていて、上毛野国の国造となり、東国を治め、蝦夷を同化させることを任 務としていた。日本書記に、「崇神天皇は豊城、活目の二皇子の夢を占って、後嗣を 決めようとされた。二皇子は体を清め、神に祈って夢をみた。兄の豊城命の夢は御諸 山に登って東に向かって八たび槍を振り、八たび刀を振ったというのであり、弟の活 目尊の夢は御諸山に登って縄を四方に張り、粟を食う雀を追い払ったというのである 。天皇は夢占いをして、兄は東国を治め、弟は天皇の位を継ぐことを決められた。豊 城命は東国を治めることになり、上毛野君、下毛野国の始祖である。」という意味の ことが記してあり、また同書に「景行天皇は豊城命の孫彦狭島王を東山道十五国の都 督に任命された。ところが王は春日の穴昨邑というところで病死した。その時東国の 人々は王が任地においでにならないことを悲しんで、王の屍をとって上野国に葬った とあり」次いで「景行天皇は彦狭島王の子御諸別王に父の業を継いで、東国を治めし められた。蝦夷の首領が降参して、東国は永く平和になり御諸別王の子孫が後までも 栄えている。」という意味のこともしるしている。

つまり上毛野君の氏族が東国を開拓して、東北地方へまで発展していたので、その基 地である上毛野国に赤城神をまつったもので、そこで平野に臨んで、他の山々を後ろ に従えたこの赤城山の神、小沼から流れでる粕川が潅がいに利用されたのでその農業 の神とが、赤城神の起源と考えられる。

鎌倉時代になると、三代将軍源実朝の歌に、「上野の勢多の赤城のからやしろ やま とにいかであとをたれけむ」とあるように、将軍をはじめ武将たちが崇敬したばかり でなく、赤城神社は上野国の二宮と呼ばれて、一般の人々の信仰のまとになった。神 道集という吉野時代に伝説などから作りあげられた物語の本には「もと赤城神は一宮 であったが、機を織っている時に、「くだ」が不足し、貫前神に借りて織りあげたの で、織物が上手で、財持ちである貫前神に一宮をゆずり自分は二宮になった。」とい うことが見えている。その頃は一宮の貫前神よりも二宮の赤城神の方が一般の信仰を あつめていたから、このような伝説が起こったのである。

神道集が作られた頃は、本地垂迹説によって、神と仏とが一つにして拝まれていたの で、赤城神ははじめ小沼の神に虚空蔵、大沼の神に千手観音があてられ、吉野時代頃 には地蔵が加わって三神とされた。小沼及び大沼の神は粕川の上流の勢多郡粕川村大 字室沢字御殿(元三夜沢)にまつられ、後に粕川の上流の神社が現在の三夜沢の地に 移り、西宮と呼ばれ、今までこの三夜沢にあった神社は東宮となり、江戸時代には東 西両宮が並んでいた。このように一地に神社が移されたのは、戦国の世と呼ばれる頃 であろう。

しかし、戦国の頃には各武将の信仰が特に篤く、上杉、北条、武田の三氏をはじめ、 由良、長野、大胡などの国内の諸将士の願文や寄進状等が神社に蔵されている。殊に 由良成繁奉納の宮殿はその寄進銘が扉にあって珍しいものである。また大胡氏はまず 大胡に、次いで江戸に移ると牛込に赤城神社を分祀した。大胡氏の後に大胡城主とな った牧野氏も土地を寄進している。

参道は大胡(中央)、市之関(西)、苗ケ島(東)の三方から一の鳥居に集まってい る。年代記には慶長年間に各参道に松を植えたとあって、現在中央の松並木のみが残 っている。稀な松並木であり、由緒の明らかなものであるから、特に保存されるべき ものである。現在の社殿は明治初年に東宮の位置に建て替えられて、東西両宮を併せ て一社とされた。昭和十七年に国幣中社に昇格の内定があったので、社域整備に着手 したが、終戦と共に官祭が消滅し、それ以後は専ら氏子及び信仰者によって維持され てきている。

分社は赤城山南麓地は勿論関東平野の全般から、新潟、福島、宮城の諸県に及んでい る。現在のもののみで、群馬県に一一八社、埼玉県に二十三社、栃木県に九社、茨城 県に十社、新潟県に十三社、福島県に十一社、その他を合せて計一九一社であり、合 併または廃社を合せると三三四社に達している。四季を通じて、各分社からの参拝も 多い。

群馬県勢多郡宮城村三夜沢114 玄松子の記憶
二宮赤城神社「大己貴命 ほか」豊かな社叢を持つ、付近一帯は肥沃な農地が広がっている。古墳も多く、半島と深い関わりのある豪族上毛野氏が被葬者であろうと推定される。
二宮赤城神社
創立年代は不詳。
社伝では人皇十一代垂仁天皇の御宇に創建されたとつたえられていますが、この地は 赤城山南面で赤城信仰の上で絶好の地点(西側には荒砥川、東側には粕川が流れてい て共に赤城山を水源としている)で、大室の二子古墳をはじめとして多くの古墳が存 在し、上野国の名族「上毛野氏」の本拠地と推定されていることは往古より信仰と共 に栄えた証であります。

赤城神社に関する文献の初見は「続日本後期」承和六年(八三九)で、上野国無位赤 城神に従五位下が奉授された記事があり、以後「三代実録」では四回にわたり赤城神 の神位昇授が記され、「上野国交替実録帳」には正一位赤城明神社とあります。 平安後期には全国に「一宮二宮」の格付けがおこなわれはじめましたが、当社は上野 国の二宮として(地名にもなり)現在に至っています。 又、次のような伝説も有ります。

あるとき、赤城の神が絹機を織るのに、くだが不足したので思案の末、貫前の神は外 国から来て機織が上手であるから、持っているであろうと頼み、借りて織りあげた。 そこでこのような技術をもった神が他国へ移ってはこまるので、赤城神社は一宮であ ったが、その地位を貫前神社に譲って二宮になったという話です。 つまり貫前の神は帰化人の神であったと見ることができます。 それにひきかえ赤城の神は上野国の土地に以前から住んでいた人々が祭っていた神で す。

そして、この頃は少なくとも赤城神社の方が貫前神社よりも広く一般から信仰され、 崇敬が厚かったことを物語っています。

群馬県前橋市二之宮町886 玄松子の記憶

山田郡[ヤマタ]:2座並小

賀茂神社[カモ]
賀茂神社[かも]「別雷神」社伝では崇神天皇御代、豐城入彦命東国の鎮護として賀茂神を勧請したとする。 群馬県桐生市広沢町6-833 玄松子の記憶

美和神社[ミワ]
美和神社[みわ]「大物主櫛甕玉命」崇神天皇御宇創建と伝わる。群馬県桐生市宮本町2-1-1 玄松子の記憶


那波郡[ナハ]:2座並小

火雷神社[ホノイカツチ]
火雷神社[からい]「火雷命」崇神天皇元年創建。群馬県佐波郡玉村町下之宮甲524 玉村八幡宮のホームページ 玄松子の記憶

倭文神社[シトリ]
倭文神社[しどり]「天羽槌雄命」
倭文神社
当社の御祭神は天羽槌雄命で天の岩戸開きに功績のあった神としてその子孫の倭文氏 が誇りを持って崇め織物・養蚕・農耕の神として崇敬されている往古の名社として貞 観元年(八六〇年)に官社に列せられ従五位を授けられる。その後、延長五年(九二 七年)に延喜式神名帳に倭文神社の名が載せられたその創建は十一代垂仁天皇の年と 伝えられている。その後、戦国時代に兵火にかかり荒廃し江戸時代になり寛永年間( 三六〇年前)に再建され真言宗慈眼寺実秀が別当に定められ慶安元年(三四〇年前) 朱印地十石を下賜され将軍吉宗の許可を得て江戸府内を始め上野の国内からも浄財の 寄進を仰ぎ社殿・鳥居などが再建されたが慶応三年十一月十九日火災により灰燼とな ってしまった。現在の社殿は明治十三年十月十四日に再建されたもの。

◆田遊祭(神事)…中世祭祀のおもかげを残す行事にて、一月十四日午後六時ごろよ り開始される。笹振り四人、長持ち二人、太鼓持ち二人、太鼓打ち一人の人達が、白 装束を着て神官は社殿で祝詞を奏上し、その時一同も参列し終ると神官、区長、副区 長、総代が提灯を回して、太鼓に合わせて御神歌を歌いながら祭り事を行う。

※田遊神事の神歌…えーとう/えーとう/えーとう/前田の鷺が御代田にぎろり/ぎ
ろぎろめくのは/なんだんぼ/一本植えれば/千本になる/唐々芒子の種//えーと う/えーとう/えーとう/乾のすまの/掃部の長者/つじゅう十石ざらり/ざらざら めくのは/なんだんぼ/一本植えれば/千本になる/唐々芒子の種

群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東380 玄松子の記憶


佐位郡[サヰ]:1座小

大國神社[オホクニ]
大国神社[おおくに]「大國主命 配 日葉酢媛命、渟葉田瓊入媛命、眞砥野媛命、竹野媛命、薊瓊入媛命」
大國神社由緒 延喜式神名帳に上野國大國神社、上野國神名帳に鎮守十二社として従一位大國神社と して記される。垂仁天皇の十五年九月、丹波国穴太郷より五媛「日葉酢媛命・淳葉田 瓊入媛命・真砥野媛命・薊瓊入媛命・竹野媛命」奉遷して配祀神とした。称徳天皇の 御代の神護景雲元年(七六七)、勅を奉じて当地に来た従五位上佐位采女が大国主命 を国の造神と號し、渕名荘三十六郷の総鎮守として社殿の修造した。光格天皇の文化 元年(一八〇四)、現在の社殿に改築。明治七年には熊谷県北第十六第区の佐位郡那 波郡四十二ケ村の郷社に列せられた。明治四十年三月二十五日、無格社御手洗神社・ 八坂神社を合祀して今日に至る。
群馬県佐波郡境町下渕名2827 玄松子の記憶

H24.1.21 延喜式神名帳目次

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