水屋神社
三重県松阪市飯高赤桶 mapfan 地形図閲覧システム

鳥居

交通案内
松阪から三公バス飯南波瀬線 向赤桶下車 40分


祭神
天兒屋根命、素戔嗚尊、竜神姫命、櫛稻田姫命、蘇民將來
合祀 天照大神、譽田別尊、神功皇后、多紀理姫命、市杵嶋姫命、多岐津姫命、武内宿禰、豐玉姫命、大山祇神、宇賀之御魂神、迦具土神、乙加豆知命
摂社 閼伽桶之井社、大楠社ほか


由緒

 垂仁天皇二十三年(紀元前5年)天照大神が当地に巡幸された際、この地に鎮座しておられた春日の神と議って川中の巨石を以て伊勢・大和両国境とした。この話は、隣接する滝野郷が神宮御厨(みくりや)であるという「神鳳抄(じんぽうしょう)」の記事と考えあわせると、当社が興福寺の東端を滝野郷が内宮領の西端を示すものとして注目される。里人は今もこの巨石を「礫石(つぶていし)」、またその付近を「堺が瀬」と呼んで慕っている。民俗学の泰斗、柳田国男はその著『日本の伝説』のなかでこの話を取り上げ、また『勢陽五鈴遺響』にもその記事が見られる。

 天照大神の巡幸は『倭姫命世記』にある物語であるが、この地のことは出てこない。しかし祭神に乙加豆知命の名が見え、この神は伊勢飯高の神で、東は松阪市の加世智神社に祭られて、当社付近にも祭られていた。これを近隣から合祀している。 乙加豆知命は倭姫の巡幸の際これを受け入れた地元の神。
 『倭姫命世記』の【飯野の高宮】の項で、「二十二年[癸丑]、飯野の高宮に遷り、四年間奉斎。この時、飯高県造の祖の乙加豆知命(おとかづちのみこと)に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「おすひ 飯高国」と申上げて、神田・神戸を進った。倭姫命は「飯高しと白すこと貴し」と悦ばれた。」との記載があります。この物語は松阪市の飯野高宮神山神社の由緒にも記されているようで、櫛田川の上流の飯高町の水屋神社付近にも乙加豆知命と倭姫の物語があったとのこと、乙加豆知命の支配地が高見山から櫛田川沿いの海辺一帯、旧飯高郡だったと云うこと。飯高郡の地主神(国魂神)。

水汲み社跡
櫛田川の北側は和歌山街道と称する旧道があった。紀州藩主が参勤交代などで通った道。川沿いの両側の岩に轍の跡が残っている。橋がかかっていたようだ。


 神社名(水屋神社)・所在地(赤桶)・特殊神事(水取り)・祭神(龍神姫命)などすべてにわたって水との関わりがあり、当社の西方約700メートルのところには「閼伽桶(あかおけ)の井」がある。旧記・古文書の類にはこの「閼伽桶の井」の神水を二振の桶に汲み、貞観元年(859)11月9日より春日大社への奉納を始め、天正5年(1577)の兵乱で中絶したとある。しかし、細々ながら神水はその後も当社へ奉納されてきた。
 春日大社への閼伽桶の神水奉納神事は天正5年以来、平成14年4月6日に425年ぶりに復活した。

社殿、手前は椋木

 所在地の赤桶はラテン語の水を表すアクア、また仏教でも聖水をアカ水と呼ぶように、水を意味するアカ、アクの名残であろう。閼伽桶の神水奉納の桶にも赤い色が塗られているが、さらに聖水を守る為にも赤い塗装がなされたのであろう。 一方、ギリシャのアクアポリスは、万能の神ゼウスの神殿跡だそうで、アクアを安全な、ポリスを場所と解説されている。 ハワイ語のアクアは神様の総称とか、水ー安全ー神、一応つながっていると見てもいい。

 水屋神社の屋はクラと訓む場合があるそうだ。棒屋神社をオイクラと訓む場合のあるようで、屋をクラとみれば、元々水屋神社はアクラなどとよばれていたのではなかろうか。意味は水の神の座、それで結局水屋の漢字があてられ、ミズヤと読むようになったとも想像できる。

閼伽桶(あかおけ)の井の社殿

 当地は和銅三年(710)興福寺東門院領「閼伽桶の庄」であった。久保宮司さんによると、平城京などの水が汚染されて、神祭りのは大和の国境の当社から水を運んだのではなかろうか、また水を送ると云うことは支配地であることの確認行為でもあったとのことである。

倭姫命の歌碑と川中の礫石
 

 町指定文化財  史跡 礫石と倭姫命の歌碑
 昔のこと、天照る大神が白馬に乗って珍峠にさしかかり、国境を尋ねると、天児屋根命があらわれ、「この下の堺ヶ瀬が伊勢と大和の国境」と答えた。
 大神は「この境は疑わしい。」と言い、大石を川の中に投げ入れ、波のとどまる所で決めることにした。そしてそばにあった大石を礫のように投げ入れると、川の水は巨大な水柱となり、にわかに滝のように落下した。そこで、このあたりを滝野の里と名付けた。勢いよく川上に逆流していった。その波の変化した様子から、それぞれの地名を加波の里、波瀬の里、舟戸の里と呼ぶようになった。さらに激しい勢いで逆流していった波は高見山に達した。この日より高見山を伊勢と大和の国境と決めた。それからこの大石を礫石と呼ぶようになった。
との言い伝えがある。

 流れては 昔に帰る川俣川 礫いはうつ 水のしら浪
     弘化四年春 滝野智雄


お姿
 櫛田川が北に湾曲している地に南向きに川を背にして鎮座する。 本殿背後には樹齢1000年の楠木が聳えている。生き生きとした巨木でまだまだ成長している。
 当社にのこる南北朝時代文中二年(1373)の棟札には大和州閼伽桶庄宮と記されており、慶長五年(1600)関ヶ原合戦以降伊勢領となったようだ。
 社殿は三殿並立朱塗りの春日造であったが、明治二五年、周辺の神社を合祀した際に、神明造に改められた。
 旧の丹生川上神社上社の配置とよく似ていると言う。水屋神社の配置図は下記の水屋神社ホームページに掲載されているので、旧の上社を思い出して比較してみて下さい。

大きい楠木 根周り29m

 紀伊半島を中央構造線が横切っている。 西からみれば、和歌山の紀の川、奈良に入って吉野川、三重県の櫛田川沿いを通っている。 所謂丹沙などの金属の産地でもある。中央構造線沿いの断層の上に当社も鎮座しているのかも知れない。 九頭神社や丹生神社が構造線沿いに分布しているのも面白い。共に水神の気配濃厚。

 月出の里の露頭の説明から
 位置:三重県飯南郡飯高町月出ワサビ谷(東経136゜11’33” 北緯34゜25’5”゜
 中央構造線は、敢闘から九州までほぼ東西に1,000kmも続くわが国第一級の大断層です。
 三重県では、度会郡二見町のあたりから、飯高町の高見山に至っており、中央構造線を境に、北と南では全く成因の違う岩石が分布しています。
 月出露頭は、国内最大級規模の中央構造線の露頭であり、領家帯と三波川帯の境界が鮮明に出ているので、学術的に大変重要な場所であるといえます。

 下を流れる谷はワサビ谷(海抜560m)
 上部の道路は林道飯高北奥線(海抜644m)
 中央構造線は東西走向で、北へ60゜傾斜しています。 また、中央構造線を境に、南側(右側)は西南日本外帯三波川帯の黒色片岩、北側(左側)は西南日本内帯領家帯の圧砕岩(マイロナイト)です。

中央構造線の露頭


お祭り
 7月31日 1日間 水取祭 [通称]お水祭
11月 9日 春日大社へお水送り
11月23日又は勤労感謝日 秋季例祭

参考 『水屋神社由緒』『平成祭礼データ』

公式水屋神社ホームページ

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