皇大神宮別宮瀧原宮
三重県度会郡大宮町大字滝原字宮野872 its-mo

交通案内
松阪駅から南紀特急バス滝原宮下車



祭神
 皇大御神御魂
瀧原竝宮 皇大御神御魂

鳥居


由緒 参拝のしおり

 第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、御杖代として天照坐皇大御神を奉戴して、宮川下流磯宮をお発になり、上流の方に御鎮座の地を求めてお進みになると、砂をも流す急流の瀬があり困っておられたので、真奈胡神がお出迎えをしてお渡し申し上げた。

 そこで命はそのところに真奈胡神をまつる御瀬社をお定めになったのが、今の皇大神宮摂社、多岐原神社です。滝原宮下流約六キロ、大紀町三瀬川の宮川に臨む断崖の上に鎮座されています。近年までここに熊野街道の「三瀬の渡し」がありました。

 倭姫命はさらに真奈胡神の案内でお進みになると、「大河の瀧原の国」という美しい土地があったので、この地に草木を刈り払って新宮を建てられたのが、瀧原宮の起源です。そののち皇大御神を御神意によって、再び伊勢の方へ向かわれたので、瀧原に御滞在の期間はさほど長くなかったと思われます。この御由緒によって御遷幸後かわることなく、皇大御神を奉齊して今日に至っています。

 なお、両宮とも皇大御神の御魂を奉齊しているのは、皇大神宮に皇大御神を奉祀し、同別宮荒祭宮に皇大御神の荒御魂を奉齊する姿の古い形と考えられます。)。

参道


元伊勢か?

 『日本の神々6』で、松前健氏は、「皇大神宮のもとの鎮座地、すなわち元伊勢の一つと見る説もあるが、おそらくおそれは当たらない。」と理由はないが断言されている。

 『続日本紀』文武2年(698)12月 多気大神宮を度会郡に遷した。
 当時、ここ瀧原宮の鎮座地は多気郡であり、伊勢神宮の地は度会郡である。多気郡の大神宮を遷すとは、瀧原宮の神を神宮に遷したと読むべきだと思うが、それ以外に何が考えられるだろうか。

 多気大神宮を伊勢祠や伊勢大神とする解釈は、筑紫申真氏『アマテラスの誕生』に述べられている。立地は宮川の上流で、大和から伊勢への道筋にあり、また紀伊熊野への分岐点でもある。

 境内の大きさであるが、伊勢内宮 93万平方米、外宮 89万平方米、滝原宮 44万平方米 と瀧原宮は広大である。瀧原宮で頂いた由緒には、「瀧原に御滞在の期間はさほど長くなかった」とあるが、倭姫命の人生のごく一部分の期間だとすれば、これほど大きい神域がのこるものだろうか、奈良県や三重県の他の元伊勢伝承地の神社にこれほどの大きい神域を残しているものはない。ここはただならぬ杜である。

滝原宮と滝原並宮(向かって左)


お姿
 南紀特急バスの滝原宮のバス停を降りたら、すぐに広い参拝者用駐車場があり、その向こうに白い鳥居が見える。
 鳥居をくぐって参道を進むと、太い杉の木が目に飛び込んでくる。そのまましばらく歩くと、本来の一の鳥居が見えてくる。そこからが、滝原宮の真骨頂である深い静かな杜が続く。杉の巨木が多いが、極端に太い杉はないようだ。地下に水が豊富で育ちやすいのだろうが、根があまり張っていないのかもしれない。大きくなりすぎた杉は台風などで倒れ易いのかもしれない。
 植生は濃い緑の照葉樹が目立つ。南紀に近いことを思わせる。

 平成二八年に遷宮祭が行われる予定で、本殿の向かって右側に建設中である。本殿は向かって右に滝原宮、左側に並んで滝原並宮が鎮座する。並宮の鎮座の意味は何だろう。皇室の祖先神は、天武持統朝あたりまでは高皇産日神であり、それ以降に天照大神に置き換えられている。一時、両祖先神を並べたのかも知れないし、また松前健氏が先の文献で暗示するように、天照大神と豊受大神とも考えられるし、紀本文にあるように、月神を日神に並んで高天原を治めるとあるのを具体化したのかも知れない。
 神社と言うのは行かなければ判らないが、実は行ってもわからないもの。ますます判らなくなるのが神社。

滝原宮の正面


お祭り
 
 
 10月 22日、23日 神嘗祭  
 12月 26日 新嘗祭

新しく建設している宮

  参考 『日本の神々』、『参拝のしおり』

UGANET 天照大神について

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