賀茂郡[カモ]:7座並小
野見神社[ノミ]
野見神社[のみ]「甘美乾飯根命(野見宿禰)、大己貴命、素戔嗚尊」垂仁天皇御代。愛知県豊田市野見山町4-21 玄松子の記憶
野見神社「天夷鳥命」愛知県東加茂郡旭町大字榊野字見切53
野神社[ノ]
野神社[の]「豐斟渟命」愛知県豊田市野口町水分日面226 玄松子の記憶
兵主神社[ヒヤウス]
兵主神社[ひょうす]「大物主命、三穗津姫命」愛知県豊田市荒井町松嶋299-1 玄松子の記憶
射穂神社[イホ]
射穂神社[いぼ]「廣國押建金日命、春日山田皇女、神前皇女」天武天皇白鳳元年。愛知県豊田市保見町北山26 玄松子の記憶
射穂神社由緒記 延喜式内3132座の内三河国加茂郡伊穂之神社祭神蔵王大権現とあり通称伊保天神 とありしを享保年間より蔵王宮と称し、その後射穂神社と改称せり。和漢三才図絵に
言ふ蔵王大権現祭神は不祥なるも社伝に清見原之皇子大友皇子御征伐之節御勝利祈願 のために白鳳年間御即位に神社御建立とあり古代の創建なること知るべし。明治5年
8月郷社に列せらる。明治43年末社八幡宮、八柱神社、秋葉神社、津島神社、武稲 神社、神明社、伊豆社、御鍬社を合祀す。昭和18年8月県社昇格の申請を了し社格
昇格の内定を得しも大東亜戦争終息により無に帰せり。旧氏子区域は上伊保村、田籾 村、伊保堂村、殿貝津村、下伊保村、挙母町、宮口村、本地村、千足村、土橋村、梅
坪村、金谷村、下市場村、下林村、長興寺村、今村、山室村、福谷村、黒笹村、莇生 村、三好村、西一色村、福田村、明知村、打越村の25町村なりしが、明治15年頃
挙母町ほか10余町村は挙母神社氏子へ分区せり。例祭は陰暦9月10日なりしが明 治維新より陽暦10月15日に改む。特殊神事には鎮火祭、御粥占豊年祭あり。例祭
には奉納献馬棒ノ手、空砲等の行事を慣行し氏子下各村提灯をもって参拝する例あり し。今般氏子一同より本殿再建の建議なり、昭和39年11月吉日仮遷宮。昭和40
年3月23日夜御殿入り、翌24日完終了。 |
狹投神社[サナケ]
猿投神社[さなげ]「大碓命 配 景行天皇、垂仁天皇」仲哀天皇元年。豊田市の北端にそびえる三河の名峯猿投山の麓に鎮座する古社である。愛知県豊田市猿投町大城5 玄松子の記憶
猿投神社由緒記 2、御祭神 3、大祭 4、猿投祭と棒ノ手 5、宝物 6、神宮寺 7、建造物 8、左鎌の由来 9、猿投山とサナゲの語義 |
廣澤神社[ヒロサハ]
猿投神社摂社広沢天神社[ひろさわてんじんしゃ]「少名彦神」愛知県豊田市猿投町小黒見 玄松子の記憶
灰寶神社[ハイホ]
灰宝神社[はいほう]「波邇安比咲命」愛知県豊田市越戸町松葉52 玄松子の記憶
額田郡[ヌカダ]:2座並小
稻前神社[イナサキ]
稻前神社[いなくま]「天照大神 合 天兒屋根命、應神天皇」愛知県岡崎市稲熊町字森下6 玄松子の記憶
由緒 延喜式所載、三河国26座の内の額田郡2座の一つである。此の地は、伊勢神宮の神 領地であったところから、伊勢神宮に奉納する稲を入れて置く神倉があったといわれ ている。 |
謁播神社[エハタ]
謁播神社[あつわ]「知波夜命 配 春日大神」紫雲空中に棚引き妙音を放つ、海上の黒雲忽ちに去り、弘文天皇の危難を救へり。愛知県岡崎市東阿知和町字北山39 玄松子の記憶
由緒 祭神、春日明神、知波夜命。 本社古文書に、出雲色大臣命5世之孫知波夜命当村に来り給ふをもって来山といふ。 (中古春日山又は知波来山と称す) 今の牛下山の塚は本命を祀るものなりとつたふ。 往古神領2丁を領とす、また正応5年古文書に御高70石とあり中古戦乱のため神領 は自然消散せり。 産子の家に伝ふる古文書に、当国謁播神社創建は白鳳年中(弘文天皇の御宇)帝当国 引馬野に行幸の際、尾張国より当国に移り給ふ時、海上にわかに黒雲生じ怒涛渦巻き 、帝大いに難み給ふ。 臣等種々労すとも力及ばず、此地を鳴海と称す。 就中紫雲空中に棚引き妙音を放つ、海上の黒雲忽ちに去り、帝の危難を救へり。 帝叡感の余り空中の妙音に対し勅問し給ふ。 空中より臣として帝難を外にせんやと、更に勅問に応じて当国の守護に鎮座する謁播 明神なりと。 言下に一天洗ふが如く静穏なる海面と化し、恙く御還幸の後侍臣一人を遺し給ひ、此 の神を守護させ給へり。 是れ安藤家の祖なり、藤原の末裔なるも神との同姓を恐れ、安藤に改めたり云々。 明治壬申5年郷社に列し、56ヶ村を氏子と定めらる。 明治48年2月日露戦役記念品を陸軍大臣より寄贈せらる。 明治48年11月幣帛供進宮に指定さる。 大正5年12月悠紀斎田記念品を愛知県より寄贈せらる。 昭和に入り氏子数80余戸、東西阿知和住民全部。 |
碧海郡[アヲミ]:6座並小
和志取神社[ワシトリ]
和志取神社[わしとり]「五十狹城入彦皇子」愛知県岡崎市西本郷町字御立4 玄松子の記憶
和志取神社社記 五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申し景行天皇の皇子で勅命によりこの地方の逆臣大 王主等を捕らえ、これより国内治まり庶民大いに安堵するという。 御墓は当町字和志山にあり前方後円墳で前後三十五間、面積七百七十六坪、周辺に六 基の円墳即ち倍塚がある。明治29年11月28日御陵墓伝説地と指定。その後更に 調査の結果、昭和16年4月18日御陵墓と御勅定、同年5月26日勅使御参行報告 祭が行われた。 本神社は和名抄にゆえん鷲取郷の総社で延喜式国内115座の筆頭たる旧官社で文政 13年神祇伯より正一位の神階を授けられ正一位本郷大明神の額を下賜された。古来 上手の尊崇厚く累代の領主より毎年祭典費を献進があり祈年新嘗祭には幣帛を奉り宝 作無窮、稔穀豊饒を祈る例であった。 明治7年5月25日教部省令により本神社を「延喜式内三河国26座之内和志取神社 確定候事」との指令を受けた。 明治21年4月9日蓮華寺内で和志取神像が発見された。延喜年間の作と伝えられる 木製の座像で本神社に鎮め祀ってある。 大正5年12月28日郷社に列せられた。 昭和21年1月10日由緒上県社と認められたが、戦後社格は級社と変わり7級社と して現在に至っている。 拝殿、祝詞殿、神饌殿、透塀等氏子及び特別崇敬者の寄付浄財(350余万円)と延 2600余人の勤労奉仕により、3か月の歳月を費やし、昭和30年竣工した。 |
和志取神社「天日鷲命 合 伊弉諾命」愛知県安城市柿崎和志取35 玄松子の記憶
由緒 創建は明らかでない。延喜式内社三河国二十六座の和志取神社と彫む旧石標あり、社 地の附近にワシドリと称する耕地あり。「参河国官社考集説」に村上忠準北柿崎村に 宇和志取と云う所まことの式社なるべし、と「神祇志科」に柿崎村字和志取あり(宝 暦4年田畑名寄帳重原藩取調書)明治7年、西本郷村鎮座、長谷部神社より和志取神 社なりと上申あり両者の上申により教部省は8年2月未定の神社と達しあり、止む。 昭和3年3月2日字和志取一番無格社熊野神社を本社に合祀した。 |
酒人神社[サカムト]
酒人神社[さかんど]「酒人親王 配 稻倉魂尊」愛知県岡崎市島坂町字木ノ元328 玄松子の記憶
日長神社[ヒナカ]
日長神社[ひなが]「吾田鹿葦津姫尊、大日貴尊」愛知県岡崎市中島町字新町18 玄松子の記憶
由緒 社伝に往古此の地方は海中の島嶼にして葦茂り一体は葦嶋と称し葦嶋稍開くるに及び 日久良志の里と称するに至れり、而して此の地は日久良志の里内日奈加島なりと云う 。当社は、二十六代継体天皇の御代此の地葦嶋開発のため穀物の豊穣人民繁栄の守護 人として創祀し日長の宮と称す。五十五代文徳天皇仁寿元年九月朝廷より神階従四位 下を授けられ位田を賜わる。延喜式神明帳に三河国二十六座の内に記載三河国内神明 帳には従四位下と有り既に千五百有余年を経たる古社にして広大なる社地を有し比奈 加島住民の崇敬厚く又徳川幕府累代将軍社領拾石の朱印地を寄進して尊崇せられたる 名社たり。 |
日長神社「天照大神」愛知県安城市高木町鳥居1 玄松子の記憶
知立神社[チリウ]
知立神社[ちりゅう]「草葺不合尊、彦火火出見尊、玉依比賣命、神日本磐余彦尊 配 青海首命」景行天皇の御代。池鯉鮒大明神とも称す。神主家の永見氏は物部氏の後裔である。愛知県知立市西町神田12 玄松子の記憶
知立神社略記 知立神社は池鯉鮒大明神とも称し、古来三河国第一の名社で、東海道沿線屈指の大社 であります。 当神社は、第12代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国ご平定のさい 、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願し給い、依って以て数々の危難 を脱して平定の大功を完うし給えるにより、其の報斎のため、建国の祖神、彦火火出 見尊、・・草葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命、神日本磐余彦尊 (神武天皇)の四柱の皇大神を奉斎あらせられた、国家的由緒あるお社であって、後 世、文化の恩神聖徳太子を合わせ祀り、相殿には当碧海地方開拓の祖神青海首命をも お祀り申し上げてあります。 |
比蘇神社[ヒソ]
比蘇天神社「高御産巣日神 合 倉稻魂命、社口神」愛知県岡崎市宮地町字北浦42 玄松子の記憶
糟目神社[カスメ]
糟目春日神社[かすめ]「天宇受賣命 配 彦火火出見命、素盞男命、天照大神」愛知県豊田市渡刈町北田62-4 玄松子の記憶
由緒 大宝二年持統天皇三河国に行幸当地に御 の砌り鷹狩し給う。よってこの地を鳥狩捕 都賀利戸刈と書くに至れり。第六十代醍醐天皇の御代に延喜式に載せられ文徳実録に 正位糟目神社とあり勝女大明神又は塩指大明神と云はれ矢作川上流西方大原野をカス メ郷末野ヶ原と称し三河の満潮時には潮指し来たれりといふ。明治二年神祇官より延 喜式内社に確定される。明治五年七月旧額田県より「春日」の文字を加称して同年九 月郷社に確定される。明治三十九年四月供進神社に指定される。大正二年無格社熊野 社合祀現在地を拡大整備せり。大正三年十月五日神殿八棟を新規築造奉斎せり。昭和 五十二年十月幣殿祭祀殿を再建し崇敬の誠を顕し以って之を後世に伝う。 |
糟目犬頭神社[かすめけんとう]「彦火火出見尊、伊弉諾尊、伊弉册尊、素盞嗚命、犬頭靈神 合 豐受姫命」愛知県岡崎市宮地町字馬場31 玄松子の記憶
由緒 大宝元年九月創立彦火火出尊を鎮祭し糟目神社と称す。永延元年六月十五日紀州熊野 三所大権現を合祭す。旧社は今の隣村上和田村の西糟目森崎に在り、往来矢作川洪水 につき今の地に遷座、観応元年足利尊氏熊野権現領として百貫文目を寄付し、豊太閣 の世まで相続すると云う。犬頭霊神の由緒は相伝う上和田城主宇都宮泰藤なるもの貞 和二年壬辰五月当社に於て鷹狩す。時に社殿の坤の方に七囲世の大杉樹あり、泰藤樹 下に憩い仮寝す。樹に巨蛇あり、首を垂れ将に泰藤呑まんとす。率いる処の白犬頻に 吠へ泰藤を警す。泰藤驚き覚む、然れども此事あるを知らず。亦眠り亦吠ゆ此如再三 、泰藤怒り差添の刀を抜き犬頭を断つ、頭忽ち飛騰し蛇の噛み之を殺す。泰藤驚き且 つ悔いその犬を以て犬頭霊神として当社に合祀す。実に当年九月十五日なりと云う。 天正十年岡崎城主田中平部少輔吉政豊大閣の命を以て大杉樹を伐り同郡大浜村に於て 船に造ると云う。慶長八年八月二十八日東照公より犬頭社領四十三石の朱印を賜うて より以後徳川氏代々準之、依て社号を犬頭大神明と称す。明治四年額田県の命を以て 即ち今の糟目犬頭神社と改称す。明治五年九月十八日郷社に確定。明治四十年十月二 十六日神饌 ・幣帛料供進指定。 |
播豆郡[ハツ]:3座並小
久麻久神社[クマク]2座
久麻久神社[くまく]「須佐之男神、大雀命 配 熱田大神」愛知県西尾市八ツ面町麓77 玄松子の記憶
社頭の由緒書き 式内・久麻久神社 所在地・西尾市八ツ面町麓77番地 祭神・大雀命,須佐之男命,熱田大神,外六柱 当社の創建は古く明確でないが、延喜式神名帳所載の古社で、近郷17ヶ村の総氏神 として崇敬されていた。 旧久麻久郷は、崇神天皇の頃、丹後国与謝の里より、久麻久連一族が開拓したと伝え られ、その産土神が本社である。 文武天皇の大宝年間(701〜4)に、須佐之男命を勧請し、山頂に祀り大宝天王宮 と称した。 その後、八ツ面山西村麓、荒川城主荒川甲斐守義弘これを崇敬し、堂宇を興し荒川大 宝天王宮と称した。 荒川氏没後、徳川家康は家臣鳥居元忠に命じ、現在地に奉遷させたと伝えられる。 明治六年、社名を旧名「久麻久神社」に復した。 本殿は、室町時代後期の代表的建築とされ、国の重要文化財であり、ご神像の牛頭天 王は、藤原時代末期の作である。 また、古い木製や陶製の狛犬も有名である。 |
久麻久神社「倉稻魂神、久久能智神」愛知県西尾市熊味町山畔52 玄松子の記憶
羽豆神社[ハツ]
幡頭神社[はず]「建稲種命」建稲種命は日本武尊東夷御征討から帰途海上で御薨去、御遺骸この岬に着かれたのをお祭りした。愛知県幡豆郡吉良町大字宮崎字宮前60 玄松子の記憶
社頭の由緒書き 幡頭神社 鎮座地・愛知県幡豆郡吉良町大字宮崎字宮前60番地 式内・幡頭神社 祭神・建稲種命,大物主命,誉田別尊 由緒 「景行天皇の御代日本武尊東夷御征討の際、大功をお立てになった建稲種命は帰途海 上で御薨去、御遺骸この岬に着かれたのをお祭りしたのが本神社で、大宝二年文武天 皇勅しで社殿を建て、官社に列せられたと伝へられ、延喜式に載り文徳実録に授従五 位下とあり、明治四年郷社に大正十年県社に列せられて、古来から由緒高く人々の敬 仰厚い神社である。」 三間社流造り桧皮葺で、桃山時代の勝れた建築である。 大正十年重文に指定された。 両脇の神明社本殿、熊野社本殿も昭和三十二年県文化財とされる。 本殿と同時に造営される。 |
寶飫郡[ホオ]:6座並小
形原神社[カタハラ]
形原神社[かたはら]「埴安大神、朝廷別王命、譽田別命、豐受姫大神、天兒屋根神」愛知県蒲郡市形原町八ヶ峯39 玄松子の記憶
略記 往古摂政藤原千方公大和より勧請三十四代 舒明天皇十一巳亥(皇紀一二九九年西暦六三四年)神礼加列圭田五十五束を奉らる 形原郷の総氏神で荘園時代に栄えた神である 三河国内神明帳 形原明神帳 三河国官社私考 春日大明神 明治四年五月 郷社 大正十二年八月十七日 県社 |
御津神社[ミツ]
御津神社[みと]「大國主命」船津大明神。愛知県宝飯郡御津町広石字祓田70 玄松子の記憶
足神社[ウタリ]
菟足神社[うたり]「菟上足尼命」菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城襲津彦命四世の御孫。白雉元年(650年)創建。愛知県宝飯郡小坂井町小坂井宮脇2 玄松子の記憶
菟足神社志留倍 由緒 「昇格碑文」菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城 襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世穂の国の國造(東 三河の国司に当る)に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木濱に宮造し て斎ひまつりしを天武天皇の白鳳十五年四月十一日(昭和五十二年より千二百九十一 年前)神の御おしえのまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり。はや く正六位上の神階を授け給ひ貞観六年二月十九日従五位下に進められしが國内神名帳 には正三位と記されたり(中略)。 徳川幕府の世となりて家康親しく参拝して神領(九十五石、制礼寄進)を寄せしより 累代の将軍も其の例に倣ひ領主藩主等の尊敬の尋常ならざりしこと社記に詳なる所な り。 明治維新の初天皇御東幸のみぎり勅使をして幣帛を捧げしめ給ひしはいとも尊く、か しこき極にこそ(中略)。 斯る由緒ある神社(中略)なりしかば大正七年十一月二十二日県社に列せらるる事と なりぬ(中略)。此の事の由を永遠に伝へむと大神に仕へ奉る社司川出直吉ぬしの請 へるままに其の大むねを識すになむ。 |
砥鹿神社[トカ]
砥鹿神社[とが]「大己貴命」里宮本社と本宮山奥宮の二社、美しい姿の本宮山(海抜七八九メートル)は、千年近い大木の杉檜が林立した神山。愛知県宝飯郡一宮町大字一宮字西垣内2 玄松子の記憶 奥宮玄松子の記憶
砥鹿神社と本宮山 砥鹿神社 本宮山砥鹿神社奥宮 砥鹿神社は大己貴命(大国さま)を祀る旧国幣小社で東海地方の総鎮守の神として各 方面から篤い崇敬をいただいています。昔は本宮山にお祀りされていましたが、御神 託により今から約千三百年程以前の文武天皇大宝年中に現地にお迎え申し上げてより 、里宮本社と本宮山奥宮の二社となり、三河国一宮として広く尊崇せられ、交通安全 、家運隆昌、厄難消除の御神徳が皆様に仰がれています。 摂社二宮社は事代主命(えびす様)をお祀りし「三河えびす社」とも申し上げていま す。又、三宮社は建御名方命(諏訪様)をお祀りし、共に御本社の御子神で崇められ ています。 社殿は総檜造りの荘厳な建物であります。 三河湾に面した美しい姿の本宮山(海抜七八九メートル)は、千年近い大木の杉檜が 林立した神山で、頂上附近の自然林は神域として保護され数百種の草木が繁茂し、愛 知県天然記念物として指定されています。 頂上には三河国一宮砥鹿神社の奥宮が鎮座し、霊験あらたかな大己貴命(大国様)を お祀りしています。本宮山は古代人より持ちつづけた信仰の中心であり、人生の哀歓 、苦悩、願望等の生活社会の精神面問題も御神徳の御力により私共を自然の心に立ち 帰らせ、幸せに導いて下さいます。 近年頂上まで本宮山スカイラインが開通し、起伏に満ちた山々、又アルプス連峰、富 士山の秀峰、浜名湖の景観と丸山公園のツツジの花園、森の緑は参拝者の心を癒し、 名実共に三河国唯一の霊山であります。 |
赤日子神社[アカヒコ]
赤日子神社[あかひこ]「彦火火出見尊、豐玉彦命、豐玉姫命」天智天皇甲戌九月、奉斎三河養蚕祖神。愛知県蒲郡市神ノ郷町森58 玄松子の記憶
御由緒標 沿革 総国風土記参河国宝飯赤孫郷赤日子神社圭田三十束三毛田 天智天皇甲戌九月始奉圭田加神礼有神家巫戸等(一千二百六十七年前) 延喜式神名帳に参河国宝飯郡六座並小赤日子神社文徳実録に仁壽元年冬十月乙巳授参 河国赤孫神社従五位下(一千〇七十六年前) 三代実録に清和天皇貞観七年十二月二十六日癸酉授三河国従五位下赤孫神従五位上( 一千〇六十二年前) 国内神名帳に正二位赤孫大明神式内座宝飯郡早くより朝廷の御崇敬厚く国司領主地頭 等尊敬も厚く寄進状十数通あり 明治五年郷社に列せらる 明治十二年七月改めて十有五ヶ村(三谷、牧山、五井、平田、小江、府相、新井形、 竹谷、鹿島、拾石、西迫、柏原、清田、水竹、坂本)の郷社として崇敬せられたり 往昔当社より年々伊勢大御神の神衣を織奉る赤引の絲の調物を奉献りしにより其名著 し 当社は雨乞に霊験顕芳なりとて伊勢の多度神社と併称せられ又養蚕の守護神として其 名高し 明治四十年十月神饌幣帛料供進指定神社に列せられたり 大正五年三月十四日に県社昇格す 昭和七年一月久迩宮邦英王殿下より神社号御染筆の額御賜進あらせらる 昭和九年十月 |
石座神社[イハクラ]
石座神社[いわくら]「天御中主命、比賣大神、大山祇神、素盞嗚尊、天稚彦命、伊弉册命、倉稻魂命」愛知県新城市大宮字狐塚14 玄松子の記憶
社頭掲示板 御由緒 |
八名郡[ヤナ]:1座小
石巻神社[イシマキ]
石巻神社[いしまき」「大己貴命」三河国造知波也命祖大木食命の勧請。愛知県豊橋市石巻町字金割1 玄松子の記憶
渥美郡[アツミ]:1座小
阿志神社[アシ]
阿志神社[あし]「木花咲耶姫命」愛知県渥美郡田原町芦村柿木12 玄松子の記憶
H24.1.27