陸奥國:100座 大15小85

白河郡苅田郡名取郡宮城郡黒川郡賀美郡色麻郡玉造郡曰理郡信夫郡
志太郡磐城郡標葉郡牡鹿郡桃生郡行方郡栗原郡膽澤郡新田郡磐瀬郡
會津郡小田郡斯波郡氣仙郡安積郡柴田郡宇多郡伊具郡磐井郡江刺郡



白河郡[シラカハ]:7座大1小6

都都古和氣神社[ツツコワケ](名神大)
都々古別神社[つつこわけ]「味耜高彦根命」景行天皇御宇、日本武尊が東奥鎮撫の折、関東奥羽の味耜高彦根命を地主神として、都々古山(現在西白河郡表郷村。一名を建鉾山と称す。)に鉾を建て御親祭せられたのが創始である。ここは古代祭祀場たる磐境である。
都都古和氣神社栞
延喜式神祇巻第十神名帳に、陸奥國白河郡名神大一座「都都古和氣神社」とある御社 で、凡そ一千九百余年まえ人皇十二代景行天皇御宇、日本武尊が東奥鎮撫の折、関東 奥羽の味耜高彦根命を地主神として、都々古山(現在西白河郡表郷村。一名を建鉾山 と称す。)に鉾を建て御親祭せられたのが創始であり、古代祭祀場たる磐境である事 が立証されている。(大場磐雄・亀井正道両博士による。)
人皇五十一代平城天皇大同二年(八○七年)坂上田村麻呂は、伊野荘(現棚倉城趾) に奉遷、社殿奉造し日本武尊を相殿に配祀し奉る。寛永元年(一六二四年)丹羽五郎 左衛門長重、幕命により棚倉築城に際し、現在の地(馬場)に景勝の替地を奉り、更 に社領を添加し旧社殿を解体、移築の上同二年遷宮し奉る。
神位、神階等奉授については、仁明天皇・清和天皇・陽成天皇・御冷泉天皇等各御宇 に行なわれている。造営、神領寄進等は、坂上田村麻呂・源頼義・源義家等をはじめ 、足利義満・白河城主・豊臣秀吉等、作事奉行を定め奉造の事が伝えられ、現本殿は 、文禄年間(一五九二〜一五九五)秀吉の命により、佐竹義宣の奉造にかかるもので 、桃山時代の手法がよく出ている。 中世、天災や兵火によって社殿焼亡又は大破した事もあるが、その時毎に、直ちに造 営せられている。

当神社は、平安中期から久慈川、社川、阿武隈川流域の人々の絶大なる信仰の対象で あった。北郷二十四ヶ村に亘った神領地も其の一証である。 徳川幕府は、代々先規により神領朱印状を奉っていた。 明治四年太政官達し、同六年三月七日、国幣中社に列格。
福島県東白川郡棚倉町馬場39 玄松子の記憶

都々古別神社「味耜高彦根命」
都々古別神社要覧
御祭神は味耜高彦根命で日本武尊が配祀されている。
味耜高彦根命は御父君大国主命の功業を補翼し東土に下り曠野を拓き民に恩沢をたれ 給うたので郷民其徳をしのび当地に奉祀されたと伝えられる。
延喜式内神大社で延喜式神名帳に名神大社奥州一宮と称される。日本武尊強夷征伐の 時千度戦って千度うち勝ってがいせんされた御神徳をたたえ、その御神威に感動した 八幡太郎義家が奥州征伐の時千勝大明神と改められたのもまことに故あることである 。
なお引き続き足利時代に白河結城氏並びに水戸佐竹氏より数度寄進あり、以来豊臣秀 吉より直筆、石田三成の書あり、佐竹氏より社頭三千貫並びに書類あり。
後、徳川光圀公の尊崇厚く御神宝の奉納あり社殿修復の際には白銀二百枚を寄進され た。又、斉昭公は嘉永六年夷狄退散国家安全を祈ったと伝えられる。交通安全・五穀 豊穣・家内安全・商売繁昌祈願の参拝者も多く、奥州一宮として広く知られている。

福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224 玄松子の記憶


伊波止和氣神社[イハトワケ]
伊波止和気神社[いわとわけ]「戸隱大神、手力男神」 福島県東白川郡古殿町大字田口字戸神269 玄松子の記憶

白河神社[シラカハ]
白河神社[しらかわ]「天太玉命、中筒男命、衣通姫命」福島県白河市大字旗宿関ノ森120 玄松子の記憶

八溝嶺神社[ヤミソノ]
八溝嶺神社[やみぞみね]「大己貴命、事代主命」 茨城県久慈郡大子町上野宮2129 八溝山(やみぞさん) 玄松子の記憶

飯豊比賣神社[イヒトヨヒメ]
飯豊比賣神社[いいとよひめ]「飯豐比賣神」 福島県西白河郡大信村大字豊地字鰻谷地19 玄松子の記憶

永倉神社[ナカクラ]
永倉神社[ながくら]「?」福島県西白河郡西郷村大字長坂字長坂36 玄松子の記憶  

石都都古和氣神社[イハツツコワケ]
石都都古別神社[いわつつこわけ]「味高彦根之命、譽田別命、大國主命」福島県石川郡石川町下泉296 玄松子の記憶


苅田郡[カムタ(カタ)]:1座大

苅田嶺神社[カムタミネ](名神大)白鳥を祀る神社である。縄文時代からの白鳥信仰は遠くバイカル湖畔にまで及ぶのである。>
刈田嶺神社[かったみね]「日本武尊」宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉仲町1
刈田嶺神社摂社刈田嶺神社「天之水分神、国之水分神」宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉
刈田嶺神社「日本武尊」別名を白鳥大明神と称す。宮城県刈田郡蔵王町宮字馬場1 玄松子の記憶


名取郡[ナトリ]:2座並小

多加神社[タカ]
多賀神社[たが]「伊弉諾尊、伊弉冉尊」宮城県仙台市太白区富沢3-11-1 玄松子の記憶
多賀神社「伊弉諾尊、伊弉冉尊」宮城県名取市高柳字下西50 玄松子の記憶

佐具叡神社[サクエ]
佐倍乃神社摂社左具叡神社[さえの][さぐえの]「高皇産靈神」宮城県名取市愛島笠島字西台2 玄松子の記憶


宮城郡[ミヤキ]:4座大2小2

伊豆佐賣神社[イツサヒメ]
伊豆佐賣神社[いずさひめ]「溝咋比賣命」宮城県宮城郡利府町飯土井字長者55 玄松子の記憶


志波彦神社[シハヒコ](名神大)
志波彦神社鹽竃神社[しわひこ][しおがま]「(志波彦神社)志波彦大神 (鹽竃神社)鹽土老翁神、武甕槌神、經津主神」志波彦大神の名は『古事記』『日本書記』には出てまいりませんが、鹽竈の神に御協力された神と伝えられ、国土開発・殖産とりわけ農耕守護の神として信仰されています。
参拝のしおり
志波彦神社は志波彦神をお祀りしております。 この神は『古事記』『日本書記』には出てまいりませんが、鹽竈の神に御協力された 神と伝えられ、国土開発・殖産とりわけ農耕守護の神として信仰されています。
当神社はもと宮城郡岩切村(仙台市岩切)の冠川の畔に鎮座され、『延喜式』に収め られている陸奥国百社の名神大社として、朝廷の尊信殊の外厚いものがありました。 明治四年五月国幣中社に御治定されましたが、境内も狭く満足な祭典を行うことが不 可能な為に、明治天皇の御思召により、勅使御差遣の上「…此地に新宮造奉りて鎮め 奉らむ日まで、此御殿の内に座せ奉り併せ祭らせ給ふ事を平けく聞し食せと…」奏せ られ、明治七年十二月二四日に鹽竈神社の別宮本殿に遷祀されました。 更に昭和七年当時の内閣に陳情請願し国費を以て御造営することとなり、昭和九年現 在地に工事を起し、明治・大正・昭和三代に亘る神社建築の粋を集めて竣功し、昭和 十三年九月御遷座申し上げました。
本殿・拝殿何れも朱黒の極彩色漆塗りで、昭和三八年塩竈市の文化財に指定されまし た。

鹽竈神社は別宮に鹽土老翁神・左宮に武甕槌神・右宮に経津主神の御三神をお祀 りしております。
安産守護・延命長寿・海上安全・大漁満足・家内安全・産業開発の神として、全国か ら信仰されております。
当社は古くから東北鎮護・陸奥国一之宮として、朝廷を始め庶民の崇敬を集めて今日 に至りました。
当神社創建の年代は詳らかではありませんが、平安時代初期、嵯峨天皇の御代に編纂 された『弘仁式』、更に醍醐天皇の延長五年(西暦九二七年)に編纂なった『延喜式 』にも「鹽竈神を祭る料壱万束」と記され、当時陸奥国より六十万三千束の正税が徴 収されていた時代に、この様な厚い祭祀料を授かっていたことが知られます。 つまり、奈良時代国府と鎮守府を兼ねた多賀城(九州太宰府と同等の政庁)が当神社 の西南5〓余の小高い丘(現在多賀城市川)に設けられ、その精神的支えとなって信 仰されたと考えます。
その後平安時代の後一條天皇の寛仁元年(西暦一〇一七年)には、御一代一度の奉幣 使を遣わされ数々の神宝を奉献せられました。
武家社会になってからは、東北の権力者であった平泉の藤原氏・鎌倉幕府の留守職で あった伊沢氏等武将・豪族の崇敬も並々ならぬものがあり、殊に伊達氏は慶長五年政 宗公が玉造郡岩出山から仙台に居城を移し、慶長十二年六月社殿を造営し奉斎の誠を 捧げ、明治に至るまで歴代の藩主は大神主として神社を治め、社領・太刀・神馬等を 寄進し自ら社参して衣服を改め神前に祈願されました。
なお、江戸時代桜町天皇の延享五年(西暦一七四八年)には正一位を贈られました。 現在の社殿は、第四代藩主伊達綱村公が元禄八年神社造営の計画をたてて工事に着手 し、第五代藩主吉村公の宝永元年(西暦一七〇四年)まで九ヶ年の歳月をかけて竣功 されたもので、拝殿の擬宝珠には当時の藩主・普請奉行等関係者の名前が彫り刻まれ ております。本殿は三社とも木造素木流桧皮葺、三方に勾欄の縁があります。 別宮並びに左右宮拝殿は何れも朱漆塗入母屋造銅板葺で、宝永以降二十年に一度御屋 根葺替の式年遷宮の制度が設けられ現在に至っております。
昭和三四年本殿・拝殿・四足門(唐門)・廻廊・随神門・石鳥居などが宮城県重要文 化財に指定されました。

宮城県塩釜市一森山1-1 志波彦神社・鹽竈神社 玄松子の記憶

鼻節神社[ハナフシ](名神大) 
鼻節神社[はなぶし]「猿田彦神」 宮城県宮城郡七ヶ浜町花渕浜字誰道1 玄松子の記憶 鼻節神社

多賀神社[タカ]
多賀神社[たが]「經津主神、武甕槌神」 宮城県多賀城市高崎1-41-1  玄松子の記憶
陸奥総社宮「陸奧國式内社百座」 宮城県多賀城市市川字奏社1  玄松子の記憶
浮島神社[うきしま]「奧鹽老翁神、奧鹽老女神」宮城県多賀城市浮乗字赤坂1-1 玄松子の記憶

黒川郡[クロカハ]:4座並小

須伎神社[スキ]
須岐神社[すき]「素盞嗚尊」
由緒
創祀年代、鎮座の由来等は詳らかでないが、延喜式神名帳に黒川郡4座の1として記 載され、社伝の縁起書によると、往古は「韓鋤神社」とも称し、現在地の西の方「宮 高森」にあったが、建久中の頃当地(駒場・大森・菊田)を領有していた「児玉弥太 郎重成」が今の地に遷祀し、「赤坂明神」と称え氏神として尊崇した。その子孫「児 玉右近」が社地に椚千本を植え、「千本椚」とも言った。延享3年藩主伊達宗村、当 社に病気平癒を祈願し、効験があったことから頗る尊崇したことが誌に記されている 。また当社の御神体は享保19年、社人能登守源左衛門が、神祇官領吉田兼雄に請い 、これを祀ったと伝えている。明治5年3月郷社に列し、同43年3月神饌幣帛料供 進社に指定せられたが戦後廃止され、昭和25年7月神社本庁被包括宗教法人として 現在に至る。

宮城県黒川郡大衡村駒場字宮前4 玄松子の記憶

石神山精神社[イハカミ・・]
石神山精神社[いわがみやまずみ]「大山祇命」社殿前の古杉は鎮守府将軍坂上田村麻呂の御手植の杉と伝えられ、囲七米余り、御神木として信仰されている。
由緒
当社の創建は不詳であるが、その歴史は古い。続日本紀第五十代桓武天皇延暦九年十 一月丁亥陸奥国黒川郡石神山精社官社に進めたと記され、神徳の高く大和朝廷の信厚 く、降って文徳実録に仁寿二年八月辛酉神階従五位下を授かる。続く第六十代醍醐天 皇五年丁亥に成る延喜式神名帳に、陸奥国一百座黒川郡四座の一に見られる社である 。県内における唯一官社に列したことを記録から確認される神社であり、各時代の地 頭の尊崇が厚く、社名の示すごとく巨大な岩石に神霊の存在を認め祀った古代祭祀、 信仰の姿を伝えている。社殿前の古杉は鎮守府将軍坂上田村麻呂の御手植の杉と伝え られ、囲七米余り、御神木として信仰されている。

宮城県黒川郡大和町吉田字麓71 阜嵐健 七ツ森

鹿嶋天足別神社[カシマアマノタリワケ]
鹿島天足和気神社[かしまあまたらしわけ]「經津主命、武甕槌命」
宮城県黒川郡富谷町大亀字和合田2 玄松子の記憶

行神社[ユク]
行神社[ゆき]「猿田彦命」 宮城県黒川郡富谷町志戸田字塩釜15 玄松子の記憶


賀美郡[カミ]:2座並小

飯豊神社[イヒトヨ]
飯豊神社[いいとよ]「保食神、大山祇神、天照大神、八重事代主神」大宝四年。
宮城県加美郡小野田町東小野田字麓山30 阜嵐健 飯豊神社


賀美石神社[カミイシノカミ]
賀美石神社[かみいし]「速須佐男之命」宮城県加美郡宮崎町谷地森字戸根岸91 玄松子の記憶


色麻郡[シカマ]:1座大

伊達神社[イタチ](名神大)
伊達神社[いだて]「五十猛命、經津主命、武甕槌命、大日靈命、火産靈神」宮城県加美郡色麻村四竈字町3 玄松子の記憶



玉造郡[タマツクリ]:3座並小

温泉神社[ユ]
温泉神社[おんせん] 「大己貴命、少彦名命」仁明天皇の承和四年(八三七年)山岳震動すること七日七夜、遂に噴火して熱湯を湧出した。土地の人この状をみて朝廷に奏し温泉の神を祀る。
参拝のしおり 社頭にある、由緒書掲示板
当社は、玉造郡鳴子町に鎮座しており、大己貴命、少彦名命をお祀りしている。 延喜式内の神社にて玉造三社のひとつである。
仁明天皇の承和四年(八三七年)山岳震動すること七日七夜、遂に噴火して熱湯を湧 出した。
土地の人この状をみて朝廷に奏し温泉の神を祀り、従五位下を賜る。
相撲奉納の起源は、文治五年源頼朝が、平泉藤原泰衡征討に下降のみぎり、戦勝を温 泉神社に祈願し泰衡を討取り凱旋の際、神恩に感謝し部下の勇士に相撲をとらせ奉納 した。

宮城県玉造郡鳴子町字湯元31-1 玄松子の記憶


荒雄河神社[アラヲカハ]
荒雄川神社[あらおがわ]「大物忌命」 宮城県玉造郡鳴子町鬼塚字久瀬3 玄松子の記憶
荒雄川神社「大物忌神」
参拝のしおり 社頭にある、由緒書掲示板
当社は、玉造郡岩出山町に鎮座しており、本殿に大物忌神、建速須佐之男命、瀬織津 姫命、大国主神、言代主神、大山祇神、軻遇突智神、倉稲魂神、武甕槌神、経津主神 、境内に木花開耶姫命、菅原道真公、天水分神をお祀りしている。
縄文期(中期)の遺跡、岩出山町文化財である。
延喜式神名帳(延喜7年に編集された代表的な神社台帳)に載っている玉造三座の一 つで、鬼首の荒雄岳上にある社を、奥の宮と称したのに対して当社は、里の宮と称さ れ、神宮寺も併設されてこの地の信仰の中心となっていた。 また、嘉応二年(一一七〇年)に藤原秀衡が鎮守府将軍となった時に奥州一の宮とし 、室町幕府には奥州探題の大崎五郎、一の宮として崇敬し、江戸時代に至っては、岩 出山伊達家の氏神となった。
寛保三年(一七四三年)に幕命によって、江合川(荒雄川)沿いの三六所明神を合祀 したので、三六社様とも称されている。

宮城県玉造郡岩出山町字上宮宮下10 玄松子の記憶

温泉石神社[ユイシ]
温泉石神社[ゆのいしの]「大己貴命、少彦名命」
参拝のしおり 社頭にある、由緒書掲示板
当社は、玉造郡鳴子町に鎮座しており、大己貴命、少彦名命をお祀りしている。 延喜式の神社なり。仁明天皇の御宇承和四年、雷響き振へ晝夜止まず、温泉河に流れ 其の色水漿の如としと。依って其の石上に神を祀り、土人状を具して朝廷に奏し、明 治七年七月村社に列せらる。

宮城県玉造郡鳴子町大口字川渡91 玄松子の記憶


曰理郡(ワタリ):4座並小

鹿嶋伊都乃比氣神社[カシマイツノヒケ]
鹿島緒名太神社[かしまおなた]「武甕槌神 もしくは 緒名太神」宮城県亘理郡亘理町逢隈小山字西山21 玄松子の記憶
鹿島緒名太神社「武甕槌神」宮城県亘理郡亘理町吉田字作田
鹿嶋天足和気神社[かしまあまたらしわけ]「武甕槌神、素盞嗚命、天児屋根命、誉田別命、天之御中主命、高御産霊神」日本武尊が勧請す。
宮城県亘理郡亘理町逢隈鹿島字宮前97 玄松子の記憶

鹿嶋緒名太神社[カシマヲナタ]
鹿嶋緒名太神社[かしまおなた] 前掲

安福河伯神社[アフカハ]
安福河伯神社[あふくかはく]「速秋津日売神、経津主神、大年神、猿田彦神」 宮城県亘理郡亘理町逢隈田沢字堰下220 玄松子の記憶

鹿嶋天足和氣神社[カシマアマノタリワケ]
鹿嶋天足和気神社 式内鹿嶋伊都乃比氣神社に掲載済み


信夫郡[シノブ]:5座大1小4

鹿嶋神社[カシマ]
鹿島神社[かしま]「武甕槌命」 福島県福島市鳥谷野宮畑8,9,10 玄松子の記憶
鹿島神社「武甕槌命」
鹿島神社由緒
鎮座については不詳であるが、古昔、篠生(信夫)郷が湖沼であった時、僅かに水上 に出ていた鹿島山上に常陸国鹿島神宮より蝦夷経営のため分祀勧請したと伝えられて いる。
桓武天皇延暦元年凶賊を征伐することを祈念し、神験あるために勲五等及び本国の封 に戸を授かる。延喜式制定(905年)に当たり、本社もその例に入る。 本社の位置は古代の小倉郷の中央小さな独立丘陵上にあり、旧米沢駅路にそっており 、古くより福島の古社として栄えた。
中世には牧野紀伊守の居住する小倉館(鹿島館)といわれた城館があり、別名「小倉 鹿島神社」ともいわれている。
本社の本殿は木羽葺神明流造りで、江戸中期以前の建築で当地でも古い木造建築物の 1つとされている。境内には霊石の要石があり、古くはこの石の位置に社殿があった と伝えられていて、今ではこの石に触れると安産になると信じられている。 また、かつて境内の前を流れていた濁川に架かる石橋は明治21年に建立したもので 「よろづ世にかけて朽ちせじ里の名の おぐらの橋の名さへ橋さへ」と、この地区が 神社を中心に橋の名とともにいつまでも語り継がれ発展することを詠んでいる。

福島県福島市小田字鹿島山29
鹿島神社「武甕槌神」福島県福島市岡島字竹之内62 玄松子の記憶

黒沼神社[クロヌマ]
黒沼神社[くろぬま] 「黒沼大神、石姫皇后」石姫皇后は欽明天皇の皇后で、陸奥に下ってこの地で崩じたと伝えられる。福島県福島市御山堂殿6 玄松子の記憶
黒沼神社「沼中倉太珠敷命」福島県福島市松川町金沢字宮ノ前45 玄松子の記憶
黒沼神社「渟仲倉太珠敷命、石姫命」 福島県福島市松川町浅川字木戸前1 玄松子の記憶

東屋沼神社[アツマヤノ](名神大)
東屋沼神社[あづまやぬま]「少名彦名命、大己貴命、素盞嗚命、日本武命」
延喜式内名神大社 東屋沼神社由緒
本社の創建年代は明らかではないが、延喜式名神大社にして一千年以上の古い歴史の ある神社で、少名彦名命、大己貴命(大国主命)、素盞鳴命、日本武尊の四柱を祀る 。往古吾妻山雷沼あたりに鎮座せしを、山麓の大笹生木落山(一名御林山)に遷して 、当時「七松大明神」と稱し、のちに又現在地に遷し奉ったものである。維新前は摺 上川、松川の間余目20余郷の総社たりしが、明治4年辛未年郷社に列せられ、後又 明治8年乙亥年、村社に列する。古文書の中に信夫国に五つの名高い神社があって、 本社は最も重要なお社として「名神大社」の格式がつき、国の行事儀式として祭典が 行われたと記されており、この地方を代表する五穀豊穣、災難消除又火伏せの神とし て祖先傳来からの由緒ある御神徳の高い神社として奉斎されております。参照の書史は、大日本史、延喜式神祇誌料、信夫町村誌、信達一統誌、奥羽勤跡聞考誌、信達古 語、信達風土雑記。

福島県福島市平野字明神脇1 玄松子の記憶

東屋國神社[アツマヤクニ]
東屋国神社[あつまやくに]「日本武尊」 福島県福島市中野字天沼29 玄松子の記憶

白和瀬神社[シラワセ]
白和瀬神社[しらわせ]「神日本武尊」 孝徳天皇(西暦545年)の御代大化元年鎮座。福島県福島市大笹生字折戸41 玄松子の記憶

白和瀬神社
延喜年中日本の有名神社を選定、全国で3132社が定められ陸奥に100座が指定 されたとき、この信夫の郷(伊達郡は後に信夫より分かれる)に5社が定められまし た。勧請は、人皇36代孝徳天皇(西暦545年)の御代大化元年、上大笹生村鳥帽 子森山頂上に鎮座されました。しかし、地勢が急峻で容易に登ることができないため 、参拝者の便を図って天正年中(1580年代)現在の折戸の地に遷座し祀り今日に 至りました。由緒正しき当神社は、大正13年春、村社から一躍県社昇格の報告を受 け、当神社の由緒からみると県社以上の資格があるとのことでしたが、維持管理容易 でなく、県社に甘んじざるを得ませんでした。白和瀬の名は、信達一統志によると万 葉集下総の歌の家持が歌集に「早田ト作レリ愚案ズルニ 白淡川ノ水上ニ鎮座ス神ナ レバ白淡瀬ナルベシ アハノアハヲ約シテ白和瀬ト唱ヘ来リシナラム」とあり、又白 早稲と稲からでたという説もあります。いずれにせよ1330年余の歴史を持つ古き 神社であると共に、延喜式内の信夫5社でも社地、社史明確な社として郷土史でも注 目されます。当神社は五穀豊穰、商売繁盛、特に火難(盗難事故等)除の神として多 くの人々に崇拝されてきました。車松神社(白和瀬神社末社)御祭神 神日本磐余彦 尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)境内には安産の守神として車松神社があり、赤 白の小さな枕が供えられております。その枕を借り受け、後日お礼として新しい枕を 一つ添えてお返しする信仰があり霊験あらたかな神社です。


志太郡[シタ]:1座小

敷玉早御玉神社[シキタマハヤミタマ]
敷玉速御玉神社[しきたまはやみたま]「豐玉姫命、玉依姫命」宮城県古川市楡木字諏訪116 玄松子の記憶
若宮八幡神社摂社敷玉早御玉神社「豐玉姫命、玉依姫命」宮城県志田郡三本木町新沼字若宮113-4 玄松子の記憶


磐城郡[イハキ]:7座並小

大國魂神社[オホクニタマ]
大国魂神社[おおくにたま] 「大己貴命、事代主命、少彦名命」石城国は養老二年に設置、この地域はそれ以前から文化が栄え、中田横穴、八幡横穴、天冠男子像埴輪、夏井廃寺塔跡、根岸遺跡、そして、当社飛地境内の甲塚古墳などが知られています。
由緒
当社は、いわき市平菅波に鎮座しており、大己貴命、事代主命、少彦名命をお祀りし ている。
養老2(718)年、朝廷は石城国を置きました。現在の浜通り地方全体が一国とな りました。石城国の中心地域は、いわき市の豊間、高久、夏井であったのです。この 地域はそれ以前から文化が栄え、中田横穴、八幡横穴、天冠男子像埴輪、夏井廃寺塔 跡、根岸遺跡、そして、当社飛地境内の甲塚古墳などが知られています。古代の人々 は、美わしい国土に宿る霊力を国魂神として讃え、お祭りしていました。石城国造建 許呂命(いわきのくにのみやつこたけころおのみこと)の一族によって、奉斎された のが大國魂神社であります。
甲塚はこの国造の墳丘であるといわれます。石城国はやがて陸奥国に編入され、この 地域は岩城郡に属することになりました。醍醐天皇の御代に撰修された延喜式神名帳 には、岩城郡七座として、大國魂、二俣、温泉、佐麻久嶺、住吉、鹿嶋、子鍬倉の各 神社名を記しております(927年)。岩城郡の郡司が奉斎する神社として、大國魂 神社は、崇敬されていたのです。
鎌倉時代になると、地頭岩城氏の一族国魂氏(国魂村地頭)が祭祀権を掌握し、さら に南北朝時代には、神主山名氏が、平窪、矢野目、国魂三村を領有し、「大國魂大明 神祭礼以下神役勤仕」したことがわかります。室町時代には、領主岩城氏によって社 殿の大造営が行われ、江戸時代には平藩主による修復が重ねられました。当時、神主 、下社家、巫女あわせて二十数人が奉仕していたといわれます。幕末の元治2(18 65)年には朝廷より「勅宣正一位」の神階を授かりました。明治12(1879) 年、郷社に加列し、大正12(1923)年に県社に加列されました。

主な社宝として、次のものが伝えられております。
国魂文書一巻(県指定重要文化財)
国魂石室記一軸
石室出土品鬼角、管玉
神輿二基(平藩主内藤家、安藤家寄進)
勅宣正一位大國魂大明神一幅、関係文書
内藤政栄公(俳号露沾)献詠和歌、俳諧
神社明細帳一冊(宝暦6年)
豊間浜関係文書二通(天明5年)
棟札、木簡二十八枚

福島県いわき市平菅波字宮前54 玄松子の記憶

二俣神社[フタマタ]
二俣神社[ふたまた]「品陀和氣命」勧請は貞観2年。
掲示板
当社は祭神品陀和気命を祀り、勧請は貞観2年、延喜式内社の二俣神社と称す。
正應2年、小川入道源義綱公再建、田反別4町8反歩寄進除地。
天和2年9月12日水災の為、領主内藤左京太夫義泰公、二俣岡に遷座。社地1町4 反4畝余りを旧地の代地として寄進、除地として社殿造営。
元禄11年内藤能登守義孝公、社領社殿を修補。その後の領主代々社殿造営修補。御
供米1石2斗、祈祷料として金7両宛毎年領主より賜る。明治一新前迄奉献。
明治に至り社格郷社に列せられ、延喜式内郷社二俣神社と称す。
今時戦後昭和22年、郷社の称号を廃し宗教法人二俣神社と称す。

福島県いわき市小川町下小川字梅ノ作53 阜嵐健
 
温泉神社[ユ]
温泉神社[おんせん]「少彦名命、大己貴命」
佐波古神社とも称す。延喜式内社であり、社家に伝わる「神幸由来記」など古文書参 考書によれば、神代の昔、湯の岳が神体山であって信仰の山である。
上古逸早く少彦名命鎮座あり、後に日本武尊当地進駐の折、大和国現在奈良県三輪大 社の主神、大物主大神「大巳貴命」が合祀されて、以来二神が郷民によって祀れた。
白鳳二年九月九日、湯の岳より下山して里宮として遷座され、三遷して現在地に遷っ たのが延宝六年であると記録さる。尚、例大祭には、泉下川浦剣の浜より汲み来た潮 水を供え、神事を行う各戸は五月の山野の花を「カザシ」て神を迎へ祝う。これすな わち、花祭であり、三枝祭であり、古来「サツキ」祭と称している。
福島県いわき市常磐湯本町三函322 玄松子の記憶

佐麻久嶺神社[サマクミネ]
佐麻久嶺神社[さまくみね]「五十猛命」紀伊國日前国懸大神を勧請したと伝わる。現在の伊太祁曽神社からである。
福島県いわき市中山字宮下81
 
住吉神社[スミヨシ]
住吉神社「表筒之男命、中筒之男命、底筒之男命」武内宿彌東北巡視の折り墨江三所神を勧請したと伝わる。
福島県いわき市小名浜住吉字住吉1 阜嵐健

鹿嶋神社[カシマ]
鹿島神社「武甕槌神」 福島県いわき市常磐上矢田町字花木下34 玄松子の記憶

子鍬倉神社[コクハクラ]
子鍬倉神社[こくわくら] 「稻倉魂命」
参拝のしおり
当社は、旧県社で祭神倉稲魂命を祀り衣食住の神として又、平の町の氏神様として尊 崇されている。
子鍬倉神社の社名は、日本全国ただ一社だけの社名であるばかりでなく、「子」は蚕 を意味し、当地方でも養蚕の盛んな時代には蚕を「お子さん」と呼んで大切にしてい たように「衣」を代表する言葉である。「鍬」は農具を意味して「食」を代表し、「 倉」は古代に於ける物品出納の場所で経済即ち「住」を意味して「子鍬倉」の御社名 は正に「衣食住」を代表するに相応しい社名であり、よく御祭神の神徳を表現した尊 いいわれのある名前である。

創建は古く、平安時代第五十一代平城天皇の大同元年(西暦八〇六年)と伝えられ、 第六十代醍醐天皇の御代の「延喜式」の神名帳に当神社の名があり、これは「式内社 」と呼ばれ由緒ある古い神社と称せられ式内社磐城七社の一つである。又古くは磐城 四郡の総鎮守と称せられ、平城三社の一つとしても歴代の平城主の厚い尊崇を受け神 領の寄進を受けていた。

明治六年三月に全国的に社格制度が実施され、当時磐前県は当神社を県社の第一号に 指定した。これにより氏子民は地方神社の最高峰として尊崇の誠を捧げ、社格制度の 廃止となった現在においても「県社」の愛称で親しまれているのは是所以である。 当社は古来平桜町(現在の磐城女子高校内)に鎮座したが、慶長七年(一六〇二年) 平城主鳥居忠政公が平城を築くに当たり社地を収め神社修復を怠り荒廃するに至った 。その後平城主内藤公は敬神の念篤く、由緒ある当神社の荒廃を嘆かれて現在の揚土 台に社地を賜り復興させたのである。しかし、天保二年四月(一八三一年)火災の為 に神殿・古文書・神宝など殆どを焼失し、現在価値ある古文書・神宝などがないのが 残念である。その後、嘉永六年五月(一八五三年)官民協力して社殿を復興させ、そ の当時のものとして現在の本殿と額殿(旧拝殿)が現存している。その後順次境内を 整備し現在の拝殿・幣殿は昭和四年建築のものである。

例祭は新暦の四月十八日に祭典が行われ、四月の最終土曜日・日曜日に神輿渡御が行 われている。
福島県いわき市平揚土30 阜嵐健


標葉郡[シネハ]:1座小

野神社[クサノ]
野神社[くさの] 「闇淤加美神、五十猛神、大屋津姫命、抓津姫命」日本武尊の勧請と伝わる。福島県双葉郡浪江町請戸東迎38 リンク 阜嵐健


牡鹿郡[オシカ]:10座大2小8

零羊埼神社[ヒツシサキ](名神大)
零羊埼神社[ひつじさき]「豐玉彦命」応神天皇御代。 宮城県石巻市湊字牧山7 玄松子の記憶

香取伊豆乃御子神社[カトリノイツノ・]
香取伊豆御子神社[かとりいづみこ]「香取伊豆御子神」宮城県石巻市荻浜大字折浜20 玄松子の記憶
和渕神社[わぶち]「經津主神、武甕槌神、大己貴神、高神」
宮城県桃生郡河南町和渕町1 玄松子の記憶

伊去波夜和氣命神社[イコハヤワケ・]
伊去波夜和気命神社[いこはやわきみこと]「猿田彦命、武甕槌命、天照皇大神、倉稻魂命、經津主神」
宮城県石巻市大宮町5番45 玄松子の記憶
伊去波夜和氣命神社「鹽土翁命」宮城県石巻市水沼字平畑164 玄松子の記憶

曾波神社[ソハ]
曾波神社[そば]「志波彦神」宮城県石巻市蛇田字曽波神山4 玄松子の記憶

拝幣志神社[ハヤシ]
拝幣志神社[オカミノ・・]「高皇産靈命」宮城県石巻市八幡町1丁目6-2 玄松子の記憶

鳥屋神社[トリヤ]
鳥屋崎神社[とや]「伊豆之姫命」宮城県石巻市山下町1丁目2-10 玄松子の記憶
鳥屋神社「猿田彦大神」文治二年出羽の羽黒山から勧請。宮城県石巻市羽黒町1丁目7-1 玄松子の記憶

大嶋神社[オホシマ]
大島神社「底筒男神、中筒男神、表筒男神」遭難せる舟より船員が奉持せる住吉社の御神璽を祀った。
宮城県石巻市住吉町1丁目3-1 玄松子の記憶

鹿嶋御児神社[カシマノミコ]
鹿嶋御児神社[かしまみこ] 「武甕槌命、鹿嶋天足別命」
鹿島御児神社由緒略記
当社は、延喜式神名帳所載の式内社で、国史現存社として最も由緒深い神社でありま す。
当神社創建の由来・縁起について、これを明らかにする史料がありませんが、従前の 調査、および史跡・口碑・伝説・社蔵文書の調べによりますと、往古、関東の鹿島、 香取の両神宮祖神の御子が共に命を受けて海路奥州へ下向し、東夷の征伐と辺土開拓 の経営にあたることとなり、その乗船がたまたま石巻の沿岸に到着、停泊して錨を操 作した際、、石を巻上げたことから、石巻という地名の発祥をみたのだとの言い伝え があります。石巻に上陸された両御子は先住蛮賊地帯であった奥州における最初の足 跡をしるした大和民族の大先達であり、開拓の先駆者として偉大な功績を残された地 方開発の祖神であります。
当社は代々、使臣、藩主等の尊崇厚く、社領を寄進し、幣物を贈り、また社殿を修築 し、宝物の寄進等あり。
明治七年、旧村社に列す。大正十年、旧郷社に列格。昭和十年、県社に列格。
当社は勝利の神として職業繁栄を守り、悪疫除けの神、安産の神、鬼門除けの神、海 上安全の守護神として、また交通安全祈願の霊験著しく、その信仰ますます盛んであ ります。

宮城県石巻市日和丘2丁目1-10 神社公式 玄松子の記憶

久集比奈神社[クスヒナ]
久集比奈神社[くしひな]「彦火火出見命」宮城県石巻市高木字上品山2 玄松子の記憶

計仙麻神社[ケセマ]
五十鈴神社摂社龍神社[りゅう]「竜王神」 宮城県気仙沼市魚町2-6-7 玄松子の記憶
朝日山気仙麻神社[あさひやまけせま]「倉稻魂命、豐玉彦命」漁民の信仰篤く五年毎に大曲浜に神輿の渡御を行う。宮城県桃生郡河南町北村字朝日山8 玄松子の記憶
羽黒神社[はぐろ]「倉稻魂命」
羽黒神社御由緒
当神社は元郷社の社格にあり、計仙麻本郷七ヶ村総鎮守の古社であります。気仙沼市 後九条羽黒山に御鎮座になり、御祭神は「うがのみたまのみこと」であります。御例 祭はもともと旧暦の十月十日でしたが、今は新暦十月十日に齋行されます。延喜式内 神明帳にある牡鹿十座の一つで、計仙麻神社であるともいわれ、海陸鎮護のため勧請 したものではないか、ということで、往昔から諸衆の厚い崇敬を受けてまいりました 。香久留ヶ原は中納言原ともいい、現気仙沼高校から西方にかけた一帯ともいわれて おります。羽黒神社南方の丘にある小社、大塚神社は、この地に当神社を勧請した中 納言菅原昭次卿の墓所であるといわれます。仏教の盛んな時代、計世麻総鎮守羽黒・ 白山両大権現と称し仏体を安置していましたが、神仏分離令により明治三年羽黒神社 と改め、同五年郷社に列せられました。

 宮城県気仙沼市後九条271 玄松子の記憶
黄金山神社[こがねやま]「金山毘古神、金山毘賣神」今からおよそ一二四〇年前、聖武天皇の御代、天平二一年に(西暦七四九年)、陸奥の国主百済王敬福が朝廷に黄金を献上した。
御参拝のしおり
今からおよそ一二四〇年前、聖武天皇の御代、天平二一年に(西暦七四九年)、陸奥 の国主百済王敬福が朝廷に黄金を献上した。天皇はおおいに喜ばれ、年号を天平勝宝 と改められた。この史実は、我国最初の産金として史上有名なことであり、この史実 にちなみ、同二年牡鹿連宮麿たちが相謀り、国主に請願し、秀麗の地金華山に金をつ かさどる金山毘古神・金山毘賣神を奉斎し、神社を創建したのが、金華山黄金山神社 である。
中古以来、神仏習合時代は辯財天を守護として、仏像を祀り、金華山大金寺と称し、 多くの信仰を集め、女人禁制を敷いた。
永万、仁安の頃(一一六五〜一一六八年)は、平泉の陸奥守藤原秀衡が、寺領三千石 を寄進、堂塔および四八坊を山内四箇所に建立、荘厳美麗をきわめた。その後さらに 奥州総奉行に任ぜられた(文治六年、一一九八年)石巻城主葛西三郎清重が千五百石 を寄進し荘厳であった。
しかし、天正の乱の兵火の為に焼失し、文禄二年(一五九三年)下野国岩倉の僧成蔵 坊長俊(栃木県日光山の僧正)が大金寺を再興し、代々真言宗にて祭祀を奉じていた。
すなわち、東奥の三大霊場(出羽三山・恐山・金華山)として修験者が次々と来山し 、修業を積んだ者は、金華山信仰を各地で広めていった。
後、文化十年再度の火災に遭ったが、仙台藩主伊達家において、一山を除地として管 理を大金寺に任ぜられ、さらに寺塔を建立し、伊達家代々の崇敬あり、年毎に隆盛を きたした。
明治二年、神仏分離令により、仏号を除き黄金山神社としたのである。この時十七世 康純坊運昌は復飾して、奥海正と改め、神社に奉仕することとなり、女人禁制も解除 された。この際、御祭神も復古して、金山毘古神・金山毘賣神の二柱とし、頂上奥の 殿(奥の院)大海祇神社の御祭神は大綿津見神、市杵島姫神(辯財天)ほか二柱を奉 斎した。
明治七年には県社に列せられ、昭和二一年制度の改革により国家管理を離れ、宗教法 人を設立し、神社本庁に所属、昭和二七年に別表神社となった。昭和五四年三月に金 華山島は国定公園に指定され、現在年間五十万人の参拝者で連日賑いをみせている。

宮城県牡鹿郡牡鹿町鮎川浜金華山5 玄松子の記憶
計仙麻大嶋神社[けせまおおしま]「邇邇藝命」 宮城県本吉郡歌津樋の口150 玄松子の記憶


桃生郡[モモノフ]:6座大1小5

飯野山神社[イヒノヤマ]
飯野山神社[いいのやま]「稚産靈神、大山津見神、保食神」
宮城県桃生郡河北町飯野字宮下北134 玄松子の記憶
飯野山神社「大御食都姫神」 宮城県桃生郡河北町飯野字外吉野戸場柄127 玄松子の記憶

日高見神社[ヒタカミ]
日高見神社[ひだかみ]「天照皇大神、天日別命」日本武尊、天照皇大神を奉祀し、武内宿彌の奏言にかかる日高見の国名を以て社号とした。
宮城県桃生郡桃生町太田字拾貫1-73 玄松子の記憶

二俣神社[フタマタ]
二俣神社[ふたまた]「水戸神、船戸神」宮城県桃生郡河北町三輪田字尾崎前2 玄松子の記憶

石神社[イシカミ]
石神社[いその]「湍津姫命」石峯山山頂の二丈余の大岩石烏帽子形を神体とし金山を神領として尊崇されてきた。宮城県桃生郡雄勝町大浜字石峰大久保山1 玄松子の記憶
石上神社[いしがみ]「素盞男命、少名彦命、猿田彦命」宮城県桃生郡鳴瀬町浜市字東浮足90 玄松子の記憶
鹿石神社[しかいし]「武甕槌命」 宮城県桃生郡矢本町矢本字上沢目134 玄松子の記憶
龍口神社[たつのくち]に合祀「豐玉彦命 配 火産靈命、磐長姫命、須佐之男命、譽田別命 合 宇迦之御魂神」宮城県桃生郡河南町龍口山11 玄松子の記憶
八雲神社[やくも]に合祀「建速須佐之男命」 宮城県桃生郡桃生町倉埣字人家37 玄松子の記憶
岩倉神社[いわくら]「天照皇大神 配 日本武尊、宇迦魂神 合 素盞嗚尊」
宮城県本吉郡本吉町字菖蒲沢118 玄松子の記憶
 
計仙麻大嶋神社[ケセマオホシマ](名神大)
大島神社「倉稻魂神」
祈願成就の御田の神様
金華山以北では最も古い歴史と格式を有する、延喜式内社桃生六座の名神大社。この 神社は、今からおよそ一千年以上も前の文献にもその名が出てくる程古く、蝦夷の民 心の安定帰服と開拓の安寧を祈念して創建したものと言われる。
大島神社は別名『御田の神様』と言われ、御祭神は『倉稲魂神』という。
なぜ、此の四方を海で囲まれた大島の神社が『御田の神様』なのか。 大島神社の伝承の一つに、神霊として奉る巨大な石の上にお田植の季節になると『た にし』が上り、毎夜青い光を放っていたと言う。
昔の人々がこう言う異変事を神事として祭ったことから、お田の神様と言う名がつけ られた。
地理的には農耕の神としてよりも海上安全、大漁満足を祈願する海の人々の参拝が多 いが、家内安全、交通安全、商売繁盛祈願の人々の参拝も絶えない。

宮城県気仙沼市亀山1 玄松子の記憶
御崎神社[おさき]「大海津見神 配 素盞嗚尊 合 日本武尊」宮城県本吉郡唐桑町字崎浜7 玄松子の記憶
計仙麻大島神社[けせんまおおしま]「邇邇藝命」宮城県本吉郡歌津町字樋ノ口150 玄松子の記憶

小鋭神社[オト]
賀茂小鋭神社[かもおとの]「小田神、賀茂別雷神、玉依姫命、賀茂健角身命」淤ど山津見神[カグツチの胸に生まれる神]が本来の神。 宮城県桃生郡河北町福地字加茂崎72 玄松子の記憶
大土山虚空蔵尊寺 現在は神社は見当たらない。宮城県本吉郡津山町柳津 白鳥下156
白鳥神社「倭建命」宮城県桃生郡桃生町城内字館下5 玄松子の記憶


行方郡[ナメカタ]:8座 大1小7

高座神社[タカクラ]
高座神社[たかくら]「伊志許理度賣命」福島県原町市押釜字前田277 阜嵐健

日祭神社[ヒマツリ]
日祭神社[ひまつり]「天照大御神、高皇産靈神」福島県原町市大甕字館120 阜嵐健

冠嶺神社[サカミネ]
冠嶺神社[さかみね]「少彦名命」福島県原町市信田沢字戸ノ之内194 阜嵐健
冠嶺神社「少彦名命」福島県相馬郡鹿島町上栃窪字宮下乙35 阜嵐健

御刀神社[ミト]
御刀神社[みと]「經津主神」福島県相馬郡鹿島町北右田字剣宮112 阜嵐健

鹿嶋御子神社[カシマミコ]
鹿島御子神社[かしまみこ]「天足別命、志那都比古命、志那都比賣」
福島県相馬郡鹿島町鎮座 延喜式内鹿島御子神社由緒略記
畏くも畏き当神社御祭神天足別命は常陸の鹿島神宮の御祭神武甕槌命の御子神にして 常陸鹿島神宮の苗裔なるを以て此の地を鹿島と謂い、当神社を鹿島御子神社と称す所 以此處に在り。天足別命は往時武甕槌命、経津主命と共に邪気を討攘せる神にして特 に奥州は僻遠の地なれば邪気再び起こらん事を慮り奥州の討攘に専念せし神なり。第 12代景行天皇の御宇(西暦917年)日本武尊命御東征の時此の鹿島御子神社に武 運長久の祈願ありて、其の霊験に依り、乱臣賊子は速やかに征服し得て、其后益々御 子神社は特に軍神として武人崇敬の神となれり。第51代平城天皇の御宇大同元年( 西暦806年)当今の社地に社殿を造営し、当地社僧神官等多数ありて神領17石を 有し、常陸の鹿島神宮より年々幣帛を領されたという。第60代醍醐天皇の御宇延喜 5年(西暦905年)当時軍神、鎮火神、医術の神として崇敬者多く、由緒深きを嘉 せられ且つ当時大社として神社界の中枢として活動するところの延喜式内社に列せら れた。醍醐天皇自ら武運長久を祈願し、御神体を式内社たる当神社に納められ、磐城 国行方郡における延喜式内社の中の一社として現在に至っている。又其后年は移り変 わりて社殿は改変せられ今日に至も天暦5年の御棟札(これに準ずるもの数体)並び に樹齢千余年の御神木大欅2本(福島県緑の文化財指定)が現存するを以て其の由緒 古きを伺うことができる。

 特殊神事 鎮火祭−正月14〜15日
御祭神天足別命が鹿島の稚児沼に仮宮された時、此の地方に大六天魔王という賊徒が 横行していた。或る朝未明賊徒が命の仮宮を襲い火を放った、命は直ちに「火伏せの 神事」を以て四方八方に拡がった猛火を鎮めた。其の時、鹿島の大神のお使いである 鹿が多数現われ、川より濡れた笹を銜えて仮宮を潤し火の再発を防いだという。その 後命の御神徳に依りて賊徒横行することがなくなり安泰な日が続いたと謂う。現在は 古事に因み、正月14日夜、神霊神水を町中に奉じる法被姿の若者達の威勢の良い掛 け声で「火伏せ祭り」が始まり、翌朝未明御神歌と共に神楽を奏し、高々と天燈籠を 掲げ旧社地に至りて神事を行いその後、沿道の氏子有志が神官に浄水を掛けて祝う。 神官は衣冠氷結のまま社殿に上がり、天下の罪穢を祓い氏子の1年の全ての祈願を斎 行する奇祭である。

福島県相馬郡鹿島町大字鹿島字町199 神社公式 阜嵐健

益多嶺神社[マスタミネ]
益多嶺神社[ますたみね]「大國主命、少彦名命」
延喜式内 益多嶺神社(甲子大国社)由緒
第十二代景行天皇の御代、日本武尊東夷平定の際、出雲太社より御分霊を勧請された 神社で、昔から甲子大国社と尊称される。古来より霊験あらたかなれば、閑雅な境内 に於いて心身ともに御神徳に浴される崇敬者は、遠近を問わず諸国に数多い。
にんにくの神事 昔、疫病の流行せし時、ニ神はこれをすくわんと諸種の草木よりにんにくを薬物と定 め、救済せし故事に起因。大祭の日に「にんにく」をお受けすれば無病息災の御神慮 あり。
大祭日 四月二十九日
甲子祭 毎年甲子の日
節分祭 二月三日 男女厄年の厄払、豆まき、追儺祭

福島県相馬郡小高町大井字宮前144 阜嵐健

多珂神社[タカ](名神大)
多珂神社[たか]「伊邪奈伎命」

延喜式内名神大社 多珂神社由緒
古の文化の花開いたと伝える、ここ多珂の郷に白木の神殿を仰ぐ今よりおよそ千七十 年前、すでに名神大社として延喜式神名帳に列し、わが国屈指の古社として、多くの 多珂社の首位にあり旧号を多珂大明神と称し祭神を伊邪那岐命とし、又は多珂荒みた ま命とする。景行天皇の四十年七月日本書紀皇子日本武尊東夷征伐の勅命を奉じ、陸 奥に下り各地に転戦し給い軍を太田川のほとりに進められ戦勝祈願のために大明神川 原(大明神橋の名も今に残る)の近く玉形山に神殿を創建し給ふ。(社伝、仲哀天皇 七年二月 社伝、暴風雨のために社殿大破し九月芦野平現在の城ノ内)に遷し奉る以 来上下の尊崇厚く藩政時大明歴元年四月藩主相馬忠胤資財を献じて社殿を修理、元禄 年中藩主昌胤白符鷹の彫刻を納め、享保九年昌胤社田一石九斗余を寄進せらる、明治 六年郷社に列し、昭和十九年十月県社に昇る。常に地方の政治信仰文化の中心であっ たがこのたびまた氏子一同相はかり由緒の碑をこの産土の社地に建て永く大神の弥栄 を寿ぎ祀るという。(昭和四十六年四月)

福島県原町市高字城ノ内112 阜嵐健

押雄神社[オシオ]
押雄神社[おしお]「押雲根命」福島県原町市北新田字諏訪137 阜嵐健


栗原郡[クリハラ]:7座大1小6

表刀神社[ウハト]
表刀神社[うえと]「素盞嗚命」宮城県栗原郡築館町字成田75 玄松子の記憶
表刀神社「伊弉冉命、素盞嗚命」宮城県古川市小野字宮前14 玄松子の記憶

志波姫神社[シハヒメ](名神大)
志波姫神社[しはひめ]「天鈿女命」天平神護元年の創祀ると伝わる。宮城県古川市桜ノ目高谷地205 玄松子の記憶
志波姫神社「天鈿女命」宮城県栗原郡高清水町字五輪44-4 玄松子の記憶
志波姫神社「木花開耶姫命」
志波姫神社
町名ゆかりの神社にして延喜式内社栗原七社の一つと云われ祭神は木花開耶姫命、古 くは伊豆権現社と称し築館玄光(現築館源光)に鎮座、伊達家二代忠宗公の代、古内 主膳重広が伊豆野堰開削ともに明暦三年(一六五八年)現在地に移し水下十ケ村の鎮 守としたと云う。
本殿は慶安三年(一六五〇年)の建築と伝へられ覆堂は昭和三〇年に設けた。

宮城県栗原郡志波姫町字八樟新田126 玄松子の記憶

雄鋭神社[オト]
雄鋭神社[おどの]「速須佐之男命」淤ど山津見神[カグツチの胸に生まれる神]が本来の神 宮城県栗原郡栗駒町稲屋敷高松51 玄松子の記憶
伊勢宮 宮城県栗原郡築館町字町屋敷48 阜嵐健
御嶽神社[みたけ]「安閑天皇」宮城県栗原郡鶯沢町字袋持添26 玄松子の記憶

駒形根神社[コマカタネ]
駒形根神社[こまがたね]「大日尊、天常立尊、國常立尊、吾勝尊、天津彦番邇邇藝尊、神日本磐余彦火火出見尊」宮城県栗原郡栗駒町沼倉字一の宮7 玄松子の記憶 玄松子の記憶嶽宮

和我神社[ワカ]
和我神社[わが]「武烈天皇」宮城県栗原郡築館町字萩沢木戸122 玄松子の記憶

香取御児神社[カトリミコカミ]
香取御児神社 宮城県栗原郡築館町青野前久伝 玄松子の記憶
鹿嶋神社に合祀「主 武甕槌命 合 經津主命」宮城県栗原郡築館町字黒瀬後畑64 玄松子の記憶

遠流志別石神社[ヲルシワケ]
遠流志別石神社[おるしわけいし]「倭健命」倭姫命より授けられし明珠をこの地に埋め神祠を建つと伝わる。
宮城県登米郡石越町北郷字中沢81 玄松子の記憶 いしこしガイド


膽澤郡[イサハ]:7座並小

磐神社[イハ]
磐神社[いわ]「伊邪那岐命」岩手県胆沢郡衣川村上衣川字石神99 磐(いわ)神社 玄松子の記憶

駒形神社[コマカタ]
駒形神社[こまがた]「駒形大神」
参拝のしおり
御鎮座地
本社 岩手県水沢市中上野町一
奥宮 岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根字駒ヶ岳
御祭神
駒形大神
文徳天皇仁寿元年正五位
清和天皇貞観四年従四位下(奥州最高の神階也)
延喜の制により小社と列せられる
奥宮について
往昔の奥宮は大日岳の頂上に鎮座していた。大日岳とは現在の奥宮の鎮座地なる駒ヶ 岳の南方に高くそびえる霊山で、現に駒形大明神と銘する神号碑がある。
この駒ヶ岳、大日岳は牛形山その他の山々とともに旧噴火山の外輪山を形成し、駒形 山というのはこれらの連峰を総称したものであり、当社が最初大日岳に鎮座せられた というのは、この岳が連峯中の最高峰であったためである。
近世の奥宮は、現在地の駒ヶ岳の頂上に建造され建坪、三坪三分五厘、宝玉造で東北 にむかっている。この地、山陽は胆沢郡で伊達氏の旧領地であり、山陰は和賀郡で南 部氏の旧領地であり、両氏領土の境界に鎮座せられそのうえ両氏の崇敬はなはだ厚か ったから、神祠は両氏の公費営繕で二十年ごとに改造されるというのが例であった。
本社について 当社の社地はもと塩釜神社の鎮定地であったが、明治四年五月十四日国幣小社に列せ られた時、里宮、奥宮ともに交通不便の地にあるため県知事等の参向することもでき かねる為、当時水沢県庁の所在地であった現社殿を仮遥拝所とした。さらに明治七年 社殿を大いに修理し正式の遥拝所とした。さらに明治三十六年、神霊を山頂より遷座 、塩釜神社は同社の別宮なる春日神社に合祀して、社殿いっさい駒形神社に編入した 。
本殿、拝殿はもと水沢城主留守宗利が寛永六年に建立したものであるが、安政六年火 災に罹りことごとく烏有に帰したため、留守邦命文久三年再興したものである。なか でも本殿は西磐井郡衣川村の大工熊谷萬吉が奉納した欅(けやき)の巨木一本ですべ て作られた、三間社流造である。
さらに現社殿は、昭和八年奉遷三十周年を記念し総工費六万二千六百円(内務省補助 三万二千六百円)をもって大修理、新築、社地の整備をし名実ともに陸中一の宮にふ さわしい神社となったものである。
里宮について
里宮は駒ヶ岳の山麓およそ十二Kへだてた金ヶ崎町西根字雛子沢に鎮座して戦前は境 外末社として位置づけられていたが現在は、新法に依り独立して祭典を行っている。 奥羽観蹟聞考誌によれば、奥宮の鎮座地は天下の霊山であり、山勢はなはだ峻険であ るため登拝して御神霊を拝すること困難、さらに中腹のウガイ清水より先は女人禁制 であったので、里人、老若婦人の参拝の便をはかり御神霊を勧請して奉斉したとある。
旧南部領岩崎にも里宮があるが、今は当社との関係は絶えている。

岩手県水沢市中上野町1 陸中一宮 駒形神社 玄松子の記憶


和我叡登挙神社[ワカエトノ]
月山神社[がっさん]「月讀尊」岩手県胆沢郡衣川村下衣川字松下64番地 リンク

石手堰神社[イハテヰ]
石手堰神社[いわてい]「天忍穗耳命」岩手県水沢市黒石町字小島1 玄松子の記憶

膽澤川神社[イサハカハ]
於呂閇志丹澤川神社[おろへしいさわがわ]「澤女命、須佐之男命、大日靈命、軻遇土命、譽田別命、神八井耳命、若飯豐別命、彦火火出見命、大山祇命、大名持命」
於呂閉志胆沢川神社
当神社は、明治四年に「於呂閉志神社」と「胆沢川神社」を同床に合祀した延暦十七 年(七八九)の延喜式神名帳に記載された神社です。
胆沢川神社は大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の勧請と伝えられ、祭神は水速女命と して水神様を祀る神社であり、祭日は九月十二日である。
於呂閉志神社は、元来石淵地区の猿山に鎮座する。「於呂閉志神社略縁起」によれば 広仁元年(八〇一)、嵯峨天皇の勧請と伝えられています。祭神は、須佐男之命、木 花咲耶姫命を祀り、祭日は、四月二十九日、この春の例祭には、神の「よりしろ」と なる椿、隈笹、お札からなる「御守札」を配る作神様として神事がみられます。
本殿には方一間木造入母屋造で、桟唐戸には黒漆塗に金泥をもって竹に雀、九曜紋並 びに桐紋を描いた旧伊達宗章廟厨子が収納されています。
江戸時代初期の様式美が窺えます。
平成二年 月 胆沢町教育委員会

岩手県胆沢郡胆沢町若柳字下堰袋48 玄松子の記憶

止止井神社[トトヰ]
止止井神社[ととい]「天湯河棚命」胆沢郡胆沢町の都鳥に神社跡がある。遷座している。白鳥下161 岩手県胆沢郡前沢町古城字野中51 玄松子の記憶

於呂閇志神社[オロヘシ]
於呂閇志丹澤川神社 前掲
於呂閉志神社は、元来石淵地区の猿山に鎮座する。「於呂閉志神社略縁起」によれば広仁元年(八〇一)、嵯峨天皇の勧請と伝えられています。祭神は、須佐男之命、木花咲耶姫命を祀る。
岩手県胆沢郡胆沢町若柳字下堰袋48 玄松子の記憶


新田郡[ニヒタ]:1座小

子松神社[コマツ]
子松神社[こまつ]「武甕槌尊」宮城県古川市新田字鹿島西82 玄松子の記憶


磐瀬郡[イハセ]:1座小

桙衝神社[ホコツキ]
桙衝神社[ほこつき]「日本武尊、建御雷命」
掲示板
長沼町桙衝亀居山の東斜面中腹に、東面して鎮座する。
亀居山とは、亀が伏せたような独立丘に見えたために、その名が起ったというが、ま た一説には、神居山の転化であるともいわれている。
祭神は、社記によると武甕槌命と日本武尊の二神であるが、桙衝の名称は、伝柊の尋 矛を衝き立てた古事に基くものとされている。
一説に日本武尊ではなく、武甕槌命の事績に由来するともいう「延喜式神名帳」延喜 4年(904)に登載された社号からみれば、武の神ないし武器の神が祭られたこと が明白である。
それはまた、蝦夷征討との関係からであったろう。 養老2年(712)常陸国より移住した民人、常陸国の一宮神を当山の二の平二勧請 して、鹿島大明神と称す。
弘仁12年(821)神鉾が塚より現出したので、秘蔵して、祭神の御霊代として崇 める。
天喜5年(1057)源頼義、阿部氏誅伐の誓願成就したのをもって、鹿島大明神を 桙衝神社に合祀したので、以来、桙衝鹿島大明神と称するようになった。明治3年( 1870)、社号を延喜式登載の桙衝神社に復した。
本殿桁行三間、梁間三間で、切妻の三間社流れ造りの形式をとっている。柱は円柱、 柿(こけら)葺きで三方縁、妻飾りの大瓶束を始め、虹梁の上下面や懸魚の形などに 時代と地方色が濃厚である。
この本殿の建立については、慶安元年1648)5月の棟札に「奉修造奥州 惣社 磐瀬郡惣鎮守桙衝大明神本地十一面観音菩薩社堂一構」と記されていることや、同年 月銘の「祈年祭祓」の内容から、当時の白河藩主榊原忠次の命によることが明らかで ある。
本殿始め本殿に関する棟札12枚を含め、昭和51年県指定重要文化財となった。

福島県岩瀬郡長沼町大字桙衝字亀居山97 玄松子の記憶 桙衝神社・巨岩群


會津郡[アヒツ]:2座大1小1

伊佐須美神社[イサスミ](名神大)
伊佐須美神社[いさすみ]「伊弉諾尊、伊弉冉尊、大毘古命、建沼河別命、鹽土翁命、品陀別命」 摂社の御田神社にも伊佐須美大神を祀る。
福島県大沼郡会津高田町宮林甲4377 玄松子の記憶

蠶養國神社[コカヰ・]
蠶養國神社[こがいくに]「保食大神」
会津の蚕養様
当神社は、日本一社にして、延喜式神明帳に、陸奥国一百座の一つである。五十二代 嵯峨天皇の御代弘仁二年(八一一年)鎮座にて、五十四代仁明天皇承和年中に、陸奥 ・出羽・両国の按察使兼鎮守府将軍藤原富士磨朝臣の奏にて、官社に例せられ、醍醐 天皇の御代、延喜式選定の折、式内の社となる。一条天皇寛弘七年(一〇一一年)に 、県令、石部少将道秀・堂家左京太夫憲照・石塚丹後頼春等により、社殿を草創す。
その時の神官を、蚕養蔵人という。その後、兵火のため社殿炎上し神籬の境内であっ たが、保科正之侯が、官工、鷹谷弥十郎宗清に命じ、社殿以下を造営し、社領二十石 を寄付、櫻町天皇寛保三年(一七四三年)には、正一位の極階に進まれた。文化四年 、社殿焼失し、文政二年(一八一九年)松平容敬朝臣・社殿以下を、正之侯創立に写 し造営、今日に至る。
社殿広壮、巨大なる境内・風致の深遂幽遠なる、会津稀有の大社にして、神威遠く他 方 に及んでいる。
明治五年県社の格に加列される。春四月十九、二十日の両日の、講社祭は、年中行事 の最大のものであり県内は勿論、県外よりの養蚕家、各郡養蚕連合会、技術員等、多 数の参拝者が列をなし、太々御神楽を奏し、当社独特の濁酒、肴膳を供し、大いなる にぎわいを、呈するのである。
当社の濁酒は、古来より伝わりし独特の方法で醸造し、春の講社祭、例大祭に神前に 、献酒し、後、直会に供宴し、参拝者に喜ばれ、日本一社、蚕養国神社の名を高めて いる。
境内社頭には、会津五桜の一つ「峰張桜」があり、毎年、見事な花を咲かせている。 又、当社には、古来より伝わる謡曲「蚕養宮」があり、謡曲愛好家により、謡われて いる。

福島県会津若松市蚕養町2-1 玄松子の記憶


小田郡[ヲタ]:1座 小

黄金山神社[コカネヤマ]
黄金山神社[こがねやま]「金山毘古命、天照皇太神、猿田彦命」宝亀元年の勧請。宮城県遠田郡湧谷町黄金宮前23 玄松子の記憶


磨郡[ヤマ]:1座 小

磐掎神社[イハサキ]
磐椅神社[いわはし]「大山祇命、埴山姫命」
御由緒
会津はもとより県内外の人々から「いわきさま」と親しまれている社は歴史が古く、 その格式は東北でも有数で、延喜式内勅祀社・神階正一位・旧県社・陸奥国神従四位・会津總産土神と名高い。
そのおこりは、はるか昔、応神天皇の御代(弥生時代)神功皇后摂政五十年の(25 0)時、武内大臣の巡視のみぎり勅命を奉じ国土開発の神なる[大山祇命・埴山姫命 ]を磐椅山[いわはしやま](磐梯山)の頂上に鎮座された。
又、聖武天皇の御代(奈良時代)天平元年(729)8月25日見袮山南麓の現在地 に遷座し、相殿として誉田和気命(応神天皇)息長足姫命(神功皇后)を配祀す。
これらの神々は縁結び・豊作祈願・方除開運・等全ての開発開運の神様として名高く 古来有名であります。
十世紀の始めに「延喜式」の神名帳に、磐椅神社は耶麻郡一座にとしてあり、昔は右 に神殿門宏麗にして廻廊鐘桜及数座の末社相連なり往時は神輿の渡御、流鏑馬等の神 事を行はせられたものであった、立派な神輿は社殿に保存されている。
村上天皇の御代(平安時代)天暦元年(947)勅使御差遺あり、由来お尋ねありし 時桜樹を奉献せられ社殿修復し、この時の桜樹が大鹿桜である。
花弁のなかから葉が出るという珍しい桜の大木で、見頃は五月五日〜十日頃である、 会津五桜の一つである。
順徳天皇の御代(鎌倉時代)猪苗代城主三浦経連が承元元年(1207)夏現在の所 に旧社殿のまま御遷座され杉を植え、これを鳥居杉と称す。
天正年中、伊達政宗摺上原の合戦後一時衰微するに至りるを会津藩主保科正之公が寛 文年中(江戸時代1660〜1672)社殿を御造営になる、万治二年正之公当社に 参詣して没後末社たらんことを告げて神事を行う、因って当社の末社として土津大明 神(土津神社)これ正之の靈なり。
会津磐梯山は明治二十一年の大爆発で変形したが、以前の山容はととのい、山頂は高 く天に向かってそびえ立っていた石(磐)の梯(はしご)すなわち「いわはし」の山 であった、このようにして、古い歴史と社格をもった磐椅神社は会津磐梯山は父なる 山で母なる会津の里に豊作をもたらす神として、人々の信仰のよりどころであり会津 の土着の信仰に基づく神体山崇拝の神社で磐椅大明神・峰明神として古くより東北の 文化的・精神的な一大支柱として今日に至っております。

福島県耶麻郡猪苗代町西峯6199 神社 玄松子の記憶


斯波郡[シハ]:1座 小

志賀理和氣神社[シカリワケ] 
志賀理和氣神社[しがりわけ]「經津主命、武甕槌命」
由緒
延暦二十三年(804)坂上田村麻呂が東北開拓の守護神である香取、鹿島の二神を 当地の鎮守として斯波加里の郷鳰が磯野(現在地)に勧請合祀したと伝えられている 。爾来、東北六郡を領した藤原秀衡の族、樋爪氏を始め、高水寺城主斯波氏など当地 を領した累代領主の厚い尊崇を受けた。
天正年間(1573−1592)南部氏がこの地を領すると殊のほか崇敬の誠を捧げ 、第三十三代利視公は「御社はとまれかくまれ志賀理和気我が十郡の国のみをさき」 の和歌を献じ、社殿を造営するなど深く敬仰した。
さらには近江商人、井筒屋など豪商も霊験あらたかな神として篤く信仰した。境内に 方三尺余の赤石があるところから赤石神社の通称で親しまれる日本最北の延喜式内社 である。

岩手県紫波郡紫波町桜町字本町川原1 玄松子の記憶


氣仙郡[ケセ]:3座 並小

理訓許段神社[リクコタ]
氷上神社[ひかみ]「衣太手神、登奈孝志神、理訓許段神」理訓許段神は千余年前はこの地方の夷族の神であった。氷上は日高見であろう。
岩手県陸前高田市字西和野83 玄松子の記憶

尾崎神社[おざき]「稻倉魂神 配 海住神」延暦二年。神宝の稲穂は古代アイヌの祭りにつかわれた。アイヌ語ではリクやウカは上、コタンは村の意。ウカノミタマも元はアイヌの神か。尾崎神社を本来の理訓許段神社に見るべきとの説がある。白鳥伝説下326
岩手県大船渡市赤崎字鳥沢190-1 玄松子の記憶

登奈孝志神社[トナカシ]
氷上神社 式内理訓許段神社に掲載済み

衣太手神社[エタテ]
氷上神社 式内理訓許段神社に掲載済み


安積郡[アサカ]:3座 大1小2

宇奈己呂和氣神社[ウナコロワケ](名神大)
宇奈己呂和気神社[うなころわけ]「瀬織津姫命」福島県郡山市三穂田町八幡字上ノ台76 玄松子の記憶

飯豊和氣神社[イヒトヨワケ] リンク 妙見山
飯豊和気神社[いいとよわけ]「御饌津神」
延喜式内 飯豊和気神社 略記
飯森山(妙見山名は国有林)標高770m余の嶺に鎮座する飯豊和気神社は、五穀養 蚕の守護の神であって神亀元甲子年9月勧請による延喜式内の古神である。日本紀略 寛年9年9月7日「授陸奥国正六位上飯豊和気神社・・・」云々と記載神位授けられ 文禄2年2月正一位の宣旨があり、また元文5年2月24日御幣勧請の宣命があった 古社であって往古より神威霊験顕著でる為、各領主の崇敬篤かった。寛永13年3月 野火のため本殿拝殿その他附属建物並びに延喜式宝物、社記、古文書等残らず消失し 、神玉は飛ケ森という所の大樹へ飛遷した其節、神主大河原伊勢守が箱に封入権宮へ 奉還した。これを稲霊の魂玉と申し伝わる。

その後、会津城主加藤式部少輔(義明公)が、本殿、拝殿並び籠殿等の附属建物を再 建し、神領二百石、神子領二十石を賜る。そして、寛永20年二本松城主丹羽氏領と なり、以来神領等は廃される。秋の祭典には、甘酒を醸し桶のまま神殿に供えて、参 詣の人々に授け飲ませ、また御種貸神事として神前に供えた種籾を、信者へ貸し下げ 翌年の祭典に新穀を返納させたが、何種の種が交じっていても雑穀とならず、主穀と 同一となるという奇妙な稲霊の御種貸しと言う古代の神事があった。

明治維新までは、御山祭と称する祭事があって、領主の二本松城主丹羽家より郡奉行 、代官等を参向させ、同領である安積郡内の神官全員が登山し、五穀豊穣、悪疫退散 の祈祷を行った。また、早天の時は山下の各村から登山して、降雨祈願をした。 明治30年4月1日、再び野火の延焼により社殿其の他の建物を全焼したため明治4 3年4月に再々建した。併し、80年余りを過ぎ風雪水に浸される事甚大で昭和56 年11月四度の建築にて現在に至っている。
なお、山頂には夜毎に樹立ちの中の社前に、幾千個の燈光が発現し、神秘であり「御 竜燈」と呼ばれて遠近の人々にも知られている。また、現在も敬神者が遠くから参拝 に登山し、特に戦中時まで春祭りには、千数百人の参詣人で大賑わいな山祭りであっ た。

福島県郡山市三穂田町下守屋字飯森山1 阜嵐健

隠津嶋神社[オイツシマ]
隠津嶋神社[おきつしま]「建御雷之男神」 福島県郡山市喜久田町堀之内字宮19-1 玄松子の記憶
隠津嶋神社「瀛津嶋姫命、田心姫命、湍津姫命」
参拝と御案内(由緒)
当神社は安積国造比祢命の後胤・丈部直継足の三男継宣が神護景雲三年(769年)に 隠津島神社を勧請した。後に式内社として延喜式神名帳に記載され、創立以来ここに 千二百余年にわたり歴世の武将・国主・地頭・藩主が上下挙って尊信し、祭祀を厚く し、又一般庶民に至るまで信仰をあつめた。その後大同年間(06 年)に平城天皇の 勅願によって弁天堂が建てられ、神仏混淆の社となり、この時より隠津島神社弁財天 と称れるようになった。後世には木幡の弁天様と呼ばれ庶民に親しまれるようになっ た。天正十三年(585年)伊達政宗の兵火により全山炎上、本社・末社悉く焼土とな りしも藩主や庶民の信仰厚く、再建された。現存する本殿・拝殿は寛政元年(789年 )に二本松藩主丹羽長貴公の命により造営されたもので、実に十二年間の長き年月に よって竣功された。明治に至っては初年の神仏分離令によって、別当治陸寺を廃し、 厳島神社と称し明治三十五年神社名を復旧、隠津島神社と改称、明治四十年県社に列 した。後の第二次世界大戦後、神道指令によって、宗教法人隠津島神社として届出、 社格(元県社)解消となったが、今日現在においても平和・招福・知恵・縁結びの神 と広く深く信仰されている。

福島県二本松市木幡字治家49 阜嵐健
隠津嶋神社「市杵嶋比賣命、多岐理比賣命、多岐都比賣命」
延喜式内隠津嶋神社参拝のしおり
1、隠津嶋神社−福島県郡山市湖南町福良鎮座
1、御祭神−隠津嶋神社の御祭神は、市杵島比売命、多岐理毘売命、多岐都比売命の 三女神を御祀りし、武勇武神、交通安全、商売繁昌の主護神として広く崇敬されてお ります。
1、御由緒−隠津嶋神社は郡山市湖南町福良の南約6キロメ−トル、布引山 の東麓、加護山(福良山)に在り、式内社旧安積郡三座の一座であります。
境内は杉や雑木の原生林におおわれ県の天然記念物、緑地環境保全地区、国の保健保 安林に指定されて居ります。寛永年間、正之中将入部ありて後2万5千平方米余の土 地寄付され、正徳元年、神職桑名尚永氏、吉田家に講じて、延喜式内社隠津嶋神社の 号を復した。尚隠津嶋神社は、社前に菅の多く生する為、菅明神とも称へられ、又、 同年間藩候肥後の守(正容)又家臣に命じて、神殿を新たに造営されました。
隠津嶋神社は総て福岡県の宗像三社に擬して、本社より南方約5キロメ−トル余り布 引山の南麓、黒沢と伝処に瀑布の磅、峡岩の頂に小祠を営み、宗像の奥津宮に準へ早 魃に雨を祈る所とした。又、本社より東4キロメ−トル余り高井原山の東麓、三代の 地内字栃窪、東西約72メ−トル、南北約36メ−トル余りの処に菅の生たる沼があ り、周囲に古木欝蒼として列れり栃の老樹1株、周囲約4メ−トル余りあり、ここの 御社を辺津宮に準じたと伝えられております。
何時の頃よりか、布引山の祠殿は廃絶し、現在は三代に鎮座する御社と、この隠津嶋 神社の御社とがあるのみでございます。
1、御境内−当神社の境内は数多くの原生林でおおわれ日光をさえぎり泉石幽邃にし て神秘の地であります。
菅谷地−社の前に多く菅の生する所があり、往古早魃の時神職桑名氏潔斎して菅を採 れば雨が必ず降ると伝えられております。
風穴−社の後なる山に風穴多くあり、夏は冷風、冬は暖風吹上ぐるにより神風岩とし て知られ商売繁昌のヘビ神様として信仰されております。
菅滝−(御手洗川)即菅川の源なり、高さ7メ−トル余りあり、往古より禊の場とし ており、又同じく雨を祈る所であります。
烏帽子岩−御本殿真後にあり当隠津嶋神社の御神岩とされてある。
天然記念物−隠津嶋神社社叢 
御祭礼−隠津嶋神社の御祭礼はつぎのとおりであります。
例大祭礼−7月23日、7月24日(23日の夜は夜ごもり参拝)
月次祭−毎月24日

福島県郡山市湖南町福良字福良山7414 玄松子の記憶



柴田郡[シハタ]:1座 大

大高山神社[オホタカヤマ](名神大) 白鳥を祭神とする。
大高山神社[おおたかやま]「日本武尊、橘豐日尊 合 迦具土尊、大山祇命」
御由緒
人皇三十代敏達天皇の元年(五七一年)日本武尊を祭神として創建されたが、推古天 皇の御守、橘豊日尊(三一代用明天皇、聖徳太子の父君)を合祀された。
縁起書、安永風土記、観蹟聞老志などを併せ見ることによって、日本武尊が夷賊征伐 の際、この地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を 奉祭した。
場所も新開の台の山であったが、元禄初期の火災焼失によって、新開一二六番地に移 し、その後大正三年に金ケ瀬神山に移築遷座され現在に至っている。
延喜式神名帳によると当時陸奥国に百座の延喜式神社があり、その内大社が十五座、 小社が八五座で大高山神社は大社の一つ。全国二八五座の一つでもあり郡内唯一の神 社である。
本殿は元禄の建物で、正応六年銘(鎌倉時代中期)の鰐口は東北最古のものとして国 指定重要文化財になっている。

宮城県柴田郡大河原町金ヶ瀬字神山45 神社公式 玄松子の記憶



宇多郡[ウタ]:1座 大

子負嶺神社[コオヰノ](名神大)
子眉嶺神社[こびみね]「豐受比賣命」 大宝二年(今より約千三百年前)敏達天皇の御子を祀ったと伝えられている。
延喜式国史所載
総社 国内神明帳所載
本社は延喜式名神大社、子眉嶺神社と称し、別名を奥之相善宮とよんでいる。 人皇第三十代敏達天皇の御子を祀ったと伝えられ、大宝二年(今より約千三百年前) よりおよそ、二百年間仮宮を造り延喜七年の建立にして、延喜の朝には、名神大社と して、案上官幣を賜り、中世には旧藩主仙台侯の氏神として、社領の寄進や社殿の再 建修繕等を加えられたが、安永八年二月七日野火のため社殿を焼失した。寛政八年四 月更に仙台侯によって、社殿再建の起工がなされ、文化三年竣成された。現在の御社 殿は大正七年三月に幣殿付拝殿が造営されたものです。
奥州一百座の名神大社、宇多郡総鎮守社であります。
本社には七不思議として次のものがあります。
南天の桜 北斗の松 七葉の欄 八房の梅
片葉のよし 鏡 池 芽白の笹 九曜のかしわ
等境内に史跡を留める。何れも由来を語る名跡と言われています。
鏡池は本社の御神水として、太古より如何なる旱天にもその泉の枯る事なし、と云わ れている。
南天の桜は本社特有の物にして、南天の実の如く一ヶ所に咲くことによりこの名があ ります。
祭神 豊受比売之命
五穀豊穣の神で伊勢の外宮に祀られている。
都の姫の悲恋にまつわる伝説がある。
祭礼
一月一日   新年祭
一月十四日  厄払祭
三月七日(旧)春季例祭
七月六日(旧)前夜祭(よごもり)
七月七日(旧)秋季例祭
十一月十五日 七五三詣
十二月三十一日大 祓
毎月七日   月例祭 崇敬者御縁日
守護
全国各地で行なわれる相善祀りは牛馬の安全を祈願するもので、これは元々本社の名 であり御祭神を祝う意味である。
五穀の豊穣、安産、子供の悪疫除、病馬平癒の神といわれております。
特に馬術馬業には高き御神徳を有します。
交通
奥之相善宮表参道入口 国道六号線又は国道百十三号線から利用の便あり
常磐線駒ケ嶺駅より約三キロ西

福島県相馬郡新地町駒ヶ嶺字大作44 阜嵐健



伊具郡[イク]:2座 並小

熱日高彦神社[アツヒタカヒコ]
熱日高彦神社[あつひたかひこ]「邇邇杵命、日本武命」宮城県角田市島田字鳥内1 神社公式 玄松子の記憶

鳥屋嶺神社[トリヤミネ]
鳥屋嶺神社[とやのみね]草葺不合尊」宮城県伊具郡丸森町字除北42 玄松子の記憶



磐井郡[イハヰ]:2座 並小

配志和神社[ハイシワ]
配志和神社[はいしわ]「高皇産靈神、瓊瓊杵尊、木花開耶姫命」
配志和神社由緒
延喜式神名帳にも記載されており、創立は古く今から千九百年前人皇十二代景行天皇 のとき皇子日本武尊詔を奉じて軍を率い遠く道の奥に入り蝦夷の地にいたる。進んで 営を此の地、中津郷の山要峰に移し(神社地内)その嶺頂に登り賊を平治せんことを 祈り自ら矛を収め三神を鎮斎し東奥鎮護の神として祠を建て、火石輪と称した。今の 配志和神社である。

岩手県一関市山目字館56 玄松子の記憶 『 配志和の森さんぽ 』

草神社[マヒクサ]
舞草神社[まいくさ] 「伊弉册命、稻倉魂命」岩手県一関市舞川字太平5 舞草刀 と 舞草神社 玄松子の記憶


江刺郡[エサシ]:1座 小

鎮岡神社[・・・・]
鎮岡神社[しづめがおか]「大己貴命」岩手県江刺市岩谷堂字五位塚179 玄松子の記憶

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延喜式神名帳目次

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