大隅國:5座 大1小4



桑原郡[クハハラ]:1座大

鹿兒嶋神社[カゴシマ](大)
鹿児島神宮[かごしま]「天津日高彦穗穗出見尊、豐玉比賣命 配 帶中比子尊、息長帶比賣命、品陀和氣尊、中比賣命」
鹿児島神宮由緒
鹿児島神宮の創祀は遠く神代にあって、又皇孫神武天皇の御代なりとも伝えられます 。御祭神彦穂穂出見尊は筑紫の国開拓の祖神に坐しましこの地に高千穂宮(皇居)を 営み給い、五百八十歳の長寿に亘らせらるる間農耕畜産漁猟の道を指導し民政安定の 基礎をつくり給うたのである。
俗に正八幡、国分八幡、大隅正八幡等と称し全国正八幡の本宮でもあります。醍醐天 皇の延喜の制には(九Ο一年)大社に列し大隅一ノ宮として朝野の崇敬特に篤く営繕 の費は三州の正税を以て充てられ後鳥羽天皇建久年間(一一九八年)には社領二千五 百余町歩の多きに至り江戸末期まで千石を有して居た。
明治四年国幣中社、同七年神宮号宣下官幣中社、同二十八年官幣大社に夫々列格す。 昭和十年今上陛下の行幸を仰ぎ勅使皇族の御参拝は二十余度に及ぶ。
現社殿は桃園天皇の宝暦六年(一七五六年)島津重年公(廿四代)の造営になるもの である。
神社は元石体宮にあり、八幡神は後に祀られたのである。八幡神の起源説話に震旦国の娘大比留女は七歳のとき朝日が胸の間にさし光り懐妊して王子を生んだ。 王臣達がこれを怪しんで空船[うつろぶね]に乗せて、船の衝いたところを所領とするようにと大海に浮かべた。 船は大隅の磯の岸に着いた。その太子を八幡と名づけたと言う。宇佐に始まるとされる八幡信仰は、大隅起源説もあるのである。
鹿児島県姶良郡隼人町内2496-ロ  神社 玄松子の記憶


囎唹郡[ソオ]:3座並小

大穴持神社[オホナモチ]
大穴持神社[おおなもち]「大己貴命 配 少彦名命、大歳神 合 霧嶋大神」鹿児島県国分市広瀬3-1090 玄松子の記憶

宮浦神社[ミヤノウラ]
宮浦神社[みやうら]「國之常立神、豐雲野神、宇比地迩神、妹須比地邇神、角杙神、妹活杙神、意富斗能地神、妹大斗乃弁神、淤母陀琉神、妹阿夜訶志古泥神、伊耶那岐神、伊邪那美神、天照大御神、天忍穗耳尊、天津日高彦火火出見尊、彦波瀲武・・草葺不合尊、神武天皇、天津日高彦火迩迩藝尊」鹿児島県姶良郡福山町福山2437 玄松子の記憶

韓國宇豆峯神社[カラクニウツミネ]
韓国宇豆峰神社[からくにうづみね]「五十猛命」祭神は五十猛命・韓神・曾富理神とする系統と天児屋根命の系統とする説がある。マイナーな五十猛命が、権力を一手に握った藤原氏の祖神に対抗している姿である。 和銅七年、豊前国の民をこの地に移住させている。半島系の神や八幡神が持ち込まれたと推定される。 鹿児島県国分市上井898 玄松子の記憶


馭謨郡[ ム]:1座小

益救神社[スクヒ]
益救神社[やく]「天津日高彦火火出見尊、大山祇尊、木花開耶姫尊、鹽土翁尊、豐玉彦尊、豐玉姫尊、玉依姫尊」
式内社 益救神社 由緒記

益救神社は、天津日高火火出見尊を祭神として正祀する神社であります。
火火出見尊と申し上げる神様は、皇室の御系図でいえば、天照大神様の曾孫に当たり 、第一代神武天皇の祖父に当たるかたであります。即ち、次のとうりです。
天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・火火出見尊・鵜葺草葺不合尊・第一代神武天皇・ 第百二十二代明治天皇・第百二十三代大正天皇・第百二十四代今上天皇
よく知られた海幸彦と山幸彦の兄弟の神様が、それぞれ仕事の道具をとりかえて海幸 彦は山へ猟に行き、山幸彦は海へ魚釣りに行き、そして弟の山幸彦が兄さんから借り た釣り針を失って困っていると、塩椎神が現れて竜宮城へ案内し、そこで鯛のノドに ささっていた釣り針を見つける話、あの山幸彦が益救神社の祭神の火火出見尊です。 そして、この時に尊を助けてくれたのが、海神の娘、豊玉姫です。
尊は竜宮城で三年間姫と暮らし、豊玉姫に御子が生まれます。このお産にあたって、 海辺のなぎさに、鵜の羽を葺草にして産屋を造りますが、それがまだ葺き終わらない うちにお生れになった勇ましい男の子が鵜葺草葺不合尊です。この鵜葺草葺不合尊が 姨の玉依姫を娶り、お生れになったのが神日本磐余彦尊、即ち神武天皇です。


益救神社は祭神として前記七柱の神々を奉斎申し上げておりますが、伝記には創立年 代不詳とされているのであります。
屋久島が初めて歴史に現れたのが第三十三代推古天皇の二十四年(西暦六百十六年) に掖玖人が前後して三十人、朝廷に貢ぎ物を献上した記録があり、第三十四代舒明天 皇の元年(六百二十九年)四月に田部連という者を掖玖島へ派遣され、島民の皇化顕 著なる御鴻業を垂れ給うと伝えられておりますとおり、すでに聖徳太子の時代から帝 都との交通が行なわれておりました。
そのご、遣唐使船の往復に伴って南の島々は大陸との航路上たいへん重要視されるこ とになりますが、九州一の高峰宮の浦岳頂き豊かな水と緑に恵まれた屋久島は、古く から航海者達の重要な目印であり、停泊、給水地でした。島影によって航路を確かめ 、寄港して嵐を避け、水や食糧を補給したときの舟人達のほっとした安堵感、救われ たという喜びはいかばかりだったでしょうか。益救神社が一名「救いの宮」とも呼ば れ、また古来、益々救われますようにと願い、今後もますます救ってくださる神様の お宮だという感謝の思いをこめて「益救」の文字があてられていることも頷かれるの であります。
はっきりした記録としては「延喜式神名帳」に「大隅国馭謨郡 一座 名神 小 益 救神社」と登載されております。この「延喜式」と申しますのは、宮中における年中 儀式や百官臨時の作法その他を詳しく記した公家法制の書で、第六十代醍醐天皇の延 喜年間に勅命によって撰進し始めたのでこの名で呼ばれております。完成したのは延 長五年、西暦でいえば九百二十七年。弘仁年間、貞観年間に撰進されたものと合わせ て三代式といい、延喜式は前二式をも併せ採っており、全体五十巻より成っています 。そのうち、九巻と、十巻が「神名帳」と呼ばれているものです。
奈良朝の初め、神祇制度がそなわるとともに、全国的に朝廷の崇奉かかる官社を定め 、これらの神社に朝廷から奉幣することになり、そのために神名帳がつくられるよう になったのです。これは第四十五代聖武天皇の天平年間にようやく整ったといわれて おりますが、その後、追加修正などがあり、やがて延喜式神名帳として完成され今日 に伝えられております。
益救神社はそうした古い時代から官社として優遇され、大祭典には朝廷から神饌幣帛 料の班幣の儀が行なわれておりました。かっては朝廷より派遣された国司の政庁が種 子島の島間にあり、益救神社の例祭には国司を初め郡領などがそれぞれ島間崎の遥拝 所から拝礼の式をあげるなど、屋久・種子両島民の鎮守の宮として崇敬を極め、大隅 半島を考えに入れても、それらの代表となる高い格式をもっていたのであります。


しかし、時代の変遷はまぬがれず、第百三代御土御門天皇の御代には戦国動乱の世と なって国司政庁も廃止され、屋久島は種子島家の所領となります。そして、種子島時 氏の法華宗を主体におく宗教改革によって本社も衰微荒廃の一途をたどり、古来の記 録も失われ、ついに社殿も礎石を残すのみになったのです。
豊臣秀吉の朝鮮役後、屋久島は島津家の領地になり、藩政時代にいります。
こうして、貞享元年、島津藩士・町田孫七忠以という者が屋久島の宰領として着任し 、益救神社の荒れ果てたありさまをみて大いに歎き、島民を説いて遺蹟ををもとめ、 同二年(西暦千六百八十五年)、現在の社地に社殿を造営、ついにこれを復興させる に至ったと伝えられています。
時代くだって文久三年(千八百六十三年)、薩英戦争のあった年でありますが、時の 藩主島津茂久公が藩政を改革し廃典を挙げるに際し、管内の神社を調べて益救神社の 由緒と現状を耳にされ、ただちに小田原河内(藤原秀房)という神職を社司に任じ、 翌年屋久島へ下したのであります。そして、当時この神社の社号が俗に「須久比ノ宮 」「一品宝珠大権現」あるいは「三岳の宮」とさまざまに呼ばれていたのを旧に復し 、「益救神社」と改め島津久光公の手になる扁額を神前に掲げ、御霊代の神鏡もあら たに鋳造寄進されたのであります。慶応元年(千八百六十五年)には社殿の改築もす すめられることになり、六月より工を起こし、翌二年四月竣工、官社の格式に違わな い精巧な技術を施し、立派な申し分のない社殿でありました。
この時の建築工事に当たったのは、宮大工棟梁瀬島喜平次ほか十人、木挽五人、日用 雑夫四人の計二十人が藩から下され、他に地元木挽二人が加わって総勢二十二人であ ったと凍札に記録されております。

御祭神としては、貞享の復興当時における祭神=火火出見尊に配し祭った神々ありと 伝わっておりましたが、判明しないので、正殿に火火出見尊、火須世理尊、恵美須ノ 神を鎮めたてまつり、脇殿に塩土翁尊、豊玉彦尊、豊玉姫尊、玉依姫尊、大山祗尊、 木花開耶姫尊合わせて九柱の神々を鎮め奉っておりました。明治四年に火須世理尊は 川向神社へ、恵美須ノ神は川口の神祠へそれぞれ遷座申し上げ、現在は先述の七柱を 斎き祀っているのであります。本社殿の竣工後、藩より社領六十石が供せられ、神官 も五名奉仕しておりましたがそれぞれに高禄を下しおかれて、一切が藩費で賄われて おりました。ところが、このような優遇も維新政府のもとに進められた廃藩置県と共 に自然事止みとなり、社格も県社となりました。
明治十九年(千八百八十六年)、氏子総代木原清右衛門等が島司新納中三宛に「益救 神社昇格ノ儀ニ付請願書」を提出し、官幣社への昇格を請願いたしましたが、果たさ れませんでした。しかし、益救神社は古代以来の伝統をもつ宮として、全島民の崇敬 によって明治大正、昭和と神威ますます盛んに発揚されていたのであります。


大東亜戦争の敗色も濃くなった昭和二十年七月十五日、アメリカ軍爆撃機より直撃弾 を受け、本殿はじめ各社殿は大破いたしました。とりあえず仮殿を設けて御神座とし 、「此の社殿改築の重責を一日も早く果たし、氏神の御心を慰め奉らんと日夜忘れる 暇なく」と記録には残されておりますが、敗戦、占領下のすべてに困難な情況のもと に月日が流れ、昭和二十八年に至ってようやく再建の準備にとりかかる運びとなりま した。
かつては官費によって賄われていた神社も今や全てを自費で賄わねばならず、境内地 の一部と杉造林地内の杉二千余本とを売却、氏子諸士よりの浄財と合わせて工事資金 とし、二十九年七月一日起工、建築資材は全て屋久杉を用い、同十一月二十日総屋久 杉造りの壮麗な社殿が完成いたしました。
こうして、益救神社は戦災からも完全に復興改築され、御神徳いよいよ高く万民を照 らし今日に至っているのであります。

一、祭典並びに特殊神事
例大祭 四月十日
七種祭、厄払、紐解祭 一月七日
月待祭 旧暦一月二十三日 前年に住宅を新築した人たちが向こう三年間、月の出を 待って参拝する。併せて海上安全、出郷者の安全祈願を行ないます。
六月灯祭 七月十五日 子供たちの描いた絵灯篭が境内一杯に奉納されます。
一、宝物 文久三年造営当時島津家より寄進された久光公直筆の社号扁額および桧造り神輿をは じめ木製彩色唐獅子一対、黒漆塗金蒔絵太刀二振、木製狛犬一対、出目満徳作の翁面 、姫面各一個、錫制鶴首型瓶子、同水玉形瓶子、木製黒漆塗瓶子各一対などがありま す。
鹿児島県熊毛郡上屋久町宮ノ浦字水洗尻277 玄松子の記憶


H24.1.25

延喜式神名帳目次

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