近江国:155座 大13小142




滋賀郡栗太郡甲賀郡野洲郡蒲生郡神崎郡愛智郡犬上郡坂田郡淺井郡伊香郡高嶋郡


滋賀郡[シカ]:8座大3小5

那波加神社[ナハカノカミノヤシロ]
那波加神社[なばか]「天太玉命」一説には宇賀御玉神 上宮に霊石あり
滋賀県大津市苗鹿[のうか]1丁目8-1 玄松子の記憶

倭神社[シトリ]
倭神社[やまと]「日本武尊 配 兩道入姫皇女、稻依別王」滋賀県大津市坂本1丁目8-31 玄松子の記憶
倭神社[しどり]「倭姫」赤塚明神と呼ぶ。滋賀県大津市滋賀里丁目223 玄松子の記憶

石坐神社[イハヰ]
石坐神社[いわい]「彦坐王命、天命開別尊、弘文天皇、伊賀采女宅子媛命 合 海津見神、豐玉比古命」御霊殿山の磐座祭祀から発展。持統天皇の朱鳥元年創祀。

由緒
人皇四十一代持統天皇の朱鳥元年五月朔日一条院尊良粟津郷王の林の広庭に社殿を造 営し正霊天王社と称し奉斉す是当神社の草創なり
光仁天皇宝亀四年十二月三日正一位勲一等の神階を贈り賜ひ鎮護国家之神也と御勅宣 あり同五年十二月三日勅祭を行なはせ給ふ
建久三年源頼朝上洛の途次当社に参拝し武運長久を祈願し神領の寄進あり

正治元年三月佐々木信綱神殿を再建し神輿一基名刀神鏡の寄進あり 建保二年社殿再 営の事あり左近衛中将藤原資平を勅使として参向せしめ給ふ 亀山天皇文永三年八月 二十九日神主佐々木守安社殿を湖辺に遷し更に造営す今の社殿是れなり(今を去る六 百五十有余年前)

弘安年間皇子御不例にて医療効なく因つて当社に御祈願あり之を占はしめらるに大鯉 魚を捕へ御病床に供ふべしと時に志賀之郡南郷の住人青山藤右衛門と云ふ人高木崎に 大綱を曳き目下二尺三寸の鯉魚を獲たり之を献ずるに皇子御脳平癒したれば勅使を遣 はせ給ひ奉幣あらせらる左大臣三条実房公より八大龍王宮の扁額の寄進あり文和三年 後光厳院帝近江巡行の砌り幣帛及び菊桐御紋章の御戸帳の御下賜あり
永正元年閏三月十七日佐々木定頼神輿を再営し祭器の寄進あり

慶長五年関ケ原の役に大阪方の大軍来りて神域に陣し敗軍に及んで社頭に火を放つ時 に祀宇は災を免れたるも上古より伝はれる古記録宝物焼失す慶長六年徳川氏大津城を 膳所に移し戸田左門一西を封す一西厚く当社を崇敬し神田高五石田一段歩を寄進し神 域の大修補をなす寛永五年菅沼定芳膳所城に封せられ雨乞祭を修し霊験を得て社傍に 石造玉垣の寄附あり寛永十三年石川忠俊膳所城に封せられ拝殿御倉の寄進あり慶安五 年本多俊次膳所城に封せられ社領高五石神田一段歩合米三石六斗五升五合の寄附あり 爾来代替りに黒印改めあり先規により寄進せらる当社は古来数兵火の災ありて古の大 社の規模を失へるも武門武将の崇敬厚く神領の寄附を以て四時の祭祀を奉仕せしなり

滋賀県大津市西ノ庄15-16

神田神社[カンタ]
神田神社[かんだ]「彦國葺命、天足彦國押人命」彦国葺命は真野の遠祖。正月17日の「さんやれ祭」が有名。
由緒
当神社は延喜式神明帳に所載の滋賀郡八座の中の一座で第五代孝昭天皇・その皇子、 天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)とその三世の孫、彦国葺命 併せて須佐之男命をお祀りするお社です。彦国葺命は真野の遠祖で、その子孫が真野 の入江の汀、神田(みとしろ)の地に神殿を建てお祀りしたのが始まりで地名により 神田神社と申し上げます。
崇神天皇の十年(紀元前八十七年)命により武埴安彦率いる賊軍を討ち鎮められた知 勇・学才誠に優れた方であり今日 厄除・災除・勝運の神と仰がれております。
二の宮(八坂神社、天王社とも称されていた)にお祀りされた須佐之男命は天照大神 の弟神であり病除けの神として古くから信仰されています。
滋賀県大津市真野町4-7-2  玄松子の記憶
神田神社「彦國葺命、素盞嗚命、鳥務大肆忍勝」近江輿地志略によれば上記より勧請されたとのこと。
滋賀県大津市真野普門町942 玄松子の記憶

小野神社2座[ヲノ](名神大)
小野神社[おの]「天足彦國押人命、米餠搗大使主命」二ノ宮と呼ばれるが名神大社である。和邇氏の同族の小野氏の本貫地である。
由緒
小野神社は小野一族の祖であると共に餅及菓子の匠・司の始祖である第五代孝昭天皇 の第一皇子天足彦国押人命と同命から数えて七代目の米餠搗大使主命の二神を祀る。 今から一千年前の延喜式の神名帖に滋賀郡大三座の内小野神社二座、名神大社(官幣 大社の意)とある古社である。
古事記によれば天足彦国押人命は孝昭天皇と尾張国の連(むらじ)の娘余曽多木比命 との間にお生れになった第一皇子で春日、大宅、栗田、小野、栃木、大阪、安濃、多 岐、羽栗、都怒山、伊勢、飯南、一志、近江、の国造の祖であると記されている。 
又、日本書紀には大和和邇(やまとわに)の祖であるとも記されている。
大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県、 滋賀県の広い地域を統治されていた王族であり、諸国に多い小野の地名、氏族の発生 地、祖神でもある。
滋賀県滋賀郡志賀町大字小野1961 玄松子の記憶

日吉神社[ヒヨシ](名神大)
日吉大社[ひよしたいしゃ]「大己貴神、大山咋神」全国3800余の日吉神社、日枝神社の総本山である。
由緒
日吉大社は、霊峰比叡を背にして、びわ湖を一望できる絶景の地にひろがりをみせて います。その広大な神域は、うっそうたる樹林におおわれ、多くの社殿とともに神々 しい雰囲気をかもしだしています。それは、古くから日吉大社の境内そのものが神々 の集合場所であり、各社殿は、それら神々の鎮座される唯一の社として祀られてきた からでしょう。むかしから、境内鎮座社は108社といわれてきたほどです。

現在では、日吉大社の社殿のほとんどが、国宝または重要文化財に指定されており、 貴重な文化遺産として保護されています。また、神代から伝わる神社史をひもといて みても数々の歴史遺産を知ることができます。

こうして、われわれ現代人に温故知新の尊さを教え、古くから厚い信仰にささえられ てきた日吉大社は、神々の偉大さを顕現するかのように、いろいろな信仰の形が伝え られ、いまも残っています。

魔除けや厄除け、鬼門除けの信仰は京都御所の鬼門・猿ケ辻や江戸城(今の皇居)の 鬼門。赤坂などの守護のあらわれであり、また、日枝神社や日吉神社は、全国各地の 城郭の鬼門を守護する意味で祀られたという歴史もあります。 また家内安全の信仰 は、「日々吉(ひびよし)」とする日吉大社の社名にもあらわれていますし、商売繁 盛の信仰は、「日本三大大黒」と称される当社の西本宮御祭神に仰ぐことができます。

一方、日吉大社の歴史は、古く神代、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸と続 く各時代の胎動・発展期に深くかかわってきました。室町時代の強訴の神輿や信長の 比叡全山焼打ち、秀吉の日吉三橋寄進、家康の日吉東照宮建立など、枚挙にいとまが ないほどです。

滋賀県大津市坂本5丁目1-1 神社公式

小椋神社[ヲクラ]
小椋神社[おぐら]「闇神、猿田彦神」天智天皇御代、大和の丹生川上神社から分祀。
由緒
大津市仰木の里の産土(うぶすな)神小椋神社は、天安二年(西暦858年)人皇第 五十五代文徳天皇の皇子惟喬(これたか)親王の創祀に依る古社である、大宮明神と 称す(祭神伊弉那美神)続いて翌貞観元年源融公(嵯峨源氏)が宮川の上流に祀れる 闇・(くらおお)神を遷し祀る、是即ち小椋神社の創始なり。
滋賀県大津市上仰木町4-38-55 玄松子の記憶


栗太郡[クリモト]:8座大2小6


蘆井神社[イホノヰ]
五百井神社[いおのい]「木俣神」 滋賀県栗太郡栗東町下戸山20 玄松子の記憶

意布伎神社[イフキ]
志那神社[しな]「志那津彦命、志那津姫命」 滋賀県草津市志那町727 玄松子の記憶
惣社神社[しな]「志那津彦命、志那津姫命」 滋賀県草津市志那中町240 玄松子の記憶

小槻大社[ヲツキノオオヤシロ]
小槻大社[おつき]「息速別命 配 大己貴命」古代豪族小槻山君の祖を祀る。社殿左側に巨大な円墳がある。
滋賀県栗太郡栗東町下戸山1200 玄松子の記憶

小槻神社[ヲツキ]
小槻神社[おつき]「於知別命、天兒屋根命」何故か池の宮と呼ばれている。滋賀県草津市青地町873 玄松子の記憶

高野神社[タカノ]
高野神社[たかの]「大名草彦命」和銅元年勧請、由岐宮と呼ばれる。滋賀県栗太郡栗東町高野726 玄松子の記憶

印岐志呂神社[イキシロ]
印岐志呂神社[いきしろ]「大己貴神」天智天皇の勅願により大和国三輪大社より勧請。
滋賀県草津市片岡町245 印岐志呂神社 - 万葉集を携えて - FC2神社

佐久奈度神社[サクナト](名神大)
佐久奈度神社[さくなど]「瀬織津姫命、速秋津姫命、氣吹戸主命、速佐須良姫命 合 大山咋神」このあたりの瀬田川はしぶきをあげている。祓所の祭神を祀る。
滋賀県大津市大石中町56 神社公式

建部神社[タケヘ](名神大)
建部大社[たけべたいしゃ]「日本武尊 相殿 天明玉命 権殿 大己貴命」祭神を建部氏の祖の稲依別王とする説がある。
由緒
当社は古来建部大社、建部大明神などど称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の 一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。御祭神 日本武尊は御年僅に十六才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に三十二才にし て伊勢の能褒野に於て崩御されましたが、父君景行天皇は尊の死をいたく歎かれ御名 代として建部を定め其の功名を伝えられたことが日本書記に記されているのであるが 、これが即ち建部の起源である。

景行天皇の四十六年神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、御子稲依別 王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の 草創であって、その後天武天皇白鳳四年当時近江国府の所在地であった当瀬田の地に 迂祀し、近江一之宮(其の国を代表する第一位の神社)として崇め奉ったのが現在の 当大社である。

歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑なく、就中源頼朝は、平家に捕われ、十 四才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永歴元年(1160年) 三月二十日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されている。頼朝は遂に 源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年)十一月右大将として上洛の際再び社 前に額き襄年蒙った深い神助に対し、幾多の神宝の神領を寄進して奉賽の誠を尽され たのである。爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神と して広く崇敬される所以であり、明治十八年四月官幣中社に、同三十二年七月官幣大 社に列し、国家最高の社格を与えられた。昭和五十年四月十五日御鎮座壱千参百年式 年大祭を斎行し、これに伴う記念諸事業の完遂。そして平成二年三月十七日には本殿 遷座祭を斎行し御社頭は面目をあらたに、御神威の程畏き極みである。

滋賀県大津市神領1丁目16-1


甲賀郡[カウカ]:8座 大2小6

矢川神社[ヤカハ]
矢川神社[やがわ]「大己貴神、矢川枝姫命」甲賀の雨宮として名高い。滋賀県甲賀郡甲南町森尻310

水口神社[ミナクチ]
水口神社[みなくち]「大水口宿禰 配 大己貴命、素盞嗚尊、稻田姫命」甲賀郡の中心地、伊勢大路の道筋に鎮座。水神農耕神であった。16基の曳山(標山)が出る豪華な祭礼が名高い。
滋賀県甲賀郡水口町宮ノ前3番14号 神社公式

石部鹿鹽上神社[イハヘノカシホ]
吉姫神社[よしひめ]「木花開耶姫 配 上鹿葺津姫、吉比女大神」
滋賀県甲賀郡石部町石部4075
吉御子神社[よしみこ]「吉彦命、鹿葦津姫命、吉姫命、應神天皇、猿田彦命」
滋賀県甲賀郡石部町大字石部字御神田2763

川田神社2座[カハタ](並名神大、月次新甞)
川田神社[かわた]「天湯川桁命、天川田奈命、天兒屋根命、大己貴命」水口神社と野洲川をはさみ鎮座。垂仁御代創建
滋賀県甲賀郡水口町北内貴490
川田神社「倭姫命」 滋賀県甲賀郡土山町頓宮769 玄松子の記憶
川田神社「天兒屋根命」 滋賀県甲賀郡甲西町正福寺139 玄松子の記憶


飯道神社[イヒミチ]
飯道神社[いいみち]「伊邪那美尊、速玉男命、事解男命」 滋賀県甲賀郡信楽町宮町字飯道山7 玄松子の記憶
飯道神社「素盞嗚尊」 滋賀県甲賀郡甲西町針1009 神社

川枯神社2座[カハカレ]
油日神社[あぶらひ]「油日大神 配 罔象女命、猿田彦命」油日山が神体山、頂上に岳大明神「罔象女命」が祀られている。
滋賀県甲賀郡甲賀町油日1042
八坂神社「素盞嗚命、聖武天皇、神武天皇」滋賀県甲賀郡水口町嵯峨1607-1 玄松子の記憶
八坂神社摂社熊野神社「伊弉册命、速玉之男、川枯姫命」住所は前掲
八坂神社摂社川枯社 住所は前掲 田中久光氏の御指摘により比定、責は瀬藤。



野洲郡[ヤス]:9座 大2小7


御上神社[ミカム](名神大、月次新甞)
御上神社「三上]「天之御影神」三上山を磐境として祀られた。
由緒
三上山と妙光寺山の山麓に鎮座。
御祭神 天文御影命を御上神社より勧請。
御上神社の外八社の一社。
古来より秋季祭礼には古習神事を伝え、鑚火にて蒸しあげた独特の形式の御供を氏人が早朝から調整し、奉献する。
三上山を映す野洲八景の御池を前にする景勝の地に臨山。
滋賀県野洲郡野洲町三上838 玄松子の記憶

小津神社[ヲツ]
小津神社[おづ]「宇迦之御魂命、大津君」大津君は日本武尊の孫。
由緒
景行天皇の皇子日本武尊の御孫小津君を当地開拓の祖神としてまつったのが創始で、 後允恭天皇の皇妃玉津姫命のお願いによって宇賀之御魂命を主神として氏神と仰ぎ、 延喜式内の名社として、武門名将の信仰もあつく、現在に至っている。
滋賀県守山市杉江町495 玄松子の記憶

下新川神社[シモニフカハ]
下新川神社[しもにうかわ]「豐城入彦命 配 小楯姫命」野洲川の水神と深くかかわる。
滋賀県守山市幸津川町1356 古代であそぼ

兵主神社[ヒヤウス](名神大)
兵主神社[ひょうず]「八千矛神 配 手名椎神、足名椎神」兵主の神は延喜式で21座、この神社の社格が最も高い。
由緒
当社は景行天皇の御代、皇子稲背入彦命により大和国穴師(奈良県桜井市)に奉斎さ れたのを創始とする。更に近江高穴穂宮遷都に伴い、宮域近き穴太(大津市坂本)に 御遷座になった。その後欽明天皇の御代に琵琶湖上を渡り、現在の地に御鎮座された と伝える。
延喜式には明神大社に列せられ神階昇叙も著しく、花山天皇より「正一位勲八等兵主 大神宮」の勅額を賜っている。中世には、源頼朝・足利尊氏等の武将の崇敬厚く、寄 進された武具・甲冑を今に伝えており、更に徳川家よりも社領の寄進を受けるなど、 その御神威は広範囲にまで及んであた。
又、当社は古くより旧「兵主十八郷」と呼ぶ周辺地域の総氏神として、住民より心の よりどころと仰がれ、国指定の名勝庭園を始め多くの指定文化財を所有、近年では全 国各地よりの参拝者を得て現在に至っている。
滋賀県野洲郡中主町五条566

比利多神社[ヒリタ]
浅殿神社[あさどの]「積羽八重事代主神 配 大國主神 合 天御中主神、宇賀之御魂神、木花之佐久夜毘賣命」
滋賀県野洲郡中主町比留田693 玄松子の記憶
二ノ宮神社境内摂社比多利神社[ひたり]「素戔嗚尊」滋賀県野洲郡中主町西河原55

上新川神社[カムノニフカハ]
新川神社[にいかわ]「須佐之男命 配 大物主命、奇稻田姫」滋賀県野洲郡野洲町野洲69 玄松子の記憶
新川神社「小楯比賣命?」 滋賀県守山市立入町123 玄松子の記憶
 
馬路石邊神社[ムマミチノイソヘ]
馬路石邊神社[うまじのいそべ]「建速素盞嗚尊、大己貴命」天武天皇御代二神降臨し神殿を建立。滋賀県守山市吉身4-4-1 玄松子の記憶
 
己尓乃神社2座[コニノ]
己爾乃神社[こじの]上社「天兒屋根命、伊香津臣命、伊邪那岐命、伊邪那美命」通称:列系図己爾乃(れつけいづこじの)神社
滋賀県守山市洲本町1607 玄松子の記憶
己爾乃神社下社「大己貴命、天津彦根命、素盞嗚命」通称:己爾乃御前大明神こじのおんまえだいみょうじん
滋賀県守山市洲本町2322 玄松子の記憶



蒲生郡[カマフ]:11座 大1小10

大嶋神社[ヲホシマ]
大嶋奥津嶋神社[おおしまおくつしま]「大嶋神社:大國主命、奥津嶋神社:奧津嶋比賣命」奥津嶋神社は近江八幡市の沖合いの沖の島、大嶋神社はかって近江八幡市宮内町257の現日牟礼八幡宮の地に鎮座していた。
滋賀県近江八幡市北津田町529

奥石神社[ヲイソ]
奥石神社[おいそ]「天兒屋根命」孝霊天皇御代石辺大連の創祀と言う。鎮守の杜を老蘇の森と呼ぶ。
由緒
謹みてANじますと、太古、伊邪那岐、伊邪那美の二柱の大神がこの豊葦原瑞穂の国を 創め給ふた時、御子天照大神に高天原を素盞鳴尊に海原を治めさせになりました。茲 に素盞鳴尊は別離の挨拶に高天原に上り給ふたが大御神に対し奉り凌ぎ侮り給ふの御 振舞が多かったので大御神は赫怒し給ひ遂に天岩戸に幽居し給ふたのであります。是 に於いて国中常闇群神憂迷して手足の措く所知らず思兼命の議に従ふて種々の幣帛を 供へ大御心を慰め和し奉るに当り、当社の祭神天児屋根命が祝詞を奏し給ふたにより 大御神を招請することが出来、其の御勲請功により以後祭祀の事を掌り以って神人を 和し給ふたのであります。即ち歴世皇室輔弼の臣として永く栄えた中臣氏(後の藤原 氏)の祖神であらせられるのであります。因みに景行天皇の御宇(1900年前)日 本武尊、蝦夷征伐の御時弟橘姫命は上総の海にて海神の荒振るを鎮めんとして「我胎 内に子在すも尊に代りて其の難を救ひ奉らん霊魂は飛去りて江州老蘇の森に留まり永 く女人平産を守るべし」と誓ひ給ひてその儘身を海中に投じ給ふ云々とあり。又用明 天皇の御代(1400年前)聖徳太子が諸国御巡歴の途次老蘇の森に仮寓し給ふた時 、その妃高橋姫が御難産であったので鎌大明神に御祈願になったところ忽ち御安産な されたという古伝によって、古くから安産守護神として妊婦の祈願に参拝するものが 多いのであります。 以上
(注)文中のNは「木」偏に「安」です。
滋賀県蒲生郡安土町東老蘇1615 老蘇の森 奥石神社

石部神社[イソヘ]
石部神社[いそべ]「天照大神」古くは磯部大明神と称した。
由緒
創立年代は不詳であるが当社は延喜式神名帳記載の論社であり正應二年池内眞清等に より社殿を奉建されると云われ、寛文十二年改築された後、元禄十年、享保十五年、 延享元年と改築奉建される。古くは磯部大明神と称したが後に石部神社となる御祭神 天照皇大神(伊勢神宮分霊)を祭り社殿は干木を備へる。
滋賀県蒲生郡竜王町七里831 石部神社
石部神社「少彦名神、天照大神、高皇産靈神、大己貴神、櫛日方命」滋賀県蒲生郡安土町下豊浦6222 神社萌えっ

大屋神社[ヲホヤ]
大屋神社[おおや]「五十猛神」通称:杉杣大宮。五十猛命はまた大屋彦命とも言う。
滋賀県蒲生郡日野町杉228

比都佐神社[ヒツサ]
比都佐神社[ひつさ]「彦火火出見尊、天津彦火瓊瓊杵尊、木花開耶姫命、武甕槌神、天太玉神、大己貴神、經津主命、天兒屋根神、猿田彦神」
滋賀県蒲生郡日野町十禅師410 玄松子の記憶

長寸神社[ナカス]
長寸神社[ながき]「事代主命 配 天照荒魂神」佐久良川と前川の合流点に鎮座、水神にまつわる信仰から出発。
滋賀県蒲生郡日野町中之郷1565
苗村神社[なむら]「那牟羅彦神、那牟羅姫神、國狹槌尊」天日槍が吾名邑[あなのみら]に入るとある吾名邑をこの地に比定する説もある。古墳群多く、祖霊信仰に始まる神社とされる。
由緒
この御社は、延喜の御代長寸(なむら)神社として神名帳に列座された、格式の高き 式内社であります。

その創祀の年代は詳らかではありませんが、遠く上古のことであります。即ち当社域 内に現存する古墳或は域内外より出土する陶物(すえもの)は、何れも古墳時代の遺 跡或は遺品で、これ等は当時既に祖先の遺業に励んだ部民(べみん)の豹住を物語る もので、当神域の東の方にお祀りしたのに創ると推定され、地名である那牟羅と同音 になる長寸(長は最高位寸は村の古字)の字に替え長寸神社と申し上げました。尚こ の御社を后の世になつて東本殿と申すようになりました。

安和二年(969年)三月二十八日、大和國芳野金峯山に鎭まり給うた國狭槌尊(く にのさつちのみこと)の御神霊が、この神域の西の方に御遷座されるようになり、社 殿を御造営申し上げ、此処に御鎮座の次第となりました。この御社を前述の東本殿に 対して西本殿と御呼びします。

現時の社名、苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁 記三年三月新羅王子天日槍(しらぎのこきしのこあまのひほこ)の條に曰う吾那邑( あなのむら)でありましたが、その后、那牟羅に改まり更に長寸に替えられ、次いで 寛仁元年(1017年)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来 、年々の吉例となり、時の帝、御一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村の称号を賜り、 以后苗村と呼ぶ、と記されています。

 天文五年(1536年)三月二十二日、御奈良天皇は、当社に「正一位」の神位を 奉授し給い、同四月十九日勅使中御門宗藤・山科言継を御差遣になり、神位記を奉納 され、續いて同五月九日、更に天皇は「正一位苗村大明神」の勅額の御下賜があり、 又同月十二日関白太政大臣近衛植家公を始め三十人の公卿は、京都において法樂歌会 を催され、同月十六日中御門宗藤卿は、使者を以て当日の和歌を送られ、同十九日神 主はこれを、神前に奉納されたと伝えています。

滋賀県蒲生郡竜王町綾戸467

沙沙貴神社[ササキ]
沙沙貴神社[ささき]「少名彦神 配 大毘古神、仁徳天皇、宇多天皇、敦實親王」神社から東1.2kmに全長162mの瓢箪山古墳、境内北側の隣接する四ノ坪遺跡から四世紀初期の住居跡が発掘されている。蒲生郡の古代豪族狭狭城山君氏との関連が考えられる。
由緒
当神社、悠遠なる神代の昔、少彦名神の御霊跡に起こり、社号の「沙沙貴」は少彦名 神に起因するといわれています。
上古にあっては、大 古神の末裔、沙沙貴山君の一族の氏子として尊奉され、中古以 来、宇多天皇・敦 親王の末裔にあたる、佐々木源氏の一族祖神として尊崇殊に厚く 、京極家・黒田家・三井家・佐々木家・また、佐佐木高綱の末孫である乃木希典大将 が祖廟として本神社を崇敬されたことは有名であり、今日も全国約三百万人が佐佐木 源氏の末孫として由縁があり、広く敬拝されています。
旧蒲生郡・安土・金田・馬淵・武佐・平田・桜川・朝日野・地区にわたる、沙沙貴三 十三郷七十余ケ町の総鎮守、ことには・常楽寺・上出・中屋・慈恩寺・小中・の氏神 として、御神威益々高く輝き給う御社であります。
滋賀県蒲生郡安土町常楽寺1 古代であそぼ

菅田神社[スカタ]
菅田神社[すげた]「天目一命」神社記では大己貴命をも祭神とする。滋賀県近江八幡市中小森町1207
竹田神社[たけだ]「天津彦根命、天目一箇命 配 大己貴命、石凝姥命、大屋彦命」崇神天皇のとき水穂真若王が勅命によって「明神の森」に創祀。
由緒
人皇代十代崇神天皇の七年(皇、570 西前、91)水穂真若王が勅を奉じて御創 建遊ばされた二千年の古社にして、延喜式内の菅田神社は当社である。
成務天皇五年十月(皇、795 西、135)蒲生稲置管掌の地は、東北の境は愛知 川及伊勢地方、西は三上山から湖辺に及び、南は伊賀に至る地域であったと云ふ。三 磨は蒲生稲置中興の祖であり、智勇兼備、其の徳近江に く、欽明天皇(皇、120 5 西、545)綿向神社の祠宇を造営し、推古天皇十五年二月百七才にて帰幽す。
生前の徳を仰ぎて祖神の座に配祀す。
天智天皇七年五月(皇、1326 西、666)天皇当社に太刀打神事を行はしめ給 ひ、幣帛を奉り給ふ。当社からは祖神の造り給ひし剣一口、並に伝来の矛一本を献上 せり。又藤原鎌足公の命により朝日山より日陰蔓を採り朝廷に献ず、これより御即位 の大甞会ある毎に献納するを例となす。
滋賀県蒲生郡蒲生町鋳物師竹田1020

馬見岡神社2座[ムマミヲカ]
馬見岡神社[まみおか]「天戸間見命、天津彦根命」古事記では蒲生稲寸の祖神を天津彦根命とする。滋賀県近江八幡市馬渕町東山476
馬見岡綿向神社[うまみおかわたむき](日野大宮)「天穗日命、天夷鳥命、武三熊大人命」欽明天皇御宇創建。滋賀県蒲生郡日野町村井705

奥津嶋神社[オイツシマ](名神大)
大嶋奥津嶋神社 式内大嶋神社に掲載
奥津嶋神社[おきつしま]「奧津嶋比賣命」滋賀県近江八幡市沖島町188


神崎郡[カンサキ]:2座 並小

乎加神社[ヲカ]
乎加神社[おか] 「豐遠迦比賣命 配 白山比賣命」允恭天皇皇妃衣通姫の祈願によって鎮座。滋賀県神崎郡能登川町大字神郷9 阜嵐健

川桁神社[カハケタ]
河桁御河辺神社[かわけたみかべ]「天之湯河桁命 配 瀬織津比命、稻倉魂命」この地域は縄文晩期には稲作が行われていた。そのような生活の安定を願って愛知川の河辺に神々を奉斎したものであろう。滋賀県八日市市神田町381
大瀧神社[おおたき]「高神、闇神」
由緒
大瀧神社は古来多賀大社の末社、あるいは奥宮として考えられてきたようである。お 祭神高・神(たかおおかみ)闇・神(くらおおかみ)で、室温湿雨を司り水脈を主宰 し、農作物の生茂繁植の道を補助し給う神である。
社殿の創立年代は、大同二年(西暦八十七年)坂上田村麿将軍の願いで建立されたも のと想像される。寛永十五年(西暦一、六三八年)徳川家光公により修復され、今日 に至り、昭和四十八年(西暦一、九七二年)滋賀県有形文化財に指定され、昭和五十 四年(西暦一九七八年)本殿の屋根の葺替及び部分修理がなされた。
滋賀県犬上郡多賀町大字富ノ尾1585 阜嵐健
河瀬神社[かわせ]「大名牟遲神、大山咋神、品陀別神」滋賀県彦根市川瀬馬場町480-1 阜嵐健
小幡神社[おばた]「瀬織津比神、速開都比神、息吹戸主神、速佐須良比神、大山咋命、武甕槌命、伊波比主命、天兒屋根命、比賣神」
由緒
小幡邑の氏神と仰ぎ奉る惣社大明神、山王大權現、四組の氏神にまします大宮大明神 の三座を奉祀する東殿と、築瀬邑の氏神と崇め奉る若桜宮大神および小幡八幡宮の二 座を奉齋する西殿とから成っている。東殿を春日大明神、西殿を小幡八幡宮と申し上 げたが、明治九年二社ひとしく小幡神社とされ、同四十三年官允(かんいん)を得て 両社併合御神威ますます輝き給うて今日にいたった。

その昔二月の祭礼に当りては、初午、二の午の両度に神輿を奉じて九郷二十余村を巡 る渡御の神事いとも盛大に齋行され、その行粧の委細は記録に明らかである。時代の 推移に随い次第や巡幸路等に逐次変遷はありながらも、氏子を挙げての美しい伝統は 今も四月八日の祭礼と、その宵宮をはじめ年中行事の数々に脉々と継承されている。 社傅によれば推古天皇の十一年の創始といわれ、惣社は祓所(はらへど)四柱の大神 を祭神とし、日吉大神は天福年中、小幡位田(いんでん)の地が日吉大社の社領とさ れた神縁による御鎮座といわれる。また天長年間に春日神社を勧請して大宮が創まり 、西殿若桜宮は大宮の御分霊をまつる若宮にましまし、八幡大神を奉鎮すると伝える など、創始の伝承はさまざまであるが、何れにしても似小戸とたたえる霊泉の四時滾 滾と絶えることのない聖域に氏神の宮居を崇祀した父祖の深い祈りが偲ばれる。

滋賀県神崎郡五箇荘町大字中303  川桁神社[かわけた]「天湯河板擧命」滋賀県彦根市甲崎町139 阜嵐健
河脇神社[かわわき]「大國主命」滋賀県愛知郡愛知川町大字中宿205 阜嵐健


愛智郡[エチ]:3座 並小

軽野神社[カルノ]
軽野神社[かるの]「袁邪本王 配 彦坐王、玉依姫命」
由緒
延喜式に愛知郡式内三座軽野神社一座とある古社なるが未定である。袁邪本王は近淡 海蚊野別の租で末裔我乞いに往して蚊野郷となり往古より軽野神社として其の租を祀 り来る。奈良平安朝此地方興福寺領となり春日大明神と称す。元亀の兵火に罹り灰燼 に帰すも元禄十二年拝殿を再建享保十年本殿を改築し氏子の篤き信仰に今日の壮厳な 規模となる。
明治九年村社に列し同十四年郷社に加列同年軽野神社の旧号に復す。同四十三年神饒 弊帛料供進の神社に指定された。
滋賀県愛知郡秦荘町蚊野2268 阜嵐健
軽野神社「袁邪本王 配 日子坐王」袁邪本王は開化天皇の第三皇孫で蚊野の祖神である。
由緒
当社の創立の人皇第十一代崇仁天皇の御宇にして軽我孫公(カルアビコノキミ)は第 十三代成務天皇の御宇(ミコ)軽野地三千代を御供奉田として奉納せられ貞観八年七 月清和天皇は国家大平五穀豊熟の勅願をなし給ひ応永二十五年佐々木京極時高は武運 長久を祈願がれ金口一口を寄進、文明二年九月多賀豊後守高忠は神領安堵状を寄進、 安孫子日向実綱は宗家より拝領せし劒及薙刀と御供料として高三十石を献上萬治三年 勧修寺宮良尚法親王は親書を修め給ひ元禄四年藩主井伊直興公は金燈蘢一対を寄進さ る。祀職は往古軽我孫公の子孫が奉仕せしも中世に至り神宮寺である金剛輪寺の奉斉 する処となり神前に法楽を奏せし記録がある。
滋賀県愛知郡秦荘町大字岩倉123 阜嵐健

石部神社2座[イソヘ]
石部神社[いそべ]「天照坐皇大御神、天日方奇日方命 配 國造大名牟遲尊」摂社社に式内石部上社「大國主命、猿田彦命、大山咋命」がある。滋賀県愛知郡愛知川町大字沓掛147 阜嵐健


犬上郡[イヌカミ]:7座 並小

阿自岐神社2座[アシキ]
阿自支神社[あじき]「味耜高彦根神 配 道主貴神 ほか」
由緒 当社は延喜式神名帳に記されている古社で「阿自岐神社」の社名は祭神「味耜高彦根 神」の「味耜」の約音であるといわれている。
明治十四年に郷社、同四十四年に県社に昇格。
当社の境内は全体が庭園になっており、社殿を中心に東西に池があり、池には多数の 島を配しており、池泉多島式庭園のようすをそなえている。
庭園の規模は大きく、池中の中島には数百年の老杉が育成している。
作庭年代は上古時代のものと推定され、原形をとどめているのはとうしゃのみとされ ている。
滋賀県犬上郡豊郷町大字安食西663

多何神社2座[タカ]
多賀大社[たがたいしゃ]「伊邪那岐大神、伊邪那美大神」
由緒
この男女二柱の大神は、はじめて夫婦の道をおこされ、わが国土と万有の神神と、そ の主宰神としての天照大神をお生みになられましたので昔から、わが日本国の祖神さ まと仰がれ奈良時代の初めにできた「古事記」には、すでに淡海の多賀に鎮座という 記事が見えています。

そこで早くより朝野尊崇あつく、延命長寿の守護神を信仰されてきました数数の霊験 は、社蔵の古文書やご宝物、また境内にのこる寿命石、太閤蔵、文部省指定の各勝「 奥書院庭園」などが明らかに物語っております。

四月二十二日の多賀まつり(古例大祭)は鎌倉時代からの伝統を今に伝える華麗な神 幸行列で名高く、節分祭、お田植祭、万灯祭、九月古例祭、講社大祭、豊年講秋祭な ども大変にぎわいます。

室町時代以来の由緒をもつ全国各地の多賀講や崇敬会にも加入して神縁を結ばれる人 々が年々増加しています。ご本社から廊下つづきの鉄筋二階建ての参集殿では、これ らの団体やグループのおこもり(宿泊)、あるいは荘厳な儀式殿において挙式された 結婚式の披露宴その他いろいろの集会をお世話しています。

滋賀県犬上郡多賀町多賀604

日向神社[ヒムカヒ]
多賀大社境内末社の日向神社[ひゅうが]「天津日高日子火之瓊瓊杵尊」 住所は同上

都惠神社[ツヱ]
都惠神社[つえ]「大國主神 配 事代主神、綿津見神」滋賀県彦根市竹ヶ鼻町256 神社

山田神社[ヤマタ]
多賀大社境外摂社の山田神社[やまだ]「猿田彦大神」滋賀県彦根市野田山町字山田 阜嵐健


坂田郡[サカタ]:5座 並小

山田神社[ヤマタ]
山田神社「猿田彦大神、譽田別尊、多紀理毘賣命、多岐都比賣命、市杵嶋比賣命」孝安天皇御代の創建。滋賀県彦根市宮田町字下沢120 阜嵐健

日撫神社[ヒナテ]
日撫神社[ひなで]「少彦名命、應神天皇、息長宿禰」当社の南東1.5kmに息長氏ゆかりの式内社の山津照神社があり、この間は代表的な古墳地帯である。神功皇后がこの地を慕い創建したと伝わる。
由緒
延喜式神名帳記載の坂田郡五座名神小の内の一にして、創始の年代は詳かではないが 、「神祇志料」では「新撰姓氏録を案ずるに、山田造火撫直あり、共に後漢需帝四世 の孫阿智使臣の族也と云へり、之によると、二氏の族、或は此處に居るもの其の祖先 を祀れるか」と、また「神社覈録」でも「祭神火撫直祖神歟」と記している。社伝お よび明治の神社誌によると、当地神功皇后の祖先代々住まれし地なるを以って、皇后 此の地を慕い給う事深く、三韓より凱陣し給うや、此の地に を建て、御父息長宿禰 王及び國土経営と医薬に功ありし小毘古命を祀り給いしを創始とす、とその創立の由 来を説いている。

中古は、社領六百石を有し、朝妻荘内十一ケ村大社であり数箇の大伽藍と十九の社坊 を数え、多くの社僧がいたことを記録に残している。歴朝の祟敬深く、村上天皇は宸 翰の額を奉納され、特に後鳥羽上皇はしばしば参詣され、應神天皇を祀り給う、その 時村人による角力を叡賢され給う。この角力が今日伝承され毎年奉納されている。ま た黄牛を奉納されたとも伝えられている。その他武門、武将の尊祟厚く、後小松天皇 の應永年中、京極高光の建立せし伽藍等蛾ありしが、数度の兵燹に罹りまた織田信長 の叡山諸院を焼亡するや、神官、僧侶等これをおそれて自焼し、古記録ことごとく焼 失する。
社殿は、亨保八年(一七二三年)三月に再建され、拝殿等は寛政年中に落成されたも のである。
明治十四年三月に列し、明治二十四年内務省より古社保存資金を受け、大正十年五月 県社に昇格せられる。

滋賀県坂田郡近江町顔戸77 阜嵐健

伊夫伎神社[イフキ]
伊夫岐神社[いふき]「伊富岐大神、素盞嗚尊、多多美比古命」帝王編年記[養老七年]には多多美比古命は霜速比古命の子で夷服の岳の神と言うとある。滋賀県坂田郡伊吹町伊吹603 玄松子の記憶

岡神社[ヲカ]
坂田神明宮[さかたしんめいぐう]「天照大神、豐受姫命」垂仁天皇八、年天照大神を淡海甲可日雲宮より遷宮し二年の間奉斎した。滋賀県坂田郡近江町大字宇賀野835-2 阜嵐健
岡神社[おか]「皇産靈大神、不詳六柱」白雉三年勧請。滋賀県坂田郡山東町大字間田96
長岡神社[ながおか]「素盞嗚尊」滋賀県坂田郡山東町大字長岡1573 阜嵐健
彦根神社[ひこね]「活津彦根命」田中神社と呼ばれる。境内摂社に岡神社「素盞嗚尊」
滋賀県彦根市後三条町大字宮立122 阜嵐健

山津照神社[ヤマツテラス]
山津照神社[やまつてる]「國常立尊」滋賀県坂田郡近江町大字能登瀬390 山津照神社古墳


淺井郡[アサヰ]:14座 並小

鹽津神社[シホツ]
塩津神社[しおつ]「鹽土老翁神 配 彦火火出見尊、豐玉姫尊」滋賀県伊香郡西浅井町大字塩津浜547 玄松子の記憶
香取神社[かとり]「經津主神、岩裂神、根裂神、磐筒男神、磐筒女神」滋賀県伊香郡西浅井町大字塩津中332 玄松子の記憶
香取五神社[・ご]「經津主神、武甕槌神、天兒屋根命、大日貴尊、天鈿女命、安閑天皇」滋賀県伊香郡西浅井町大字大字祝山288 玄松子の記憶

湯次神社[ユツキ]
湯次神社[ゆつぎ]「健御名方命、瀬織津姫命」
由緒
夫れ式内湯次神社は延喜式神明帳近江百五十五座の内に列し、安康天皇元年御名方命 を御祭神とし古へよりの名社なり。而して往古より湯次之庄数十ケ村の総社にて神威 赫として祟敬厚く社殿も頗る裝觀を極めたり、しかるに姉川の合戦を初め幾度かの水 害に御神殿、神地も御受難されし為に明治三十年九月当地に御遷宮になった。その後 神域には天満宮、権現宮、観音寺、小彦名神社、薬師如来を奉り、天下泰平、五穀成 就、子々孫々、富貴繁栄の社として今日に至る。
滋賀県東浅井郡浅井町大字大路785 阜嵐健
湯次神社「建御名方神、瀬織津比神 配 弓月君」湯次[ゆすき]は湧き水に富む村の意と説明されている。秦氏が弓月君(融通王)を祖神を祀ったのが創祀とされる。滋賀県東浅井郡浅井町大字湯次16 近江の神社

波久奴神社[ハクヌ]
波久奴神社[はくぬ]「高皇産靈神 配 物部守屋大連」明治三十四年祭神を高皇産靈神にし、守屋公は相殿と改めた。後方の山腹に巨大な磐座がある。
由緒
創立年月不詳当大連守屋大臣を祭鎮する所は、用明天皇二年、大連義蘇我馬子等と稲 城に戦ふて利を失ひ、迹見赤祷の為に射殺せらるる者は、則ちその臣漆部巨阪にして 、大臣は弟小阪伴従して其領内、即ちその当地に潜匿し大臣名を隠して萩生翁と自稱 す、遺命に依て大臣を小谷東峡の巌窟に葬す、土人大臣を尊崇して爰に祭鎮す。

滋賀県東浅井郡浅井町大字高畑296 阜嵐健

小江神社[ヲエ]
小江神社[おえ]「事代主命」 滋賀県東浅井郡湖北町大字尾上72 阜嵐健
小江神社[おおえ]「事代主命」 滋賀県東浅井郡湖北町大字東尾上207-2
小江神社[おおえ]「事代主命」 滋賀県東浅井郡湖北町大字海老江249 阜嵐健

下鹽津神社[シモツシホツ]
下塩津神社[しもしおつ]「鹽土老命 配 伊邪那岐命、伊邪那美命」滋賀県伊香郡西浅井町大字集福寺455 玄松子の記憶

矢合神社[ヤアヒ]
矢合神社[やわい]「葦那陀迦神」祭神は葦の生じ易き水辺を司どり給ふ神なり。
由緒
当神社は延喜式神名帳に近江国浅井郡十四座ノ一と記され、古くは八相社又は八相大 明神と云へり、鎮座するこの一帯の山を八相山と云ふ。八相を“やわい”と訓読す。 けだし当神社には往古より弓矢の神事ありて村民盛んに射的を神前で行ひ多くの矢が 行き合うことにより、矢合の文字を以て社名とせり。
祭神の葦那陀迦神は葦の生じ易き水辺を司どり給ふ神なり。この地古くより水利の便 意の如くならざりしかばこの神を祭る。世にいふ世々開長者の“せせらぎ”は水の湧 き出ずる状を表す語にして村民篤く敬仰す。天正年間信長の小谷城攻撃の際、戦火に 遇い多くの古文書逸散したるも、現社殿は天明年間の作なり。境内に現存する鐘楼は 戦火をまぬがれし道成寺のものを移築したものなり。
滋賀県東浅井郡虎姫町大字中野1427 阜嵐健
矢合神社[やあい]「猿田彦神、應神天皇」滋賀県伊香郡西浅井町大字岩熊733 玄松子の記憶

岡本神社[ヲカモト]
岡本神社[おかもと]「大山咋命 配 應神天皇、天兒屋根命」滋賀県東浅井郡湖北町大字丁野810 阜嵐健
五社神社[ごしゃ]「天照大神、素盞嗚命、多岐理比賣命、奧津嶋比賣命、市杵嶋比賣神」滋賀県東浅井郡びわ町大字早崎865 阜嵐健
鹿島神社[かしま]「武甕槌神、天兒屋根神、齋主神、比賣神」滋賀県東浅井郡湖北町大字留目438 阜嵐健
岡高神社[おかだか]「菅原道眞公 配 素盞嗚命」
由緒
雄略天皇3年(459年)に蒲生稲置三麿が千尤尾岳に素盞鳴命を勧請し白鳳13年 (685年)に現在の御旅所に移し仁寿元年(851年)近江守小野篁が現在地に社 殿を造営し、奉斎する。当時岡本郷(後の下草野花)の岡本神社と称した。本社の別 当として岡高神宮寺清涼院があった。戦国時代織田信長の焼打を防ぐため父信秀が天 満宮を尊崇敬斎すると聞いて京都北野天満宮より此分霊を勧請し、難を逃れ、その後 尊崇する者多く岡高天神を崇め、明治初年には岡高神社と改称する。明治17年に郷 社に列せられ15ケ宮の総社である。
滋賀県東浅井郡浅井町北之郷292 阜嵐健

片山神社2座[カタヤマ]
片山神社[かたやま]「天日方命、奇日方命」滋賀県伊香郡高月町片山103 阜嵐健

比伎多理神社[ヒキタリ]
比伎多理神社[ひさたり] 「瓊瓊杵命」滋賀県東浅井郡湖北町今西586 阜嵐健
南浜神社[みなみはま]「建速須佐之男命」滋賀県東浅井郡びわ町南浜1160 阜嵐健
平野神社[ひらの]「素盞嗚命」天王さん。滋賀県東浅井郡浅井町尊勝寺668 阜嵐健
鹿島神社[かしま]「武甕槌神、天兒屋根神、齋主神、比賣神」滋賀県東浅井郡湖北町留目438 阜嵐健

麻蘇多神社[マソタ]
麻蘇多神社[まそだ]「白髮神、大山咋命、菅原道眞」滋賀県東浅井郡びわ町益田794 阜嵐健

上許曾神社[カミコソ]
上許曾神社[かみこそ]「草野姫命 配 大己貴命、事代主命、住吉大神、埴山大神」滋賀県東浅井郡浅井町高山2 阜嵐健
川道神社[かわみち]「大山咋命、大物主命 配 天照太神、豐受大神」滋賀県東長浜市川道町458 阜嵐健

大羽神社[ヲホハ]
日吉神社「瓊瓊杵尊、譽田別命、水波能賣命、金山彦命、火産靈神」滋賀県長浜市大浜町 阜嵐健
大羽神社[おおは]「天羽槌雄神 配 瓊瓊杵尊、譽田別尊」滋賀県長浜市虎姫町酢110 阜嵐健

都久夫須麻神社[ツクフスマ]
都久夫須麻神社[つくぶすま]「市杵嶋姫命、宇賀神、淺井姫命」本来の祭神は竹生島神であり、自然崇拝の神であろう。滋賀県東浅井郡びわ町早崎1665[竹生島] 神社公式


伊香郡[イカコ]:46座 大1小45

伊香具神社[イカゴ](名神大) 
伊香具神社[いかぐ]「伊香津臣命」白鳳十年創建。香具は加具土神。「火伏せの神」「防火の神」として信仰された。
由緒
「伊香」と書いて古くは「いかご」あるいは「いかぐ」と発音しました。ですから万 葉集ではこの背後の山すなわち賊ケ岳連山を「伊香山」と書いて「いかご山」と読ま せています。そしてその名は古事記に出てくる火の神「 具土の神」の徳を受けられ たところからきているようで、そのことはこの社のすぐうしろの山の小字名を「かぐ 山」とよび、又摂社に有る「意太神社」の御祭神「 具土の神」となっていることか らも証明されます。それで昔からこの神社は「火伏せの神」「防火の神」としての信 者が大変多く、特に火をよく使う商売の人々の間にその霊験は大変あらたかといわれ てその加護を祈る人があとをたちません。

さて伊香具神社の御祭神「伊香津臣命」という神様は、神武天皇に仕えて総理大臣の 役を果たされた天児屋根命第七代目の子孫にあたられる位の高い方で後の中臣氏(藤 原鎌足らの氏族)らの祖先でもある方です。

九世紀の後半当神社の神官で伊香津臣命から第十六代目にあたる伊香厚行という人は 、中央政府でも活躍され菅原道真公との進交が有りました。菅原道真公は幼小の時こ の北方にある菅山寺という寺で修業されたこともあってこの伊香具神社を厚く信仰さ れ、自筆の法華経、金光明経を奉納されました。また宇多天皇に申し上げて「正一位 勲一等大社大名神」の額を賜りました。そして当時制定された「延喜式」においては 大社大名神という高い格を与えられておりました。この「延喜式」に記載された神社 を「延喜式内社」とよんでふ古くから信仰の厚かった由緒のある神社とみなされてい ますが、近江一五五座のうち伊香郡は全国的にみても特に集中して多く当伊香具神社 の大社一の他小社四十五座を数えています。
後に足利尊氏が天下を取った時には特に二百石の領地を捧げ毎年正月、五月、九月の 十八日に国内の無事を祈るための祈祷祭を依頼されました。以後祭儀は今も絶えるこ となく続けられています。

滋賀県伊香郡木之本町大音688 玄松子の記憶

乃彌神社[ノミ]
乎彌神社[おみ]に合祀「臣知人命、梨津臣命 配 海津見命」滋賀県伊香郡余呉町下余呉2053

神前神社[カンサキ]
神前神社[かみさき]「須佐之男命、許勢小柄宿禰命」滋賀県長浜市木之本町石道984 阜嵐健

大澤神社[ヲホサハ]
大澤神社[おおさわ]「澤道彦命 配 大國主命」滋賀県長浜市木之本町黒田1783 玄松子の記憶

天八百列神社[アメヤホツラ]
天八百列神社[あめやおつら]「八瓜入日子王命」滋賀県伊香郡高月町熊野822 神社

乎彌神社[ヲミ]
大見神社[おおみ]「須佐之男命、神功皇后、武内宿禰命」滋賀県長浜市木之本町大見753 玄松子の記憶
春日神社「武甕槌命、素盞嗚命」 滋賀県伊香郡高月町宇根425
乎彌神社[おみ]「臣知人命、梨津臣命 配 海津見命」滋賀県伊香郡余呉町下余呉2055

走落神社[ハシリヲチ]
走落神社[はしりおち]「天兒屋根命」 滋賀県伊香郡高月町馬上1181 神社

足前神社[アシサキ]
北野神社摂社足前神社[はしりおち]「?」滋賀県伊香郡余呉町文室1091 北野神社

久留弥多神社[クルミタ]
賣比多神社に合祀 次の式内比賣多神社に掲載

比賣多神社[ヒメタ]
賣比多神社[めひた]「莵上壬命 合 豐玉姫命、久留彌多神」滋賀県伊香郡高月町東柳野1192 阜嵐健

意波閇神社[イハヘ]
意波閇神社[おわい]「宇迦魂神」滋賀県伊香郡高月町西阿閉278 阜嵐健
意波閇神社[おはへ]「大鷦鷯命」滋賀県伊香郡余呉町坂口290 玄松子の記憶

阿加穂神社[アカホ]
阿加穂神社[あかほ]「豐受比賣命」滋賀県伊香郡木之本町大字赤尾603 神社

櫻市神社[サクライチ] 所在不明


等波神社[トハ]
等波神社[とば]「鳥磐橡樟船尊」
由緒
当社は等波神社と称し祭神は白鳳十三年(西紀六八四年)に神示の奇端を得て鎮座さ れたと伝えられる。
天明七年(西紀一七八七年)に社殿神謇ことごとく類焼し一時御神体を当字里の由常 宮権現社に奉遷したが翌年社殿再興し以後明治の初めには新社殿に常宮現社の祭神仲 哀天皇、神功皇后を合記士現在に至っている。
明治初年村社に列せられ明治四十一年神饌幣帛料供進の社に指定された。
滋賀県伊香郡木之本町田部6-1

横山神社[ヨコヤマ]
横山神社[よこやま]「大山祇大神、岩長比賣命、木花咲屋姫命、椙倉大明神、大音大明神、夷之宮八幡神」滋賀県伊香郡木之本町杉野413 玄松子の記憶
横山神社「大山祇命、少彦名命、泉龍大神」雄大且秀麗なる横山岳の雄峰を神聖視して、神霊の憑るところのものとして崇敬したものと考えられる。
由緒
悠遠なる上代に於て、私達の民族信仰として、雄大且秀麗なる横山岳の雄峰を神聖視 して、神霊の憑るところのものとして崇敬したものと考えられる。 この雄大なる山岳は、標高一、一三二米にして遠く東浅井郡等の各地より遥かに望見 され、而かもその方向より来たる水流の灌漑によって農耕の業を創め、生命を保つを 憶った素朴な農民等がこの山獄を以って神霊的存在として崇拝した事は今も他町の地 に拝所というを伝えその行事によっても想見されるところである。

当社に伝わる記録によると、推古元年(五九二年)ニ月の申の日に、横山五智様子の 滝のほとりの杉の巨樹に神霊の降臨あり、郷人その霊夢による神告に随い、翌年(五 九三年)その杉樹を以って神像を彫刻し、経の滝上に社殿を建立奉祀して、本宮横山 大名神とあがめまつられたのである。
この様にして横山岳の中央の上部に鎮座されて伊香、東浅井両郡の農地を一望にし、 且つ五智様子の飛瀑の懸れる景勝の地に鎮まつられたのも偶然ならずと思考されるの である。

かくて後仏教隆昌の世となり、白谷の馬頭観世音は本地仏として供に崇拝された。  延喜十八年(九一八年)四月十七日神階従四位下に陞され(類聚符宣抄)延長五年 (九二七年)藤原忠平等の勅撰せる延喜式神明帳、伊香郡四十六座のうち横山神社と して登載された。

この地はまた奥美濃に通じる要所である為地頭職が置かれその要所に伊香厚行が任ぜ られ、その守護神としてその祖伊香津臣命を奉祀されたのである。 古今集第八に「いかこのあつゆき」とあるはこの厚行で雅樂頭神祀大副たりしと伝え る。天徳元年(九百五十七年)二月中申の日、時の神主横山将監、本地仏馬頭観世音 を本郡の横山村に遷座する。かくして本宮横山神社出は、山岳の地に鎮座の為、参拝 に難渋するので神慮を伺い、永亨十一年(一四三九年)神主横山五左衛門が本宮を始 め緒神を今の宮の内に遷座したと伝え、又別に伝える処では応永年間(一三九四〜一 四二七年)の遷御なりともいう。 鎌倉時代当国を領した佐々木氏の重臣で、伊香の四家と云われた千田、布施磯野、赤 尾の各氏が子孫の元服式を当社社前に於て行なわれたが、寛政年間に至って絶えたと つたえられる。

明治九年村社に列せされ、明治四十一年神饌幣帛料供進の神社と指定された。境内神 社、二之宮(旧社号山王社)三之宮(旧社号蛭子社)は、永亨十一年本宮横山神社が 現今の社地に遷座ありし際、倶に遷座されたのである。 四の宮については当杉野は従来上組、中組、向組の三組に別れ、それぞれが守護の社 を有し、上組は八幡神社と称し、譽田別尊を祀り、中組は又八幡神社と称し、応神天 皇を祀り、向組は白山神社と称し、伊邪那岐命を祀り来たが、明治四十三年(一九〇 九年)二月二十六日、本社境内神社としてその三殿の祭神を一般に合せて奉祀、四之 宮自づと生ずるに至った。この三つの組には古来より「おこない神事」があって元の 鎮座の食堂にて行われて来た。合併遷座後も元鎮座地に遺る殿舎に御分霊を鎮め奉り 、それぞれ古式による厳粛な「おこない神事」が行われている。
その期日は上組は二月十三日、中組二月八日、向組は二月十五日である。

滋賀県伊香郡高月町横山297-1 神社

多太神社[オホタ] 所在不明


兵主神社[ヒヤウス]
兵主神社「大國主命」滋賀県東浅井郡湖北町高田203
兵主神社「素盞嗚尊」滋賀県伊香郡高月町横山

赤見神社[アカミ]
赤見神社[あかみ]「廣國排武金日命、春日山田皇女」滋賀県長浜市高月町磯野530 阜嵐健

波彌神社[ハミ]
八幡神社[やわた]「波多八代宿禰命、譽田別命、倉稻魂神」滋賀県長浜市木之本町飯之浦511 玄松子の記憶

櫻椅神社[サクラハシ]
櫻椅神社[さくらはし]「須佐之男命、木花開耶姫命、埴安彦命」滋賀県伊香郡高月町東高田363-1

甘櫟前神社[イチヰサキ]
甘櫟前神社[いちいざき]「未餠眷大使主命、菅原道眞」滋賀県伊香郡高月町西阿閉1829 阜嵐健

佐味神社[サミ]
佐味神社「さみ」「豐城入彦命」滋賀県伊香郡余呉町今市339 玄松子の記憶
佐味神社「豐城入彦命」滋賀県伊香郡高月町柏原47

椿神社[ツハキ]
八幡神社飛地境内の椿神社[やわた][つばき]「猿田彦神」滋賀県伊香郡木之本町小山62
八幡神社に合祀「譽田別命、猿田彦命、天照皇大神、大山咋命」滋賀県伊香郡余呉町椿坂132-1 玄松子の記憶

佐波加刀神社[サハカト]
佐波加刀神社[さわかと]「日子坐王、大俣王、小俣王、志夫美宿禰王、沙本毘古王、袁邪本王、佐波遲比賣王、室毘古王」滋賀県伊香郡木之本町川合1277 玄松子の記憶

伊香具坂神社[イカゴクサカ]
伊香具坂神社[いかぐざか]「神速須佐之男命」滋賀県長浜市高月町大字柏原774 阜嵐健
伊香具坂神社「天之種子命、譽田別命」滋賀県伊香郡木之本町北布施塔山3-6

與志漏神社[ヨシロ]
與志漏神社[よしろう]「神速須佐之男命、波多八代宿禰命」波多八代宿禰命は淡海の臣の祖である。滋賀県伊香郡木之本町古橋1102 鎮守

布勢立石神社[フセノ・・]
布勢立石神社[ふせたていし]「意富富柿王神 配 大山咋神」
由緒
当社祭神は布勢氏の祖神にして創立は天武天皇六年と云う延喜式内社にして既に神威 顕著の古社たるを知る。應神天皇の皇孫意富富杼王の喬布勢宿称野勧請なり。 又配祭神は正中二年六月坂本日吉大社の分霊を勧請せしものにして同時に神領神戸を 賜ると云う。本社御垂池の下流に山王田 猿喰田 宮用等関連深き小字名現存す。 中古山王立石権現と称し通称山王様と親しまれ、社地の背後は鬱蒼たる布勢山の神林 深く中腹に古代磐境祭祀の跡と想われる巨磐峻立し布勢立石の社名もここに由来する と考えられる。

当社は祭神の後喬布施(勢)氏の崇敬篤く、社蔵正徳年間の古文書には天台宗養泉寺 との関わり深く、当社おこない神事に同寺の和尚に依る参詣読経、又西山、坂口、千 田、磯野、東物郭、横山、布施等の諸頭神事に参列せし事が記され、御神威の広きに 及びし事が窺える、又文化元年六月氏人等社殿を新たに造営せんと計り社地の広狭を 論争して破談せしに、一夜社地頻りに鳴動し現社殿の横より多くの土砂崩出して止ら ず、氏人等大いに畏怖し宮に上申するに当時の領主井伊候是正に神意の致すわざ也と 金一封を献納し直ちに造営の事を奨め此の業を扶けたと伝う。

現在の社殿は此の時の造営にして、当時赤尾、北布施、布施三ケ村野総社たりしも布 施(年暦不詳)北布施(明治八年)赤尾本郷(明治四十三年)それぞれ分離し現在は 田居前郷のみにて護持する、明治九年村社に列っせられた。

滋賀県長浜市木之本町赤尾字田居間谷793 阜嵐健

乃伎多神社[ノキタ]
乃伎多神社[のぎた]「譽田別命、天造日女命」滋賀県伊香郡高月町東阿閉1094 乃伎多神社 薬師堂
乃伎多神社「味饒田命」物部氏の色濃い地域である。滋賀県伊香郡高月町東物部850

石作神社[イシツクリ]
石作玉作神社[いしつくりたまつくり]「天火明命、玉祖命」石作部玉作部は古墳祭祀で結びつく。滋賀県伊香郡木之本町千田793 

玉作神社[タマツクリ]
石作玉作神社 前掲

意富布良神社[イフフラ]
意富布良神社[おおふら]「建速須佐之男命 配 梨迹臣命」滋賀県伊香郡木之本町木之本488

伊波太岐神社[イハタキ]
伊波太岐神社[いわたき]「保食神、伊弉諾尊」滋賀県伊香郡木之本町古橋2 神社

高野神社[タカノ]
高野神社[たかの]「大名草彦命、大山咋命」滋賀県伊香郡高月町高野297

練日古神社[エレヒコ]
鉛練比古神社[えれひこ]「大山咋大神、天日桙命」山王宮は中世の勧請。余呉湖を望む景勝の地に鎮座。滋賀県伊香郡余呉町中之郷108

大椋神社[オホクラ]所在不明


黒田神社[クロタ]
黒田神社[くろだ]「大己貴命、黒田大連」
由緒
当社は観明天皇の御宇(五四〇年)の創始と伝えられる。 和銅年間(七一〇年)黒田士大連此地に繁栄し郷名を黒田郷と称しその一族奉祀に係 り森崎黒田大名神とあがめ黒田五郷の総社で延喜の制定されるや国幣の小社に列せら れた名社である。

 当社は住昔しばしば兵燹に羅り承久の乱(一二二一年)で社殿焼失し続いて元亀の 頃(一五六〇年)股しても兵乱の為降つて天正十一年(一五七六年)賊ケ岳の戦火で 余燼は神殿社宝をも鳥有に帰し再建の事ならず隣郷の大澤神社に合祀奉斎されてきた が明治九年氏子の念願稔り元の社地に再建遷座された。

かつて近江源氏と称した佐々木源三秀義公の後胤黒田左衛門慰太夫伴官源宗清公当地 を領し姓を地名よりとつて黒田氏と称し七世に及びその間当神社を氏神として崇敬篤 く献進が寄せられた。

滋賀県伊香郡木之本町黒田1697 玄松子の記憶

丹生神社2座[ニフ]
丹生神社[にゅう]「彌都波能賣命、丹生都比賣命」天武天皇御代、丹生真人が丹保野山に神籬を儲け山土と丹生川の清水を沿えて天津神を祀り、天平年間に社殿をい創建したと言う。丹生真人は息長氏の一族である。滋賀県伊香郡余呉町上丹生378
丹生神社「高神、丹生都姫命」滋賀県伊香郡余呉町下丹生1087

神高槻神社[カムタカツキ]
神高槻神社[かみたかつき]「天兒屋根命、高額比賣命」滋賀県伊香郡高月町高月1 神社

天岩門別命神社[アメイハカト]
森本神社[もりもと]「雨之石門別命、大將軍神」滋賀県伊香郡高月町森本83

天比比岐命神社[アメヒヒキ]
高野神社摂社天比比岐命神社[あまひびきのみこと]「天比比岐命」滋賀県伊香郡高月町高野297

草岡神社[クサヲカ]
草岡神社[くさおか]「高御産巣日神、神御産巣日神、日子坐王命、菅原道眞」
由緒
天照大御神の御旨のまにまに、神籬の神勅、天壌の神勅を相議りて御授けになり、す べて生命ある万有を生成化育することを御導きになりました。また、むすび(産霊) の御霊力を祟びまつり、背後の山を産霊山と申し、あまつかみ(天神)と申し上げた 。つぎに、国造本紀に「淡海の国造は日子坐王命」とあり、姓民録には「開化天皇第 三王子彦坐王命」とあり、丹波国より淡海国造となられ余呉の庄の荒廃したるを御覧 になり、当地区の開拓、殖産に多大の御盡力になり御神徳を讃え、当社に奉祀御祖神 としてあまねく祟敬せらる。

今に尚五ケ郷の一宮的存在であるのも故あることなり。住昔、神功皇后敦賀街道御通 行の御時、武内宿禰御参詣奉尊され、それよりますます北国街道御通過の折には官民 祈願多くなれり。又今から千余年前、村上天皇天暦元年御神威御真徳のあやかり、浦 安の国(郷)でありますよう菅原道真公を奉齊することになって、「天満天神」とよ び祟拝されるようになれり。明治三年五月、旧領主飯野藩の命で昔の通り「草岡神社 」とよぶようになり今市(村)に遥拝地として弐畝拾七歩賜わる。明治九年(一八七 六年)十月村社、同十七年(一九〇八年)四月二十九日郷社、並幣帛供進社として指定される。

滋賀県伊香郡余呉町国安52 玄松子の記憶

意太神社[イタ]
伊香具神社摂社[おぶと]「加具土神」滋賀県伊香郡木之本町大音688 玄松子の記憶

大浴神社[ヲホアミ]
太水別神社[おおみずわけ]摂社大浴神社「?」滋賀県伊香郡余呉町池原603 玄松子の記憶
大浴神社[おおあみ]「天照皇大神、武甕槌大神、鹽槌翁大神」滋賀県伊香郡高月町重則118 阜嵐健
八幡神社「應神天皇」 滋賀県伊香郡高月町西柳野473

太水別神社[ヲホミツワケ]
太水別神社[おおみずわけ]「天之水分命」 滋賀県伊香郡余呉町池原603
水分神社[みずわけ]「天之水分命」 滋賀県伊香郡木之本町川合1238 玄松子の記憶
大表神社[おおもて]「應神天皇」 滋賀県伊香郡高月町柳野中48

天川命神社[アマツカハ]
天川命神社[あまがわのみこと]「光嚴天皇、津速産靈神、武乳速命、天相命、興登魂命 全51神」滋賀県伊香郡高月町雨森1185
北野神社「菅原道眞」 滋賀県伊香郡余呉町文室アマス川1091


高嶋郡[タカシマ]:34座 大2小32

水尾神社2座[ミヲ](並名神大、月次新甞)
水尾神社[みお]河南社「磐衝別命」 水尾神社河北社「振姫命」磐衝別命は垂仁天皇の第十皇子、振姫命は継体天皇の御母君。また江戸中期には南を猿田彦命、北を天細女命と記されていた。この神社には「秀真伝」と言う謎の古文書が伝えられている。
由緒
水尾神社は水尾川(今の和田内川)を隔てて河南(かうなみ)社と河北(かうほく) 社(現在は河南社境内に遷座)の二社有り、河南社本殿の御祭神は人皇十一代垂仁天 皇の第十皇子磐衝別命。また河北社本殿の御祭神は人皇二十六代継体天皇の御母君振 姫命であります。

磐衝別王は猿田彦命の天成神道を学ぶため猿田彦を祀る当地に来住され、朝夕猿田彦 命を祀る三尾大明神(今の永田村の永田神社)を遥拝されたので、この地を拝戸と称 し、その御住居を土地の人は拝戸御所と云っていました。
磐衝別王は当地で亡くなったので、その御子の磐城別王は背後の三尾山の中腹杣山に 葬り、父君を奉斎する水尾神社を当地に創建されました。

それから約百年後に、人皇十五代応神天皇の第十一皇子速総別王も天成神道を学ぶた め拝戸に来住されて、その四世の孫彦主人王は磐城別王の五世の孫振姫を迎えて妃と し、振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安 産されました。太迹部王は後の人皇二十六代継体天皇であります。

河北社は三児出産の時、父の彦主人王が北の仮社を建てて北極星に安産を祈られた仮 社跡に、天迹部王が両親を奉祀する三重生大明神を創建されたもので、後年これが河 北社として比ME神(振姫命)のみを祀る社となりました。 以上
(注)文中のMEは「口」偏に「羊」です。

滋賀県高島郡高島町拝戸716

阿志都彌神社[アシトミ]
阿志都弥行過天満宮[あしづみゆきすぎ]「木花咲耶姫命、菅原道眞」神代の昔、この幽邃な霊地に神気を感じて、葦津姫命を勧請して阿志都弥(あしつひめ)大明神と称したことに始まる。
由緒
・当宮は神代の昔、この幽邃な霊地に神気を感じて、葦津姫命を勧請して阿志都弥( あしつひめ)大明神と称したことに始まり、延喜式内の名社で国弊社として祀られ上 野山大社、櫻花大明神とも称されています。日本書紀によりますと木花咲耶姫命(葦 津姫命)が、天甜酒を醸された御事蹟が登載され、又、推古天皇三十年に新羅征伐副 将軍の近江脚身臣が当地に住んで崇敬したお社であります。
御神徳の高い願望成就の神様として広く信仰を集めています。

・天満宮の御祭神菅原道真公は、陽成天皇元慶七年に加賀国(石川県)の国守に任命 せられて、御赴任の途中に本社「阿志都弥大明神」に御参詣になって、御詠吟などせ られて過ぎ行かれた由縁によって、公の御曾孫菅原大輔正朝臣が行過天満大神と称し て、長徳四年八月五日に勧請建立になったのであります。尓來善積郷の総社として上 野山大社、上野山天満宮、桜花大明神とも称されています。

建久二年三月十五日に海津村神尾山(海津天神社)へ当宮各社の御分霊に道真公直筆 の十六禅神、法華経等を添えて分社として遷宮したと伝えてられています。慶応二年 四月五日神祇道菅領ト部朝臣良義より善積惣社号の神宜を受けました。学問芸術、厄 除健康等神威顕著な神様として崇敬されています。
脇神 福禄寿天様は七福神の一つで、福徳、禄徳、寿徳を備えた霊験あらたかな方で ありまして「七福神めぐり」に各地より参詣があります。

・当宮は古来より善積郷八部落神社の総社として全部落の住民を崇敬者とし毎年四月 の例大祭には各部落より出動した人によって神輿を担いで御旅所の住吉神社で祭典を して南浜まで渡御をしましたが、現在は弘川、宮西、中野の氏子によって担いでいま す。

倭名類聚妙に登載された当郷社附属の八部落各神社は、白山神社(南生見)、熊野神 社(蘭生)、白山・降宮神社(上弘部)、日吉神社(下弘部)、八雲神社(大供)、 日枝・大水別神社(南浜)、住吉神社(中浜)、小海・大浜神社(南新保)でありま す。

皇室との御関係については天智天皇が志賀に都をお定めになられた以後、毎年当地産 物の烏瓜の根を献上し又、刈安と言う草を、天皇御衣の黄色染料の原料として奉納し ていましたが、戦乱が続いたので廃絶しましたが、毎年四月の例大祭には必ず烏瓜の 根を献じています。又御宝祚永世御祈祷の命を奉しましたので、以来毎年九月に当宮 の御神璽に生栗一籠(約二升)を添えて献上しておりましたので、天皇の御撫物を当 宮に御神納になり、毎年九月に新旧御取替になりました。その時金二両の御下賜があ り、当宮の神璽を献上しておりましたが、明治四十年命達により廃止になりました。

武家の崇敬については足利三代将軍義満より朱印地(神田七町歩)を寄せられたが、 後織田信長の兄の子信澄が没収しました、憎むべきことであります。文禄二年以来毎 年金沢城主前田家代々参詣になり、大祭には幣帛両(白銀五枚)の奉納がありました 。元治元年松平筑前守慶寧が参詣以来毎年藩主が、又慶応元年大聖寺藩主松平飛騨守 鬯侯の参詣以来毎年藩主が必ず参詣して幣帛料を奉納しました。文久二年十月大溝藩 主分部若狭守光貞侯の参詣以来毎年大溝藩主の参詣がありました。

滋賀県高島市今津町弘川1707-1 玄松子の記憶
阿志都彌神社[あしずみ]「嶋津彦命」もと嘉茂大明神と称され、賀茂別雷神も祭神に加え、京都の両賀茂社より古い元賀茂とする口碑がある。これは秀真伝の記述に基づく。滋賀県高島市安曇川町川島615-1

與呂伎神社[ヨロキ]
日吉神社摂社与呂伎神社[よろぎ]「子守神」滋賀県高島市安曇川町青柳944
日吉神社「瓊瓊杵尊」 滋賀県高島市安曇川町西万木783-1 玄松子の記憶
日吉神社飛地摂社の今宮神社「大山咋神」滋賀県高島市安曇川町西万木783 玄松子の記憶

田部神社[タヘ]
津野神社摂社田部神社[つのう][・・]「?」滋賀県高島郡今津町北柳木316-1 玄松子の記憶
佐田神社[さた]「佐田彦命」 滋賀県高島郡安曇川町田中字馬場2616 玄松子

熊野神社[クマノ]
熊野神社「熊野久須毘命」 滋賀県高島郡今津町藺生742 玄松子の記憶
波爾布神社[はにふ]摂社熊野神社「熊野久須比命」
波爾布神社 由緒
創立は奈良時代である。当社の縁起書によると、初め水神彌都波乃売命を勧請したと ある。
延喜式記載の式内社であり、旧饗庭村全域と旧新儀村の安養寺・新町・井ノ口が氏子 である。

かつては土生(はぶ)大明神(俗称”土生さん”)と称していた。これは、神社の所 在地が土生谷であるのでこの名がついたと思われる。いずれにしても、この地の山や 水を神として祀ったものである。

聖武天皇の御宇、井出左大臣橘諸兄公が当社を尊崇して、天平十三年三月神輿一基、 神供田二町歩を寄進した。今も栗屋田(御厨屋)の小字名が残っている。醍醐天皇の 元弘年間に至るまで、高島郡北部の大社として隆盛を極めた。寛治二年(1088) 五月には、奥羽征討使鎮守将軍源義家が当社に祈願し、弓一張、箭二筋を奉納した。 しかし、その後、天下の擾乱によって神領を掠奪され、二百余年間修理することもな く社殿は荒廃した。

明応五年(1496年)四月、後土御門天皇の聖旨をもって社殿は再建され神領も復 古した。元亀天正の兵乱により神領は再び没収されたが、元和十年(1624年)再 建された。正保三年(1646年)領主酒井忠勝が修理を加えた。この社殿は江戸時 代前期のものであり、新旭町に現存する建物としては最古のものである。明治九年郷 社に列せられた。

 滋賀県高島郡新旭町饗庭3363 玄松子の記憶
熊野神社「伊邪那岐命、伊邪那美命」 物部氏の同族熊野連が祖先を祀ったとされ味饒田命、饒速日命を祭神とする説がある。滋賀県高島郡安曇川町上古賀1391 玄松子の記憶

箕嶋神社[ミシマ]
箕島神社[みしま]「事代主命」 滋賀県高島郡安曇川町三尾里558

大川神社[ヲホカハ]
唐崎神社[からさき]「瀬織津比、速開都比、速佐須良比」川裾宮。滋賀県高島郡マキノ町知内924 玄松子の記憶
唐崎神社摂社大川神社[おおかわ]「大宮女神」滋賀県高島郡マキノ町知内924 阜嵐健
日吉神社境外摂社の大川神社「?」 滋賀県高島郡朽木村生杉 玄松子の記憶

小野神社[ヲノ]
海津天神社摂社小野神社[かいづてんじん][おの]「天押帶日子命」
由緒
海津天神社は学問の神様である天神様を御本社としてお祀りし古くより此の地方一帯 の守護神として皇室を始め将軍家や諸大名や又其他広く一般の人々から深く信仰され 往古は社領百三十石の勅願所でありましたが織田信長の兵火に逢い社殿棲門等焼失し 社領は没収せられました。

其の後朝廷より毎年正月五月九月の三季に国家安全の御祈祷を仰せつけられ其の都度 大麻を献上して大典侍御局より御初穂金弐両づつ計六両毎年奉納せられましたが明治 維新に至り宮内省御取次となり明治五年廃止となりました。

豊臣秀吉公より天正十三年十一月に七石翌十四年一月十六日に五石計十二石御寄進が あり又徳川三代将軍家光公より慶安元年二月二十四日に御朱印十石を賜り境内山林竹 木諸役を免除せられ以後歴代御朱印を賜りその御朱印状は現在も残っています。四代 将軍家綱公が江戸西丸に御移徒の際安藤右京進松平出雲守御取次で国家安全の御祈祷 仰せつけられ大麻を献上して翌年御自服を拝領しています。

旧領主柳沢甲斐守より領分高島浅井両郡安全の御祈祷を又前田加賀守よりも武運長久 子孫繁栄の御祈祷を命ぜられそれぞれ毎年大麻を収めています。

天保五年七月柳沢侯より武運長久五殻成就の御祈祷を乞い御初穂金子五両を奉納され ました前田侯は此地通行の際は必ず当神社に参詣し其の都度白銀五枚を奉納し元治元 年七月前田慶寧病気の際は其の全快を祈らしめ御初穂白銀五枚を奉納されました。 天正四年四月高島郡司磯野丹波守が本殿を寄進し慶長十九年三月代官白崎良純が拝殿 を寄進されましたが現在の拝殿は昭和四十三年改築しています。
宝永三年大鳥居を建立し分政十年社壇を再建しました。

当地海津は北陸より京阪に通ずる水陸交通の要処であり通行の諸大名や各地の船仲間 等が旅行の安全を祈願する者多く明治十四年郷社に列し同二十四年三月内務省より古 社保存資金を下附せられ大正四年四月神饌幣帛供進社に指定せられました。

滋賀県高島郡マキノ町海津1253-2
市杵島神社[いちきしま]末社小野神社「?」 滋賀県高島郡朽木村大野161 玄松子の記憶

麻知神社[マチ]
日枝神社[ひえ]「大山咋命 配 櫛眞智命」滋賀県高島市マキノ町蛭口1487-1 玄松子の記憶m
五社神社[ごしゃ]「紀角宿彌命、角凝魂命、武内大臣」 滋賀県高島市今津町福岡147 玄松子の記憶

櫟原神社[イチヒハラ]
櫟原神社[いちはら]「天照大神、豐受大神」 滋賀県高島市今津町桂626 玄松子の記憶
檪神社[いちい]「罔象女神、片岡神」 滋賀県高島市安曇川町南古賀558 玄松子の記憶

大田神社[ヲホタ]
大田神社[おおた]「大年神、菅原道眞 合 天津久米命」延歴の頃、豪族大伴氏の子孫大田宿弥の末孫が、この土地に移住し土地を拓き、大伴氏の祖神「天押日命」をまつったのが創始であるという。
由緒
当社の創立は明らかではないが、社伝によると延歴の頃、豪族大伴氏の子孫大田宿弥 の末孫が、この土地に移住し土地を拓き、大伴氏の祖神「天押日命」をまつったのが 始めであるという。
すなわち嵯峨天皇の弘仁元年四月十一日、大伴福美磨と河行紀との建立である。 後に美作国(岡山県)佐良山から久米氏の一族が来住すると、その祖神「天津久米命 」を摂社として来目社(後の若宮神社)と称へ蒲生に奉祀した。又「猿田彦大神」を まつったともいう。
当社は延喜制に定められた小社に列せられたいわゆる式内社である。
亀山天皇の文永元年六月一日(昭和五十二年より六百十六年前)に本殿を改築した。 この時の御祭神は「六所(りくしょ)大明神」である。
菅原道眞行は應永三十一年九月二十五日に沙門明了比が、京都北野天満宮の管理者で ある曼殊院法親王の令旨によって勧請した。
吉野時代には相当に信仰圏も確立し、時代の優秀な石造建築の灯籠等も献納され、後 奈良天皇の永正年中には新庄城將の浅見対馬守から太刀が一振、天文十三年には同多 胡新兵衛から唐鞍壱具が、又同人及び饗庭対馬守入道覺音から鰐口壱個、文禄四年九 月には栗太郡青地城主一弘より武運長久の祈願文と社領拾貫文が寄進された。 後西天皇の皇女林丘寺宮栄内親王より、「天満宮」の御揮毫が下賜された。 元禄十五年二月菅公八百年の万灯祭には、京都在住の氏子の歌人青地慶安は、門弟の 赤穂義士小野寺十内夫妻等と共に、神祇和歌一巻きを献納、又西洞院大納言田中左近 は剣一腰を奉納した。
享保三年より翌年十二月に本殿及び境内末社・四社を、同じく十七年には拜殿を改築 した。現在の社殿はこれである。
寛政五年十二月宮中五条殿の御取持にて、曼殊院竹内宮(門跡)の直轄に属し、御書 ・絵符等を使用することが許された。
文政十二年三月菅公神忌九百年齋行、同年氏子坂江吉右衛門、京都杉浦三郎兵衛より 絵馬殿一棟及び神馬の絵馬一面を、奉納される。
天保年中に大溝藩主分部光寧公参拜の上、幣物奉奠せらる。 
嘉永五年神忌九百五十年祭を齋行、この年に本殿と拜殿との間に渡廊下を建設する。
明治元年従来の「天満宮」の名称を、延喜式内社の確定により「大田神社」と旧称に 復する。
明治六年正徳元年より宮衆(宮座)による神社運営を廃止して、専任の神職を選出す る。
明治九年村社に列せられる。
明治十八年三月十八日摂社若宮神社を本社へ合祀する。
明治三十五年菅公神忌千年祭万灯祭を齋行する。奉賛会を「東風会」と称して、会長 に祭神の後東坊城徳長をいただく。
小松宮彰仁親王より、社号「大田神社」に御染筆を下賜せらる。現在の鳥居の額の文 字はこれである。
英照皇太后(孝明天皇の后)の御物扇子一握を、元千種権典侍内の中條並浪子より奉 納される。祭器庫土藏一棟を新築する。
大正四年五月従来の木造両部大鳥居を、石造明神鳥居に改む。
大正十二年菅公御鎮座五百年祭を執行する。
昭和四年二月社務所を新築する。
昭和四年二月九日神饌幣帛供進社に指定される。
昭和二十七年三月菅公神忌千五十年祭万灯祭齋行する。
昭和三十七年三月児童遊園地を造成する。
昭和三十九年十二月十五日、大田護国社を創建する。
昭和五十年十一月菅公御鎮座五百五十年祭を齋行する。同時に神輿庫の改築及び社務 所を改造する。
昭和五十二年十一月神忌千七十五年祭半万灯祭を齋行する。
滋賀県高島郡新旭町太田1468
日吉神社摂社太田神社[おおた]「太田神」 
日吉神社 由緒
本社の主神阿夜加志古泥神、市寸嶋比賣命、橘比賣命
・創祀年代は不詳であるが、社記によると「祭日は四月初辰の日で合ったが明治初年 より五月十五日となった」とある。
・大正六年神饌幣帛料供進社に指定。
・昭和九年室戸台風により本社の拝殿と境内社太田神社、与呂 神社倒壊、翌年二社 を再建。昭和四十年拝殿再建、更に同五十年境内社三社を改築と共に、太田神社参道 と一氏子の浄財により整地完了。祭礼は五月十五日(五月一日)。
・境内神社(4)太田神社の境内地の一部は国道161号バイパス計画により国土庁 が強制買上(中央部)に伴い、昭和六十年五月建物(覆屋等)新築し玉垣を新 。( 引続き各社補修工事と共に)
・天皇御在住昭和六十年の記念事業の一環として本社の老朽木造の天鳥居を石造大鳥 居に改築。(昭和六十一年十一月吉日竣工)
滋賀県高島郡安曇川町青柳944

鞆結神社[トモユヒ]
大荒比古神社鞆結神社[おおあらひこともゆい]「豐城入彦命、須勢理比女命、大荒田別命、大己貴命、譽田別命」大荒比古神社と文保年間合祀された。鞆結神社の祭神を天忍日命、譽田別命とする記録がある。滋賀県高島市マキノ町浦627 玄松子の記憶
八幡神社「譽田別命」 滋賀県高島郡マキノ町石庭577 玄松子の記憶
若宮神社摂社鞆結神社「應神天皇」 滋賀県高島郡高島町武曽横山1043-1

日置神社[ヒヲキ]
日置神社[ひおき]「素盞嗚命 日置宿禰 稻田姫命 武甕槌命 天櫛耳命 大國主命」 滋賀県高島郡今津町酒波855 玄松子の記憶
大處神社摂社酒波神社[おおところ][さかなみ]「素盞嗚尊」滋賀県高島郡マキノ町森西175 玄松子の記憶

津野神社[ツノ]
津野神社[つの]「孝元天皇、紀角宿彌命、武内大臣」滋賀県高島郡今津町北仰316-1 玄松子の記憶
津野神社「大國主命、武内宿禰命」 滋賀県高島郡今津町角川95 玄松子の記憶

大荒比古神社2座[オホアラヒコ]
大荒比古神社鞆結神社 式内鞆結神社に掲載済み
大荒比古神社[おおあらひこ]「大荒田別命、豐城入彦命」
由緒
神社の草創は不詳であるが、今より約1200年前、寛平元年(889年)までの祭 神は豊城入彦命と大荒田別命の二柱であった。豊城入彦命は、崇神天皇の皇子で、そ の四世孫が大荒田別命である。大荒田別命は大野氏の祖である。相殿に配祀の四座は 、佐々木信綱の子、高信が比叡谷城にあった嘉禎元年(1235年)本領佐々木にお ける累代奉祀の四神を当社に合祀し(この時代を河内大明神と称す)地主権現とした 。兵火のため、社殿灰燼になったが、天正二年(1574年)社殿を再建。天保三年 (1647年)領主小浜侯酒井忠勝は社殿及び神輿を修理した。文化七年(1810 年)現在の社殿建立、明治十六年郷社に列せられ、大正三年現在の位置へ改築。また 鳥居は明治十七年建立、昭和三十一年現在の石造鳥居を建立した。
滋賀県高島市新旭町安井川844 玄松子の記憶

大前神社[ヲホサキ]
海津天神社摂社大前神社[おおさき]「素戔嗚命」滋賀県高島市マキノ町海津1253-2 玄松子の記憶

坂本神社[サカモト]
坂本神社[さかもと]「木角宿禰」滋賀県高島市マキノ町上開田609-2 玄松子の記憶

大處神社[オホトコロ]
大處神社[おおところ]「大地主命」 滋賀県高島郡マキノ町森西175 玄松子の記憶

麻希神社[マケ]
山神社[さん]「大山祇命」 滋賀県高島市マキノ町牧野625 玄松子の記憶

弓削神社[ユゲ]
弓削神社[ゆげ]「應神天皇」 滋賀県高島郡今津町梅原1054 玄松子の記憶

志呂志神社[シロシ]
志呂志神社[しろし]「牛頭天王」 滋賀県高島郡高島町鴨2276

布神社[ハニフ]
波爾布神社[はにふ]「彌都波乃賣命、波爾山比賣命」
由緒
創立は奈良時代である。当社の縁起書によると、初め水神彌都波乃売命を勧請したと ある。
延喜式記載の式内社であり、旧饗庭村全域と旧新儀村の安養寺・新町・井ノ口が氏子 である。

かつては土生(はぶ)大明神(俗称”土生さん”)と称していた。これは、神社の所 在地が土生谷であるのでこの名がついたと思われる。いずれにしても、この地の山や 水を神として祀ったものである。

聖武天皇の御宇、井出左大臣橘諸兄公が当社を尊崇して、天平十三年三月神輿一基、 神供田二町歩を寄進した。今も栗屋田(御厨屋)の小字名が残っている。醍醐天皇の 元弘年間に至るまで、高島郡北部の大社として隆盛を極めた。寛治二年(1088) 五月には、奥羽征討使鎮守将軍源義家が当社に祈願し、弓一張、箭二筋を奉納した。 しかし、その後、天下の擾乱によって神領を掠奪され、二百余年間修理することもな く社殿は荒廃した。

明応五年(1496年)四月、後土御門天皇の聖旨をもって社殿は再建され神領も復 古した。元亀天正の兵乱により神領は再び没収されたが、元和十年(1624年)再 建された。正保三年(1646年)領主酒井忠勝が修理を加えた。この社殿は江戸時 代前期のものであり、新旭町に現存する建物としては最古のものである。明治九年郷 社に列せられた。

滋賀県高島郡新旭町饗庭3363 玄松子の記憶

大水別神社[ヲホミツワケ]
日枝大水別神社[ひえおおみくまり]「邇邇藝命、天水別神」滋賀県高島市今津町今津南浜14-2 玄松子の記憶
日吉神社摂社与呂伎神社[よろぎ]「子守神」滋賀県高島市安曇川町青柳944 玄松子の記憶

大野神社[ヲホノ]
日吉神社「大山咋神」 滋賀県高島郡マキノ町大沼178 玄松子の記憶
日枝大水別神社 式内大水別神社に掲載済み
市杵島神社摂社大野神社「?」滋賀県高島郡朽木村大野161 玄松子の記憶

小海神社[ヲウミ]
小海神社[こうみ]「倉稻魂命」 滋賀県高島郡今津町南新保362 玄松子の記憶
白山神社「大山祇命、伊弉諾尊」 滋賀県高島郡今津町北生見215 玄松子の記憶
阿志都彌行過天摂社白山神社「伊弉諾尊、伊弉那岐命」 滋賀高島郡今津町弘川1707-1 月の光
日枝神社「大山咋神」 滋賀県高島郡マキノ町中庄432 玄松子の記憶

大寸神社[オホネ]
森神社「八衢比古神、八衢比賣神、久那戸神」
由緒
至徳二年(1385年)大和国より勧請して産土神として奉祀。以来道祖神と称して いたが、明治元年(1868年)に現在の社号に改められた。明治九年村社に指定、 大正十四年神饌幣帛料供進に指定された。
明和元年(1764年)よりのことを書いた「森村永代年表記」によると寛政四年( 1792年)本殿再建・文化五年(1808年)正面石垣造営・慶応二年(1886 年)拝殿再建・明治十年(1877年)鳥居建立とあり、屋根の葺替えは明治四年よ り十年毎に行われている。
 滋賀県高島郡新旭町森1156 玄松子の記憶

荒椋神社[アラクラ]所在不明


三重生神社2座[ミエフ]
三重生神社[みおう]「彦主人王 配 振媛」継体天皇擁立の影の立役者であった三尾君の本拠地であった。ただ三尾氏と息長氏との系譜関係は見当たらないのは古代史の謎のひとつである。
滋賀県高島郡安曇川町常盤木1239

槻神社[ツキ] 所在不明


長田神社[ナカタ]
長田神社[ながた]「?」 滋賀県高島郡高島町永田1203

宇伎多神社[ウキタ]
宇伎多神社[うきた]「八重事代主神」 滋賀県高島郡高島町野田501
稲荷神社「?」 滋賀県高島郡安曇川町田中横井川
横林神社「?」滋賀県高島郡高島町武曽横山


<平24.1.18

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