石坐神社
滋賀県大津市西の庄15-16 mapfan

鳥居


交通案内
京阪錦駅 北東 500m


祭神
 彦坐王命、天命開別尊、弘文天皇、伊賀采女宅子媛命
 合祀 海津見神、豐玉比古命
 摂社 弁財天稲荷社「市杵嶋姫命 配祀 宇賀御魂命 」

社殿


由緒

 近世には八大竜王とか高木宮と呼ばれていたが、明治に入り延喜式神名帳記載の近江国滋賀郡の石坐神社に比定され、社名を改めた。「イハイノ」、「イハクラ」の訓も見え、磐座信仰の性格もあったのだろう。
 天智天皇の時代、音羽山系の御霊殿山(御竜燈山)に天降った八大竜王(豊玉比古神)を祀ったのを創祀とし、持統天皇の時代、山下の石神に遷座、文永三年(1266)本殿が当地に建設され、遷座したと言う。
 創祀時には御霊殿山の巨岩に神籬を作って自然神道的な祭祀をしたと伝える。

本殿


お姿
 現在の鎮座智は旧東海道筋の南側で全くの平地に当たるというか、後は高台となっている。
 巨木となった楠木が目立つが、磐座信仰の気配は社名のみ。
 本殿は三間社流造の檜皮葺、県指定文化財。本殿内には祭神の神像四体は国の重要文化財。


お祭り
  5月 3日 例祭  8月第1日曜日 虫干し麦湯祭

平成祭礼データから

由緒
人皇四十一代持統天皇の朱鳥元年五月朔日一条院尊良粟津郷王の林の広庭に社殿を造 営し正霊天王社と称し奉斉す是当神社の草創なり
光仁天皇宝亀四年十二月三日正一位勲一等の神階を贈り賜ひ鎮護国家之神也と御勅宣 あり同五年十二月三日勅祭を行なはせ給ふ
建久三年源頼朝上洛の途次当社に参拝し武運長久を祈願し神領の寄進あり

正治元年三月佐々木信綱神殿を再建し神輿一基名刀神鏡の寄進あり 建保二年社殿再 営の事あり左近衛中将藤原資平を勅使として参向せしめ給ふ 亀山天皇文永三年八月 二十九日神主佐々木守安社殿を湖辺に遷し更に造営す今の社殿是れなり(今を去る六 百五十有余年前)

弘安年間皇子御不例にて医療効なく因つて当社に御祈願あり之を占はしめらるに大鯉 魚を捕へ御病床に供ふべしと時に志賀之郡南郷の住人青山藤右衛門と云ふ人高木崎に 大綱を曳き目下二尺三寸の鯉魚を獲たり之を献ずるに皇子御脳平癒したれば勅使を遣 はせ給ひ奉幣あらせらる左大臣三条実房公より八大龍王宮の扁額の寄進あり文和三年 後光厳院帝近江巡行の砌り幣帛及び菊桐御紋章の御戸帳の御下賜あり
永正元年閏三月十七日佐々木定頼神輿を再営し祭器の寄進あり

慶長五年関ケ原の役に大阪方の大軍来りて神域に陣し敗軍に及んで社頭に火を放つ時 に祀宇は災を免れたるも上古より伝はれる古記録宝物焼失す慶長六年徳川氏大津城を 膳所に移し戸田左門一西を封す一西厚く当社を崇敬し神田高五石田一段歩を寄進し神 域の大修補をなす寛永五年菅沼定芳膳所城に封せられ雨乞祭を修し霊験を得て社傍に 石造玉垣の寄附あり寛永十三年石川忠俊膳所城に封せられ拝殿御倉の寄進あり慶安五 年本多俊次膳所城に封せられ社領高五石神田一段歩合米三石六斗五升五合の寄附あり 爾来代替りに黒印改めあり先規により寄進せらる当社は古来数兵火の災ありて古の大 社の規模を失へるも武門武将の崇敬厚く神領の寄附を以て四時の祭祀を奉仕せしなり

  『寺院神社大辞典 近江・若狭・越前』、『平成祭礼データ』

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