平成祭礼データから
由緒
人皇四十一代持統天皇の朱鳥元年五月朔日一条院尊良粟津郷王の林の広庭に社殿を造 営し正霊天王社と称し奉斉す是当神社の草創なり
光仁天皇宝亀四年十二月三日正一位勲一等の神階を贈り賜ひ鎮護国家之神也と御勅宣 あり同五年十二月三日勅祭を行なはせ給ふ
建久三年源頼朝上洛の途次当社に参拝し武運長久を祈願し神領の寄進あり
正治元年三月佐々木信綱神殿を再建し神輿一基名刀神鏡の寄進あり 建保二年社殿再 営の事あり左近衛中将藤原資平を勅使として参向せしめ給ふ 亀山天皇文永三年八月
二十九日神主佐々木守安社殿を湖辺に遷し更に造営す今の社殿是れなり(今を去る六 百五十有余年前)
弘安年間皇子御不例にて医療効なく因つて当社に御祈願あり之を占はしめらるに大鯉 魚を捕へ御病床に供ふべしと時に志賀之郡南郷の住人青山藤右衛門と云ふ人高木崎に
大綱を曳き目下二尺三寸の鯉魚を獲たり之を献ずるに皇子御脳平癒したれば勅使を遣 はせ給ひ奉幣あらせらる左大臣三条実房公より八大龍王宮の扁額の寄進あり文和三年
後光厳院帝近江巡行の砌り幣帛及び菊桐御紋章の御戸帳の御下賜あり
永正元年閏三月十七日佐々木定頼神輿を再営し祭器の寄進あり
慶長五年関ケ原の役に大阪方の大軍来りて神域に陣し敗軍に及んで社頭に火を放つ時 に祀宇は災を免れたるも上古より伝はれる古記録宝物焼失す慶長六年徳川氏大津城を
膳所に移し戸田左門一西を封す一西厚く当社を崇敬し神田高五石田一段歩を寄進し神 域の大修補をなす寛永五年菅沼定芳膳所城に封せられ雨乞祭を修し霊験を得て社傍に
石造玉垣の寄附あり寛永十三年石川忠俊膳所城に封せられ拝殿御倉の寄進あり慶安五 年本多俊次膳所城に封せられ社領高五石神田一段歩合米三石六斗五升五合の寄附あり
爾来代替りに黒印改めあり先規により寄進せらる当社は古来数兵火の災ありて古の大 社の規模を失へるも武門武将の崇敬厚く神領の寄附を以て四時の祭祀を奉仕せしなり |