水尾神社
滋賀県高島市高島町拜戸716 mapfan
鳥居
交通案内
JR湖西線高島駅 北北西2.5km
祭神
磐衝別命、比咩神(袁本抒命を出した三尾君の祖神を祀る)
猿田彦神(河南社)、天鈿女命(河北社)
拝殿
由緒
『猿田彦と秦氏の謎』清川理一郎著によれば、水尾神社につたわる『神社縁起書』に、猿田彦が「われが死ねば銅鐸がなりひびくであろう」との遺言をしたとある。祭神が猿田彦神であったとする根強い信仰があったのだろう。
近世の修験者の和邇佶容聡の撰になると言われる『三尾大明神本土記』に大筋は史実によっていると、『日本の神々5』で橋本鉄男氏が評しているが、「豪族三尾氏の最初は垂仁天皇の第一皇子の磐衝別命で、この皇子が三尾の里に来て、猿田彦命を三尾の神として祭り、そこに神戸を寄付された。ゆえにそこを拝戸の宮と言う。」と述べ、「その後誉田天皇の十一人目の皇子速総別皇子が再びこの地においでになり、拝戸の宮をあたらしく造営して住まわれた。」とある。どこが史実によっているのだろうか、よくわからない。
和邇佶容聡は旧安曇川町の産所にゆかりがある人で、産所には三尾神社旧址の石標が立っているようで、そのに小祠があり、田中神社に合祀され、安田社となっているとのこと。上記『本土記』も、『秀真伝』を下敷きにしたようだ。
本殿と摂社の比咩社
お姿
大きい鳥居から30mほどの参道が続く。巨石が目立つ。
驚くのはまだ早く、境内に一歩足を踏み入れると、広大な石の庭園が広がる。手前には磐座を思わす巨石があり、その向こうには見事な陰陽石が珍座。この一帯は古墳群であったようで、その石が混ざっているのだろう。
拝殿や本殿も見ているはずで、現に写真まで撮っているのだが、全く印象は残っていない。かろうじて鎌倉時代の作と言う石灯籠は覚えている。
庭園
陰陽石
鎌倉時代の灯籠
お祭り
5月 3日 例祭
6月 上旬日曜日 泥落祭
平成祭礼データから
水尾神社 由緒
水尾神社は水尾川(今の和田内川)を隔てて河南(かうなみ)社と河北(かうほく)社(現在は河南社境内に遷座)の二社有り、河南社本殿の御祭神は人皇十一代垂仁天皇の第十皇子磐衝別命。また河北社本殿の御祭神は人皇二十六代継体天皇の御母君振姫命であります。
磐衝別王は猿田彦命の天成神道を学ぶため猿田彦を祀る当地に来住され、朝夕猿田彦命を祀る三尾大明神(今の永田村の永田神社)を遥拝されたので、この地を拝戸と称し、その御住居を土地の人は拝戸御所と云っていました。
磐衝別王は当地で亡くなったので、その御子の磐城別王は背後の三尾山の中腹杣山に葬り、父君を奉斎する水尾神社を当地に創建されました。
それから約百年後に、人皇十五代応神天皇の第十一皇子速総別王も天成神道を学ぶため拝戸に来住されて、その四世の孫彦主人王は磐城別王の五世の孫振姫を迎えて妃とし、振姫は当社の拝殿を産所として天迹部王、男迹部王、太迹部王の三児を同時に安産されました。太迹部王は後の人皇二十六代継体天皇であります。
河北社は三児出産の時、父の彦主人王が北の仮社を建てて北極星に安産を祈られた仮社跡に、天迹部王が両親を奉祀する三重生大明神を創建されたもので、後年これが河北社として比咩神(振姫命)のみを祀る社となりました。
以上
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参考 『日本の神々5』。(『猿田彦と秦氏の謎』清川理一郎著(『平成祭礼データ』
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