苗村神社
滋賀県蒲生郡竜王町綾戸467 ゼンリン

東の鳥居


交通案内
JR近江八幡駅 バス川守下車 西へ1km


祭神
東本殿 那牟羅彦神、那牟羅姫神、國狹槌尊
西本殿 事代主神、大国主神、素盞嗚尊

 摂社  十禅師社、八幡社 等

東の参道


由緒

 延喜式内社の長寸神社の論社。 創建年代は不詳だが、境内には古墳の跡や使用された巨石が転がっている。また須恵器なども出土しており、古墳時代の際しが偲ばれる。祖霊信仰にルーツを持つ古社と言える。
 『日本書紀垂仁三年』に、「新羅の王子天日槍命が近江国の吾名邑に入ってしばらく住んだ。」との記載があり、当地であろうとされている。古くから渡来系の人々によって開発されていたようだ。

国の重文の東本殿

 東本殿の二祭神は地主神のようだが、國狹槌尊は大和吉野の金峯から水神として勧請したとは宮司さんの弁。

西の鳥居と国の重文の楼門

 広い社域であるが東西を区切るように綾戸東川線の道路が切り裂いている。かっては狭い参道だったようだ。西側は『近江輿地志略』によれば、安和二年(969)に当地に遷座とあるのが、西本殿の三神とされる。

西の国の国宝の本殿

重文の八幡社と十禅師社
 

重文の御輿庫と不動明王
 


お姿
 西側の社域は立派な楼門があり、また国宝の本殿を持っており、社務所なども西側の境内にある。しかし当社の本質は東側の境内にある。境内の木々が凄い。鬱蒼としている。その昔はもっと凄く怖いようだったと宮司さん曰く。
 滋賀県の神社のパターンであるが、拝殿は正方形の一見舞殿のような建物。

 当社の国宝・重文一覧
 西本殿 三間社流造向拜一間 檜皮葺 国宝 鎌倉時代
 東本殿 一間社流造 檜皮葺 国重文 室町時代
 西境内社 十禅師社本殿 一間社流造 檜皮葺 国重文 室町時代
 西境内社 八幡社本殿 一間社流造 檜皮葺 国重文 室町中期 側面に幣軸板扉の出入り口
 西境内 御輿庫 桁行四間 梁二間 一重切妻造 檜皮葺 国重文 室町末期(1536)
 西境内 楼門 三間一戸 入母屋造茅葺 国重文 室町応永頃(1394〜1427)
 不動明王立像 木造 鎌倉時代  

西の社殿


お祭り
  4月 第三日曜日

『平成祭礼データ』苗村神社
由緒


 この御社は、延喜の御代長寸(なむら)神社として神名帳に列座された、格式の高き式内社であります。
 その創祀の年代は詳らかではありませんが、遠く上古のことであります。即ち当社域内に現存する古墳或は域内外より出土する陶物(すえもの)は、何れも古墳時代の遺跡或は遺品で、これ等は当時既に祖先の遺業に励んだ部民(べみん)の豹住を物語るもので、当神域の東の方にお祀りしたのに創ると推定され、地名である那牟羅と同音になる長寸(長は最高位寸は村の古字)の字に替え長寸神社と申し上げました。尚この御社を后の世になつて東本殿と申すようになりました。 安和二年(969年)三月二十八日、大和國芳野金峯山に鎭まり給うた國狭槌尊(くにのさつちのみこと)の御神霊が、この神域の西の方に御遷座されるようになり、社殿を御造営申し上げ、此処に御鎮座の次第となりました。この御社を前述の東本殿に対して西本殿と御呼びします。
 現時の社名、苗村の称号は社蔵の古文書によりますと、もとこの地域は日本書紀垂仁記三年三月新羅王子天日槍(しらぎのこきしのこあまのひほこ)の條に曰う吾那邑(あなのむら)でありましたが、その后、那牟羅に改まり更に長寸に替えられ、次いで寛仁元年(1017年)正月、朝廷に門松用の松苗を献上することの栄に浴して以来、年々の吉例となり、時の帝、御一條天皇はこれを嘉みせられ、苗村の称号を賜り、以后苗村と呼ぶ、と記されています。
 天文五年(1536年)三月二十二日、御奈良天皇は、当社に「正一位」の神位を奉授し給い、同四月十九日勅使中御門宗藤・山科言継を御差遣になり、神位記を奉納され、續いて同五月九日、更に天皇は「正一位苗村大明神」の勅額の御下賜があり、又同月十二日関白太政大臣近衛植家公を始め三十人の公卿は、京都において法樂歌会を催され、同月十六日中御門宗藤卿は、使者を以て当日の和歌を送られ、同十九日神主はこれを、神前に奉納されたと伝えています。
以上

参考 『日本の神々』、『式内社調査報告』『平成祭礼データ』

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