建部大社
滋賀県大津市神領1丁目16-1 mapfan
西向きの鳥居 南向きの鳥居
交通案内
京阪唐橋前駅 東 700m
祭神
日本武尊 相殿 天明玉命 権殿 大己貴命
摂社
聖宮神社「大足彦忍代別命」
大政所神社「播摩稻日太郎媛」
藤宮神社「布多遲比賣命」
若宮神社「稻依別命」
行事神社「吉備臣武彦、大伴連武日」
弓取神社「弟彦公」
箭取神社「石占横立、田子稻置、乳近稻置」
蔵人頭神社「七掬脛命」
大野神社「草野姫命」
稲荷神社「稻倉魂命」
八柱神社「藤時平 合祀 融大臣、事代主命、市杵嶋姫命、素盞男命、豐玉彦命、櫛名多姫命」
檜山神社「伊邪那美命 合祀 息長足姫命、武内宿禰、住吉大神、大山祇命」
神門
由緒
栗太郡の名神大社。武門を司った建部氏ゆかりの神社。権殿祭神の大己貴命は後世大和の大神神社からの勧請と言う。権殿は本来空殿であると言う。(『日本の神々5』櫻井勝之進)
日本武尊が近江の安(野洲)の国造の祖の意富多牟和気の女布多遅比売を娶って生んだ稲依別王が犬上君と建部君らの祖となった。
創建年代は未詳だが、神崎郡の千種山に降臨、後に、社記によると、祭神は景行天皇四十六年(または白鳳四年)、建部郷に社殿を創建した。
天武天皇四年(675)に勢多郷に到着、大野山に遷座、さらに天平勝宝七年(755)現在地に移建したと言う。
拝殿と神木
本殿(手前)と権殿
お姿
戦略上重要な瀬田川の東側、東海道、東山道の出入り口なので鎮座したのであるが、古来より戦国時代に至るまで多くの戦いの場となり、幾度も戦禍に見舞われた。
本殿
お祭り
4月 15日 例祭 8月 17日 船幸祭
古墳への途中に鎮座の源の頼光大明神
膳所茶臼山古墳
建部神社は建部の祖神を祀っている。日本武尊である。日本武尊の子が稲依別命。
『日本書紀』に、「稻依別王。是犬上君。武部君。凡二族之始祖也。」とある。武部君(建部君)の始祖は日本武尊の子の稲依別王で、この古墳の埋葬者も皇族の末裔らしく三段築成である所から、建部君の祖を埋葬したのであろう。犬上君の倉見別が忍熊王に味方して、神功・応神の名で伝わる新勢力に滅ぼされているが、ここの建部君もいとこである忍熊王に味方して、敗れたのであろう。
膳所茶臼山古墳は荒神山古墳と同じ時期の造営でかつ大きさもほぼ等しい。またその後の古墳が見いだせず、建部君は一旦は途絶えたようである。
大津膳所の絶景の高台、膳所茶臼山古墳と秋葉神社を参照ください。
平成祭礼データ 由緒
当社は古来建部大社、建部大明神などど称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の 一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。御祭神
日本武尊は御年僅に十六才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に三十二才にし て伊勢の能褒野に於て崩御されましたが、父君景行天皇は尊の死をいたく歎かれ御名
代として建部を定め其の功名を伝えられたことが日本書記に記されているのであるが 、これが即ち建部の起源である。
景行天皇の四十六年神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、御子稲依別 王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の
草創であって、その後天武天皇白鳳四年当時近江国府の所在地であった当瀬田の地に 迂祀し、近江一之宮(其の国を代表する第一位の神社)として崇め奉ったのが現在の
当大社である。
歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑なく、就中源頼朝は、平家に捕われ、十 四才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永歴元年(1160年)
三月二十日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されている。頼朝は遂に 源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年)十一月右大将として上洛の際再び社
前に額き襄年蒙った深い神助に対し、幾多の神宝の神領を寄進して奉賽の誠を尽され たのである。爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神と
して広く崇敬される所以であり、明治十八年四月官幣中社に、同三十二年七月官幣大 社に列し、国家最高の社格を与えられた。昭和五十年四月十五日御鎮座壱千参百年式
年大祭を斎行し、これに伴う記念諸事業の完遂。そして平成二年三月十七日には本殿 遷座祭を斎行し御社頭は面目をあらたに、御神威の程畏き極みである。 |
『日本の神々5』、『寺院神社大辞典 近江・若狭・越前』、『平成祭礼データ』
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