足上郡[アシノカミ]:1座小
寒田神社[サムタ]
寒田神社[さむた]「倭健命、弟橘比賣命、菅原道眞、譽田別命」神奈川県足柄上郡松田町惣領1767
古代であそぼ
餘綾郡[ヨロキ]:1座小
川匂神社[カハワ]
川匂神社[かわわ]「大名牟遲命、大物忌命、級津彦命、級津姫命、衣通姫命」垂仁天皇御宇。神奈川県中郡二宮町山西宮山2064http://www.geocities.jp/engisiki02/sagami/bun/sag160201-01.html
相模国二宮 川匂神社誌 御由緒 社殿 |
参拝の栞 御由緒 御神徳 年間祭典 前鳥神社祭事 |
高森神社由緒 社殿 御神徳 |
比比多神社(子易明神) 由緒 梛 (なぎ) |
参拝の栞 大山の特殊信仰 当社古来からの特殊信仰に「納太刀」の慣習があり、昔源頼朝公が 在国の霊社として崇敬の誠を捧げられて、毎年一度佩刀を当社の大前に供え、武運長 久、諸災祓除の祈祷を修せられ、之を護身の太刀とせられたのに始まったもので爾来 これにならって、一般の人々にこの慣習が伝わり、毎年登拝の折には木太刀を納めて 、社頭に於て家運隆昌、諸災祓除の祈祷を受ける様になり、その木太刀を拝受して自 家の神棚に奉斉し朝夕神徳を仰いでその翌年登拝の際新旧を交納し、専ら諸願成就報 賽の至誠を捧げたのである。即ちこれによって実に立身出世、成功成就の祈誓と共に 質実鋼健、克己尚武の気風を涵養したのである。 大山祭事暦 元旦奉幣祭 1月1日 崇敬者の家運隆昌を祈念する。筒粥祭 1月7 日 その年の作物の豊凶を占う。引目祭 1月7日 病気平癒、国土安穏を祈る。節
分祭 2月節分 開運厄除宝撒き。春山祭 4月5日〜20日 講中参拝。祖霊社祭 4月25日当社歴代の社司戦死者の霊を祀る。酒祭祈願祭 5月下旬 全国の酒造
繁栄を祈る。 夏山大祭 7月27日〜8月17日 講中参拝。秋季例大祭 8月2 7日〜29日 神輿渡御。火祭薪能 10月1日・10月2日。紅葉祭 10月20
日〜11月20日。神事能5月5日・8月28日。神輿渡御行列 8月27日・8月 29日 以上
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社頭掲示板 この神社は創立年代は不明であるが、延喜式によれば、寒川阿夫利神社とともに相模 十三座の中に数えられ、また小社に指定されているところから、非常に古社であると 同時に社格の高いことがうかがわれる。記録によれば鎌倉時代に入って愛甲村に館を 構え弓を執っては当代随一と称された愛甲三郎は、当社を心から崇敬した。この社の 古い納札によると当社は建久五年八月十二日、再興され、その時の願主として鎌倉幕 府政所長官大江膳大夫廣元、並びに愛甲三郎季隆の名が挙げられている。その後鎮座 地の移転があり、また近世に到り閑香大明神と称された時代もあったが、社殿はその 後五回工を改めているが、明治六年七月三十日、郷社に指定され、愛甲郡総鎮守とし て広く崇敬された。祭典に当たっては、県からの奉幣使各村代表の参列もあり厳粛盛 大なものであった。 |
参拝の栞 延喜式深見神社御由緒 一、御祭神 武甕槌神・建御名方神 一、鎮座地 神奈川県大和市深見三三六七 一、例祭日 九月十五日 一、由緒 深見神社の創始は古く、総國風土記によれば今より約千五百年前、人皇第 二十一代雄略天皇二十二年三月の創祀とあり、朝廷をはじめ、歴代國司より奉幣の事 が記されて有り、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神明帳に相模國十三座の社 と定められ、官社として扱われて國幣を奉られた。 深見は和名抄所載の布加美であって、古は深海又は深水と書き、相模原の東辺境川流 域一帯に亘る地を総称した。太古この附近一帯は相模湾が深く湾入し舟筏を以て交通 したことが推測され、今ここを古深見入江と仮称している(県史蹟調査員石野瑛氏説)。 当社の縁起によると、武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率 いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇・神の二神をして深海を治めさ せられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の 名の起った所以である。今境内にある御倉稲荷神社は両神を祀る所であり、里人は五 穀豊穣をはじめ、縁結び・家内安全・商売繁昌・学問等の神と敬っている。 景行天皇の御代、皇子日本武尊御東征の時、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに 軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと云う。今郷内にある薙原、石楯尾及御 難塚の地名は尊の御遭難の地と伝称されている。 後屡々官使の来反があった。深見(深水)、瀬谷(店屋)、草柳(草薙)、蓼川、久 田(宮田)等から米、粟、鯉、鰻、鮒、蓮根、菱の実、独活、善活等を進貢し又は其 の饗に充て、又薬草を採取して主薬部に献じた事皆古書に伝えている(伴信友書写総 國風土記による)。 年移ること千五百余年、其の間世々里人の尊崇厚く、渋谷庄司重国、佐々木源三秀義 の昔から降っては山田伊賀守経光を深見四万坂に討滅した。太田道潅は其の出陣に際 して社前に戦勝を祈り、坂本小左衛門重安は徳川家康の大阪陣に従軍するに当って武 運長久を祈願して田を寄進し(鹿島田と云って今残る)、徳川幕府の寺社奉行坂本内 記重治は屡々参詣して社殿を造営し、相模國十三座の一深見神社となる社号標を建立 した。爾来坂本家は明治維新に至る迄代々当社を崇敬し屡々参拝の上奉幣した。 明治六年十二月、太政官布告によって郷社に列せられたが同八年、隣地仏導寺の出火 に類焼し壮厳な社殿工作物重要古文書忝く烏有に帰し逐に神域荒廃して公称社格不詳 となった。明治四十二年、村内諏訪の森に鎮座の諏訪神社を合併し茲に我國建國史上 御縁深き二神は御同列に奉祭され、深見神社として御神徳益々赫かし、この地方遠近 の崇敬者より御神徳を敬仰されている。明治の初めから社殿造営、神社復興の議は有 志によって何回となく企てられたが実現されなかった。昭和十五年九月三日炎上以来 、実に五十五ケ年、社殿造営郷社復活の議が起り、深見神社奉賛会は組織され氏子崇 敬者の熱情は逐に昭和十六年十一月十五日に壮厳なる本殿、拝殿、神饌舎、玉垣、末 社、社務所、鳥居、手水舎等々を建立し、同十七年三月二十五日、改めて郷社に列格 した。 尚境内にある靖國社はもと厚木航空隊内の守護神として同隊の戦死者を祀っていたが 、終戦により取除きを命ぜられ深見神社に移築し、深見部落戦没者全員を合祀し昭和 二十六年四月七日、鎮座祭を執行し摂社とした。(深見神社奉賛会謹誌) 一、御神木なんじゃもんじゃの木 樹令五百年、周り四メートル、木の高さ四三メー トル、全国的に珍しい木である。 この御神木の北側御神木延喜の松があった。目通三丈五尺五寸(十一メートル) 、高さ百六十五尺余り(五〇メートル)、樹令一千三百年余り。白雉の頃植えられた と云い伝う。現在の御神木は延喜の松の下木であった。 |
宇都母知神社略記 鎮座地 藤沢市打戻二六六二番地 御祭神 天照皇大御神 稚産霊神 若日下部命 天照皇大御神は伊弉諾、伊弉冉二神の生み給う方で、高天原を治められ、神徳宏大で 人々から敬われ、日神とも称え奉られた。 稚産霊神(わくむすびのかみ)は豊受大神の御親神で五穀や養蚕を司る神であります。 若日下部命(わかくさかべのみこと)は仁徳天皇の皇女で雄略天皇の皇后になられた 方で非常に人徳の高い方で養蚕を盛んに奨励された。 祭日 九月十五日 由緒 当神社は創立年代は詳かではないが延喜式内社で二十一代雄略天皇の御代(西暦四九 五年)に厳粛なる祭祀が行われたことが日本総風土記に記されている。なお風土記に よると当神社の所在地は相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。 六十一代朱雀天皇天慶二年九月(西暦九三九年)、若日下部命の御尊霊を大和国泊瀬 (はつせ)より遷座して相殿に奉祀されました。 九十代伏見天皇正応三年八月(西暦一二九〇年)、鎌倉八代将軍久明親王の執権北條 貞時が社殿を改築し、同年九月に参拝された。 寛永四年十一月(西暦一六二七年)、領主高木主水源正次が社地九百坪(約三千平方 米)を寄進し、また本殿の改築を行った。 震災当時の建物は安政五年(西暦一八五八年)に建築されたもので当時の記録による と本殿九坪(約三十平方米)拝殿二十五坪(約八十二平方米)幣殿四坪(約十三平方 米)神楽殿二十坪(約六十六平方米)であった。 また、当神社は明治六年十二月に郷社に列せられた。 大正十二年の関東大震災により、社殿等全てが倒壊したが村人一同の総力をあげた努 力により倒壊後わずか三年、大正十五年九月に総てが現状のように復旧した。 本殿神明造六坪(約二十平方米)幣殿五坪(約十六平方米)拝殿十二坪(約四十平方 米)神楽殿十六坪(約五十三平方米)参集殿十五坪(約五十平方米)神輿殿三坪(約 十平方米)が再建された。 境内地は約一丁六反(約一万六千平方米)で全域風致林の指定を受け、また昭和四十 九年、自然環境保全地域の指定を受けている。打戻字大平二〇〇九番地には溜池一反 五畝(約百五十平方米)の社有地もある。 昭和二十年春戦争中、物資回収が行われ釣鐘が献納され鐘楼に鐘がないまゝであった が昭和五十年、天皇の即位五十年を記念して氏子総意により鐘が再建された。 また、当神社の神輿は百数十貫といわれる豪華なもので毎年例祭日には氏子を始め近 隣の崇敬者達多数により渡御が行われる。 |
寒川神社[サムカハ]
寒川神社[さむかわ]「寒川比古命、寒川比女命」御鎮座地が、関東の中心からまさしく西南坤の方角、いわゆる正裏鬼門に当っており更にその御本殿の正面が、西南方に向っていられることも神社建築中他に例の無い特異な存在として世に知られている。神奈川県高座郡寒川町宮山3916 神社公式http://www.genbu.net/data/sagami/samukawa_title.htm
寒川神社誌 御由緒 関八州鎮護の神として古くからこの地方の名祠とあがめられている。 宝物 社蔵の宝物には、古文書・御神宝・武器・什器等多数あるがそのうち主なるも のを挙げると、
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有鹿神社[アリカ]
有鹿神社[ありか]「大日貴命」神奈川県海老名市上郷字宮畑2791 古代であそぼ
石楯尾神社[イハタテヲ]
石楯尾神社[いわたてお]「神倭磐余彦命」景行天皇の四十年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。神奈川県津久井郡藤野町佐野川3448http://www.geocities.jp/engisiki02/sagami/bun/sag160506-01.html
社頭掲示板 第十二代景行天皇の庚戊四十年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯 (あまのいわ たて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。石村石楯は高 座郡の県主で当地の住人であった。第四十七代淳仁天皇の天平宝字八年(一二二二 年 )、先の太政大臣藤原恵美押勝反逆の折、貢の為上京中で押勝の首をとり乱を鎮めた 功により高座、大住、鮎川、多摩、都留の五郡を賜ったと言われ、石楯尾神社の保護 者であった。幣殿、拝殿は昭和十二年に改築されたが本殿は室町時代の建築様式をよ く伝えており建築史上貴重なものである。本殿棟札には天保七年十一月氏子中、調写 、浄善石船、謹記とある。神楽殿は弘化年間(一八四五 年) に建てられたもので、通 常は中央部を通路に使用し祭典の折には厚板で覆い、奉納の舞、芝居の舞台として使 用出来る様に工夫されている。 平安時代に施行された延喜式[ 延喜五年(九〇五) 撰進、康保四年(九六七) 施行] に 記されている相模の式内十三社の内石楯尾神社は本社ではないかと言われている。 (注) 昭和十二年〜十三年にかけ郷社への昇格を運動したが、確たる証拠書類ない為 昇格ならず現在は指定村社で終わっている。今でも考古学者等が度々調査に訪れる。 森(杜) 木は根周り五m を越す大きな杉が何本もある。 |
石楯尾神社「石楯尾大神」神籬磐境の「エボシ岩」を人々が尊んで、拝み仕えまつった祭政一致の生活の行なはれた所が京塚山の頂上にあったのが起源である。神奈川県津久井郡藤野町名倉4524http://www.geocities.jp/engisiki02/sagami/bun/sag160506-02.html
参拝のしおり 由緒 大事な事 |
石楯尾神社「大己貴命」神奈川県相模原市磯部字中峯2137
諏訪神社「建御名方神」神奈川県大和市下鶴間2540http://www.geocities.jp/engisiki/sagami/bun/sag160506-04.html
参拝の栞 鎮座地 相模国大和市下鶴間二五四〇番地 当諏訪神社の創立は不詳であるが、千有余年前にすでに鎮座されたと伝承され、「新 編相模風土記稿」によれば、たびたび再建された記録がみられる。そして社運は歴史 とともに隆昌し、今日に至ったものである。 御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ) 諏訪大明神として多くの人に尊崇されているが、御名は建御名方神と申し上げる。建 御名方神は大国主神の第二子で、兄は事代主神である。 天照大神は「豊葦原の瑞穂国はわが子の治める国である」として、出雲国を治めてい る大国主神に国を譲るよう、たびたび使いを下したが、聞き入れられなかった。そこ で最後に建御雷男之神を使いとしてたてた。この時、大国主神の御子事代主神はたま たま海に出ていたが、魚つりから帰ってきて国土の返上を承知した。ところが建御名 方神は承知せず、建御雷男之神と伊邪佐の浜で力くらべを行った。これが相撲の始ま りといわれている。その結果、建御名方神は敗れ、科野の国(長野県)の州羽(すわ )[諏訪]の海(湖)まで逃がれて帰順された。そこで大国主神はやむなく国土を返 上したという。これがいわゆる国譲りである。 一方、建御名方神はこの地にきてから農業を興し、養蚕を教え、産業の振興に尽くさ れたため、国は大いに栄え土民の等しく尊崇するところとなった。 この地、すなわち今の諏訪湖のほとりであり、ここに諏訪大社がある。大社は全国一 万八千余といわれる諏訪神社の総鎮守であり、当諏訪神社も鎌倉時代中期のころ分霊 されたものと考えられる。したがって当社は産業の神として、また武神として遠い昔 からそのご神徳を讃仰し尊崇されてきた。 通常、神社のご神体は神札、神木、または神鏡のところが多いものの、当神社はご神 像である。「大和市史研究」第二号によれば、次のように説明されている。 木造男神立像 一躯 太刀を佩き、右手に扇状の持物をもって立つ。寄木造、玉眼嵌 入、彩色。頭部・両手首いずれもさし込み。胴部の内刳にきわめて深い。造像時期を 示す銘文写は残らないが、面部の表現には若宮八幡宮の応神天皇座像に通い合うよう な彫技が感じられる。十八世紀前半頃の造立と考えて大過ないのではなかろうか。( 中略)市内の神像彫刻を考える上で貴重な像といえよう。像高五四.四糎(大和市重 要文化財) 社殿 当社の現社殿は拝殿、幣殿、覆殿からなる。江戸時代たびたび災禍等にあい、 そのつど再建された。また、安政五年十一月六日、落成間近の社殿は、大工の失火に より悉く焼失、明治維新となるや、氏子の総力をあげて欅材等寄進が行われ、三ヵ年 の歳月を経て明治五年、立派に再建された。当時は拝殿と覆殿は別棟であった。 一、拝殿 現在の建物は明治五年に再建されたもので、当時は茅葺屋根、総欅であっ た。拝殿の各所には見事な彫刻が刻まれているが、特に廻廊の両側にある中国の昔、 漢の張良の物語、「子房覆(しぼうくつ)を捧ぐの図」の彫刻は貴重なものである。 その後いくたびか屋根替工事も行われ、また大正十二年の大震災には大損害を被った ものの、直ちに補修が行われた。さらに昭和三十七年には屋根を鉄板葺に改修された が、幾多の歳月を経て損傷をきたしたので、多くの氏子等の浄財により、一年にわた る工事で昭和五十八年、従来の形式のまま屋根を銅板葺とした。このおりその他の個 所の補修と、覆殿、幣殿の再建も同時に完成し、同年五月、遷座式を斎行したもので ある。 二、幣殿 この建物は祭祀を行うところである。関東大震災の復旧工事が昭和三年に 行われた時、拝殿と覆殿の空間に新築されたものであったが、昭和五十八年の大改修 工事の際、さらに祭具室、神饌所と共に新築された。 三、覆殿 通称、本殿と呼ばれているが、正しくは覆殿という。明治五年に拝殿とと もに再建されたとき、茅葺の寄棟式建物であったが、昭和三十七年に鉄板葺に葺き替 えられた。しかし、長い歳月で建物の損傷が大きかったので、昭和五十八年、神明造 り銅板葺として新築完成した。 拝殿二三.一平方b(七坪)構造 銅板葺、千鳥破風入母屋造り 向拝 九.九平方b(三坪)軒唐破風造り 幣殿 一六.五平方b(五坪) 祭具室 三.三平方b(一坪) 神饌所 三.三平方b(一坪) 覆殿 一六.五平方b(五坪)銅板葺、神明造り 四、本殿 本殿は一般に中宮または奥の殿といわれている。一間社、千鳥破風、軒唐 破風付の屋根形態や組物の多用、建物全体に施された彫刻など装飾性が強く窺え、建 築様式の観点からみて、幕末から明治初期の建築と考えられる。 身舎(もや)は正面約一b、側面約九〇aで、身舎の前面に向拝があり、側方からみ ると屋根は前方に葺下した方が後方より長くなっている。このような本殿形式は流造 と呼ぶ。当本殿の場合、身舎正面の柱が一つであり、一間社流造と呼ばれる。屋根は 板葺、箱棟になり、正面に向けて千鳥破風が、また向拝正面に軒唐破風が取付けられ ている。また、垂木は二重、繁垂木である。 身舎の周囲は組高欄付の縁が廻り、肘木・斗(ます)を四段に組み、向拝には身舎に 登る六段の階段があり、その周囲に浜縁が取付いている。小規模な建物にもかかわら ず複雑な組物手法をとり、かつ多用していることは当本殿の大きな特徴の一つである。 もう一つの特徴は、本殿全体が彫刻に覆われていることである。身舎の周囲壁面や脇 障子には、中国の故事を題材にした肉厚の彫刻が嵌込まれているほか、全体を通して 上部には雲や飛鳥など天空を配し、中間部には人物、草花を、下部には波、水、水鳥 、魚など池水に関する題材が見られる。また、向拝の廻りには竜や獅子の彫刻が施さ れている。神社建築において、建物全体がこのように彫刻で埋め尽くされる傾向は江 戸時代中期から見られ、当本殿のように彫刻に彩色を行わず木目(欅)の美しさをそ のまま表わす表現手法は幕末期になってからと考えられる。 以上、当本殿は小規模な建物であるが、屋根形態、構造形式、彫刻の多用など幕末期 建築様式を多く留め、市域においてもこのような建物はいまだ知られておらず貴重な 建物である(大和市の近世社寺調査報告参照。) 境内末社 稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂神、例祭 初午の日 当神社の創建は定かでないが、『新編相模風土記稿』に「末社・天王稲荷合社」とあ り、すでにそれ以前に鎮座されたことは明らかである。諏訪神社の参道右手のやや奥 まったところに小さな祠があったが、昭和六十二年、昭和天皇御在位六十年を記念し 、八坂神社、秋葉・古峯合社とともに再建された。 八坂神社 御祭神 須佐之男命、例祭 七月十四日 天王様または牛頭天王様と称し、無病息災の神として崇敬され、明治十三年、神輿一 基を調製したと記録に残っているが現存しない。第二次大戦の直前まで七月十四日を 祭日とし子供達に菓子等を配り祝った。いまは神社役員によって厳粛な祭典を行い、 地域住民の平和と繁栄を祈願している。 秋葉・古峯合社 秋葉社は火之迦具土神、古峯社は日本武尊を御祭神とし、ともに火防神として尊崇さ れている。 秋葉神社は静岡県秋葉山にあって火祭りが有名であり、古峯神社は、栃木県鹿沼市の 古峯原に鎮座しておられる。 今でも秋葉講、古峯講があり、地域の代表によって代参し、地域の安泰を祈念し、御 神札を当社に納める習しがある。 境外末社 日枝神社(山王大権現) 所在地 大和市下鶴間二九六六番地、御祭神 大山咋神・ 国常立神・伊奘冉神を合祀。 伊勢社(和光神明宮) 所在地 大和市下鶴間二八七一番地、御祭神 大日・尊(天 照大神)、例祭は二社ともに十一月二十日。 元宮・石楯尾神社の伝説 諏訪神社はその昔、石楯尾神社であったとも伝えられる。 『新編相模風土記稿』に「諏訪社、村の鎮守なり、式内石楯尾神社なりと伝う…」と ある。 式内(延喜式内)石楯尾神社といえば、延喜七年(九〇七年)の神名帳に、「高座小 五座のうち石楯尾神社あり、天安元年(八五七年)五月、石楯尾神、官社に列せし」 とでてくる。つまり今より千百三十年前、文徳天皇のときの「文徳実録」に「天安元 年五月丙辰、近来霖雨不霽、今日京中水溢、是日相模国従五位下石楯尾神預官社…」 「下鶴間村、大島村、諏訪社をも石楯尾神社と伝う」とある。ここにいう相模国高座 小五座とは、座間入谷村、佐野川村、名倉村、下鶴間村、大島村のことで、ここに石 楯尾神社が祀られたという。石楯尾神とは御名を狭野尊、またの名を日本磐彦尊と称 し、贈名は神武天皇である。神武天皇が日向を出て東征し大和に入られるとき、天磐 楯をもってきた。第十二代景行天皇の皇子日本武尊が九州の熊襲を征伐のあと、東夷 征定を命ぜられたとき、景行天皇は「この楯を護りとして東国を鎮護せよ」といわれ 渡された。これを鎮楯または石楯という。 東国に向う日本武尊は、途中伊勢神宮を参拝し、ここで草薙剣を賜った。そして途み ち賊を征定し足柄峠をこえ相模に入られ、秦野、伊勢原あたりから厚木小野に至った 。ここで賊にあざむかれ野火の災禍にあうが、この剣で抜い難をのがれた(一説には 静岡県焼津あたりともいわれる)。さらに相模川を北にのぼり、佐野川村から大島、 座間を経て下鶴間村に至り、横須賀(走水)から安房に入られた。妃弟橘姫入水の悲 話はこのときの物語である。この征路の途中で御楯を安置し鎮護を祈願されたところ が石楯尾神社であるといわれている。 諏訪神社の東方約百五十メートルのところに宮田塚と呼ばれる小さな石の祠があった 。これが元宮といわれるが、全農大和集配センター開発のおり、昭和四十七年、現在 地に移転、祭祀している。 神社の沿革 当社創立の年代は不詳であるが、古来より式内石楯尾神社なりと伝えら れ、新編相模風土記稿によれば文徳天皇天安元年(八五七年)五月、祭祀のことが記 され、醍醐天皇延喜七年(九〇七年)の神名帳には高座小五座のうち下鶴間村に石楯 尾神社ありと記されている。鎌倉中期のころ諏訪社として祀られたものと考えられ、 延宝八年(一六八〇年)再建の棟札のあったということからも、徳川氏入国当時既に 厳然と鎮座していたのは明かである。 なお元禄六年(一六九三年)六月、領主江原氏代官伊沢喜兵衛、同都筑氏代官瀬沼伝 右衛門本地を寄進し御神体として本殿に奉安せりという。宝永八年(一七一〇年)六 月再建、安永七年(一七七八年)再建の棟札は現存している。さらに安政五年(一八 五八年)十一月六日、完成間近の社殿を大工の失火により悉く焼失してしまった。そ の後、明治二年、神仏分離令により観音寺持より村持となり、氏子の熱意により明治 五年、社殿を再建遷宮の祭典を盛大に斎行した。明治三十年、秋季大演習の際、伏見 宮貞愛親王殿下が御参拝された。 大正十二年、関東大震災により大被害を受けたが昭和四年、復旧工事が完了する。さ らに昭和九年九月十七日、朝香宮鳩彦王殿下が演習統監のため当地御通過の砌り鄭重 に御参拝された。昭和十五年、村社に昇格、大東亜戦争勃発するに及び社名を諏訪神 社と変更、社運益々隆昌となったが、終戦を迎え昭和二十一年、政教分離令により宗 教法人諏訪神社となる。氏子崇敬者の尊崇はいよいよ篤く永年に亘る神社整備計画に 基き昭和五十二年、社務所を再建。更に昭和五十七年、覆殿、幣殿、神饌所、祭具所 、玉垣等を再建し、拝殿、向拝を共に銅板葺に改修、荘厳な社殿を完成し、翌年五月 、盛大に遷座奉祝祭を斎行した。 昭和六十二年、昭和天皇御在位六十年を記念し境内末社稲荷神社、八坂神社、秋葉・ 古峯合社の三社殿と併せその玉垣を整備する等盛事を行う。 惟うに当諏訪神社の隆昌は、地域の繁栄であり、氏子崇敬者こぞってその御神徳に感 銘し地域とともに神事などますます盛大となっている。 諏訪神社 祭事 一月 元旦祭・どんど焼き(十四日)、二月 節分祭・初午祭、四 月 (花見のつどい)、七月 八坂神社(天王様)祭典(十四日)、八月 奉納相撲 大会(第一日曜日)、(盆おどり・婦人会主催)、九月 例大祭(六日)、十一月 日枝・伊勢両神社祭典(二十日)、七五三祈祷、随時 宮詣、厄除、家内安全、交通 安全、地鎮祭など諸願御祈祷 |
諏訪神社「建御名方命」神奈川県座間市座間入谷1-1568 ふらん諏訪神社
諏訪明神「御穗須須美命」
社頭掲示板 諏訪明神(すわみょうじん) この神社は覚心(かくしん)師によって、永正年間(一五〇四〜一五二一年)に創建 されたと傳えられています。 その後宝永七年(一七〇一年)に再建され、旧大島村、旧九沢村の総鎮守となりまし た。また古い記録に登場する式内社(しきないしゃ)のうちの一つ「石楯尾(いわた てお)神社」はこのことではないかといわれています。 毎年八月二十七日の祭礼の時にここで行われる獅子舞は県の重要無形民俗文化財に指 定されています。 相模原市・相模原市観光協会 |
相模国土甘郷総社皇大神宮由緒 第五十三代淳和天皇の御代天長九年(八三二年)、御社殿造立の記録があり、勧請の 時期は更にどれほどさかのぼるべきか詳らかではないが、創建の極めて古いことは明 らかである。天喜三年(一〇五五年)、元亨二年(一三二二年)、天正十三年(一五 八五年)、昭和六十年(一九八五年)と造営を重ねられている。 御祭神は天照皇大神、相殿に天手力男命、天太玉命、天児屋根命、天宇受売命、石凝 刀売命を奉斎している。 第六十代醍醐天皇の御代、延喜式が選進されたころに、奈良時代以来現在の藤沢市の 内、藤沢、西富、大鋸、鵠沼、辻堂などの各地を合わせてとなえられていた相模国土 甘郷(とかみごう)の総社に列せられ、この時以来、相模国土甘郷総社神明宮と称し 、あまねく人士の尊崇を集めることとなった。 また、長治元年(一一〇四年)に到って鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘(おおばのし ょう)を伊勢神宮に御厨(みくりや)として寄進したので大庭荘が大庭御厨と呼ばれ るようになってからは、その領内、即ち東は俣野河(現在の境川)から、西は寒川郷 に到る区域、また北は大牧崎(現在の藤沢市最北端)から、南は海(現在の片瀬の一 部、鵠沼、辻堂、茅ケ崎の海辺の諸村)に至る区域、いわゆる境川と小出川とにはさ まれた広大な伊勢神領大庭御厨総鎮守と定められ更にあつく崇敬されることとなった。 これより先、天喜年間、八幡太郎義家、奥州鎮撫の途次祈願奉幣あり。また、寿永三 年(一一八四年)、那須与一宗高は屋島にて扇の的を射た弓一張と残りの矢を奉納、 併せて所領の那須野百石を寄進し、その他代々の領主崇敬奉斎も鄭重で、伊勢神領大 庭御厨総鎮守相模国土甘郷総社神明宮の社名いよいよ高く、中古以来相模鎌倉の鶴岡 八幡宮、武蔵府中の六所宮と並び称せられた旧社であるが延享年間の盗難により惜し くも伝承の古記録等を失った。その後に至り明和二年(一七六五年)六月十七日、領 主布施孫兵衛尉頼路、参篭し祈願奉幣あり。且つ天照皇大神宮と謹書した白絹御戸張 を奉納、明治維新まで例年奉幣を怠りなく続けられた。 明治元年九月、征東大総督一品中務卿有栖川宮殿下東下の際、神明宮の御染筆を賜る 。また、例祭は八月十七日。当日九基の盛装した人形山車の参進は特筆すべき盛観で 、神奈川の民族芸能として県の指定があり、更に例祭そのものが「神奈川のおまつり 五十選」に選定されている。尚、昭和六十三年に藤沢市重要有形民俗文化財に指定さ れた。 なお、当皇大神宮には、第五十一代平城天皇の御代、大同三年(八〇八年)、御創建 の延喜式内相模国十三社、式内石楯尾神社が相殿八幡大神、春日大神とともに御同座 である。式内石楯尾神社は当宮の御鎮座以前に、現在の当宮境内地に勧請された旧社 で国史に所見の神階叙位、官社に列せられた名社である。 |
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