國13座:大1小12




足上郡[アシノカミ]:1座小

寒田神社[サムタ]
寒田神社[さむた]「倭健命、弟橘比賣命、菅原道眞、譽田別命」神奈川県足柄上郡松田町惣領1767  古代であそぼ


餘綾郡[ヨロキ]:1座小

川匂神社[カハワ]
川匂神社[かわわ]「大名牟遲命、大物忌命、級津彦命、級津姫命、衣通姫命」垂仁天皇御宇。神奈川県中郡二宮町山西宮山2064http://www.geocities.jp/engisiki02/sagami/bun/sag160201-01.html

相模国二宮 川匂神社誌
御祭神
大名貴命 日本の国土を御開拓なされた神様です。
大物忌命 殖産興業に御功績のあった神様です。
級津彦命・級津姫命 相模国が昔相武と磯長の二国であった頃磯長の国を御開拓なさ れた神様です。
衣通姫命 安産守護に霊験あらたかな神様です。

御由緒
当社は相模国の二の宮で、古くから二宮大明神又は二宮明神社とも称し、『延喜式』 所載の相模十三社の各社であります。縁起書によれば其の創祀は十一代垂仁天皇の朝 、当時余綾足柄両郡の東西海浜を磯長国と称せし頃、その国宰たる阿屋葉造が勅命を 奉じて当国鎮護のため崇祀せらる。磯長国造大鷲臣命・相模国造穂積忍山宿弥・同国 造弟武彦命崇敬ありしを始め日本武尊東征の時、源義家東下りの時、奉幣祈願あり。 人皇十九代允恭天皇の皇妃衣通姫命皇子御誕生安穏のため、奉幣祈願あらせられる。 現宮司二見家の家系記によれば、六十五代一条天皇の御宇永延元年、粟田中納言次男 次郎藤原景平当社の初代神官となり爾来今日まで相続き、現宮司に至り三十九代に及 ぶ。建久三年、源頼朝夫人平産のため神馬を奉納せらる。建長四年宗尊親王鎌倉に下 向ありし時、将軍事始の儀として奉幣神馬を納められる。北条相模守、小田原北条、 小田原大久保等皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず、徳川の世に至り家康公九 州名護屋出陣の際祈祷札を献上殊の他喜ばれ御朱印地五十石を寄せらる。爾来徳川累 代将軍に及ぶ。正月には必ず江戸城に登城して親しく年礼申上げ御祓札を献ずるのが 例となり幕末まで続行せり、明治六年、郷社に列せられ、昭和七年四月、県社昇格の 御内示を受け現在に及ぶ。

社殿
社殿造営の沿革として記録に残っておるのは、建久年間、源頼朝、社領若干を寄附し 社殿造営の事あり、時に川匂七郎政頼之を奉行せり。応永年間兵火に罹り社殿宝物等 悉く焼失し、ただ随神の木像のみ存す。応永三十年の頃、再建の事あり、後北条氏更 に修覆を加う。
永禄四年、上杉輝虎小田原を攻むる時、兵火亦社殿に及べり。よって元亀年間、北条 氏之を改造せり。特に小田原城よりは当社が丑寅の方角に当れるを以て北条氏の鬼門 守護神として格別崇敬が厚かりし、現社地附近に古大門と唱ふる所あるもその謂なり 。安永九年、大風雨により社殿著しく破損あり。三十二代神主二見左門忠良、遠近に 勧進して天明七年、之を再建せり。
当時地勢に沿革ありしかば南面して社殿を建立せしという、以後昭和初年に及ぶ。現 在の社殿は昭和七年、県社昇格の御内示を受け新築造営工事に着手せり、爾来大東亜 戦争、終戦等幾多の困難変遷を経て、昭和二十六年、現宮司に至り完成せり。
神域
境内地二千坪、四囲風致林五千有余坪、老杉雲表に聳え、閑静典雅にして荘厳なる霊 地なり。県自然環境保全地区に指定さる。
宝物
社蔵の宝物の主なるものを挙げると
器物の部
網石 壱顆 高さ 八寸径四尺 重量 十二貫 網の如く目理ありて網石と名付 く二見氏の先祖伊勢二見浦より携へ来りしものにして旱年には河中に入れ雨を祈るに 霊験あり。
木像 弍躯 豊磐間戸神・櫛磐間戸神  丈け 三尺五寸 衣冠を着したる状態に して何年頃何人の作なるや詳かならず、されど当社応永年間兵火に罹りし際幸に災を 免れしものなり。随神門に奉祀す。
木像 四躯 丈 二尺一寸 これまた前者と同じく応永年間兵火を免れしものであ る。千有余年以前の御神像であると考古学者は推定せり。
田船 (丸木船) (二宮町重要文化財) 長さ 四尺八寸 巾 七寸八分 厚さ 一寸五分 大正四年旧神領地の水田より発掘されたものにして左半形をとどめて居る 、原木をくりぬいたものであり奈良時代のものと推定さる。
(古文書の項中略) 
天然記念物 (二宮町重要文化財)
大銀杏 樹齢推定三〇〇年 国道より参道入口に位置す。
祭儀
当社の古式祭として元三祭、御的神事、牛王祭等相模風土記にも見えるが、現在行わ れている御祭儀の主なるものを挙げると。
元旦祈祷祭 一月一日 午前零時願主氏子崇敬者に授与される護摩札を神前に献備し て祭儀が厳修される。
御筒粥祭 一月十五日 早暁古式に倣い、その年の十二種の穀物の豊凶を占う古式神 事である。
節分祭 二月節分の日 神前にて旧儀による追儺神事の後、鬼追神事が行われ続いて 裃姿の多数の年男による小判入福豆が撒かれ、参拝者争ってこれを戴き盛観である。
祈年祭 二月十七日 五穀豊穰と産業振興とを祈念し、大祭として祭事が厳修される。
国府祭 五月五日 相模国一宮寒川神社、二宮川匂神社、三宮比々多神社、四宮前鳥 神社、平塚八幡神社、総社六所神社以上六社の神輿が祭場たる中郡大磯町国府の神集 山に渡御になり合同祭典が執行される。端午祭、天下祭とも呼ばれ千有余年の伝統を もつ祭典として名高い。祭儀中の古式「座問答」は相模国の国造りの古事を伝え有名 である。所謂「国府の市」と云って多数の参詣者で賑ふ。昭和四十一年、県無形民俗 資料の指定を受ける。
例大祭 十月十日 「みそぎ祭」とも云う。当日早朝祭典斎行の後神輿社頭を発御、 須崎の浜にて神事あり。引続き氏子区域一円渡御相成り夕刻還幸さる。神社にては弓 道奉射大会、舞踏等賑々しく催される。
新嘗祭 十一月二十三日 勤労感謝の日 氏子より奉献された種々の新穀を神前に捧 げ新穀感謝の大祭が厳修され、記念講演等催される。
大祓式 夏越大祓 (六月三十日) 氏子崇敬者の大祓形代を神前に備え古式に倣い厳粛 な代祓神事が執行される。 師走大祓 (十二月二十九日)
其の他 月次祭 (一日・十五日) ・初宮詣・七五三詣・成人祭・結婚式・交通安全祈 願・家内安全・商売繁昌・厄除・還暦算賀の奉告祭・各種祈願祭等恒例臨時の祭儀が一年を通して賑々しく行われている。



大住郡[スミ]:4座並小

前鳥神社[サキトリ]
前鳥神社[さきとり]「菟道稚郎子命 合 大山命 配 日本武尊」山代宇治の宇治神社以外に菟道稚郎子命を祭る珍しい宮である。命は弟仁徳天皇に位を継がせるべく自殺となっているが自ら一族を率いて東国に下ったとする説がある。神奈川県平塚市四宮神戸2408 神社公式

参拝の栞
御祭神
菟道稚郎子命 (うぢのわきいらつこのみこと)・学徳の神様です。
大山咋命 (おおやまくいのみこと)・活動と福禄の神様です。
日本武尊 (やまとたけるのみこと)・安全守護の神様です。

御由緒
この地は、相模川に沿った沖積地で、水田白田あいなかばする肥沃なところです。し たがって、はるかな時代から、豊かな集落が発生していたらしく、石器・土器などの 遺物がたくさん発見されています。
四之宮の地名は、平安時代にはじまっていますが、それ以前は古くから「さきとり」 といわれ、天平七年 (七三五) の相模國封戸租交易帳に「大住郡埼取郷」の記載があ ります。「さきとり」の地名が、いつごろからはじまったかあきらかではありません が、奈良時代より前からの地名であることはたしかです。この「さきとり」の地に住 んでいた人たちが、最も清浄なところを選んで、おまつりしたのがこの「さきとり神 社」で、氏神として奉祀したものと考えられます。氏神は氏の上を中心とした氏人の 尊崇をうけたものであることは申すまでもありません。延喜年間(九〇一〜二三) 、 『延喜式』が撰せられ、全國の著名神社が収録され、相模國の十三座が神名帳に登載 されました。当神社はそれに「前鳥神社」としるされています。このときから社号を 「埼取」「前鳥」「前取」あるいは「左喜登利」などといろいろにもちいてきました が、現在は延喜式神名帳にもとづいて「前鳥神社」と定めています。養老年間(七一 七〜二四 に相模ノ國の國府祭がはじまったといわれ、その頃から四之宮の称を生じ 、四之宮大明神ともいわれました。やがて前取郷が四之宮郷と通称されるようになっ たのも、これはあきらかに社号をもって地名としたものです。
当神社が延喜式神名帳に載る古社であり、上代以降相模ノ國の國司の祈願神社であり ました。さらに鎌倉時代には幕府の崇敬をうけ、建久三年(一一九二) 八月、源頼朝 公夫人政子の安産祈願にあたり、神馬奉献のあったことは、『吾妻鏡』の載せている ところであります。のち関東八ヶ國の領主となった徳川家康公は天正十九年(一五九 一 十一月、武運長久祈願のため朱印地拾石を寄進し、あわせて社地二千百余坪を除 地として加護を加えられました。創祀以来、当神社は神官がつかさどり、前取庄また は四之宮庄として中世まで、四之宮、新土(平塚市) 長沼 (厚木市) など広く神領と していた時代がありました。近世初期からは、古義真言宗雪霜山鏡智院を別当とし祭 事のすべてを管掌させてきましたが、明治維新の大改革にあたり、鏡智院家成海法印 が復飾して名を神代式部とあらため、神仕の職について以来、その子孫がつづいて神 職として現在に至っています。
昭和四十三年九月、この年創祀千六百年にあたり、元皇族賀陽恒憲氏をお迎えして、 創祀千六百年式年大祭が盛大に斎行されました。

御神徳
前鳥大神 (菟道稚郎子命) は、第十五代應神天皇の皇太子で、幼い頃より聡明で天皇 の寵愛をうけられました。当時朝廷に来ておらてました百済国の王子阿直岐から、帝 王の道を学ばれ、ついで博士王仁を招かれ学問の道をひらかれたことは、歴史の伝え るところであり、論語・千字文などの漢籍が、はじめて我が國に渡来したのもこのと きであります。よって昔より修学の神、学問の祖神として広く尊崇されるゆえんなの であります。またこの時代に、日本の農業、土木建築等が急速に発展したのも、学問 のほかに産業技術導入をはかられたからにほかなりません。まことに國運興隆の基を きずかれたこと、菟道稚郎子命に負うこと最も大であると申せられます。菟道稚郎子 命を祭神としてまつる神社は極めてまれで、全国では京都府宇治市にある宇治神社と 前鳥神社の二社であります。したがって当神社は関東唯一の学問・文化の祖神をまつ る古社であるといわれるものであります。現在では、この御祭神の御神徳を慕い、関 東一円より広く信仰をあつめております。
大山咋命は、山の神と称したてまつり、当神社においては、これを活動と福禄の神と して祭祀しております。もとは村内日枝神社(旧称山王社) の御祭神でありましたが 、明治年間、当神社に合祀されたものであります。

年間祭典
月次祭 毎月一日・十五日・二十八日
歳旦祭・元旦祈祷祭 一月一日 早朝元旦祭を斎行。続いて各種の新春祈祷が始めら れる。
奨学神社祭・学業祭 一月十五日
節分祭豆撒行事 二月節分の日 神事ののち、大勢の裃姿の年男により豆撒行事が行 われる。
崇敬会大祭 四月第三日曜日 一年に一度の崇敬会員の大祭ならびに大会
国府祭 五月五日 平安時代、相模ノ國の國府が餘綾ノ郡柳田 (大磯町国府) の地に 遷ると、国司が毎年端午に同所の神集山へ、一之宮寒川神社。二之宮川匂神社。三之 宮比々多神社。四之宮前鳥神社及び五之宮として平塚八幡宮の五社の参集をもとめ、 国家安泰、五穀豊穰の祈願を行ったのが始めとされている。昭和四十一年県無形民族 資料指定
夏越の大祓 六月三十日 一月から六月まで半年間に受けた罪穢を祓い除き心身とも に清浄になって夏を無事過すことを祈る。氏子崇敬者は人形を納め大祓をうける。
八坂神社例祭 七月十四日 境内社八坂神社の祭。神輿渡御
例大祭 九月二十八日 本社の一年に一度の大祭。広大なる御神徳を讃え、日頃の御 神恩に感謝の誠をささげます。当日は奉納書展、献句、盆栽展、奉納演芸があり、終 日参詣者で賑います。特に神輿の還御は古式による伝統行事として広く有名です。
七五三詣 十一月十五日
感謝祭 十一月二十三日 新穀を奉献、感謝の誠をささげる。
師走の大祓 十二月三十一日 一年間の罪穢を祓い清め、清々しい心で新年を迎える 祭。氏子崇敬者はこぞって人形を納め大祓をうける。 平塚市指定重要文化財

前鳥神社祭事
〇麦振舞神事
五月五日の国府祭、九月二十八日の御例祭の神輿渡御に際して行われる神事であり、 神輿を担ぐ為の力づけの「力飯」を食するもので、神人共食の神事でもある。 新編相模国風土記稿に「淘綾郡国府本郷村神揃山へ渡御アリ当社神輿供奉ノ者四月晦 日米一升ヲ椀ニ盛リ芋ノ葉ノ汁ニテ干莱箙蕃椒ノアヘモノヲ饗ス。麦振舞ト称セリ。 」とある。
〇神輿宮入り神事
御例祭に当り社頭を発った神輿は氏子内を一巡した後、夕刻太鼓橋までさしかかると 、楽の音の響く中、日本武尊を先頭とし、その年の新成人の警護のもとに渡御し鳥居 手前にて待ちうけていた氏子総代が神輿に白絹の「奠の綱」と呼ばれる神を導く綱を つけ、社殿まで誘導、やがて還幸を迎える。
〇日本武尊の舞
新編相模国風土記稿に記されている通り、当神社には社宝として「日本武尊の面」を 所蔵しているが、それに伴い別当鏡智院に相伝せられたあった舞がこの舞である。
日本武尊の草薙剣の古事と求福厄除が混然として入り交じっており単調な太鼓のリズ ムにより舞われる。
現在は二月の節分祭と、四月の崇敬会大祭のみに公開される。
○前鳥囃子
江戸時代前期より当地に伝わる囃子で、中期には江戸文化の影響をうけ里神楽の発祥 をみ、今に伝承されている。
笛を基調とした激しいリズムの中でおかめ、もどき、天狗、そして狐が舞い表す里神 楽は大変ユ−モラスなものである。


高部屋神社[タカヘヤ]
高部屋神社[たかべや]「神倭伊波禮彦命、譽田別命」大住大明神。神奈川県伊勢原市下糟屋2203http://www.geocities.jp/engisiki/sagami/bun/sag160302-01.html
高森神社[たかもり]「味須岐高彦根命」神奈川県伊勢原市高森527http://www.geocities.jp/engisiki/sagami/bun/sag160302-02.html

高森神社由緒
御祭神味須岐高彦根命は、日本に稲作を拡めた加茂族の首長でありました。大国主命 の長子として生れ、天照大神が大国主命に国土を献上するようにと天稚彦をつかわし た時、和合をもって平和に徹した神で、大和の葛城に鎮座されたのであります。
御祭神は、大変権威の高い神であるとともに日本の国土造りの中心人物でありました 。その高彦根命が、いつどんな経過で、この高森に鎮座されたか、明らかではありま せんが、おそらく古い時代、葛城にゆかりのある人々がこの地に来て開拓、農耕殖産 の道を教え、五穀豊穣を願い、郷里にちなみ、心のよりどころとしてここに高部屋の 社を建て、祖神の高彦根命をお祭りしたものと思われます。
加茂族の中心地葛城は、稲作に大変好適地であったばかりでなく、国内各地に至る交 通の要衝になっていたのであります。
葛城には、高鴨神社、鴨都波神社、一言主神社、御歳神社、高天彦神社など加茂族ゆ かりの古い名神大社があり、高鴨神社や高彦根命を始めとして、高天、高丘、高宮、 高市など「高」の字のつく神名や地名が多く目立つところから、ご祭神にちなみ当地 を「高森」と名づけたものと考えられます。
高森神社は、明治初年までは高部屋神社とも称されましたが、棟木に高部屋神社と書 いてあることと、鳥居脇の石碑にもそのように刻まれていることなどの物証もありま す。
明治初年、神仏分離令のおり、神社名を高森神社と改称されたと伝えられています。 延喜式にある高部屋神社は、おそらくこの社のことを指しているものと思われます。

社殿
古い言い伝えによると、本殿は、高梨家の先祖が、戦国時代の末期に改築したが、そ の後に焼失したため、享保元年に現本殿が建られたものであります。
また旧幣殿、拝殿、神饌所についてはあまりにも老朽、雨漏り腐食がひどく、危険で あったため、昭和五十三年五月十五日に氏子ならびに神社役員の協力により改築竣工 したものであります。

御神徳
弥生中期、水稲耕作が始った頃、加茂族の首長高彦根命は、事代主神と共に国づくり に大変活躍されました。神話においては国譲りに際し、謙譲の精神をもって接した御 神徳の高い御祭神であります。農耕にあたっては、鉄器をもちいて新しい殖産を始め 、日本国土づくりの神として尊崇を受けたのであります。平和の神、家内安全、五穀 豊穣の神として、また縁結びにわたる御神徳は、今後高森の氏子ならび崇敬者の人び との心に深く刻まれることを信じます。



比比多神社[ヒヒタ]
比比多神社[ひひた]「豐斟渟尊、稚日女命、天櫛明玉命 配 日本武命、大酒解神、小酒解神」神社付近より発掘出土した遺跡遺物などから推測すると、当神社の始源は今から約一万年以上前まで遡れる。神奈川県伊勢原市三ノ宮1468http://hibita.jp/神社公式
比比多神社「神吾田鹿葦津姫命」三ノ宮、冠大明神。神奈川県伊勢原市上粕谷子易1763 古代であそぼ

比比多神社(子易明神) 由緒
鎮座地 伊勢原市上粕屋 (子易) 一七六三番地
御祭神 神吾田鹿葦津姫命 又の御名 木花咲耶姫命
例大祭 七月十五日
御神徳 「天平の頃、当国守護の任にありし染谷太郎時忠が当国安土・子宝を願い勧 請す。後、その内室懐胎に及び信仰益々篤く、ひたすら安産の祈祷奉るに忽ち霊験現 る。依って、社頭以下設備怠りなく造営す。」と伝う。後に、醍醐天皇の勅願所とな り、神階・御告文その他旧記等宝殿に蔵せられしが、天正十八年小田原落城の折り、 惜しくも亡失す。爾来、神号を『易産大明神』又は『子易大明神』と称え、朝野の別 なく尊信極めて篤く、安産守護神として崇敬さる。
御社殿 創立年月不詳、ただ天平年中とのみ。以後、寛文二年修築 神官鵜川権太夫 直積代。享保二年再建(現在の社殿 工匠は荻野の宮大工) 神官従五位下行鵜川大隅 守藤原朝臣直賢 代 神木 二株 但し、一株は大正十二年関東大震災の折り倒木。一株は現存、欅の老樹。
向拝柱 往年より参拝せる者安産の符とし少量ずつ持帰りしたるため細りしもの、現 在の柱は三代目なり。
底抜柄杓 妊婦が安産を祈願し納めしもの。
美人図 歌川国経筆 享和二年十二月吉日 荻野住人神崎氏等三名納
絵馬 昭和三十五年十一月四日付 県指定重要文化財。
梛 (なぎ) 市指定保存木・当神社の肌守には梛の葉を一枚入れている。その由緒は別 紙参照。
解除の次第及び祝詞 伏見稲荷神官荷田宿祢信満 (国学の四大人の一人) が宝永四年 、門人鵜川直積に与えしもの [現在、宮司・鵜川氏宅に所蔵]

梛 (なぎ)
暖地に自生するマキ科の常緑喬木で、我が国では、古くから熊野の速玉神社や伊豆の 白浜神社・伊豆山神社などで、神木として崇められてきました。奈良の春日神社には 、この木の群生林があります。
梛の葉には、竹のように、不思議な平行脈が走っていますが、古よりこれを鏡の裏や 守り袋に秘めて、招福厄除としたのも、葉のひとひらひとひらに神霊が宿るとされて きたからです。
梛の木には、女梛と男梛があり、当神社の梛は、球形の種子を結ぶ女梛のほうです。 この葉を肌身につけていると、素敵な異性にめぐりあい、夫婦仲も円満に、そして、 女性には愛くるしい子宝をもたらすといわれています。
安産守護・子宝・子育ての神として鎮ります当子易明神に、この暖地の喬木がこれほ ど太く、大きく育っていることも、御神徳のたまものと拝察されます。
尚、梛は寒さや霜に弱いので、この地方の気候では、ある程度大きくなるまで霜よけ をしないと育ちません。現在、市指定保存木になっています。


阿夫利神社[アフリ]
大山阿夫利神社[おおやまあぶり]「高神、大雷命」崇神天皇の御代。大山阿夫利神社は大山の山嶺に三社がありまして本社は大山祇大神を祀り摂社奥社に大雷神が前社にタカオカミの神が祀られております。大山の上社は石尊大権現と呼ばれ大きい自然石を神体とする。神奈川県伊勢原市大山字阿夫利山1 神社公式

参拝の栞
大山大観 大山阿夫利神社本庁
御由緒 大山阿夫利神社は大山の山嶺に三社がありまして本社は大山祇大神を祀り、 摂社奥社に大雷神が前社に高O神が祀られております。摂社両社は古俗に大天狗・小 天狗、と称せられまして、本社の御霊体であり、底津磐根に鎮座して、高天原に千木 高知り座しておられる天下の神蹟といわれているのが、両部時代より大山石尊大権現 と称せられた祭神であります。
次いで大山阿夫利神社の由緒を述べればその御鎮座、神社創立は今から2200余年 以前の人皇第10代崇神天皇の御代と伝えられ古来より大山は山嶽神道の根源地であ り一名を雨降山、古名を大福山と呼ばれて、標高1253メートルの山頂に本社があ り、延喜式神名帖に登載せられており、式内社であります。天平勝宝4年(752年)に良辯大僧正が入山して漸く不動堂建立以来の時運は神仏習合の機熟し、堂塔僧坊 を建て、霊石の由縁を以って石尊大権現と称し奉り、一山を挙げて雨降山大山寺と号 した。
この号は神山の山頂に常に雨滴の点々たる霊木存するが故に名づけられたもので、今 なお雨降木の名を以って残されている。
爾来数百年の間神職・修験・僧侶等混淆して、奉務したのでありますが、時には聖武 天皇の勅願所となり、房相総3ヶ国の祖税を以って一山の費用に充てその報賽をおこ たらなかったのであり然るに元慶3年大地震があって神火に遭い、一山悉く烏有と帰 したこの時鎌倉の僧願行上人がこられて鋭意再興を計られたのであります。
元暦元年9月源頼朝は幕府所在国の霊社として特に社嶺を寄せて尊信し、崇敬厚く、 徳川氏に至り、朱印黒印等を以って社領を157石を寄進せられた、又神地境域の内 外に除地・山林200町歩を置き、殊に三代将軍家光公は18万両の巨費を献じて、 本社以下摂末社を改築し、殿字の結構なることは勿論、崇厳を極め、一山実に12坊 、8大坊をして管領せしめたものであります。    
然るに安政年間の大火により、全山灰燼に帰し、昔の盛観全くなくなったのでありま すが、鋭意崇敬者は再建に努力し、明治元年に至り神仏混淆が廃され同年10年鎮守 府の命によって、石尊大権現ならびに大山寺の称を、廃止して阿夫利神社の旧号に復 して、明治6年7月県社兼郷社と定められ、時の(初代祠官権田直助翁)続いて昭和 27年8月、宗教法が制定せられ、阿夫利神社本庁として出発し神社、祀職、先導師 、講社一連の組織を確立し、神道の実践と日本神社宗教の確立を計ることになったの であります。
御祭神 大山祇大神、高O神、大雷神 
大山の御神徳 御主神大山祇大神は又の御名を大水上御祖の神とも、大水上の神とも 申し上げ、神威炳焉、生活の資源は勿論のこと、海運、漁獲、農産、商工業また又の 御名を酒解神と称へ酒造の祖神とし御霊徳高く丹精を篭めて祈願すれば諸願一つとし て成就しないことはない。                          
古来より神意の現れたことは度々で、天狗の来住する神山であると いわれ、大雷神、高O神もまた共に殖産・灌漑・桑蚕の生業を守護して、その神徳は 明耀であり、生活に必要なあらゆる物資はみなその神徳によるものといわれる。  
大山の霊験顕著なことは、また幾多の神異が克く人智 では窺い知れないものを示しているのでも明確に知ることが出来る。境内外の摂末社 は二十有余社の多きを数え神徳弥高く、神蹟もまた多い。
大山の祭祀 当社の祭祀は年中その数多く、
1月1日歳旦祭また元旦奉幣祭は、元旦 より7日まで講社員の登拝多く、崇敬者のために、その家運隆昌の祈願祭を執行して いる。
1月7日の筒粥祭は、その年の作物の豊凶を占し、同夜引目祭という古伝神 秘の大神事を修する。これは宝祚の無窮と国土安穏の祈祷を修するのである。   
2月節分の日には節分祭を行って、厄除祈祷を修する、この日は崇 敬者の申出により年男を当山独特の儀式によって荘厳な、豆撒追難式を挙行する。 
春季大祭は4月5日より20日まで毎日祭典を行い、山嶺 本社の登拝を許可する。
4月25日には、当社歴代社司の霊を始めとして、講社物故者並に戦死者の霊を祀る 祖霊社の大祭を執行し年々合祀柱数も多く、遺家族の参列者も登拝、関東の慰霊祭と してよく知られている。                           
5月5日には、当社附属能楽社特有の神事能があり、また5月中に「酒 祭祈願祭」を執行し、併せて市販酒KI(ききざけかい)酒会を開催する。    
夏季大祭は所謂開山季、夏山祭で7月27日より始め、この日 に例祭を執行し、爾後20日間連日登拝する崇敬者が非常に多い。        
秋季祭は8月27・28・29日の3日間行われ、2 7日に神輿渡御鹵簿粛々として下社を出発し、大山町々方の社務局境内の行宮に奉安 して、当社に古くから伝わる大和舞巫子舞を奉奏するので賽者遠近よりの参詣者で賑 う。
紅葉祭は10月20日より11月20日 まで行う全山紅葉の錦衣に変る。
その他多くの神事があり、講社員又は崇敬者の祈願報賽には太々神楽舞、引目祭、鎮 魂祭供饌奉幣祭等の別があるが、何れも各々受持先導師の斡旋によって、神職威儀を 凝して奉仕し、霊験の顕著なことは、多くの人々が神思に俗していることで実証せら れている。 無形文化財大山神楽舞 大山の神楽舞は明治六年権田直助翁大山阿夫利 神社祠官に任ぜられてより倭舞巫子舞を孫一作氏をして奈良春日大社社家富田光美氏 について習得せしめられ明治十一年九月二日富田氏より阿夫利神社御祭典に之を奏進 する事を許された。昭和二十九年県無形文化財の指定を受く。          

大山の特殊信仰 当社古来からの特殊信仰に「納太刀」の慣習があり、昔源頼朝公が 在国の霊社として崇敬の誠を捧げられて、毎年一度佩刀を当社の大前に供え、武運長 久、諸災祓除の祈祷を修せられ、之を護身の太刀とせられたのに始まったもので爾来 これにならって、一般の人々にこの慣習が伝わり、毎年登拝の折には木太刀を納めて 、社頭に於て家運隆昌、諸災祓除の祈祷を受ける様になり、その木太刀を拝受して自 家の神棚に奉斉し朝夕神徳を仰いでその翌年登拝の際新旧を交納し、専ら諸願成就報 賽の至誠を捧げたのである。即ちこれによって実に立身出世、成功成就の祈誓と共に 質実鋼健、克己尚武の気風を涵養したのである。

大山祭事暦 元旦奉幣祭 1月1日 崇敬者の家運隆昌を祈念する。筒粥祭 1月7 日 その年の作物の豊凶を占う。引目祭 1月7日 病気平癒、国土安穏を祈る。節 分祭 2月節分 開運厄除宝撒き。春山祭 4月5日〜20日 講中参拝。祖霊社祭  4月25日当社歴代の社司戦死者の霊を祀る。酒祭祈願祭 5月下旬 全国の酒造 繁栄を祈る。 夏山大祭 7月27日〜8月17日 講中参拝。秋季例大祭 8月2 7日〜29日 神輿渡御。火祭薪能 10月1日・10月2日。紅葉祭 10月20 日〜11月20日。神事能5月5日・8月28日。神輿渡御行列 8月27日・8月 29日 以上                      
(注)文中の高O神は祭神コード02713タカオカミノカミです。
(注)文中のKIは、「口」偏に「利」です。



愛甲郡[アイカウ]:1座小

小野神社[ヲノ]
小野神社「日本武命」江戸時代は山下春命を祭神としていた。境外末社の小野神社は小野小町を祀る。神奈川県厚木市小野772 古代であそぼ
社頭掲示板
この神社は創立年代は不明であるが、延喜式によれば、寒川阿夫利神社とともに相模 十三座の中に数えられ、また小社に指定されているところから、非常に古社であると 同時に社格の高いことがうかがわれる。記録によれば鎌倉時代に入って愛甲村に館を 構え弓を執っては当代随一と称された愛甲三郎は、当社を心から崇敬した。この社の 古い納札によると当社は建久五年八月十二日、再興され、その時の願主として鎌倉幕 府政所長官大江膳大夫廣元、並びに愛甲三郎季隆の名が挙げられている。その後鎮座 地の移転があり、また近世に到り閑香大明神と称された時代もあったが、社殿はその 後五回工を改めているが、明治六年七月三十日、郷社に指定され、愛甲郡総鎮守とし て広く崇敬された。祭典に当たっては、県からの奉幣使各村代表の参列もあり厳粛盛 大なものであった。


高座郡[タカクラ]:6座大1小5

大庭神社[オホニハ]
大庭神社[おおば]「神皇産靈神」神奈川県藤沢市稲荷字持瀬997http://www.geocities.jp/engisiki/sagami/bun/sag160501-01.html
熊野神社「熊野久須比命」神奈川県藤沢市大庭1864http://www.geocities.jp/engisiki02/sagami/bun/sag160501-02.html

深見神社[フカミ]
深見神社[ふかみ]「武甕槌神 合 建御名方神」雄略天皇二十二年三月の創祀。神奈川県大和市深見3367 古代であそぼ

参拝の栞
延喜式深見神社御由緒
一、御祭神 武甕槌神・建御名方神 
一、鎮座地 神奈川県大和市深見三三六七
一、例祭日 九月十五日
一、由緒 深見神社の創始は古く、総國風土記によれば今より約千五百年前、人皇第 二十一代雄略天皇二十二年三月の創祀とあり、朝廷をはじめ、歴代國司より奉幣の事 が記されて有り、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神明帳に相模國十三座の社 と定められ、官社として扱われて國幣を奉られた。
深見は和名抄所載の布加美であって、古は深海又は深水と書き、相模原の東辺境川流 域一帯に亘る地を総称した。太古この附近一帯は相模湾が深く湾入し舟筏を以て交通 したことが推測され、今ここを古深見入江と仮称している(県史蹟調査員石野瑛氏説)。
当社の縁起によると、武甕槌神、東國鎮撫のために常陸鹿島に在られた時、舟師を率 いてここに進軍され、伊弉諾神の御子、倉稲魂神、闇・神の二神をして深海を治めさ せられた。両神は深海を治めて美田を拓き、土人を撫して郷を開かれた。即ち深見の 名の起った所以である。今境内にある御倉稲荷神社は両神を祀る所であり、里人は五 穀豊穣をはじめ、縁結び・家内安全・商売繁昌・学問等の神と敬っている。
景行天皇の御代、皇子日本武尊御東征の時、足柄峠を越え古相模湾の岸を経てここに 軍を駐められ、この入江から舟師を出されたと云う。今郷内にある薙原、石楯尾及御 難塚の地名は尊の御遭難の地と伝称されている。
後屡々官使の来反があった。深見(深水)、瀬谷(店屋)、草柳(草薙)、蓼川、久 田(宮田)等から米、粟、鯉、鰻、鮒、蓮根、菱の実、独活、善活等を進貢し又は其 の饗に充て、又薬草を採取して主薬部に献じた事皆古書に伝えている(伴信友書写総 國風土記による)。
年移ること千五百余年、其の間世々里人の尊崇厚く、渋谷庄司重国、佐々木源三秀義 の昔から降っては山田伊賀守経光を深見四万坂に討滅した。太田道潅は其の出陣に際 して社前に戦勝を祈り、坂本小左衛門重安は徳川家康の大阪陣に従軍するに当って武 運長久を祈願して田を寄進し(鹿島田と云って今残る)、徳川幕府の寺社奉行坂本内 記重治は屡々参詣して社殿を造営し、相模國十三座の一深見神社となる社号標を建立 した。爾来坂本家は明治維新に至る迄代々当社を崇敬し屡々参拝の上奉幣した。 
明治六年十二月、太政官布告によって郷社に列せられたが同八年、隣地仏導寺の出火 に類焼し壮厳な社殿工作物重要古文書忝く烏有に帰し逐に神域荒廃して公称社格不詳 となった。明治四十二年、村内諏訪の森に鎮座の諏訪神社を合併し茲に我國建國史上 御縁深き二神は御同列に奉祭され、深見神社として御神徳益々赫かし、この地方遠近 の崇敬者より御神徳を敬仰されている。明治の初めから社殿造営、神社復興の議は有 志によって何回となく企てられたが実現されなかった。昭和十五年九月三日炎上以来 、実に五十五ケ年、社殿造営郷社復活の議が起り、深見神社奉賛会は組織され氏子崇 敬者の熱情は逐に昭和十六年十一月十五日に壮厳なる本殿、拝殿、神饌舎、玉垣、末 社、社務所、鳥居、手水舎等々を建立し、同十七年三月二十五日、改めて郷社に列格 した。
尚境内にある靖國社はもと厚木航空隊内の守護神として同隊の戦死者を祀っていたが 、終戦により取除きを命ぜられ深見神社に移築し、深見部落戦没者全員を合祀し昭和 二十六年四月七日、鎮座祭を執行し摂社とした。(深見神社奉賛会謹誌) 一、御神木なんじゃもんじゃの木 樹令五百年、周り四メートル、木の高さ四三メー トル、全国的に珍しい木である。
この御神木の北側御神木延喜の松があった。目通三丈五尺五寸(十一メートル) 、高さ百六十五尺余り(五〇メートル)、樹令一千三百年余り。白雉の頃植えられた と云い伝う。現在の御神木は延喜の松の下木であった。

宇都母知神社[ウツモチ]
宇都母知神社[うつもち]「天照大御神、稚産靈神、若日下部命」若日下部命(わかくさかべのみこと)は仁徳天皇の皇女で雄略天皇の皇后になられた方で非常に人徳の高い方で養蚕を盛んに奨励された。神奈川県藤沢市打戻字大仲2662 古代であそぼ

宇都母知神社略記
鎮座地 藤沢市打戻二六六二番地
御祭神 天照皇大御神 稚産霊神 若日下部命
天照皇大御神は伊弉諾、伊弉冉二神の生み給う方で、高天原を治められ、神徳宏大で 人々から敬われ、日神とも称え奉られた。
稚産霊神(わくむすびのかみ)は豊受大神の御親神で五穀や養蚕を司る神であります。
若日下部命(わかくさかべのみこと)は仁徳天皇の皇女で雄略天皇の皇后になられた 方で非常に人徳の高い方で養蚕を盛んに奨励された。
祭日 九月十五日
由緒
当神社は創立年代は詳かではないが延喜式内社で二十一代雄略天皇の御代(西暦四九 五年)に厳粛なる祭祀が行われたことが日本総風土記に記されている。なお風土記に よると当神社の所在地は相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。
六十一代朱雀天皇天慶二年九月(西暦九三九年)、若日下部命の御尊霊を大和国泊瀬 (はつせ)より遷座して相殿に奉祀されました。
九十代伏見天皇正応三年八月(西暦一二九〇年)、鎌倉八代将軍久明親王の執権北條 貞時が社殿を改築し、同年九月に参拝された。
寛永四年十一月(西暦一六二七年)、領主高木主水源正次が社地九百坪(約三千平方 米)を寄進し、また本殿の改築を行った。
震災当時の建物は安政五年(西暦一八五八年)に建築されたもので当時の記録による と本殿九坪(約三十平方米)拝殿二十五坪(約八十二平方米)幣殿四坪(約十三平方 米)神楽殿二十坪(約六十六平方米)であった。
また、当神社は明治六年十二月に郷社に列せられた。
大正十二年の関東大震災により、社殿等全てが倒壊したが村人一同の総力をあげた努 力により倒壊後わずか三年、大正十五年九月に総てが現状のように復旧した。 本殿神明造六坪(約二十平方米)幣殿五坪(約十六平方米)拝殿十二坪(約四十平方 米)神楽殿十六坪(約五十三平方米)参集殿十五坪(約五十平方米)神輿殿三坪(約 十平方米)が再建された。
境内地は約一丁六反(約一万六千平方米)で全域風致林の指定を受け、また昭和四十 九年、自然環境保全地域の指定を受けている。打戻字大平二〇〇九番地には溜池一反 五畝(約百五十平方米)の社有地もある。
昭和二十年春戦争中、物資回収が行われ釣鐘が献納され鐘楼に鐘がないまゝであった が昭和五十年、天皇の即位五十年を記念して氏子総意により鐘が再建された。
また、当神社の神輿は百数十貫といわれる豪華なもので毎年例祭日には氏子を始め近 隣の崇敬者達多数により渡御が行われる。


寒川神社[サムカハ]
寒川神社[さむかわ]「寒川比古命、寒川比女命」御鎮座地が、関東の中心からまさしく西南坤の方角、いわゆる正裏鬼門に当っており更にその御本殿の正面が、西南方に向っていられることも神社建築中他に例の無い特異な存在として世に知られている。神奈川県高座郡寒川町宮山3916 神社公式http://www.genbu.net/data/sagami/samukawa_title.htm

寒川神社誌
御祭神 寒川比古命(さむかわひこのみこと)、寒川比女命(さむかわひめのみこと)
御祭神二柱をたゝえて寒川大明神又は、寒川大神と奉称している。
御神徳 寒川大明神は太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開 拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産 興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの 親神である。この地方に生を享ける者としては、夢寐にも忘れることのできない一切 生業の大恩神にましますのである。
而して悠久幾千年、国土国民、一切生業の守護神として、あらゆるものゝ生成化育発 展充実を理想へと導びかせ給い、わけても古来唯一の八方除の守護神として、御霊験 あらたかにましまし、地相・家相・方位・日柄・厄年等に由来するすべての悪事災難 をとり除かせられ、福徳開運をもたらし、生活々動に限りなき恩恵をかがふらせ給う など、御神徳は実に広大無辺にあらせられる。
因みに、当社の追儺祭に用いた弓箭は、五穀の豊穣・除災招福・健康長寿或いは子供 の夜泣きに霊威あらたかなりと信ぜられ、武佐弓祭の神的に掛けた麻は、妊婦の安産 ・土木建築に、斎竹は水利水運・漁業航海に御加護しるく流鏑馬の的は、当るとの意 味から、商売繁昌、勝負事の必勝に冥助を戴けると伝えられ、さては末社に白豆腐を 供えて祈ると母乳に恵まれると云われ、御本殿裏の難波の小池を渫って雨乞をすると 、慈雨降らざるなしと信ぜられている等、何れも古くから巷間に根強い信仰を繋いで いるが、これらはすべて涯しなき御神威の一端をそれぞれの由縁に因んで敬仰したも のであって、ともあれ、いやちこにおはします御神徳の片鱗を物語るものである。更 に、御鎮座地が、関東の中心東京の都心からまさしく西南坤の方角、いわゆる正裏鬼 門に当っており更にその御本殿の正面が、西南方に向っていられることも神社建築中 他に例の無い特異な存在として世に知られてるが、いずれも尊い御神慮によることと 仰がれる。即ち東京都を中心とする関八州を背後にしてその裏鬼門の鎮めとなられて 、この地に神鎮り給うのであって、目に見えるこの一事を以てしても御神慮のほどが 偲ばれ心打たれるものがある。

御由緒 関八州鎮護の神として古くからこの地方の名祠とあがめられている。
即ち総国風土記によると、約千五百年前雄略天皇の御代に幣帛を奉納せられたとある ので、当時既に関東地方に於ける著名の神社として遠近に知られていたことが明らか であり、従って創建の極めて古いことと、往古から朝野の崇敬殊に厚いこととが知ら れる。
以後桓武天皇の延暦七年五月をはじめとして、御歴代奉幣、勅祭を行わせられたこと は史上枚挙に遑まがない。仁明天皇承和十三年以来、数次に神階の奉授があり、更に 醍醐天皇の御代に制定された延喜式では、相模国内唯一の国幣の大社と定められ、特 に名神祭に預る名神大社にも列せられた。
斯く皇室の御尊崇厚きは勿論、一千数百年の昔から相模国の一の宮、総鎮守として士 民信仰の中心となり、源頼朝・北条義時・同重時等屡々社参神宝を奉納し、小田原北 条氏も累代社殿の造替、社領の寄進等怠りなく、武田信玄の信仰も殊に厚かった。後 年徳川氏も亦代々社殿を再建、社領を奉る等武家の崇敬奉祀も鄭重を極め、明治初年 、官国幣社の制定定まるや明治四年五月、国幣中社に列格せられた。昭和二十年十二 月十五日、神道指令により官国幣社の制度は廃止され、現在は神社本庁の別表に掲げ る神社として崇敬されている。 
神域 現境内の総面積は一万四千二百八十五坪余りである。因みに往古の神領は現今 の藤沢・茅ケ崎・寒川・海老名の三市一町に及び広大なものであった。 御社殿 御社殿造営の沿革として記録に残っているのは、聖武天皇の神亀四年、称徳 天皇の天平神護元年等で、今から一千二百余年前のことである。その後仁明天皇の承 和元年及高倉天皇の治承三年等に造替せられ、更に源頼朝・北条氏綱・北条氏康等に よって改築のことあり、以来徳川幕府や氏子崇敬者の寄進によって間断なく造替修復 が行なわれ、往時の社頭の規模頗る広壮雄大であった。
現在の社殿及工作物は、国費と氏子崇敬者の浄財とによって、大正十四年一月着工、 昭和七年三月竣工したもので、御本殿以下建物二十一棟、神橋その他の工作物三十三 件を数える。尚現在の一ノ鳥居は昭和四年相模鉄道株式会社の寄進によるものであり 、二ノ鳥居は、明治五年、老朽し撤去したものを明治改元百年記念事業として、氏子 崇敬者の浄財により昭和四十一年九月、再建され、高さ、十六米・幅十三米・直径一 、六米の鉄筋コンクリート造りで関東一といわれている。

宝物 社蔵の宝物には、古文書・御神宝・武器・什器等多数あるがそのうち主なるも のを挙げると、
「武田信玄寄進の兜」永禄十二年秋、武田信玄、小田原征めの時に参拝奉納したもの で、明珍房宗の作、いわゆる六十二間筋兜で、重要美術品に指定されている。
「龍面」木彫彩色、古色蒼然刀法の冴えを見せた名作である。(牡牝二面)
「棟札」五枚のうち有名なのは大永二年九月吉日、北条新九郎氏綱と、天文十五年三 月吉日、平氏康と銘のあるもので何れも四百余年前のものである。
「薙刀」伝早良親王御奉納の薙刀(約一二〇〇年前)
「翁の古面」古式田打舞神事の祭具であって、福徳円満形相秀美希代の逸品と称せら れる。
「一之宮引付書」相模国の一之宮であることを証明したもので、往古より社蔵の重要 文書である。
「神領寄進状」天正十九年十一月、徳川家康から先例により神領百石を寄進した朱印 状である。尚その後歴代将軍のこれを認証した安堵状も悉く残っている。
「古墳発掘品」大神塚(おおじんずか)から発掘した鏡・曲玉・金環・直刀・鏃等多 数あるが、何れも古代文化の研究資料として貴重視されている。
祭典 恒例臨時の祭儀が一年を通じて数多く行われるが、その中には当社特有の古式 祭として由緒深い祭儀も少なくはない。その主なるものを挙げると、
「月次祭」毎月一日・二十日厳修。
「八方除祭・元旦祈祷祭」一月一日 午前零時、授与される八方除神札を神前に献備 して、古儀によって祭事が行われ、続いて年のはじめに当り氏子崇敬者並び社会の福 祉と平和とを祈る元旦祈祷祭が厳修される。
「追儺祭」一月二日 祭典は午後八時にはじまり続き社頭並に近隣の燈火を悉く消し て、神職・副士日蔭蔓の兜を冠り、太刀・金木(かなてぎ)を帯び拝殿に進み追儺板 を打つこと数百度、次に宝物数えの行事の後太鼓の音に合わせて『難波の小池』と高 唱しながら社殿を三周して終り邪気災厄をはらう。神前に供えた黒木の弓・葦の矢は 災難厄除の御守として遠近の参拝者競ってこれを戴く。
「武佐弓(むさゆみ)祭」一月八日 神前の儀に続き、斎場に懸けた古式の的に向い 祢宜が神歌を微唱して、三度矢を射り今年の吉凶を占う神事。
「節分祭」二月節分の日 追儺板を打ち古式による神事が神前に於て行われ、続いて 年男年女によって福豆と多数の福物とが撒かれ、参拝者争ってこれを戴き盛観である。
「紀元祭」二月十一日 日本国の建国を祝い、民族の興隆と発展を祈る。
「田打舞神事」二月十七日 五穀の豊穣と産業の振興とを祈る春祭に続いて、社人が 伝来の翁の古面を被り、耕田種蒔の形容をしながら神楽歌を謡って舞い豊年を祈願す 。一名福種蒔とも云う。
「年参講大祭」四月上旬 御神徳を慕い講員一同相携えて参拝、御神徳を感謝し更に 一層の御加護を祈る祭典で、奉納演芸等の催もあり折から境内の桜も咲きほこり連日 社頭は殷賑を極める。
「国府祭(こうのまち)」五月五日 一名端午祭。当社二大神幸祭(浜降祭・国府祭 )の一つで、中郡国府神揃山(かみそりやま)の祭場へ神輿渡御、早良親王夷賦征討 の祈願に発し、一之宮寒川神社。二之宮川匂神社(かわわ)。三之宮比々多神社。四 之宮前鳥神社(さきとり)。五之宮八幡神社の五社が参集し、各社粽その他の神饌を 供え国家安泰、五穀豊穣の祈願を行う。祭儀中の古式「座問答」は有名である。昭和 四十一年神奈川県無形民俗資料に指定された。
「夏越の祓」六月三十日 神前に設けた茅輪をくぐり罪穢を除き、心身の清浄ならん ことを祈る。氏子崇敬者は人形を納め夏越祓を受ける。
「浜降祭」七月十五日 「みそぎ」とも云う。午前三時に社頭発輿、途中加わる近郷 各神社の供奉神輿二十余基と共に茅ケ崎南湖海岸に渡御、暁の渚に列をなして渡り、 折からの旭光を浴びて壮観極まりなし。日の出に祭典を行って即日還幸。神奈川県無 形民俗資料に指定されている。
「流鏑馬神事」九月十九日 鎌倉時代より連綿の家柄の者が奉仕して来たが、昭和四 十一年より武田流司家、金子有鄰氏が奉納。現在金子家教氏が継承し奉納する。神事 は、武田流の流鏑馬に則って、天長地久の式、鏑矢奉献の式を行った後馬場に於て直 垂装束で馬に乗り馳け抜けながら式の的を射ぬき、「天下泰平」「五穀豊穣」を祈願 する。古くから「宮山のまち」と称し参拝者群参して雑踏する。
「例大祭」九月二十日 寒川大明神の由緒ある日で、氏子・崇敬者は、御神徳を讃え 日頃の御神恩に感謝する祭典であって神社本庁より遣幣使が参向し厳修される。当日 は献華・献茶・献句・武道・演芸等の奉納があり、多数の参拝者で賑わう。
「秋祭」十一月二十三日 新穀を神前に奉献し勤労感謝のまことを捧げる祭儀である。
「師走大祓」十二月三十一日 悪事災難を祓い清めて新年の幸福と繁栄を祈願する。 氏子崇敬者はこぞって人形を納め大祓を受ける。
八方除について
寒川神社は唯一の八方除守護神として、地相・家相・方位・日柄・厄除等に由来する 一切の災禍を除かせ給う御霊験を戴かれるよう八方除神札の授与と、八方除特別御祈 念とを行っております。
蓋し八方とは、東(卯)西(酉)南(午)北(子)の四方と、東北(艮)東南(巽) 西北(乾)西南(坤)の四隅のことで、古来からこの八方を基本にして、これに陰陽 五行、十干十二支九星八宮等を配当して、住居、方角運勢等の吉凶を判断しておりま す。即ち家相方位の吉方に合するか、凶方に傾向するかによって、禍を転じて福とな り、徳を滅して災を蒙る等、人生の寿夭、禍福、盛衰はすべてこの家相方位の吉凶順 逆に支配されるのであります。しかし住居は科学的見地に則したものでなければなり ませんが、種々の条件によって不可能な場合もあり、又家相学上理想的な建築は容易 ではなく、ましてや既設の住宅に居住又は移転する場合いちいち家相方位に拘泥して いる訳にはまいりません。又九星五行循環の条理によって人各々年により、本命殺・ 暗剣殺・八方的殺(八方塞)・金神(こんじん)・鬼門塞り・歳破・的殺等の方位の 祟り障りがあり、月により日によって吉凶があり、これらが人事百般の吉凶を支配し て、人生の禍福・盛衰を将来すると云っても、あわただしい現代社会に生活する者に とっていちいちこれらの法則に従って、行動することは、むしろ不可能と云わなけれ ばなりません。そこで吾々が知らず知らずの間に、又知りながらも所謂方位を犯して 旅行などし又日常生活を営み、家相に合わない家屋に居住し、転宅する場合等の一切 の災厄祟禍を除かせ給うべく、寒川大明神に、御祈念を捧げ、八方除御神札を戴いて 奉斎することによって、その家その家族の家相・方位・日柄等に基づく一切の悪事災 難を免がれ、普請造作・縁談縁組・転宅旅行・開業就職・開墾種蒔その他何事によら ず万事意の如く明朗快活な日々を送り、家業繁栄、福徳開運を招くことができるので あります。
八方除祈念には、小式以上永代式まで六式階がありそれぞれの式次第によって御祈念 を厳修しております。


有鹿神社[アリカ]
有鹿神社[ありか]「大日貴命」神奈川県海老名市上郷字宮畑2791 古代であそぼ

石楯尾神社[イハタテヲ]
石楯尾神社[いわたてお]「神倭磐余彦命」景行天皇の四十年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。神奈川県津久井郡藤野町佐野川3448http://www.geocities.jp/engisiki02/sagami/bun/sag160506-01.html

社頭掲示板
第十二代景行天皇の庚戊四十年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯 (あまのいわ たて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。石村石楯は高 座郡の県主で当地の住人であった。第四十七代淳仁天皇の天平宝字八年(一二二二 年 )、先の太政大臣藤原恵美押勝反逆の折、貢の為上京中で押勝の首をとり乱を鎮めた 功により高座、大住、鮎川、多摩、都留の五郡を賜ったと言われ、石楯尾神社の保護 者であった。幣殿、拝殿は昭和十二年に改築されたが本殿は室町時代の建築様式をよ く伝えており建築史上貴重なものである。本殿棟札には天保七年十一月氏子中、調写 、浄善石船、謹記とある。神楽殿は弘化年間(一八四五 年) に建てられたもので、通 常は中央部を通路に使用し祭典の折には厚板で覆い、奉納の舞、芝居の舞台として使 用出来る様に工夫されている。
平安時代に施行された延喜式[ 延喜五年(九〇五) 撰進、康保四年(九六七) 施行] に 記されている相模の式内十三社の内石楯尾神社は本社ではないかと言われている。 (注) 昭和十二年〜十三年にかけ郷社への昇格を運動したが、確たる証拠書類ない為 昇格ならず現在は指定村社で終わっている。今でも考古学者等が度々調査に訪れる。
森(杜) 木は根周り五m を越す大きな杉が何本もある。

石楯尾神社「石楯尾大神」神籬磐境の「エボシ岩」を人々が尊んで、拝み仕えまつった祭政一致の生活の行なはれた所が京塚山の頂上にあったのが起源である。神奈川県津久井郡藤野町名倉4524http://www.geocities.jp/engisiki02/sagami/bun/sag160506-02.html

参拝のしおり
生命の親神 總産土神 藤野町名倉鎮座
石楯尾神社
御祭神 石楯尾大神 (石楯尾神社に鎮まる神様)、産土神、伊邪那基幹神、天御中主 神 (高皇産霊神 神皇産霊神)、天常立神、国常立神、天照座皇大神、大歳神、猿田 彦神、菊理姫神 (幽産土神=速玉男神 事解男神) 、事代主神、日本武尊、守良親王 (亀山天皇の皇子) 、その外多くの神々

由緒 大事な事
一、神籬磐境 二、エボシ岩 三、国史所載社 (文徳実録) 4、 延喜式 内社 五、総社 六、明治六年よりの郷社 七、昭和四十三年より神奈川県神社庁献幣使参向神社
この世のはじめ、天地創造の折に、神々が国の鎮めとなさっておくだりになった、天 然の神籬磐境の「エボシ岩」を人々が尊んで、拝み仕えまつった祭政一致の生活の行 なはれた所が京塚山の頂上にあった。ここが富士神界( 肉体ある人の世より前の霊体 の神神の世)の中心地・高御座であった。 (相模の国の奥津宮=総産土神) このエボ シ岩の脚部の岩盤が西にのびて地上に現れ出た所が石楯であり、ここが産土路にあた り(石楯が粘板岩でここが変成粘板岩) 古代人が神を斎きまつった所・斎庭として人 々の崇敬の中心となり、崇神天皇より古くから総産土神としてお社が設けられた様で あり、高位の神々様が数多くお鎮り遊ばされて居り、応神天皇の御幸所で御造営があ ったとも伝えられ、文徳天皇天安元年五月、丙辰・従五位下の神とし官社に預った事 が文徳実録にある国史所載社で、だいご天皇の御代延喜の制では式内小社に列した延 喜式内社で、安徳天皇寿永元年には藤原左府広信が勅宣を蒙って再興し、大将軍源頼 朝が祈願所として七つの大鳥居を建て、御黒印七十五石余を寄進し、後柏原天皇文龜 三年には関白殿下十六世後いん監物大夫陽近が勅使として、本殿並に拝殿、幣殿、玉 籬、二天堂二王門、随神門七十五ヶ所、表僧坊十六院末社七ヶ所を造り終えたと伝え られている。
奥三保十八ヶ村川入郷七ヶ村都合二十五ヶ村の総社 山梨県に多くの氏子) として崇 敬されてたが、三増合戦の禍を受け、東山天皇永録十二年十月十八日、武田信玄のた め社殿全部が烏有に帰して、古記録まで焼失してしまった事はまことに惜しい事であ った。後に再建されたが享保六年二月、祝融に災され、現在の社殿は、中御門天皇享 保九年に建築されたもので、光格天皇文化五年六年には神祗管領卜部朝臣より幣はく が献上してあり、明治六年、社格制定に際し郷社に列し、明治四十四年十一月十七日 ね末社が合併されたが、実態は境内移転だったので現在も境内神社として残ってる。 大正十二年二月五日、神奈川県告示第二十六号により、神饌幣帛料供進指定神社に指 定され、第一回の例祭が関東大地震の九月一日であった。天安元年五月に官社に預っ た日も地震の日であった事を考えると、何か天地の自然現象を司り給う大歳神の御鎮 座と不思議な関連がある様に思はれてならない。
昭和二十年十二月十五日、神道指令により社格廃止となり、昭和二十年十二月二十八 日、宗教法人令による神社宗教となり、神社本庁に所属し、昭和二十七年十二月二十 二日宗教法人法の神社として登録を完了した。
昭和二十三年一月二十四日、神奈川県神社献幣使参向神社に指定された。
これらの事を証明する様に、古代人の住居跡や、縄文時代草創期の一万年前のれき器 ( 石器) ・縄文土器・弥生土器も出土して居り、甲相( 山梨県と神奈川県) 開発の文 化の中心地としての総産土神の御加護の証明もあり、往古より河内・野崎・倉田・和 智・宮野・中村・鈴木・浜名・山崎・森久保等の諸氏が広い地域に居住して、ずっと 栄えて来た様である。各氏の居住地には必ず小氏神をまつり、敬神崇祖により世の平 安を祈りつづけた様である。
例祭日 八月二十六日
特殊祭 霊開きの祭 (毎月満月の日)
建造物 本殿 神明造 銅板葺 面積 四・四二平方米
幣殿 木造 銅板葺 面積 一七・八平方米 
拝殿 木造 銅板葺 面積 二〇・七平方米 
随神門 木造 銅板葺 面積 一八・〇三平方米 
祖霊社 木造 亜鉛板葺 面積 四九・三平方米 
休憩所 木造 亜鉛葺 面積 七九・三平方米 
手水舎 木造 銅板葺 面積 三・三平方米 
鳥居 石造 黒木型 間口 一・八三平方米 高さ 三・八米
おみこし 木造 寄棟 間口 〇・四五米 全高 一・三米 明治元年五月 愛甲郡 半原の住矢内但馬守藤原高光の作
境内神社 八幡神社 蔵祖神社 春日神社 天満天神 日月両宮 稲荷神社 浅間神 社御嶽神社 住吉神社 榛名神社 疱瘡神社 大国様
宝物 相模国高座郡津久井県名倉村 石楯尾神社 蔵王大権現に、神祗管領卜部朝臣 良連より文化五年二月二十三日・文化六年四月十五日に献上したもの弐箇

石楯尾神社「大己貴命」神奈川県相模原市磯部字中峯2137
諏訪神社「建御名方神」神奈川県大和市下鶴間2540http://www.geocities.jp/engisiki/sagami/bun/sag160506-04.html

参拝の栞
鎮座地 相模国大和市下鶴間二五四〇番地
当諏訪神社の創立は不詳であるが、千有余年前にすでに鎮座されたと伝承され、「新 編相模風土記稿」によれば、たびたび再建された記録がみられる。そして社運は歴史 とともに隆昌し、今日に至ったものである。
御祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)
諏訪大明神として多くの人に尊崇されているが、御名は建御名方神と申し上げる。建 御名方神は大国主神の第二子で、兄は事代主神である。
天照大神は「豊葦原の瑞穂国はわが子の治める国である」として、出雲国を治めてい る大国主神に国を譲るよう、たびたび使いを下したが、聞き入れられなかった。そこ で最後に建御雷男之神を使いとしてたてた。この時、大国主神の御子事代主神はたま たま海に出ていたが、魚つりから帰ってきて国土の返上を承知した。ところが建御名 方神は承知せず、建御雷男之神と伊邪佐の浜で力くらべを行った。これが相撲の始ま りといわれている。その結果、建御名方神は敗れ、科野の国(長野県)の州羽(すわ )[諏訪]の海(湖)まで逃がれて帰順された。そこで大国主神はやむなく国土を返 上したという。これがいわゆる国譲りである。
一方、建御名方神はこの地にきてから農業を興し、養蚕を教え、産業の振興に尽くさ れたため、国は大いに栄え土民の等しく尊崇するところとなった。
この地、すなわち今の諏訪湖のほとりであり、ここに諏訪大社がある。大社は全国一 万八千余といわれる諏訪神社の総鎮守であり、当諏訪神社も鎌倉時代中期のころ分霊 されたものと考えられる。したがって当社は産業の神として、また武神として遠い昔 からそのご神徳を讃仰し尊崇されてきた。
通常、神社のご神体は神札、神木、または神鏡のところが多いものの、当神社はご神 像である。「大和市史研究」第二号によれば、次のように説明されている。 木造男神立像 一躯 太刀を佩き、右手に扇状の持物をもって立つ。寄木造、玉眼嵌 入、彩色。頭部・両手首いずれもさし込み。胴部の内刳にきわめて深い。造像時期を 示す銘文写は残らないが、面部の表現には若宮八幡宮の応神天皇座像に通い合うよう な彫技が感じられる。十八世紀前半頃の造立と考えて大過ないのではなかろうか。( 中略)市内の神像彫刻を考える上で貴重な像といえよう。像高五四.四糎(大和市重 要文化財)
社殿 当社の現社殿は拝殿、幣殿、覆殿からなる。江戸時代たびたび災禍等にあい、 そのつど再建された。また、安政五年十一月六日、落成間近の社殿は、大工の失火に より悉く焼失、明治維新となるや、氏子の総力をあげて欅材等寄進が行われ、三ヵ年 の歳月を経て明治五年、立派に再建された。当時は拝殿と覆殿は別棟であった。
一、拝殿 現在の建物は明治五年に再建されたもので、当時は茅葺屋根、総欅であっ た。拝殿の各所には見事な彫刻が刻まれているが、特に廻廊の両側にある中国の昔、 漢の張良の物語、「子房覆(しぼうくつ)を捧ぐの図」の彫刻は貴重なものである。 その後いくたびか屋根替工事も行われ、また大正十二年の大震災には大損害を被った ものの、直ちに補修が行われた。さらに昭和三十七年には屋根を鉄板葺に改修された が、幾多の歳月を経て損傷をきたしたので、多くの氏子等の浄財により、一年にわた る工事で昭和五十八年、従来の形式のまま屋根を銅板葺とした。このおりその他の個 所の補修と、覆殿、幣殿の再建も同時に完成し、同年五月、遷座式を斎行したもので ある。
二、幣殿 この建物は祭祀を行うところである。関東大震災の復旧工事が昭和三年に 行われた時、拝殿と覆殿の空間に新築されたものであったが、昭和五十八年の大改修 工事の際、さらに祭具室、神饌所と共に新築された。
三、覆殿 通称、本殿と呼ばれているが、正しくは覆殿という。明治五年に拝殿とと もに再建されたとき、茅葺の寄棟式建物であったが、昭和三十七年に鉄板葺に葺き替 えられた。しかし、長い歳月で建物の損傷が大きかったので、昭和五十八年、神明造 り銅板葺として新築完成した。
拝殿二三.一平方b(七坪)構造 銅板葺、千鳥破風入母屋造り 
向拝 九.九平方b(三坪)軒唐破風造り 
幣殿 一六.五平方b(五坪) 
祭具室 三.三平方b(一坪) 
神饌所 三.三平方b(一坪) 
覆殿 一六.五平方b(五坪)銅板葺、神明造り 
四、本殿 本殿は一般に中宮または奥の殿といわれている。一間社、千鳥破風、軒唐 破風付の屋根形態や組物の多用、建物全体に施された彫刻など装飾性が強く窺え、建 築様式の観点からみて、幕末から明治初期の建築と考えられる。
身舎(もや)は正面約一b、側面約九〇aで、身舎の前面に向拝があり、側方からみ ると屋根は前方に葺下した方が後方より長くなっている。このような本殿形式は流造 と呼ぶ。当本殿の場合、身舎正面の柱が一つであり、一間社流造と呼ばれる。屋根は 板葺、箱棟になり、正面に向けて千鳥破風が、また向拝正面に軒唐破風が取付けられ ている。また、垂木は二重、繁垂木である。
身舎の周囲は組高欄付の縁が廻り、肘木・斗(ます)を四段に組み、向拝には身舎に 登る六段の階段があり、その周囲に浜縁が取付いている。小規模な建物にもかかわら ず複雑な組物手法をとり、かつ多用していることは当本殿の大きな特徴の一つである。
もう一つの特徴は、本殿全体が彫刻に覆われていることである。身舎の周囲壁面や脇 障子には、中国の故事を題材にした肉厚の彫刻が嵌込まれているほか、全体を通して 上部には雲や飛鳥など天空を配し、中間部には人物、草花を、下部には波、水、水鳥 、魚など池水に関する題材が見られる。また、向拝の廻りには竜や獅子の彫刻が施さ れている。神社建築において、建物全体がこのように彫刻で埋め尽くされる傾向は江 戸時代中期から見られ、当本殿のように彫刻に彩色を行わず木目(欅)の美しさをそ のまま表わす表現手法は幕末期になってからと考えられる。
以上、当本殿は小規模な建物であるが、屋根形態、構造形式、彫刻の多用など幕末期 建築様式を多く留め、市域においてもこのような建物はいまだ知られておらず貴重な 建物である(大和市の近世社寺調査報告参照。)
境内末社 
稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂神、例祭 初午の日 
当神社の創建は定かでないが、『新編相模風土記稿』に「末社・天王稲荷合社」とあ り、すでにそれ以前に鎮座されたことは明らかである。諏訪神社の参道右手のやや奥 まったところに小さな祠があったが、昭和六十二年、昭和天皇御在位六十年を記念し 、八坂神社、秋葉・古峯合社とともに再建された。
八坂神社 御祭神 須佐之男命、例祭 七月十四日 
天王様または牛頭天王様と称し、無病息災の神として崇敬され、明治十三年、神輿一 基を調製したと記録に残っているが現存しない。第二次大戦の直前まで七月十四日を 祭日とし子供達に菓子等を配り祝った。いまは神社役員によって厳粛な祭典を行い、 地域住民の平和と繁栄を祈願している。
秋葉・古峯合社 
秋葉社は火之迦具土神、古峯社は日本武尊を御祭神とし、ともに火防神として尊崇さ れている。
秋葉神社は静岡県秋葉山にあって火祭りが有名であり、古峯神社は、栃木県鹿沼市の 古峯原に鎮座しておられる。
今でも秋葉講、古峯講があり、地域の代表によって代参し、地域の安泰を祈念し、御 神札を当社に納める習しがある。
境外末社 
日枝神社(山王大権現) 所在地 大和市下鶴間二九六六番地、御祭神 大山咋神・ 国常立神・伊奘冉神を合祀。
伊勢社(和光神明宮) 所在地 大和市下鶴間二八七一番地、御祭神 大日・尊(天 照大神)、例祭は二社ともに十一月二十日。
元宮・石楯尾神社の伝説 諏訪神社はその昔、石楯尾神社であったとも伝えられる。 『新編相模風土記稿』に「諏訪社、村の鎮守なり、式内石楯尾神社なりと伝う…」と ある。
式内(延喜式内)石楯尾神社といえば、延喜七年(九〇七年)の神名帳に、「高座小 五座のうち石楯尾神社あり、天安元年(八五七年)五月、石楯尾神、官社に列せし」 とでてくる。つまり今より千百三十年前、文徳天皇のときの「文徳実録」に「天安元 年五月丙辰、近来霖雨不霽、今日京中水溢、是日相模国従五位下石楯尾神預官社…」 「下鶴間村、大島村、諏訪社をも石楯尾神社と伝う」とある。ここにいう相模国高座 小五座とは、座間入谷村、佐野川村、名倉村、下鶴間村、大島村のことで、ここに石 楯尾神社が祀られたという。石楯尾神とは御名を狭野尊、またの名を日本磐彦尊と称 し、贈名は神武天皇である。神武天皇が日向を出て東征し大和に入られるとき、天磐 楯をもってきた。第十二代景行天皇の皇子日本武尊が九州の熊襲を征伐のあと、東夷 征定を命ぜられたとき、景行天皇は「この楯を護りとして東国を鎮護せよ」といわれ 渡された。これを鎮楯または石楯という。
東国に向う日本武尊は、途中伊勢神宮を参拝し、ここで草薙剣を賜った。そして途み ち賊を征定し足柄峠をこえ相模に入られ、秦野、伊勢原あたりから厚木小野に至った 。ここで賊にあざむかれ野火の災禍にあうが、この剣で抜い難をのがれた(一説には 静岡県焼津あたりともいわれる)。さらに相模川を北にのぼり、佐野川村から大島、 座間を経て下鶴間村に至り、横須賀(走水)から安房に入られた。妃弟橘姫入水の悲 話はこのときの物語である。この征路の途中で御楯を安置し鎮護を祈願されたところ が石楯尾神社であるといわれている。               
諏訪神社の東方約百五十メートルのところに宮田塚と呼ばれる小さな石の祠があった 。これが元宮といわれるが、全農大和集配センター開発のおり、昭和四十七年、現在 地に移転、祭祀している。
神社の沿革 当社創立の年代は不詳であるが、古来より式内石楯尾神社なりと伝えら れ、新編相模風土記稿によれば文徳天皇天安元年(八五七年)五月、祭祀のことが記 され、醍醐天皇延喜七年(九〇七年)の神名帳には高座小五座のうち下鶴間村に石楯 尾神社ありと記されている。鎌倉中期のころ諏訪社として祀られたものと考えられ、 延宝八年(一六八〇年)再建の棟札のあったということからも、徳川氏入国当時既に 厳然と鎮座していたのは明かである。
なお元禄六年(一六九三年)六月、領主江原氏代官伊沢喜兵衛、同都筑氏代官瀬沼伝 右衛門本地を寄進し御神体として本殿に奉安せりという。宝永八年(一七一〇年)六 月再建、安永七年(一七七八年)再建の棟札は現存している。さらに安政五年(一八 五八年)十一月六日、完成間近の社殿を大工の失火により悉く焼失してしまった。そ の後、明治二年、神仏分離令により観音寺持より村持となり、氏子の熱意により明治 五年、社殿を再建遷宮の祭典を盛大に斎行した。明治三十年、秋季大演習の際、伏見 宮貞愛親王殿下が御参拝された。
大正十二年、関東大震災により大被害を受けたが昭和四年、復旧工事が完了する。さ らに昭和九年九月十七日、朝香宮鳩彦王殿下が演習統監のため当地御通過の砌り鄭重 に御参拝された。昭和十五年、村社に昇格、大東亜戦争勃発するに及び社名を諏訪神 社と変更、社運益々隆昌となったが、終戦を迎え昭和二十一年、政教分離令により宗 教法人諏訪神社となる。氏子崇敬者の尊崇はいよいよ篤く永年に亘る神社整備計画に 基き昭和五十二年、社務所を再建。更に昭和五十七年、覆殿、幣殿、神饌所、祭具所 、玉垣等を再建し、拝殿、向拝を共に銅板葺に改修、荘厳な社殿を完成し、翌年五月 、盛大に遷座奉祝祭を斎行した。
昭和六十二年、昭和天皇御在位六十年を記念し境内末社稲荷神社、八坂神社、秋葉・ 古峯合社の三社殿と併せその玉垣を整備する等盛事を行う。
惟うに当諏訪神社の隆昌は、地域の繁栄であり、氏子崇敬者こぞってその御神徳に感 銘し地域とともに神事などますます盛大となっている。
諏訪神社 祭事 一月 元旦祭・どんど焼き(十四日)、二月 節分祭・初午祭、四 月 (花見のつどい)、七月 八坂神社(天王様)祭典(十四日)、八月 奉納相撲 大会(第一日曜日)、(盆おどり・婦人会主催)、九月 例大祭(六日)、十一月  日枝・伊勢両神社祭典(二十日)、七五三祈祷、随時 宮詣、厄除、家内安全、交通 安全、地鎮祭など諸願御祈祷

諏訪神社「建御名方命」神奈川県座間市座間入谷1-1568 ふらん諏訪神社
諏訪明神「御穗須須美命」

社頭掲示板
諏訪明神(すわみょうじん)
この神社は覚心(かくしん)師によって、永正年間(一五〇四〜一五二一年)に創建 されたと傳えられています。
その後宝永七年(一七〇一年)に再建され、旧大島村、旧九沢村の総鎮守となりまし た。また古い記録に登場する式内社(しきないしゃ)のうちの一つ「石楯尾(いわた てお)神社」はこのことではないかといわれています。
毎年八月二十七日の祭礼の時にここで行われる獅子舞は県の重要無形民俗文化財に指 定されています。
 相模原市・相模原市観光協会

神奈川県相模原市大島594http://www.geocities.jp/engisiki/sagami/bun/sag160506-06.html
皇大神宮「天照皇大神、天兒屋根命、天手力男命、天太玉命、天宇受賣命、石凝刀賣命 合 石楯尾大神、八幡大神、春日大神」神奈川県藤沢市鵠沼神明2丁目1-5http://www.geocities.jp/engisiki02/sagami/bun/sag160506-07.html

相模国土甘郷総社皇大神宮由緒 
第五十三代淳和天皇の御代天長九年(八三二年)、御社殿造立の記録があり、勧請の 時期は更にどれほどさかのぼるべきか詳らかではないが、創建の極めて古いことは明 らかである。天喜三年(一〇五五年)、元亨二年(一三二二年)、天正十三年(一五 八五年)、昭和六十年(一九八五年)と造営を重ねられている。
御祭神は天照皇大神、相殿に天手力男命、天太玉命、天児屋根命、天宇受売命、石凝 刀売命を奉斎している。
第六十代醍醐天皇の御代、延喜式が選進されたころに、奈良時代以来現在の藤沢市の 内、藤沢、西富、大鋸、鵠沼、辻堂などの各地を合わせてとなえられていた相模国土 甘郷(とかみごう)の総社に列せられ、この時以来、相模国土甘郷総社神明宮と称し 、あまねく人士の尊崇を集めることとなった。         
また、長治元年(一一〇四年)に到って鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘(おおばのし ょう)を伊勢神宮に御厨(みくりや)として寄進したので大庭荘が大庭御厨と呼ばれ るようになってからは、その領内、即ち東は俣野河(現在の境川)から、西は寒川郷 に到る区域、また北は大牧崎(現在の藤沢市最北端)から、南は海(現在の片瀬の一 部、鵠沼、辻堂、茅ケ崎の海辺の諸村)に至る区域、いわゆる境川と小出川とにはさ まれた広大な伊勢神領大庭御厨総鎮守と定められ更にあつく崇敬されることとなった。
これより先、天喜年間、八幡太郎義家、奥州鎮撫の途次祈願奉幣あり。また、寿永三 年(一一八四年)、那須与一宗高は屋島にて扇の的を射た弓一張と残りの矢を奉納、 併せて所領の那須野百石を寄進し、その他代々の領主崇敬奉斎も鄭重で、伊勢神領大 庭御厨総鎮守相模国土甘郷総社神明宮の社名いよいよ高く、中古以来相模鎌倉の鶴岡 八幡宮、武蔵府中の六所宮と並び称せられた旧社であるが延享年間の盗難により惜し くも伝承の古記録等を失った。その後に至り明和二年(一七六五年)六月十七日、領 主布施孫兵衛尉頼路、参篭し祈願奉幣あり。且つ天照皇大神宮と謹書した白絹御戸張 を奉納、明治維新まで例年奉幣を怠りなく続けられた。
明治元年九月、征東大総督一品中務卿有栖川宮殿下東下の際、神明宮の御染筆を賜る 。また、例祭は八月十七日。当日九基の盛装した人形山車の参進は特筆すべき盛観で 、神奈川の民族芸能として県の指定があり、更に例祭そのものが「神奈川のおまつり 五十選」に選定されている。尚、昭和六十三年に藤沢市重要有形民俗文化財に指定さ れた。
なお、当皇大神宮には、第五十一代平城天皇の御代、大同三年(八〇八年)、御創建 の延喜式内相模国十三社、式内石楯尾神社が相殿八幡大神、春日大神とともに御同座 である。式内石楯尾神社は当宮の御鎮座以前に、現在の当宮境内地に勧請された旧社 で国史に所見の神階叙位、官社に列せられた名社である。



h16.11.30

延喜式神名帳目次

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