讃岐國:24座 大3小21


寒川郡[サフカハ]:5座並小

志太張神社[シタハリ]
志太張神社[したばり]「天下春命」香川県大川郡志度町鴨部6449 玄松子の記憶

布勢神社[フセ]
布勢神社[ふせ]「大彦命」
当社は延喜式神名帳に「讃岐国寒川郡小布勢神社」とあり、延喜式内当国二十四社の 一なり創建年代詳ならずと雖も極楽寺記に天平年間行基菩薩薬師堂を石田に建て、極 楽寺と云い当社をもってその鎮守神と為せし旨記されたれば天平以前の創始なるべし 、祭神大彦命を祀る。
大彦命は孝元天皇の皇子に坐して四道将軍の御一人に座す、新撰姓氏録に「阿部朝臣 布勢朝臣同祖孝元天皇皇子大彦命の後也」とありて延喜式内神社に、越中国射水郡布 勢神社、備前国赤坂郡布勢神社ありて共に大彦命を祀れり。
一説によれば伏雷(ふせいかずち)、則ち雷神なりとも云う。
香川県大川郡寒川町石田西乙字道味3642 玄松子の記憶 
造田神社[ぞうた]「譽田別尊、氣長足比賣尊、足仲彦尊、少童命、大鷦鷯尊」香川県大川郡長尾町造田1969  鳴動釜神事(造田神社) 玄松子の記憶

神前神社[カンサキ]
神前神社[こうざき]「猿田彦命」香川県大川郡寒川町神前1623 玄松子の記憶

多和神社[タワ]
多和神社[たわ]「速秋津比賣命」香川県大川郡志度町大字志度字越窓126 玄松子の記憶

大蓑彦神社[オホミノヒコ]
大蓑彦神社[おおものひこ]「大蓑彦命」
当社は延喜式神名帳に「讃岐二十四座の一」とす、里人蓑神明神と奉称す、神社の北 方に寒川渕ありて名水なり、寒川郡名之によって起ると云う。
御祭神大蓑彦命は上古蓑を作り始め給ひし功績によりて称へし御名なるべしと云う 一説には素盞嗚命、又水霊神を祀ると云へり、神名帳考証に「寒川郡大蓑神社水霊郡 名寒川郡因此神歟」と云う。
特選神名牒に「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上 児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なりとある。
大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。
郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」と記されたり。
香川県大川郡寒川町石田東甲1743 玄松子の記憶


三木郡[ミキ]:1座小

和尓賀波神社[ワニカハ]
天野神社摂社引宮神社[ひきみや]「仲哀天皇」香川県木田郡三木町井上43 玄松子の記憶
鰐河神社[わにかわ]「豐玉姫命、應神天皇」
太古の昔、豊玉姫神、鰐魚に乗り、この地に来たり社を建立緒神緒仏遊戯の地となり ぬ延喜式内、和称賀波神社はこの産社なり。僧行基の建。郷社、高岡八幡宮とも奉称す。
後鎌倉時代に元軍退治の祈祷所となり、明治五年鰐河神社と改称し郷社に列す。旧応 神寺別当。さぬき十五社四番。
香川県木田郡三木町下高岡1843 リンク 玄松子の記憶
和爾賀波神社[わにかわ]「豐玉比賣命 配 玉依比賣命、八幡大神、息長足姫命」
香川県木田郡三木町井戸1582< 玄松子の記憶BR>

香川郡[カガハ]:1座大

田村神社[タムラ](名神大)
田村神社「倭迹迹日百襲姫命、五十狹芹彦命 配 猿田彦大神、天隱山命、天五田根命」
田村神社略記 祭神
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと),猿田彦大神(さるたひこの おほかみ),天隠山命(あめのかぐやまのみこと)五十狭芹彦命(いさせりひこの みこと)(吉備津彦命(きびつひこのみこと)),天五田根命(あめのいたねのみこ と)
以上五柱の神を田村大神と申す
倭迹迹日百襲姫命は人皇第七代孝靈天皇の御皇女にましまし祟神天皇の御代国内疫病 に苦しめるを救治し給ひ又武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反を予知して建言し給 ひ謀反を未然に防ぐ等数々の勲功あり仍て百襲(襲は勲功の約)の名を負ひ給ふ 後 吉備津彦命(きびつひこのみこと)と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫 の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた 御陵(はか)は大和国城上郡大市村 にありこの御陵を作るのに昼は人が作り夜は神が是を作られたと云はれ広大な御陵で 箸(はし)の陵(みささぎ)と言はれてゐる
五十狭芹彦命は姫命の御弟に当らせられ又の名を吉備津彦命とも申す 四道将軍の御 一方にして西海を鎮定し給ひ吉備国の祖神となられた
猿田彦大神は皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)御降臨の時天(あめ)の八衢(やちま た)に出迎へて御嚮導をなし道途の安全を守護し給ひし神にして此の神の向ふ所は如 何なる禍神も恐れて避け奉ったと云はれ方除の神として神威まことに偉大である
天隠山命は高倉下命(たかくらじのみこと)とも申し神武天皇御東征の砌霊剣を奉っ て偉功を立て給ひ後御子天五田根命(又の名を天村雲命(あめのむらくものみこと) )と共に紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基 を定められた
皇室武門武将の崇敬
当神社の起源は極めて古く社記によれば元明天皇の和銅二年社殿を創建すとあり往古 より田村大社定水(さだみづ)大明神又は一宮大明神とも称し夙に朝野の崇敬浅から ず 仁明天皇の嘉祥二年二月従五位下に叙せられ清和天皇の貞観三年二月官社に預り 延喜の制名神大社に列し讃岐国の一宮たり以後屡々神階を授けられ建仁元年二月正一 位の極位に敍せらる降って明治四年五月十四日に国幣中社に列せられたり 爾来皇室 国家事ある毎に勅使を御差遣あらせらる 古くは弘安七年七月後宇多天皇弘安の役の 奉賽として「正一位田村大明神」の勅額を寄せられ明治四年十一月、大正四年十一月 、昭和三年十一月の大嘗祭には何れも勅使御差遣あり大正十一年十一月摂政宮殿下大 演習御統監の為行啓には亀井侍従を御使として御差遣あり大正十四年十二月十日には 北白河宮大妃殿下御参拝昭和九年四月五日閑院宮戴仁親王殿下御参拝同年五月二十二 日梨本宮守正王殿下御参拝昭和二十五年三月四国行幸、同二十八年十月第八回国民体 育大会行幸には夫々幣帛料御下賜等皇室の御崇敬洵に厚い 武門の尊崇も亦厚く貞和 二年三月管領細川頼之領主たりし時には社域を拡築して一切経を奉納し長禄四年十二 月細川勝元社頭に壁書を掲げしめて神事を厳重に掟てなし降って天正年間仙石生駒二 氏相次いで此の地を領するに及び夫々社領を寄進したりついで明暦元年三月松平頼重 公国守に任ぜらるゝや社殿を修造して更に社領を寄進なし延宝七年に両部習合を廃し 五十石の社領中五石五斗を割いて社僧大宝院に寄せ神仏を分離し江戸時代の初期に於 て早くも唯一神道の道を開かれた爾来松平家の祈願所として累代社領を寄進し或は家 宝を献ずる等その尊崇明治維新に至るまで変ることなかりき
当神社奥殿の床下に深淵あり厚板を以て之を蔽ひ此の殿内には盛夏といへども凄冷の 気が満ちてゐて古くより神秘を伝へ今に窺ひ見る者なしこれ定水大明神の称ある所以 にして領内に水旱あれは領主奉行は必ず先ず以て当社に祈願したりと云う
香川県高松市一宮町大字一宮286   田村神社 讃岐国一の宮 田村神社 玄松子の記憶


阿野郡[アヤ]:3座大1小2

鴨神社[カモ]
鴨神社「一事主命、玉依姫命」
参拝のしおり
当社は坂出市加茂町992番地に鎮座しており、一言主命、玉依姫命をお祭りしている。
弘仁四年(八一三)空海の伯父阿刀宿禰大足が大和国より勧請か、再建とも伝う。往 古は大明神原に鎮座し大社であったが、天正年間兵火に遭い社殿焼失したので現在地 に奉遷し往古の俤を失うに至った。
現在の本殿は文化元年七月、幣殿・拝殿は明治三十六年九月の改築である。
明治初年村社に列し鴨葛城神社と称したが後鴨神社と改称した。
当社をもって式内社としているのは、官社考證・特選神名牒等である。
香川県坂出市加茂町992 玄松子の記憶
鴨神社「別雷命」
参拝のしおり
当社は坂出市加茂町540に鎮座しており、別雷命をお祭りしている。
三代物語全讃史などでは当社を式内社とする。創建は聖武天皇の勅により国分寺建立 の時この地に雷雨洪水が有り国司藤原景隆により別雷神を祀るのにはじまる。以後社 殿の造営などがなされ鴨氏部二郷の鎮守となる。
香川県坂出市加茂町540 玄松子の記憶

神谷神社[カムタニ]
神谷神社[かんだに]「火結命、奧津彦命、奧津姫命」
参拝のしおり
当社は坂出市神谷町621に鎮座しており、火結命,奥津彦命,奥津姫命をお祭りし 併せて春日四柱大神を合祀している。
弘仁三年五月庚申に、弘法大師の叔父の阿刀大足は、阿野郡鴨部郷のはん米地二千石 を領した時、春日四柱を相殿に勧請して再興したと云われる。延喜武神名帳に讃岐国 阿野郡神谷神社と記してある。
三代実録には、貞観七年十月従五位上、同十七年戌申に正五位下を授けられたと記載 してあるが建保七年二月の本殿棟木墨書銘に正一位とあり、これより光正一位の神階 が授けられたと考えられる。肇祀は古代であって不明。旧郷社。三問社流造りの本殿 は明治三十七年八月、古社寺保存法により国宝に指定されたが建築年代が明らかで且 つ当初の古材を残す三間社流造りの日本最古の社殿として昭和三十年二月には文化財 保護法により改めて国宝に指定されている。
香川県坂出市神谷町621 神谷神社 国宝 神谷神社本殿  玄松子の記憶

城山神社[キヤマ](名神大)
城山神社[きやま]「神櫛別命」
参拝のしおり
当社は坂出市府中町4760に鎮座しており、神櫛別命をお祭りしている。
神櫛別命は景行天皇の御子で、讃岐公及び酒部公の祖先である。
貞観七年従五位上に叙せられた。
仁和四年五月国守管原道具公は、祈雨の祈願をした。 延喜の制で名神大社に列し、その後国府をこの城山麓に定めた時、府内鎮守の神とし たので代々の国司、領主及び地方民の崇敬厚く、古来地方の名社として今日に及んだ 。明治三十六年県社に列した。
城山[きやま]の南麓に鎮座。磐座とおぼしき巨岩があり近くから銅鐸が出土している。一帯はサヌカイトの産地である。 香川県坂出市府中町4760 菅原道真 信仰の道 玄松子の記憶


鵜足郡[ウタリ]:2座並小

飯神社[イヒ]
飯神社[いい]「飯依比古」古事記の国生みの条に讃岐は飯依比古と言うとあり、この神が讃岐の国魂である。讃岐富士とされる飯野山の西麓に鎮座。「香川県丸亀市飯野町東二山根20 飯 神 社 玄松子の記憶

宇閇神社[ウヘ]
宇閇神社[うえ]「鵜茅葺不合尊」香川県綾歌郡綾歌町栗熊西277 玄松子の記憶
宇閇神社[うべ]「武内宿禰命 配 品陀和氣命、菅原道眞 合 金山彦命」香川県綾歌郡綾歌町岡田下695 玄松子の記憶


那珂郡[ナカ]:2座並小

櫛梨神社[クシナシ]
櫛梨神社[くしなし]「神櫛王命」
由緒(碑文)
当社は延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四社の一なり。 景行天皇の二十三年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船 ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り 、舟形の大岩あり、付近の稍西、此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、櫂屋敷、船頭 屋敷の地名も今に残れり、悪魚征討後、城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任 ぜられる。仲哀天皇の八年九月十五日、御年百二十歳にて薨じ給う。国人、その遺命 を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は 三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲に在り、その間、鳥居百七基ありき と。天正七年、長曽我部元親の兵火に罹り、一切焼失する。元和元年、生駒氏社殿造 営、寛文五年、氏子等により再建せらる。明治三年、随神門、同四十三年、本殿、翌 四十四年幣殿を各改築、大正六年、社務所を新築す。
香川県仲多度郡琴平町下櫛梨280 櫛梨神社 船磐 玄松子の記憶

神野神社[カムノ]
神野神社[かんの]「天穗日命、別雷命、嵯峨天皇、罔象女命 合 大山祇神」香川県仲多度郡大字濃満町字神野168-2 玄松子の記憶
神野神社「天穗日命」
神野神社正八幡参拝のしおり
継体天皇2年の鎮座という。
伊予国神野郡の人久留島(和気氏の一族)当地に移住し、その祖神伊曽乃神社を創祀 し神野神社と奉称。延喜式内二十四社の一。高松藩祖松平頼重の崇敬厚く正保元年社 地を検して境内方五十間、馬場三丁三十間を寄進された。最近では明治二十三年、大 正十二年社殿を改修、昭和五年幣殿拝殿を改築した。
香川県丸亀市群家町八幡下2337 玄松子の記憶


多度郡[タト]:2座並小

大麻神社[オホアサ]
大麻神社[おおさ]「天太玉命 配 天津彦彦火瓊瓊杵尊、天香語山命、天櫛玉命、天糠戸命、天御陰命、天神立命、天三降命、天伊佐布魂命、天事湯彦命、天神玉命、天村雲命、天乳速日命、天活玉命、天下春命、天鈿女命、天道根命、天明玉命、天造日女命、天玉櫛彦命、天日神命、天伊岐志迩保命、天表春命、天兒屋根命、天椹野命、天背男命、天斗麻彌命、天八坂彦命、天少彦根命、天月神命」
由緒
祭神 天太玉命
相殿 天津彦々火瓊々杵尊及供奉三十一神
例祭 十月第一土、日曜日

一.由緒
延喜神名式「讃岐国多度郡尓大麻神社とありて、延喜式内二十四社の一なり」。天太 玉命は、高皇産霊神の御子に座して、天児屋根命と倶に祭祀を主り給い、抜群の御功 績あり。天照大御神、瓊々杵尊に豊葦原瑞穂国を御依し給ひて、天孫降臨。命は供奉 三十二神の五伴緒の一神にして、所謂、忌部氏の祖神なり。
御鎮座創祀は往古に属し、正史に神武天皇の御宇、諸国に忌部の社を建て祭祀せしと 相伝ふ。往古当国の忌部氏、阿波忌部と協力して讃岐を開拓し、此の地に麻を植え殖 産興業の途を開かれ、国利民福の基を進め、その祖神天太玉命を祀り大麻天神と奉称 し、村の名を大麻と云ふ。

一.12代景行天皇23年癸巳年夏、南海に悪魚ありて災害をなす。天皇、皇子神櫛 王に平げ給へと勅ありて、軍士を率いて下る。討伐に際し大麻神は天孫と倶に、国土 平定の守護の神なりとて祭り、果して験あり。土佐国より当国綾の海にて斯を平定し 後、国造に任ぜらる。その時、崇敬愈厚く御供仕へし穂積忍山彦根をして、社殿を修 営し玉串を納め祭祀を主らしめ給へり。(穂積忍山彦根は、現宮司白玖氏の遠祖なり)

一.神階
五十六代 清和天皇 「貞観七年冬十月九日丁巳讃岐国従五位下大麻神授 従五位上 」(三代実録)
六十代  醍醐天皇 「延喜十年八月二十三日授 讃岐国大麻天神従四位下」(日本 紀略)
後円融天皇 永徳元年迄に正一位の神階に進ませらる、御加階毎に、位田の御寄進も ありたり。

一.重要文化財
天津彦々火瓊々杵尊座像壱躯。天太玉命座像壱躯。上記四十代天武天皇白鳳十一壬午 年(皇紀1,342)。穂積忍山彦根の裔、二十三代二十世孫神主穂積宿祢白玖鵜麿の作な り。重要文化財に指定せらる。同年、天孫瓊々杵尊及供奉三十二柱の神像作り、相殿 に奉斎す。同、門守神二躯狗形二體神門に奉斎す。六十一代 朱雀天皇 天慶四辛丑 年(皇紀1,601)三十四代二十九世孫神主穂積白玖志岐、門守神二躯狗形二體神門に奉 斎す。

一.旧社格
1.明治5年、郷社に列せらる。2.昭和8年6月19日、県社に列せらる。生駒記 、式社考、二十四社考、大日記二十四社名目、西讃府志、讃岐古社神名帳、皆同じ。
当社は、大麻山に鎮座。古今異説なし。
天太玉命は五伴緒の一神にして、所謂、忌部氏の祖神なり。香川県善通寺市大麻町上ノ村241 玄松子の記憶

雲氣神社[クモケ]
雲氣神社[くもげ]「豐受大神、大龍神、大雷神」香川県善通寺市弘田町字鬼塚1105 玄松子の記憶
雲気八幡神社「譽田別尊、足仲彦尊 合 息長足姫尊、保食神、市杵嶋姫命」香川県仲多度郡濃満町西高篠269-1 玄松子の記憶


苅田郡[カツタ]:6座大1小5

高屋神社[タカヤ]
高屋神社「?」香川県観音寺市高屋町稲積山2730 高 屋 神 社 玄松子の記憶

山田神社[ヤマタ]
山田神社「山田大娘神、大己貴神、素盞嗚神、月讀神」香川県観音寺市柞田町1982 玄松子の記憶

加麻良神社[カマラ]
加麻良神社「大己貴命、少彦名命」香川県観音寺市流岡町820-1 玄松子の記憶
加茂神社「加茂大明神、彦火瓊瓊杵尊、大山命、賀茂御祖神、賀茂別雷神」香川県観音寺市植田町1351 玄松子の記憶

於神社[ウヘ]
於神社[おの]「譽田別命 配 素盞嗚命」香川県観音寺市粟井町上野2054 玄松子の記憶

粟井神社[アハヰ](名神大)
粟井神社[あわい]「天太玉命」
由緒書
御祭神 天太玉命
相殿  天照大神 月読命 保食神
由緒  上古、讃岐は西讃を中心として讃岐忌部の氏族が開墾殖民の業に努力した土 地であります。従ってこの忌部氏は自分たちの祖神である天太玉命を氏神として齋き 祀り、同胞的精神を呼び起こして一致団結をはかりました。忌部氏の精神生活の目標 になったものは、西讃の南隅に鎮座まします粟井の御社でありました。
この神社は、古くは刈田大明神とも称え奉り、刈田一郡を以て神供料に当て奉りまし たので、郡名を神田郡といったとも言われています。後の豊田郡がそれで如何に御神 威の宏大であったかを察することが出来ます。
社伝によれば、忌部氏の天日鷲命より三十一代目の武持の二男久名という人が本社を 奉遷したとありますが、年代は上古とのみで詳かではありません。
古くは現在の鎮座地より南方約六百米位の処に祀られていましたが、天火にかかりて 今の処に遷座せられたと語り伝えられています。
古記録で明らかなものをたどれば、『延喜式神名帳』に、「讃岐国刈田郡粟井神 名 神大。」とあり、『続日本後紀』に「承和九年十一月乙卯 讃岐国粟井神名神に預る 。」とあり、讃岐延喜式内二十四社の一社であり、特に神名・大社として崇められま した。この神名とは国家の重大事が起きた時、国家の安泰を祈るため国が奉幣して臨 時の祭祀を行なうわけですが、この臨時際に預る神のことであります。『延喜臨時祭 式』の名神祭二百八十五座の内に、「粟井神社一座 讃岐国」と載せられて、讃岐に は事実名神祭に預らせ給いしは粟井神社一社のみであります。
『三代実録』に「貞観六年冬十月十五日戊辰 讃岐国正六位上粟井神 従五位下を授 く。」とあり、『讃岐官社考証』に「永徳元年には正三位に昇り給う。」と書かれて います。このように、御神徳いや高く万民に尊崇されていたことがよくわかります。
明治十二年に県社に列せられ、明治四十年三月二十二日、神饌幣帛料供進神社に指定 せられました。
香川県観音寺市粟井町1716 玄松子の記憶

黒嶋神社[クロシマ]
黒嶋神社[くろしま]「闇山祇尊 配 瀬織津比尊」
由緒書
御祭神  闇山津見神 瀬織津姫神
由緒   丸亀藩、甲斐国の或川堀御普請申付けられ工事難行せし時、藩主佐渡守高 矩公の枕辺に黒嶋、池之宮二神お立ちになり、「紫の幕張り工事取進めよ、たやすく 成就いたすべし。」とのお告げあり、早速にも取り計えば思いのほか早く完成。よっ て宝暦五年(一七五五)六月二十六日、御供田十石五斗四升二合の寄進あり。
また将軍家より悍馬賜りし時、或夜夢にて「吾は領内にある黒嶋大神なり。」と告げ 給い、奇瑞のことなるによって、万延元年(一八六〇)に至り御供田拾石を寄進せし と旧記にある。
明治維新の際、村社に列せられ、同四十年十月二十四日、神饌幣帛料供進神社に指定 、大正六年、郷社に昇格。
鎮座縁起年代は不詳であるが、延喜式内讃岐二十四社の一であるから当時の御神威が 想像されると云える。
香川県観音寺市池之尻町281 玄松子の記憶


大内郡[オホウチ]:1座小

水主神社[ミヌシ]
水主神社[みぬし]「倭迹迹日百襲姫命」
当社は大水主大明神又大内大明神と言われ文武、元明天皇の時代より「洛陽の坤の方 なる讃岐の国に霊地あり、大水主御社と号す」と言われていました。
創祀は遠く孝霊天皇の御宇にして一説には、宝亀年間の勧請と誤伝していますが、再 建の年にして祭神は孝霊天皇の皇女「倭迹々日百襲姫命」で七才の年に大和の国黒田 の盧戸より出て八才の時東讃引田の安戸の浦に着く御殿、水主に定め造営せられたと あります。
土地の人は、ここを「大内」と呼び昔日の大内郡の郡名大内町の町名はここに起源と なると言われております。
じ来各時代多くの変遷を経、現在に至って居り、明治三十四年三月二十七日国宝とな った木造狛犬二点(運慶作)木造御神像八点雷文螺鈿鞍一背大般若経入白木面塗函六 十点の外県指定の文化財社宝も数多く秘宝しております。
香川県大川郡大内町水主1418 玄松子の記憶


三野郡[ミノ]:1座小

大水上神社[オホミツカミ]
大水上神社[おおみなかみ]「大山積命、保牟多別命、宗像大神」
大水上神社由緒略記
香川県三豊郡高瀬町大字羽方
御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、 一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。
三代実録によれば、貞観七年十月従五位上より正五位下に次いで同十七年五月正五位 上とある。景行天皇の御孫子武殻王当社を尊信し三野、豊田両郡を社領とし給い、延 暦二十三年弘法大師入唐の際、参篭祈願し後小松天皇、後花園天皇、称光天皇より勅 書を給わり、又源平屋島の戦に両氏戦捷を祈願せり。
皇室を初め武門武将並国中の崇敬篤く「建久九年二宮社領目録」によれば、二百町歩 を有し一大荘園として勢力あり、古く恒例臨時の造営用途等公武官司の正税を以て之 を弁す。建長年中の大造営に次ぎ、応永末年社殿大破したる時、朝旨により讃岐一円 に人別銭を、永享年間に於いては国中の用脚を以て再建し、江戸時代に至っても累代 藩主の崇敬深く、京極氏は社領三十石を寄せ奉る。
明治五年郷社に、昭和八年県社に昇格す。而して室町時代の作と伝えられる随神像、 建久九年の社領目録、建長年中源平両氏の願文、応永三十四年・永享年間の御造営記 、天正二年神事次第、宝永六年二宮旧記目録等を残す。昭和七年史蹟指定の二宮窯跡 、康永四年県指定文化財石燈篭がある。
溜め池の多い水源地帯の祈雨の中心社であった。香川県三豊郡高瀬町羽方2677 玄松子の記憶


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延喜式神名帳目次

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