春日神社
大阪市福島区玉川2-2-7 mapfan

鳥居

交通

野田駅南500m



祭神
天照大神、天小屋根神
近社
影藤神社
白藤神社

由緒(大阪府全志)
 古来有名なる野田の玉川の藤にして、貞治三(1364)年、足利義詮は住吉参詣の途次篭を抂げて之を賞し、池の姿を玉川に擬して和歌を詠ぜしかば、是より野田の玉川の藤とは称せしとなん。池辺に石を建てゝ其の歌を刻せり。当時の藤花は頗る盛なりしものならん。然るに天文年中(1532〜54)兵火に遇して亡失し、僅かに昔日の名残を存せるに過ぎざりしが、文禄年中(1592〜95)豊臣秀吉は此の篭を抂げて尚之を賞し、亭を藤の庵と号し、曽呂利新左衛門をして額を書しめて之を下付せりといふ。其の後国学復興の一人下河辺長流もまた此の地に遊覧せり。

 傍らに春日神社あり、無格社なり。天児屋根命を主神として、相殿に天照皇大神・宇賀御魂神を祀り、本殿の外に拝殿・神楽所及び相殿社・稲荷神社の二末社あり。社は此の藤花あるによりて藤原の祖神を祀りしものなるべし。昔は紫藤の名高くして、小唄節にも吉野の櫻・野田の藤と唄われ、俗に影藤とも称し、弥生の花盛りには遠近此処に来たりて其の幽艶を賞し、茶店飲食店も設けられ、花下は市をなすを恒とせしが、物変わり星移り其の地は明治三十一年藤富衛の所有地に転じければ、古来の勝区も四囲に家屋を建設し、漸次俗気に侵され、今は僅かに其の面影を残せるのみ。

難波かた 野田の細江を 見渡せば 藤波かゝる 花の浮き橋  西園寺公経

紫の 雲とやいはん 藤の花 野にも山にも はひそかゝれる  足利義詮

 

社殿


お姿
 住宅地域に鎮座。東向きの社殿、境内には野田藤の棚。つつじもきれいであった。
 野田藤の世話をされている方々が隣の藤棚の所に詰められていて、説明や質問に答えてくれていた。同時に藤の鉢や苗を販売されていた。


お祭り
 
 5月 8日 春季例祭 野田藤まつり
   11月  26日 秋季大祭

神社境内の藤

神社境内の藤

影藤神社

白藤神社

由緒 平成祭礼データから

由緒

春日神社は、現在福島区玉川二丁目の、玉川南公園の東側のマンションの谷間にひっそりとたたずんでおり、近年この所在すら知る人も少なくなった。しかし江戸時代には、近在の藤庵と共に、境内地には藤の木が群生し、この付近は藤の名所として「吉野の桜・野田の藤」と庶民に親しまれ、浪速名所の一つに数えられていたという。
 まずこの小さな神社とゆかりの深い、野田藤について説明したい。藤はかって野田の地を訪れた、高名な植物学者である故牧野富太郎博士により、学名を「野田藤」と命名されている。しかし一般に見られる藤の大部分は「ヤマ藤」に分類され、純粋の野田藤は今は殆ど残っていない。この「野田藤」は世界的に最も美しさに優れた品種とされていると言う。
 野田藤の特徴は、蔓が右巻き(ヤマ藤は左巻き)、房状の花房は長く、中には一メートルに達するものもあると言われる。

 さて、今の玉川地区は古来「野田郷」と呼ばれ、遠い昔には難波江・浦江・海老江の流れと、福島、中之島、田蓑島等の島に囲まれた間の地であった。野田藤は、往古の時代には湿地帯であったと想像される「野田郷」に、広く自生していた様である。この地は何時の頃か定かでないが、藤原家藤足と言う人の分地となり、ここに藤原家の御祈願所として春日明神が建立されたのが春日神社の発祥であると、当神社脇の藤家に伝わる「藤伝記」に記されている。以下、渡辺 武先生が解読された「藤伝記」をもとに本神社の由来を簡単に説明したい。
 元弘の頃(一三三一から一三三三年)、時の太政大臣、西園寺公経公が、西園寺家は藤原の一族であり、春日明神は藤原の祖神だと言うことで、宝剣を寄進したと伝えられる。また正慶二年(一三三三)七月、同公が野田の地を訪れた折り、不動尊像を野田の地に安置したとも伝わっている。
 貞治三年(一三六四)四月、室町幕府二代将軍足利義詮公が、住吉詣での途中、折しも藤の花盛りの春日明神に参拝され、難波江のほとりの池の形を玉川になぞらえ、御詠歌を奉納された。
 いにしえのゆかりを今も紫の ふじなみかかる野田の玉川

 これにちなんで、この付近は玉川と呼ばれるようになった。義詮公によって、玉川になぞらえた池は、年々縮
 小し、今は民家に囲まれた小さな社「白藤社」の側の、石垣に囲まれた大井戸がその名残である。 天文二年(一五三三)八月九日、いわゆる「本願寺騒動」と呼ばれる事件が勃発した。近江観音寺城主、六角定頼が石山本願寺を攻撃したため、難を避けて野田に逃れてこられた証如上人(本願寺十世法主)を境内にかくまい、福島の浜より小船にお乗せし、紀州鷺の森さして落ち延びさせ給うた。この時、野田門徒衆が、六角の軍勢と鍬・鎌をとって激しく戦い、二十一人が討ち死にしたと言う。この戦火のため、春日明神、藤庵、藤宅、代々の宝物類もすべて焼失してしまった。小舟の上でこれを、御ききになった上人は、村に御書認め下さり、合わせて六字の名号を、藤主に与えられた。これらの出来事は本願寺記にも記されており、近在円満寺では、今も二十一人の討ち死にを弔うための、法要が毎年行われている。その後、藤主は大いに働き、仮社・仮庵・居宅を取り繕い、焼失した藤は再びよみがえり春日明神も再興された。しかしそれ以前の春日明神と野田藤にまつわる遺品は全部焼失し、伝説・伝承の彼方に、あらかた失われてしまった。

 天文十一年(一五四三)三月、三好長慶が、まだ孫次郎教長と名乗っていた頃、野田の春日明神に心願し、遊佐河内守長教の援兵として、野田城から出撃、河内国落合と言うところで、父の仇、篠原佐京享を討ち本意を遂げた。

 元亀元年(一五七〇)、三好山城守入道笑岩が、野田の地に居城をつくり、春日明神に正宗作の刀剣、絵双紙等を奉納し、藤の和歌を詠んだと伝えられる。この頃野田の城に立て篭り、信長の軍勢と対峙していた三好長逸をはじめとする、三好一族の部将や、松永弾正久秀により、藤を詠んだ和歌が多数今に伝わっている。 文禄三年(一五九四)春、太閤秀吉公が藤の花盛りの頃、曽呂利新左衛門を従え、この地を訪れ、藤庵にて茶会を催された。この時、座興に詠まれた自筆の歌一首、秀吉公の御前で曽呂利新左衛門が「藤庵」と書いた額は、秀吉公画像と共に、今に伝わっている。この時詠まれた秀吉公の歌を次に示す。
  ひとつずつ ましてまたます このふくべかな
 「ふくべ」とは、秀吉公の旗印の千成瓢箪のことであり、「このふく」は此花・福島の掛け言葉になっているらしい。

 この「藤伝記」全三十二カ条は、寛文四年(一六六四)境内に住んだと言う、親子狐の伝説と、狐達の住んでいた稲荷大明神が、元弘建武の頃から百姓の守護神として祭られ、春日明神の末社になったと言う下りで終わっている。この稲荷社は、戦前まであったが、今はもう無い。
 冒頭で述べたように江戸時代には、野田の藤は春日明神と共に、古い伝統に包まれた、名所旧跡の一つとして知られ、藤の満開の頃にはしばしば文人歌人が訪れ、多数の歌を残して行った。
 残念ながら野田藤は、明治以後は工業化と都市化の波にのまれて急速に衰え、更に、第二次大戦中空襲により、春日神社・藤庵・藤宅共々灰燼に帰してしまった。戦後は、僅かに芽を吹返した野田藤も、昭和二十五年のジェーン台風に伴う、高潮により樹勢を失い、これに公害も加わってか、徐々に枯れ果てていった。昭和三十六年に市政七十周年を記念して、大阪市により、春日神社境内に「野田藤跡」の石碑が建てられ、一時はその長い歴史を閉じたかに思えた。

 しかしその後、宇和島の「天赦園」に、純粋の野田藤が繁殖していることが判明した。これは宇和島藩主伊達公が、参勤交代の途上大阪を通過する際、野田藤の苗木を宇和島に持ち帰り、国元の邸内で育て上げたものである。昭和五十四年に、宇和島ライオンズクラブのご好意により、野田藤の苗木を寄贈して頂き、野田藤は約百二十年ぶりに里帰りをした。この野田藤は、福島区役所及び大阪福島ライオンズクラブを中心とする「野田藤保存会」の方々により、福島区を代表する花の一つとして、区役所・区内の全公園・小学校の校庭にに次々と移植され、福島区をかつての藤の町にしようと、御尽力を頂いております。これらの方々に、改めて厚く御礼申し上げます。

 一方、春日神社は戦後一部再建され、昭和四十七年、現在の小さな社が建てられた。昭和五十二年には福島ライオンズクラブの方々により、野田藤顕彰の由緒板が、「白藤社」の側に建てられ、現在に至っている。影藤の伝説で知られる、藤家の邸内社であった「影藤社」は、激しい空襲にも焼けず奇跡的に今日まで残り、阪神高速道路に面して、一人ぽつりと建ち、焼け野原から復興し、着々と発展し続ける野田の町並みを、じっと見守っている。 「藤庵」のあった付近は阪神高速道路になり、その庭は下福島公園に、復元され往時の面影を偲ばせている。
以上

摂津名所図会 野田藤と春日神社

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