御霊神社
大阪市中央区淡路町4-4-3   mapfan



東側の鳥居  南側の鳥居 むこうは御堂筋
 


交通

地下鉄御堂筋線本町駅 北西側



祭神
津布良媛神、應神天皇、源正靈神、天照大神荒魂、津布良彦神
摂社
東末社「惠比須神、猿田彦神、戸隱神、宇賀御魂神、基治神、菅原神、事平神、大國主神、加藤神、唐崎神、玉尾神、天照坐大神、津布良大神、命主大神、事代主大神、天滿大神」
松ノ木神社「朝吉大神、松ノ木大神」朝吉社は元は瑜伽社と言った。
大黒神社「大黒大神」
宇賀御霊神社「宇迦之御靈神」



拝殿  本殿
 

由緒
 祭神の源正靈神は鎌倉権五郎景政で、当社神主が鎌倉に行き、景政の社に参籠した時に、霊告があり、至徳元年(1384)相殿に祀ったと言う。

 旧志によれば天正年中にはこの地に亀井能登守の屋敷があり、その廷内に鎮座と伝わる。明治二十一年北区堂島中の志留辨神社「宇賀御魂神、天棚機姫神、菅原道真」を併せ、三十九年には東区伏見町の恵比須神社を合祀した。
 園神祠は靱の地に鎮座していたが、文禄三年(1594)に当社に遷座した。摂社として本社の北側に鎮座していたが、いつの間にか相殿に祀られ、社をもうけられていない。園御霊神社とか園江園神社とも呼ばれた。この神は御霊神社よりも前に当地に鎮座していたと言う。仲哀天皇と神功皇后が筑紫に行った際、男女二神がいて、男神を大倉主、女神を菟夫羅媛と言ったが、この神を祀っていたのであろうか。
 神社では、太古、大阪湾が深く入りこんで海辺はぬかるみ、芦荻が繁茂して圓江と云い円形の入江に創祀された圓神祠に始まり、嘉祥三年(850)の『文徳実録』に八十嶋祭の初出の記事があり、摂津で行われたとある。神社の由緒書きでは、その祭場が圓江で、そこに創祀された圓神祠とされる。それならば式外の社である。

 また、円江にはいつ頃からか、住吉神の神祠が鎮座していた。これも八十嶋祭と関連があるのかも知れない。現在は、住吉大社の境外末社である港住吉神社に合祀されている。



御霊神社の靱の碑   靱の楠永神社の御霊宮旧蹟の碑
 



御霊神社の摂社 東末社  大黒社(磐座)
 

お姿
 大阪本町の中心部に鎮座、西区と旧東区の中心部を氏子地域としている。最盛期の広さから見れば境内は半分もないのだが、敷地を賃貸ししているようだ。正月には氏子さんがうどんを作り、多くの参詣者が大晦日の暖ををとる。
 当地は津村と呼ばれている。北御堂と言う西本願寺の出店があるが、これを津村別院と言う。園(つぶら)の訛。

 明治十七年から大正十五年まで、境内に文楽座があった。松島遊郭から移転してきた。また、神社の近くには幾世亭という寄席があり、のち、落語が凋落すると、国光席という浪花節の席になった。

 山登りを趣味とする女性がくだり道でひっくり返ったり、ステッキを無くしたり、さんざんな目にあい、仲間からお払いをしてもらったらとそそのかされて、日頃の信心なんかはないままに近くの当社へ飛び込んでお払いを申し込みました。おごそかな儀式が済んだ後、神主さんが挨拶をしようとしたのですが、突然咳込んでしまい、言葉になりませんでした。また巫女さんは鈴と飾りのついた棒を振ったのですが、先頭の飾りが取れて飛んでしまいました。厄は神職に遷るんですね。おかげで、当の女性はすっかりさっぱりしてチャレンジしているようです。



の楠永神社  その背面の楠玉大神
 

 鎮座地は靱公園内であるが、以前は永代浜と云った、塩魚などの荷揚場であり、また、樹齢400年とも云われる楠の大木があり、神木とされてきた。昭和三年十二月、楠木の側の川岸の石垣を修理していた際、白蛇が出てきたので、そのまま梅戻した。噂を聞いて多くの人々お参りに来たので、楠樹の下に小祠を設けて祀るにいたった。楠永神社が創建された。



南堀江4丁目の堀江行宮(御旅所)
 


お祭り

  10月 17日 例祭



摂津名所図会

由緒 平成祭礼データから

御霊神社 由緒書

 当神社は古来大阪市の船場、愛日、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靭、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長堀の西部、南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神として、信仰の中心になっていました。 当神社の創立は、太古、大阪湾が深く入りこんで海辺はぬかるみ、芦荻が繁茂して圓江と云い円形の入江に創祀された圓神祠に始まり、嘉祥三年(八五〇)の「文徳実録」に八十嶋祭の祭場が圓江で、そこに創祀された圓神祠とされ、八五〇年頃の創建とされています。
 ご神威高く、上古天皇御即位の大嘗祭につづく八十嶋祭に預かり給い、後に土地が次第に固成して村を形成し、その名も津村と転訛しました。
 豊臣秀吉公の大阪居城と共に政治経済の中心地として発展し、諸大名が来集してその崇敬も厚く什器の寄進も相次ぎました。
 中でも石州津和野藩主、亀井茲矩侯が邸地を割いて寄進されたので、文禄三年(一五九四)、 境内の小祠乾八幡宮と源正霊神とを本殿に合祀して圓江(現在の靭)から現在地に鎮座しました。(一九九四年が船場鎮座四百年にあたります。)
 寛文年中、御霊神社と改称。元禄九年(一六九六)、 御霊大明神とご贈号、宝暦三年(一七五三) 九月、正一位の神階を授けられました。また伏見宮家より神輿修復のご寄進があり、幕府も城代巡見社として崇敬、明治六年(一八七三)、郷社に昇格し、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬が厚く、お弓神事、火焚神事や夏祭のお旅所への神輿渡御列(明治までは淀屋橋から大川筋を下博労御旅所へ船渡御神幸)の華麗さは浪速名物の一つに数えられ現在に至っています。
以上

瀧川政次郎 講演会から 

豊中歴史同好会誌『つどい220号』金谷健一氏投稿


1.「八十嶋」の意味
 八十嶋というのは、数多き嶋の意で、千年以上昔の大阪は、上町台地が南住吉から北にかけて半島状に大阪湾に突き出ていて、その半島の東西は海で、琵琶湖から流れてくる土砂や、大和川の土砂が、淀川を介して堆積して出来上がった島のことで、上町台地の西側にある島々を、古記録に現れる「八十嶋」と解してよろしいかと思います。

2.高津宮と難波宮
 仁徳天皇の御代に、この上町台地に皇居が営まれ、天皇は人民の為、上町台地を開削して、河川の氾濫を除きその運河を「堀江」(現在の大川、即ち天満川)と名づけたとあるが(『紀』十一年十月条)戦後は、日本書紀の記事を疑う津田学説が流行ったが、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文によっても判りますように『記・紀』は決して虚構の事実を並べたてたものではない。

3.八十嶋の祭り
 京から難波に下ってきた陰陽師は、百済鳥に上陸し、その西に広がる円江(つぶらえ)の海岸に祭壇を設けて聖寿の万歳を祈願し、内侍が持参した天皇の御衣を何度か西の海に向かって打ち振り、穢れを祓い落とす。
 『記・紀』孝謙天皇、天平勝宝五年(七五三)九月壬寅(五日)の条から、現在の御堂筋に在る通称、北御堂と呼ばれている西本願寺「津村別院」の名が今日に「円江」の名前を残しており、現在の「御霊神社」に戦前懸かつていた「兎布良社」の扁額をもって、「八十嶋祭り」の中心地とし、御霊神社(東区・現中央区淡路町五)は、津村郷の産土神で円江の守護神であり、御霊神社(「円江神社」)の創祀を、文徳天皇(在位八五〇〜八五八)の時代と見る。

4.八十嶋祭りについての学説
 瀧川先生の八十嶋観は、宮地直一(東京帝大教授(神道史))や、梅田義彦(東海大短大教授(神道史))らの学説に反駁して、八十嶋の祭りが、神道的な祭りでなく、外来宗教である陰陽道の祭りであると主張。
 先生が、力をいれて、お話されたのが、御所車に乗って京から難波に下ってくる行列の艶やかさについてである。注《淀からは船を利用する、とするのが通説》天皇の御衣を常に入れて持参するヒロインは、御乳母内侍であって、群集はその上朧の顔を一日見たいと御所車を取り囲んだそうである。

5.八十嶋祭りにおける御・祓
 神道的な祭りではなく、八十嶋において、天皇・皇后・皇太后・皇太子といった皇族の長寿と息災を祈る陰陽道のミソギ・ハライである。
以上

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