鼻川神社
大阪市西淀川区花川2-1-12

鳥居と拝殿

交通

JR塚本駅 南500m 淀川河川公園前 mapfan



祭神
神功皇后、素盞嗚尊
摂社
稲荷神社「孝元大明神」

由緒
 姫島神社に書類上合祀されていたが、大正十三年八月に独立社として復活。

 合祀中に書かれた「大阪府全志」には、鼻川神社,もと八坂神社と称し、素盞嗚尊を祀るとのみ記載されている。

 淀川付け替えの工事で元の鎮座地が河川敷となるので、結果当地に遷座した。由緒は古く、神功皇后の立ち寄りし場所で、皇后に餅を差し上げたと云う。その時に、地名を“はなかわ”、渡しを“かしわ”と命名されたとか。

拝殿

 紀北に残る神功皇后と餅のお話
 糸切り餅の話
 紀州名物「糸切り餅」の話をしよかの。
 どんと昔のことに、神功皇后さんちゅう偉いお方がおられての、そのお側に仕えていた一番偉い家来が紀州出身の武内宿弥という人やったんやと。
 この皇后さん、兵士を連れて朝鮮半島まで戦争しに行かはったちゅう伝説もあるんやけど、その帰り道に、加太の田倉崎に舟を泊めはったそうな。
 そいで宿弥はんが、何ぞ家来に食べさすもんないやろか・・と本脇の方までやってくると、そこに二、三軒の茶店みたいなのがあって、モチゴメとウルチマイの粉をまぜてつくった餅が置いてあったんや。
 こらうまそうやちゅうて、その餅を細長うに引き伸ばし、自分の持ってた弓のツルで、試しに二つ、三つに切り分けて食ってみると、これがなかなかええ味やして。
 そいで茶店の人に頼んで、どっさりとそのお餅をこしらえてもらい、丹まで運んでもろたちゅうことや。けど茶店の人らは弓のツルらもってへんよって、その代わりに太い糸を使って、次々にお餅を切っていったらしいわ。
 そいで「糸切り餅」と呼ばれるちゅうようになったんやて。

 

本殿と手前は稲荷神社


お姿
 社殿の北側はぎりぎりまで駐車場。


お祭り

 
 10月18日 例祭

由緒 平成祭礼データから

鼻川神社御由緒略記

 当地は、古く淀川水系旧中津川口に生成した三角州上に発達し、対岸に突きだした半農半漁の集落で、社記に、神功皇后鹿島に御幸のみぎり此の地を仮の御野立所とせられ、住民高貴の方の御来所を知り、取り急ぎつき立ての餅を柏の葉に載せ、野咲きの草花を束ね添え参らせしに、御意殊の外麗しく賞味遊ばされ種々御下問ありて、当地の無名なるを聞召されて、地形対岸に突出し恰も“鼻”の如きを奇とせられ、地名を“はなかわ”渡しを“かしわ”と御命名賜わりしに依り、由来此の地を〈鼻川の里〉渡しを〈かしわの渡し〉と称えて慈しみを仰ぎ、この尊き御命名を記念して一堂宇を建てて、神功皇后を祭り、後住民出生の対岸海老江の氏神―須佐之男命を併せ奉斎し、地名を冠して鼻川の社呼称申し上げたると創社の由来を留め、祭礼には柏餅と菜の花を束ねて御供えすと相伝、当地は度々水害に遭い幾度も社殿を修復・改築し、祭時は住民の交替により年々の祭費を集め、宮座を組み、その料を賄いしと記せり、尚その当番頭を“とや”と称し神事一切を主宰しその御供物も調達煮物を献ずる習慣を受継ぎ、現今の特殊神事として最も厳粛に奉仕し、無言の行事として伝統を承継するものなり。

 承久三年辛巳、神前に豊作を祈願したる処、希にみる豊作を得て集落挙げて神恩に感謝、一粒万倍の御利益を賜りたるとして、社地を万倍の地と称し、同年社殿を改築し、常例の御供えの外、初めて甘酒を献じたりと、万倍の地名現在呼称せり。

 明治三十年淀川改修に際して、社地が河川敷に相当の為移転料を受け、堤防外側に移転したる折、大阪府の神社整理の為止むなく姫島神社に書類合併なしたり。以後村民挙げて基本金を積立て苦難を排除し、大正十三年八月、独立神社として承認され、昭和九年、現在の社殿を建立す。 以上

参考 社頭掲示、『大阪府神社史資料』、『平成祭礼データ』

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