畑山神社
大阪府高槻市梶原mapfan



鳥居

交通

阪急上牧駅より西国街道に出てから西に15分



祭神


天児屋根命、菅原道真



拝殿

由緒

 社伝によれば、元亀年間(1570年代)、金仙寺の鎮守である三十番神を合祀して、殿舎や二重宝塔を建て、永福寺と名付けられたという。
 慶長年間に火災で焼失。宝永三年(1706)、現在の社殿や多宝塔などが再興され、文化四年(1807)編修の『山崎通分間延絵図』には、神社と寺院の混合する様子が描かれている。
 明治元年(1868)の神仏分離令により、同五年(1872)畑山神社と称するようになった。埼玉県のユネスコ村に移築されたが、今も神仏習合時代の建物配置を偲ばす貴重な神社である。
 当社が造営される以前の7世紀後半頃には、この地に市内最古の寺院の一つである梶原寺が創建されていたとみられ、瓦などが出土している。大門や四方院、末房などの小字名から、山陽道(西国街道)に南面して建てられ、延暦十一年(792)には、僧寺と尼寺があったことが『類聚国史』に記されている。

 また、山麓の斜面には、7〜8世紀頃の瓦窯跡がある。奈良正倉院文書には、天平勝宝八年(756)、東大寺の造営にあたっていた造東大寺司が、梶原寺の6,000枚の瓦を発注したとの記録が残っている。



本殿

お姿

 とりいのをくぐると神門がある。まさにお寺のようだ。境内には大きくないが杉の木々が植えられている。神門から拝殿、本殿と一直線に並ぶ比較的新しい(古くない)神社であることを思わせる。


お祭り

  


神南備の杜


 上牧駅から西の方向に歩き、JR線路をくぐる道の手前に神南備の杜と書かれた小公園がある。

 神が宿ると云う意味の神南備、そこに語源をもつ神内(こうない)山が淀川に迫るこの地は、古くから交通の要所でした。
 都と太宰府を結ぶ山陽道は、奈良時代には樟葉から神内山めがけて淀川を渡り、現在の五領町付近に置かれた大原駅から西へ向かいました。のち都が長岡町京に移り山陽道はこの地を通ります。そして平安時代、西国に赴任する都人たちが家族と別れを惜しんだ「神宿る都の果て」神南備の杜として和歌にも詠まれ、長く記憶されることになったのです。

 江戸時代の絵図には、山陽道の後身である西国街道と上牧村の間に、神南備の杜が描かれています、上牧も古代の牧(馬を飼った牧場)にちなむ、古い地名です。
 杜は明治時代の鉄道建設によって姿を消し、鎮座していた神南備神社は上牧町2丁目の春日神社に合祀されましたが、土地区画整理事業に伴う発掘調査では、縄文時代から室町時代にわたるさまざまな遺構・遺物が発見されており、古いれきしがを物語っています。

 くれなゐに 見えし梢も雪ふれば しらゆふ掛くる 神南備の杜 関白太政大臣 藤原忠通



神南備の杜跡の説明板

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