服部天神宮
大阪府豊中市服部元町1

交通

阪急 服部駅東500mmapfan

鳥居



祭神
少彦名命、菅原道眞
摂社
部えびす神社、初酉稲荷神社

由緒
 機織りの技術を伝えたと云う秦氏の子孫が多く当地に住んだと云う。 地名の服部は機織部から成り立っていたからとされる。
 『新選姓氏録:摂津国神別』に服部連は之速日命十二世孫麻羅宿禰之後也。允教恭天皇御世。任織部司。於領諸国織部。因號服部連。 とある。秦氏の手法で出自を神別にしたのか、当地の北側が曽根、南側に穂積、物部氏を思わせる地名があり、この麻羅宿禰は饒速日命降臨供奉の麻羅からとった祖先名、または物部氏の中で織物に従事していた集団が秦氏の配下に入ったとも考えられる。
 『新選姓氏録:大和国神別』の服部連は、天御中主命十一世孫天御桙命之後也、と記載されており、天御桙命は天日矛命をもじった神名のように見えるが、これは秦氏そのものだったのだろう。 天日矛命を天御中主命の裔にするのは大胆。

 当社は菅原道真が太宰府に赴く際、持病の脚気で足が動かなくなった際に、その頃は路傍の小祠であった服部天神の医薬の神である少彦名神に平癒を祈願されたと伝わる。 天神信仰が盛んになって当社も菅原道真を祀るようになって以降、門前市をなすようになったとの神社の説明である。
 少彦名命は辰韓にはじきとんだとされる神であり、辰韓とは秦韓で、渡来前の秦氏のとどまっていた所である。

 

社殿


お姿
 住宅地域に鎮座。さほど広い境内ではないが、朱色の目立つ神社。 足神さんらしく藁ぞうりが多く奉納されている。

『大阪府神社史料』社域甚だ広からざれども樹木蒼鬱として社頭を蔽ひ、一見して其の古社たるを知る。
 賽者常に集し殊に男女芸人の崇敬頗る深く、地高燥にして水清きが故に近年夏候に至れば脚気患者の来りて保養するもの甚だ多し。



お祭り

 
 10月25日 例祭

由緒 平成祭礼データから

足の守護・服部天神宮 由緒

その昔、朝鮮から機織の技術を我が国に伝えた人々に「秦氏」の姓氏を与えて、これらの子孫の多くがこの地に住まいました。              
「服部」の地名は秦氏の人々の住むところとして「機織部」から成りたったものと思われますが、第十九代允恭天皇の御代に、織部司に任ぜられ、諸国の織部を総領した「服部連」の本拠地がこの服部であります。(新撰姓氏録、第十八巻摂津国神別)外来部族であった秦氏は、外来神であり医薬の祖神である「少彦名命」を尊崇していましたので、当神社はこの服部の地に古くから、おまつりしていたものと思われ、その創建は菅公御生前より遠く、相当古い年代であったと推定されています。
右大臣、菅原道眞公は、讒訴に遭い、太宰権師として左遷されることとなり、延喜元年、京都から遥か筑紫の太宰府へ赴く途次、このあたりで持病の脚気に悩まされ、足がむくんで一歩も歩くことが出来なくなりました。そこで村人のすすめで、医薬の祖神「少彦名命」をまつる服部の路傍の小祠に詣で、一心にその平癒を祈願されたところ、不思議に痛みや、むくみが治り、再び健康を取り戻して、無事太宰府におつきになったと伝えられています。
菅公没後、北野天満宮をはじめとして、天神信仰が全国各地に起こり、路傍の小祠であった当社に菅公の霊を合祀し「服部天満宮」として堂宇を建立し、「菅公、脚気平癒の霊験」が広まり、聞き伝えた人々の参拝で、次第に門前市をなす様になり、「脚気天神」「足の神様」として全国の崇敬をあつめる様になりました。
以上

公式服部天神宮
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