由緒 平成祭礼データから
御創祀は詳かではないが社記に依れば、欽明天皇の御代〔約一千四百年前〕止美連吉雄(とみのむらじ)〔新撰姓氏録に河内皇別其始上毛埜氏崇神天皇の皇子豊城入彦命の後胤〕が夢に蛭兒大神の御神託を蒙り堀江〔当時の淀川の河口附近・今の天満附近か〕に一箇の玉を得て、此の玉を御魂代として蛭兒大神を富島〔「トシマ」と訓み、利島とも書く、中古「トシマ」の荘と云う・今の北区本庄豊崎中津等の地名か〕に祀り、瓊見社(たまみのやしろ)又は止美社(とみのやしろ)と号けた。
孝徳天皇の御代、皇后病気平癒を祈請して淡島明神〔少彦名命〕の神像を彫刻し、白雉二年、当社に納め祭る〔約一千三百年前・神主吉延の時〕。
又文武天皇の御代大宝三年〔約一千二百五十年前〕、神主吉明が神託に依り天太玉命を相殿に祀る。
平治の頃〔約八百年前〕、戦乱〔平治の乱〕を避け丹波国山家に御動座したが、文和年間〔約六百年前〕、藤原吉次〔旧神主松岸家の祖先〕が浪華へ遷し、現在地に再興した〔摂陽奇観にも所載〕古社である。
以後堀川戎社「〇蛭子社・摂陽群談・摂津名所図会・摂津名所図会大成・女訓浪華名所〔天保5年版〕〇堀川恵美須社・摂陽奇観・神社古文書〔天保十一年〕〇堀川戎社・摂陽奇観」と称し一般の信仰深く十日戎には諸人群参したが〔摂陽群談其他に〕度々の炎上〔近くは文政及天保にも〕にもかかわらず盛大となり、明治四十年十一月八日、数社を合併して堀川神社と称し村社に列した。
当神社地域は明治以前は大阪三郷の内天満郷に属し、明治以後大阪市制と共に北区に属し、大阪市街の発展と共に益々十日戎は盛況を加えた。〔大阪府全誌等〕
昭和二十年の戦災の為め社殿を始め全建物が焼失したが順次復興し、昭和三十八年、本殿を再建した。
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