『平成祭礼データ』
由緒
当社の創祀の年代は詳かではないが(もと宮地は高地であったが、付近一帯は沼沢地であったため度々水害に見舞われ、そのため社記その他の古文書が流失したといわれてる)、口碑の伝える所によると、天武天皇が皇居であった大和の国飛鳥浄見原宮から、難波即ち今の大阪に舎人親王多古麿等を従えられて、行幸遊ばした際、当所に御休憩遊ばしたと伝えられている。
当時この所は高地で樹木が鬱蒼と茂り見晴らしがよく、住の江の海(今の住吉)に浮かぶ白帆が見え憩うには格好の場所であったようである。ここにしばし御休憩遊ばした天皇は「吉野はどこのあたりになるであろうか」と吉野の方をかえり見られたというので、今に「吉野見」の地名(小路二丁目三番地吉野見通りあたり)を存している。天皇崩御の後、この地に縁のあった大伴氏が、社を建てて天皇の御神霊をおまつりし、天武天皇宮と称し崇敬したと伝えられている。明治五年に天武天皇宮を清見原宮と改められた。明治四十二年四月十日、時の政府の神社を合祀して神社維持の基礎を確立し、祭祀を厳修するという方針に基き、大阪府から神社合祀の指令を受けた。よってこの指令に従い当時片江村には素盞嗚尊神社(御祭神 素盞嗚尊)、中川村には松尾神社(御祭神 大山咋命)、腹見村には木守勝手神社(御祭神 天水分神、国水分神)、大瀬村には八劔神社(御祭 神素盞嗚尊)が鎮座されていたが、各神社の総代が種々に協議の結果当時の小路村の中央であり、学校の所在地であった大友村鎮座の清見原宮に合祀することになり、同年七月三十日の夜、厳粛な合祀の儀が行なわれ、翌三十一日には、合祀大祭が夏祭に兼ね盛大に執行された。社号は、村名「小路」をとって小路神社と称せられた。
現社号清見原神社は紀元二、六〇〇年記念事業として行なわれた、境内拡張、社号、社務所増改築玉垣建設等を機に昭和十七年五月に改称され、今日に至っている。
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