港住吉神社
大阪市港区築港1丁目5 mapfan



公園と鳥居

交通

地下鉄大阪港 南東500m



祭神

住吉大神、神功皇后

 境内 稲荷神社

由緒 境内掲示

 當社は天保十三年(1842)三月十八日大阪城代幕命を奉じ、摂津一の宮なる住吉大社(すみよしたいしゃ)より四座の御分霊を目印山(旧天保山)に勧請し、以来、本社と本末の関係を以て祭祀を継続し、大阪三郷の関係住民及び海運業者の日夕の崇拝するところの守護神なり。

 ついで元治元年(1864)天保山に台場の築かるに及び天保町に奉遷し、明治三十九年(1906)九月十九日官幣大社住吉大社(すみよしたいしゃ)の境外末社となり、翌四十年十二月西区靭中通二丁目永代濱住吉神社(えいたいはますみよしじんじゃ)を合祀し、大正六年天保町より築港遊園地なる現在地に奉遷し、以て築港一円の氏神として奉斎することになれり。



拝殿

『大阪府神社史料 大阪府全志』

 築港遊園地は西区四条通り二丁目及び五条通一丁目に跨り、五千壱百五拾坪の面積を有し、明治四十一年八月大阪市の設置せし所なり。内に官幣大社住吉神社の末社住吉神社ありて住吉四柱神を祀る。社の旧地は天保町船溜場の南岸なり。已に記せしが如く天保町は目標山の成りしより漸次聚落を為したるも、その移住者は船乗業者又は漁業者なるのみならず、入津船舶の風波に害を蒙ること多かりしを以て、海上の守護神たる住吉大神を勧請するに決し、住吉郡住吉神社の橋本光忠に請ひて、天保十三年三月十八日同社の分霊を奉齊したるもの、即ち当社の起源なる。
 社殿は目標山の上に建てられ、社頭に関する費用は全て大阪三郷の負担たりしが、元治元年台場の築かるるに及びて、船溜場の南岸に遷座し、其の頃より三郷の関係を離れて社費は天保町住民の負担する所となり、同町住民は産土神として仰ぎて崇敬し、明治五年に村社に列せられ、前記の由縁あるを以て、同三十九年九月十九日官幣大社住吉神社の境外末社となる。

 同四十年十二月十日、靱中通二丁目の永代浜の無格社住吉神社「住吉大神」を合祀せられ来しが、其の敷地(官有地)五百十七坪は天保山運河の敷地に当たりて移転を要しければ、大阪市はこの遊園地に含まれたる五百坪を当社の移転地として官有に上地せる外、同所にて存続期間五百坪の・無償使用を承認し、且移転並びに営繕工事その他雑費として八千五百円を補償せしかば、、大正五年二月十二日許可を得て、翌三月十七日、当所に移転せり。依って遊園地中千坪は社域となりて、本殿。拝殿。社務所等を建設せらる。氏地は天保町のみなりしが、今は広まりて築港埋立地全部となり、例祭は七月十一日に行はる。例祭の前日より、本社住吉神社の御輿は此処に渡御し、一日滞留ありて、翌十二日還御せらる。同渡御は住吉神社の大祭たる北祭なると共に、当社の例祭に当たれるを以て、社頭頗る殷賑を極む。
  以上

『大阪府神社史料 大阪府全志』

 永代浜の住吉神社

 而して其永代浜にはもと住吉神を小祠に祀り、毎年七月三十日に祭礼を行い、各町は乾物、塩魚を用ひて巧みに戯曲の人物を模造して、衆人観覧せしむるを例となせしが、社は明治四十年十二月十日天保山の住吉神社に合祀せられ作物の例のみ今残れり。

  以上



本殿

お姿

 西向き鎮座。参道が公園を横切っている。社殿はさすがに住吉大社の末社だけあって、美しいが、境内はもう少し、整理整頓を行えば、より輝いて来そうだ。
 本殿の北側に、靱から移転。合祀された記念的な雑草の中に石碑が並んでいる。


お祭り
 7月 14日 例祭
 



靱から移転してきた足跡 うつぼ


うつぼから移転してきた足跡 塩魚商

参考 『大阪府神社史料』

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