西宮神社
兵庫県西宮市社家町1-17 its-mo


表大門(赤門)


全体が赤く塗られていることから「赤門」の名で親しまれてきた。豊臣秀頼の再建と伝わる。門は、二本の円柱を本柱、四本の角柱を控柱とする「四脚門」である。全体の構造は、それぞれの柱を貫材および虹梁を用いてつなぐ簡素なつくりで、細部を繰形や雲紋などで飾る。その豪壮な姿は室町時代の影響を見て取れる。


交通

阪神西宮駅南西300m



祭神

蛭兒大神、天照皇大神、大國主大神、須佐之男命
摂社
大国主西神社「大名持命、少彦名命」式内論社
百太夫神社「百太夫神」
松尾神社「大山咋命、猿田彦命、住吉三前大神」
広田神社の摂社南宮神社「豊玉姫神、市杵島姫神、大山咋神、葉山姫神」
甲山の山麓、大社の里に鎮座する広田神社の浜の南宮として古来著名な神社で、既に平安時代に京都の貴紳の参詣が記録され、室町時代には謡曲にもうたわれる程有名となった。
ほか



鳥居


由緒

 海民の寄り神信仰を起源としている。広田神社の摂社であった時代があり、『日本の神々3』では、そのおかげで戎社の本家のように扱われるようになったと言う。
 現在広田神社は北宮と呼ばれ、その摂社になっている南宮が西宮神社境内に鎮座、それらしい東宮は見あたらない。広田神社が西宮だったそうだが、戎神が有名にあり、西宮と言えば戎神となったようだ。
 全国への戎神の勧請と、江戸時代の「戎像神札」の発行が今日の隆盛の元になったと言う。



拝殿



三連春日造りの本殿



三連春日造りの本殿



大国主西神社

 式内社であるが、退転しているので、元阿弥陀堂のあった場所へ不動堂が建てられて、これを仮の大国主西神社とし、本来の大国主西神社が見つかるまで名のることとなったそうだ。
 本社の戎神社の祭神に大国主神が祀られているのは、朽ち果てた大国主西神社を合併した際に合祀したものとの見方が、『式内社調査報告』にあるが、当たっているのかも知れない。



大国主西神社



百太夫神社

 表大門を出て産所町に行く。AUの売場の北側に傀儡師の故跡があるが、傀儡師が祀る神社が百太夫神社で、江戸時代には産所町に鎮座していたようだ。
 百太夫の神とは西宮の「えびすかき」として有名な人形繰りの祖神であります。初宮参りの時にはこの神様が小児の健康を守って下さると云う信仰によってそのお宮にも必ずお参りすることになっています。



百大夫神社  傀儡師の故跡
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 1690年頃には40軒程の傀儡師(人形繰りを業とする者)が住んでいた。人形回しなどと呼ばれ諸地方を巡回興行していたが、室町時代にはいるとその一部がこの産所の地に住み着き西宮神社の雑役奉仕のかたわら神社のお札を持って諸国をめぐり得意の人形を踊らせながらご神徳をひろめた。
1590年頃にはその人形芸が「えびすかき」「えびすまわし」と云われて全国的に知られるようになり、たびたび京都の宮廷で天覧を受けるまでにもなった。さらに淡路の人形座や文楽人形浄瑠璃芝居へと成長していった。


お姿

 承応二年(1653)には表門と大錬塀を残して全焼している。 神社は現在でも大錬塀で囲まれており、南門と表大門の東側にしか入り口がない。

 松の木と楠が多いように思う。境内に池があり、亀が多くいた。



大錬塀と赤門


神社境内の東と南を限る、総延長247mの長大な築地塀。 版築技法を用いてつきあげた築地を62基連ね、錬塀本体としている。室町時代の建築のようだ。
三錬塀とは、本塀と京都蓮華王院(太閤塀)と熱田神宮の信長塀を云う。



南宮神社


お祭り
 1月 10日 十日戎大祭
  9月 22日 例祭
 

御由緒

 えびす神社の総本社として古くから崇敬されている西宮神社は、古来銘酒の産地として名高い西宮の中央に鎮座し、平安時代には既に高倉上皇の御奉幣を賜った記録が残されている。中世以降えびすさまを福の神と崇める信仰が盛んとなり、室町時代には謡曲や狂言にも謡いこまれて全国津々浦々にまで神徳が拡まっていった。

戦国時代、当社御造営に際しては後奈良天皇の御寄進をうけ、江戸時代には徳川幕府から御神像札の版権を得て全国に配布されています社勢が盛大となっていった。

明治以降交通機関の発達に伴って参拝者も飛躍的に増加し、一月十日の十日えびすには百万人の参拝者があり、全国でも著名な祭典とされている。
  以上

参考 『日本の神々3』、『式内社調査報告』

公式西宮神社(戎神)
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