野江 水神社
大阪市城東区野江4-1-39 its-mo



鳥居


交通

地下鉄谷町線 野江内代駅 南へ200m



祭神

水波女大神
摂社
野江稲荷神社



拝殿

由緒

 『大阪府全志』から引用。伝へいふ。天文年間(1532〜)三好宗三は榎並城の水害を蒙ること尠からざるを以て、家臣に命じて神籬を起こし、彌都波能賣神に水害除難の祈祷を行ひしに神徳顕著なりしかば、小祠を建営して同神を祀りしも当社の起原なり。後豊臣秀吉も崇敬厚く、時々幣帛を奉りて国家泰平武運長久を祈り、元禄十六弁(1702)九月降雨日を累ね、洪水大に臻りて海と化し、里民悉く困難しければ、鈴木久太夫なる者当社に快晴を祈りしに、霊験顕著にして降雨頓に煌み洪水減退せりと、邑の産土神にして明治五年村社に列し、大正四年六月神餞幣帛料供進社んい指定せらる、境内は壱百七拾参坪余を有す。



本殿

お姿

 現今の社殿は明治十六年(1883)の造営後、度々修築を加え、今日に至ったという。
 地下鉄野絵内代(のえうっちんだい)駅を出てしばらく南下するとりそな銀行がある。その手前を東に入ると神社の真後にでる。本殿のお姿が見える。その付近には木々がない。さらに東へ進むと拝殿や参道、鳥居がある。



野江稲荷神社


お祭り

   7月 19,20日 夏祭  
  10月 19,20日 秋祭  

『平成祭礼データ』参拝のしおり


 当社は、大阪市城東区野江に鎮座しており、水波女大神をお祀りしています。

 昔、このあたりは、土地が低くいつもじめじめとしており、雨が降ると淀川やその支流が氾濫し、再々水害を被むる事がありましたので、水の神様を勧請されたものと思われます。世間では当神社を、水神社、水神宮、水神さま、地名から野江神社と称されています。

 天文二年(一五三三年)十月、三好宗三(政長)、この付近に榎並築城の際たびたび水害を被むったので、水火除難の守護神として、城内に小祠を建てて篤くまつられたのが、現在の社殿の位置と言われています。

 天正十一年(一五八三年)六月、豊臣秀吉も大阪築城に際して水火除難の守護神として、近郷の諸社中最も崇敬篤く、社殿を修築し幣帛を奉り国家泰平、武運長久を祈願いたしました。

 境内は、延宝七年(一六七九年)己未八月七日、永井市内検地惣奉行安達文右衛門の調書に御宮地と記されています。 天明の頃、宮座、北座、南座等があり、麻の裃を着用して神事に奉仕いたしました。

 元禄十六年(一七〇二年)九月の大洪水でこの附近は水海と化し、住民がことごとく困窮の日を重ねていた時に、鈴木久太夫と言う人が、「水徳廿霊神万民化楽氏子繁昌之所」勧行者鈴木久太夫と書いた木札を神前に奉り快晴の祈願をしたところ、雨がやみ、洪水は減退したと伝えられています。

 享和二年(一八〇二年)六月の大洪水にも当神社は無事であったことを、榎並八箇洪水記の中に記録され絵にも画かれています。明治五年(一八七二年)には、村社に列格し野江の氏神としておまつりされています。現今の社殿は、明治十六年(一八八三年)の造営にして、明治十八年の大洪水のために倒壊し、明治二十一年完成後、大正四年、同八年に修築を加え、大正十一年幣殿を増築し、昭和四十四年(一九六九年)には拝殿を、昭和五十三年(一九七八年)には幣殿、拝殿を修築、雨天の祭儀に便利な渡り廊下を新築、昭和六十二年(一九八七年)、透塀を改築して今日に至ります。

 なお当神社の由緒は、各新聞に再々掲載されておりますが「京阪沿線ぶらり散歩」や「大阪史跡散歩」の本にも紹介され、昭和五十三年九月二十二日、NHK教育テレビ−生活の中の日本史−「淀川はんらん」の中で全国に放映され、話題になりました由緒ある神社です。

 
以上




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