由緒 平成祭礼データから
住吉神社六百年と野里
野里は町名変更により歌島・野里・姫里となりましたが、明治末期の新淀川開さくまでは旧中津川の右岸に沿って開けた村落で、今日の住吉神社の石垣はその中津川の堤防の名残をとどめています。
中津川には野里の渡し(別名柏の渡)があり、大坂から渡しをわたり尼崎へ抜ける八丁街道は人馬の往来が絶えませんでした。
この渡しは仁徳天皇の皇后が、かしわの葉を海に投げ入れられた故事から槲の済と名づけられ、大伴家持が 「船いだす沖つしほさい白妙に かしわのわたり浪高く見ゆ」 と詠じたその地が、野里の渡し(柏の渡し)であると伝えられています。
また一説では、安閑天皇の時代に奉献された上御野・下御野は和名抄にいう三野郷で、野里周辺地域をさすのではないかとも言われています。
野里はこのように古い伝説を有する土地ですが、難波八十島のデルタ地帯であったこの地が開発されだしたのは、鎌倉末から南北朝の時代であろうと推定されています。
北村氏の旧記によれば永徳年間にこの地が大いに開発され住吉大神を勧請したとありますが、地元では住吉神社の創建年代は永徳二年(一三八二)とはっきり伝わっています。
また現存する崇禅寺の古文書には嘉吉二年(一四四二)、摂州中島野里庄(野里の旧名)の現在地に宮が存在したことを示す記述もあります。
野里住吉神社には大阪府指定文化財の一夜官女神事がありますが、この祭は摂津名所図絵や摂陽落穂集などにもみえ、江戸時代から近郷に広く知れわたっており、人身御供の作法が神事として伝わったものと言われております。
現在使われている祭具には元禄十五年(一七〇二)の墨書があるので、それ以前からの古い神事であることには間違いありませんが、昔は正月二十日の夜中に行われた神事が明治四十年から二月二十日に改められました。
また野里には一夜官女にまつわる話として岩見重太郎の豪傑退治話や、細川家内紛から戦に発展した享禄四年(一五三一)の野里川(中津川)の合戦と島村蟹の由来など、数多くの昔話を伝承する町でもあります。
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