住吉神社
大阪市西淀川区野里1-15-12

鳥居

交通

JR塚本駅 南西500mmapfan



祭神
表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后
摂社
淀川戎神社「事代主命、大國主命」
五座相殿社「草祖神、菅原道眞、八幡大神、春日大神、八百萬大神」
事平神社「事平大神」
稲荷神社

拝殿

由緒
 永徳二年将軍足利義満公の勧請と云われる。 例祭に行われてきた官女の式は勧請時の様式を伝えていると云う。
 十二、十三才の少女が官女に扮して、異様な祭器に神餞を盛ってお供えするもので、一夜官女と呼ばれた。

 神社境内に乙女塚が建てられており、ここは滝の池の跡地と云う。
 以下の民話が残る。
 昔、この里ではうち続く水害と悪疫の流行で、住民は苦しい生活を強いられていた。ここに、この村を救うためには毎年定まった日に一人の乙女を神に捧げよとの神託があり、村を救いたい思いからこれを行っていた。丁度、七年目の夜、官女の神事の時、武士が通りがかり村人からこの話を聞かされ、「神は人を救うが、人を犠牲に求めることはない」と述べ、正体を見極めようと乙女の身代わりに神社に運ばれた。翌朝、すでに武士の姿はなく、大きな狒々が絶命していた。この武士は、武者修行中の岩見重太郎と伝えられている。
 村では、この話を後の世に伝えるため、同じ形式で、毎年二月二十日に一夜官女の祭りを行っている。
 伝説は、司馬遼太郎の小説にもなっている。

乙女塚


お姿
 縦長の神域で、『摂津名所図絵』と殆ど変わりはない様子。
 ただ、明治二十二年までの大改修までは神社の東側を淀川が流れており、北側に大坂と尼崎をつなぐ太田和街道の野里の渡し(かしわの渡し)があったと云う。 参照 
水と緑の町西淀川区


お祭り
 
  2月 20日 例祭

由緒 平成祭礼データから

住吉神社六百年と野里

 野里は町名変更により歌島・野里・姫里となりましたが、明治末期の新淀川開さくまでは旧中津川の右岸に沿って開けた村落で、今日の住吉神社の石垣はその中津川の堤防の名残をとどめています。

 中津川には野里の渡し(別名柏の渡)があり、大坂から渡しをわたり尼崎へ抜ける八丁街道は人馬の往来が絶えませんでした。

 この渡しは仁徳天皇の皇后が、かしわの葉を海に投げ入れられた故事から槲の済と名づけられ、大伴家持が 「船いだす沖つしほさい白妙に かしわのわたり浪高く見ゆ」 と詠じたその地が、野里の渡し(柏の渡し)であると伝えられています。

 また一説では、安閑天皇の時代に奉献された上御野・下御野は和名抄にいう三野郷で、野里周辺地域をさすのではないかとも言われています。

 野里はこのように古い伝説を有する土地ですが、難波八十島のデルタ地帯であったこの地が開発されだしたのは、鎌倉末から南北朝の時代であろうと推定されています。

 北村氏の旧記によれば永徳年間にこの地が大いに開発され住吉大神を勧請したとありますが、地元では住吉神社の創建年代は永徳二年(一三八二)とはっきり伝わっています。

 また現存する崇禅寺の古文書には嘉吉二年(一四四二)、摂州中島野里庄(野里の旧名)の現在地に宮が存在したことを示す記述もあります。

 野里住吉神社には大阪府指定文化財の一夜官女神事がありますが、この祭は摂津名所図絵や摂陽落穂集などにもみえ、江戸時代から近郷に広く知れわたっており、人身御供の作法が神事として伝わったものと言われております。

 現在使われている祭具には元禄十五年(一七〇二)の墨書があるので、それ以前からの古い神事であることには間違いありませんが、昔は正月二十日の夜中に行われた神事が明治四十年から二月二十日に改められました。

 また野里には一夜官女にまつわる話として岩見重太郎の豪傑退治話や、細川家内紛から戦に発展した享禄四年(一五三一)の野里川(中津川)の合戦と島村蟹の由来など、数多くの昔話を伝承する町でもあります。   
 以上

参考 社頭掲示、『大阪府神社史資料』、『平成祭礼データ』

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