大宮神社
大阪市旭区大宮3-1-37 mapfan

鳥居

交通案内
地下鉄谷町線 千林大宮駅 西400m


祭神
應神天皇、神功皇后、姫大神
 配祀 鬼門守護大神、菅原道眞、天御中主神
 合祀 大國主神、事代主神、速素盞男神、十五社大神、應神天皇、菅原道眞

摂社
稲荷社「宇迦之御魂神」
高良社「武内宿禰命」
若宮八幡宮「仁徳天皇」
北斗社「北斗大神」
楠社「楠大神」
春日社「廣渕善直」
いぼ大神社「いぼ大神」
行者社「役小角」

拝殿


由緒


 摂津国東成郡に属する。
 『摂津国風土記』に比売許曽の神が比売島に来たとある。西淀川区姫島に鎮座する姫島神社を比売許曽神社とする説があるが、ここは近世まで海中であった。 摂津国風土記にいう難波の日女島(比売島、姫島)は旭区森小路付近と考えるのが妥当。 ここに鎮座するのが当社である。当地は旧名を南島と云われ、島であり人々も住み耕作もされ、北側には淀川から流れこむ瀬で船泊りもできたようだ。 比売許曽の神の比売島であるとの証は勿論ないのだが、往古からの聖地であったかも知れない。

 『社記』によれば、大宮神社の創建は、今から約八百年昔、文治元年二月、源義経が平氏追討の為下向の際この地に一泊し、その時に宇佐八幡の神の霊夢をみ、目覚めてみれば一樹の梅の古木に霊鏡が掛けられていました。 義経は吾に神助ありと勇気百倍、その鏡を奉じて平家を討ち滅ばし、後鳥羽上皇に奏上して神社建立をお願いして許され、この地に社を建てて大宮八幡宮と称した。と記されている。

 1月9日〜11日の戒祭を「大宮えびす」と云い、大阪では人気の祭礼である。

 また社殿前の大きなもちの古木は「いぼ大神」と称えられ、手で自分の肌と木肌を交互に撫でながら祈願すると、 病気治癒に霊効があるとされ、参拝者も多いようである。

本殿と高良社(手前)


お姿
 千林大宮駅から西に続く商店街を通り抜けると神社が鎮座、拝殿前のモチの木がいぼ大神である。 拝殿本殿の周囲にも摂社が多く、楠木を祀った神社もある。


お祭り
 4月15日 春季例祭
 10月25日 秋季例大祭
 10月26日 秋季例大祭

行者社

『平成祭礼データ』大宮神社由緒


当社は、大阪市旭区大宮に鎮座しており、応神天皇・神功皇后・姫大神・大国主神・事代主神・速素盞男神(二座)・十五社大神応神天皇(二座)・菅原道眞公をお祀りし、相殿に鬼門守護神(鬼門守護大神)・天満神社(菅原道眞公)・天御中主社(天御中主神)をお祀りしております。
大昔、大阪府下の平地は、上町台地等を除くすべてが大阪湾の入海で、これに淀川、大和川が流れこみ、永い年月の間に土砂が堆積して所々に島をつくり、その間を干潮時に急流となって潮が流れて浪速、浪華の地名を生んだのではないでしょうか、この流れを当時の人々が丸木舟で往来した事でしょう。
大正十一年発行の東成郡誌に、「森小路字浦生と南島第四十六番地及其他処処に千石船の帆柱が埋ってをるとの故老の伝えるを聞けり」と記されていますが、門真市教育委員会が三島で発掘した丸木舟(約十米)も、千石船の帆柱が埋っていると伝えられていた事から考えると、森小路にも南島(大宮)にも、その昔この付近を往来したであろう丸木舟が埋っていることでしょう。
時代が降って、これらの入海が泥沼状になり、米作りの農耕が行われる弥生時代以降、人々がおいおいと米作りの田として利用するようになり、更に古墳時代には千林小字タイマが示すように、コワクビノタイマの伝説を生む、堤防が築かれ米作りが盛んに行われていたと思われます。
平安時代この付近は、摂津志及摂津名所図絵によると、中(中宮)の川尻の寺江に高倉上皇の行宮があり五条大納言邦綱郷の所領であった事が記されており、古伝によると、中宮の重誓寺はもと高倉上皇の行宮で、島津忠久の子息友広が行宮の留守職を勤めていて、後友広に行宮を賜ってから寺とし、代々住職を勤めたといわれています。
又、東成郡誌によれば、森小路に森、鬼女、高畑などの小字があるが、平安時代には、この付近一帯に榎の大木が茂り鬼女が住み、往来の人々を悩し、又貢物を強奪したので、朝命によって、橘氏ら三十六人の侍が誅伐し、その賞としてこの付近一帯の地を賜り、榎並の荘としてその名主となり天正年間まで領有していたと伝えられており、友渕の友末家、貝脇の山口家は名主橘氏の子孫であると記されています。
ここ大宮は、旧名を南島と云うように、島で人々も住み耕作もされ、北側には淀川から流れこむ瀬で船泊りもできたことでしょう。
大宮神社の創建は、今から約八百年昔、文治元年二月、源義経が平氏追討の為下向の際この地に一泊し、その時に宇佐八幡の神の霊夢をみ、目覚めてみれば一樹の梅の古木に霊鏡が掛けられていました。義経は吾に神助ありと勇気百倍、その鏡を奉じて平家を討ち滅ばし、後鳥羽上皇に奏上して神社建立をお願いして許され、この地に社を建てて大宮八幡宮と称したと伝えられます。摂津誌に記されている「南島神社」は当社の事です。
降って天正十一年、豊臣秀吉が大阪城を築くに当り、当社を「鬼門守護神」と崇め、社殿、末社を建立、神域を整備し、毎年三、五、九月に幣帛を献じお祭りをしたと伝えられます。
当時は社殿宏壮にして境内も三ヘクタールと広く、南は京街道(今の内代町)に一の鳥居があり、それから神社まで参道として両側に松並木がつづき、境内は樹木がうっそうと茂っており、四周に清らかな流れがひかれ、朱の社殿、朱の橋が杜の緑に映えて荘厳この上もなかったと伝えられます。
その後、徳川時代にも大阪城の鬼門守護神としての信仰は厚く、大阪城代の交替時には当社に参拝し、毎年正月には初穂料を、又正、五、九月には大幣を献納して祈願したと伝えられますが、社殿等は年を追って衰微していたのを、天明、寛政の頃祠官廣渕肥後守善直が社殿、境内の復旧に務め、その功により朝廷から従五位下を授けられています。
その後明治四十年九月に、産土神社外六社を合祀し、明治四十五年四月に大宮八幡宮を改めて大宮神社と称し今に到っています。
尚、明治初年京街道改修に当り郡長命で本殿北側にあった小山がとりくずされてしまいましたが、それ以前は今の公園の少くとも半分ぐらいが山で椿がたくさん植っていて昼でも狐が寝そべっていたと聞いています。
以上




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