諏訪神社
大阪市城東区諏訪2-15-16 mapfan


鳥居

交通

地下鉄中央線深江橋駅 北東700m



祭神


建御名方刀美命、八坂刀賣之命

摂社
 大國神社「大國主命」
 談山神社「藤原鎌足」
 天満宮「菅原道眞」
 春宮神社(稲荷社)「高志沼河比賣命 配祀 猿田彦大神、稻倉魂大神」
 玉長神社(玉永社)「御井神」
 



拝殿

由緒

 創建の年月は不明。菅原道真公が太宰府へ左遷される途中に当社の森の石に腰を掛けて休息された。ここは道明寺に通じる道で左専道と呼ばれていたが、官公は左遷道と改めた。 また諏訪明神が身の行く先を助け導く神と聞き、御神号の額一面を奉納された。



本殿

お姿

 東向きに鎮座。木々は少ないが楠木の木を神木として注連縄が巻かれている。 拝殿前に南面して腰掛天満宮が鎮座、その前に菅公腰掛石が置かれている。この石に触ると学業が成就すると云われている。ひとつの磐座信仰と言えるようだ。



腰掛天満宮と腰掛け石


お祭り

 10月 23日  例祭   

『平成祭礼データ』から



 当社の創建年代は詳らかではないが、境内に現存している古い灯籠に、「承和三年一月十六日奉寄進」と記されている点から、千年以前に創設せられた事が想像され、尚風化のため判然としないが、これも同年期のものと思われる石鳥居一基が、神社の創立を物語る史実の一端となっている。御祭神の父神様である大国主命を大国神社に母神様である高志沼河比売命を春宮野神社に摂社としてお祀りしてある。
 第六十代醍醐天皇の御代、当時右大臣であった菅原道真公が筑紫に大宰権師として左遷配流の身となられ、河内道明寺へ在住の伯母君にお別れのため、当神社の前の堤(当時神社の付近は竹藪が繁り、堤の両側は沼地であった。道明寺に通じる道路は、この堤が唯一のものであったと伝えられる。神社の参道と接していた。)を横切られ、参拝の上御休憩になった。その際近くの住民を呼ばれ「ここは何と云う地名か」と質問されたところ、「左専道」と答えた。道真公は「どんな字を書きますか」と問われると「左専道」と書くと答えると、道真公は「われ今左遷される身なれば、左専を左遷と改めては・・・・」と、自分の身の哀れを訴えられたと伝えられている。その後、道真公の御身上を同情し左専を左遷と改め、土地の人達は村名にしていた様であるが、縁起がよくないと云って、何時の程にか元の左専道に改められて今日に至っている。
 その後、道真公は御神号の額一面を奉納になった。
 豊臣秀吉公が大阪城を築城すると、城の真東に当たる当社を、城塞鎮護の社して格別崇敬された。当時、当社で行われていた「御祭」には、その都度名将を代参させ、武将数名を遣わして、「流鏑馬の神事」を奉納され、事ある毎に参拝されて祈願し、霊験を得たと、剣一振・御紋章の提灯・青銅の灯籠一対等、数々の寄進をされた。中でも雌雄一対の大獅子(白雲号・白豊号。白雲号は流失し白豊号のみ現存。例祭に保存会に依り奉納舞を行っている)の奉納は一五九〇年七月に小田原城の北北条城城城氏を攻め、開始して一ヵ年包囲して三ヶ月遂に諏訪の大神を祈願して霊験を得、落城せしめた事の戦勝感謝の奉納品でることは有名である。
 なお、境内には菅公が立ち寄られたさい腰を掛けられた石と、菅公の子孫であ平直貞が祖先を偲んで、享保二年酉中夏に奉納した丸形手水鉢が現存している。また、寛保三年九月に菅公ゆかりの東坊城長誠が神号の額を奉納したと伝えている。
 以上

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