高砂神社
大阪市住之江区北島3-14-12 its-mo



鳥居


交通

地下鉄住之江公園駅 南南東 1km



祭神

住吉大神、天水分大神
配祀 柿本人丸神
摂社
保食神社 保食大神 宇迦御魂神
金山彦大神
交通安全社 猿田彦大神、天鳥船神、道之八衢神
天神社 菅原道眞、八幡大神、金刀比羅大神



拝殿

由緒(大阪府全志)

  天文二年開発者加賀屋甚兵衛の産土神たる水分神を、河内國石川郡貴志村より勧請し来しもの、当社の起原にして、以後数次に社頭の修築を行ひて今に至る。明治五年村社に列せらる。境内は参百八拾坪を有し、本殿・拝殿・社務所を存す。末社に保食神社・金山彦神社あり。



本殿


お姿

 広くはない敷地に摂社が三座、拝殿・本殿が鎮座している。
 ゴミの収集日だったのだろうが、ゴミの袋が数個、神社の鳥居の近くに置かれていた。そういえば、事前運動だろうが、公明党の選挙ポスターが多く目についた。神社への崇敬心がいささか乏しい地域なのだろう。


お祭り
 
  9月 25,26日  秋季太例祭

天神社       金山彦神社、交通安全社
 


保食神社


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平成祭CD 高砂神社 由緒書

 元禄十六年(一七〇三)、幕府の布令を以て、大和川つけ変え以来住之江浦に土砂が推積して浅洲を形成しましたが、大阪淡路町の両替商加賀屋甚兵衛は、堺に徃来する途中、霰松原から見た西方の浅洲が新田に適しているとし、享保十三年(一七二八)より開墾に着手し、北島新田と名づけました。元文二年(一七三七)、一応の完成を見ましたので、代官疋田庄九郎の検地を受けるとともに、御見捨地十五間四方を以て境内と定め、出身地の河内国石川郡新堂村の神産土神天水分大神を勧請、神職松原大蔵の奉仕により鎮斎、″はや住之江に着にけり″と謡われた謡曲「高砂」に因み、高い砂丘に位置するために、「高砂神社」と高づけられましたのが元文二年九月二十六日のこと、これが御鎮座の初めであります。
 加賀屋甚兵衛は、その後さらに加賀屋新田を開発し、北島新田は、宝暦四年以来、堺の甲斐町小山屋久兵衛が継承し、宝暦十一年(一七六一)ご造営を行い、柿本人麿朝臣の神像をも松原大蔵子息松原出羽守幸正が奉斎しました。しかるに天保六年(一八三五)八月二十七日夜、出火し、社殿を消失しましたので、ここに住吉大神を奉斎するとともに翌天保七年、再建し、八月二十八日、住吉大社神職山上松太夫の奉仕で正遷宮を行いました。
 明治五年、村社に列し、境内地は、小山屋久兵衛の後、明治三十五年以来、浜田甚兵衛の所有地でありましたが、村社として村民によって維持せられ、昭和六年三月、神饌幣帛料供進社に指定、戦後、昭和二十七年十二月十日付を以て、宗教法人法による宗教法人として認証、全国の神社が宗教法人と成った際、寄進せられ今日に及んでいます。昭和四十二年には、御鎮座二百三十年祭に当たりご造営が行われ、昭和六十年には、昭和の大修理として社殿・社務所・神庫等を大々的に改築し、九月二十六日、遷座祭、翌二十七日、同奉祝祭並びに御鎮座二百五十年大祭を執行した。古来日本では、人の住むところには必ず鎮守氏神が祀られています。人々は氏神様、産土神様を中心に、喜びも悲しみも分ちあいつゝ生業に勤しみました。したがって氏神様には、一本の木、一枚の瓦にも父祖先輩の尊い血が通っています。私どもの住む北島の父祖先輩の方々も、新田の開発に血のにじむような苦労を重ね、それにつけても鎮守氏神高砂大神様を心のよりどころとして、社会生活の中心に仰いでまいりました。その間、代はかわり住む人も変わりましたが、現在も北島町はもとより住之江方面の開発の初の氏神鎮守産土神社として、厄除け・諸厄難除けの神とし崇敬を集めております。
 以上
 

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