田蓑神社
大阪市西淀川区佃1-18-14

鳥居

交通

阪神本線千船駅 北800m mapfan



祭神
表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后
摂社
稲生神社「宇賀御魂神」
七重社「天照皇大神 配祀 事代主大神、猿田彦命、大國主大神、應神天皇、少彦名大神、菅原道眞」
東照宮「徳川家康 配祀 大物主大神」

本殿

由緒
 社殿のは住吉大明神の額がかかっている。田蓑嶋神社、住吉神社、田蓑神社と名前は変遷している。
 神功皇后が三韓から戻る途中、当地にて住吉三神を祀ったと言う。後に皇后も祭神となった。

 『大阪府史蹟名勝天然記念物』から。
 八十島祭は大嘗祭の翌年勅使を差遣わして行はせらるる朝廷の大祭儀にして、座摩宮の神人の祀る所なりしも後代此の儀なく、住吉社の神人之を奉行せしものならんと考えらるるものに、年代不詳『住吉大社解状』に「九月御解除、田蓑島姫神社、在西成郡」また同社年中行事に「八十島祭於難波河尻島島被行之、河尻者淀河之下流也。河中多島、如田蓑幣島等皆是也、往古住吉鎮之、故八十島祭、雖祭諸神、宗住吉大神」とあり。以上。

 八十島祭は御世世世の初に行はせらるる国土奉謝の大儀なるに、後には夏の御祓えとなりて住吉社の年中行事に入りけるにや。また、『住吉大社神代記』に部類神として「田蓑島神」を載す。

 住吉大社の神主家の津守氏は田裳見宿禰より出ると言われ、宿禰の母は紀の国の人。

 当地は現在は佃であるが、その前は田蓑嶋、これは田裳見宿禰に縁の地名と思われ、領主のような立場であったのだろうか。

 謡曲「芦刈」の碑が立っている。

摂社群と芦刈の碑(左隅)

お姿
 神域は緑が豊富。阪神大震災で鳥居などは倒壊、再建されている。 中学校の生徒を案内した教師が謂われなどを解説していたが、真面目に聞いているのは半数。

 謡曲「芦刈」の説明板の内容
昔、難波に仲のよい夫婦がいました。生活苦のため相談をして夫と妻は別々に働きに出ることにしました。夫は芦を売り、妻は都へ奉公に出て、やがて妻は優雅に暮らす身分になりました。妻は夫が恋しくなり探すうちにはからずも路上で巡り合いますが、夫はみすぼらしい身を恥じて隠れます。
 妻は夫婦の縁は貧富などによって遮られるものではないという意味の和歌を詠み交わすうちに心も通い合い、目出度く元通り夫婦仲良く末永く暮らしたという「大和物語」の話より作られた謡曲が「芦刈」です。
 淀川支流の佃は川岸に沿って昔、芦が群生していた所で、謡曲「芦刈」の舞台として面影はないが、田簑神社はその史跡として今に伝えられています。
   謡曲史跡保存会


お祭り
 
  7月31日 夏季大祭  10月16日 秋季例大祭

由緒 平成祭礼データから

田蓑神社由緒

 貞観十一年(八六九年)九月十五日、鎮座。田蓑嶋神社という。
 寛保元年(一七四一年)九月に、住吉神社と改名し明治元年(一八六八年)に田蓑神社となる。

 住吉の四柱
 住吉大神は昔、日向の橘の小門の檍原というところに、お出ましになりました大神で伊邪那岐大神のお子様が表筒之男命・中筒之男命・底筒之男命の三柱でございます。伊勢神宮の天照皇大神の御兄神に当れる神様です。神功皇后が三韓征討の時に皇后みずから、住吉三神を守り神と奉り、進まれ遂に三韓の王等を降伏、国におもどりに成る途中この田蓑嶋に立ちよられ勝ち戦を祝われ三神を奉られ後に神功皇后も加わり四柱となる。これを住吉の四柱の大神という。時の御船の鬼板を神宝として今も奉祀されている。

 徳川家康公
 天正十四年(一五八六年)、徳川家康公この地に立ちよられ多田の廟(現在、池田市多田神社)に参詣の時、田蓑嶋漁夫等、漁船をつかって、神崎川の渡船を勤めた縁により、漁民等には「全国どこで漁をしても良し又、税はいらない」という特別のごほうびをいただき、漁業の一方、田も作れと命じられ、その竟をもって田蓑嶋を佃と改め、後、寛永八年(一六三一年)、田蓑嶋神社内に、徳川家康公が奉られることになった。

 天正十八年(一五九〇年)八月一日、家康公が関東(現在東京)へ下降の時に佃の人等三十三名と田蓑神社宮司平岡正太夫の弟、権太夫好次が住吉四神の分神霊を奉戴して、当時安藤対馬守、石川大隅守の邸内に一時奉祭し寛永年間に鉄炮洲(現在佃嶋)の地をいただき、大阪の佃と同じ名を付け、住吉大神の社地を定め正保三年(一六四六年)六月二十九日、住吉の四柱の大神と徳川家康公の御霊を奉られた。(現在、東京都中央区佃の住吉神社)
 以上

参考 社頭掲示、『大阪府神社史資料』、『平成祭礼データ』

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