富島神社
大阪市北区中津2-5-10
鳥居
交通
地下鉄中津駅 北300m 地図
祭神
速素盞烏尊
配祀 天照皇大神、八幡大神、住吉大神、奇稻田姫命
合祀 豐受皇大神、菅原道眞
摂社
鷺島神社「豐受皇大神 」
美津社「兵衛府八幡、天児屋根命、事代主神、猿田彦神」 、稲荷社、天満社、御神木
拝殿
由緒
『摂津名所図会』によれば、祭神は武甕槌命、今(江戸時代)天王としょうするとある。寛永の始め(1624〜)、諸国に疫病が流行ししたので、常陸国から勧請したと伝わる。孝徳天皇を祀る豊崎神社の摂社の鹿島神社と同じ由緒を持つ。
もともとは鹿島神社であったのが祭神が疫病退治では著名な速素盞烏尊となり、天王と云われていたが、難波八十島の一である利島に因んで名付けられ、富島と変わって来て祭神の武甕槌命も失われたのだろう。
本殿
お姿
木々が大きくなっている。都会のオアシス。 摂社が多く鎮座しており、それぞれがよく整備されている。
お祭り
10月13日 例祭
摂社 美津社 神木
由緒 平成祭礼データから
由緒
当社の創立年代は不詳であるが、社伝によると足利時代既に存在しており、牛頭天王社・祇園社と称していた。
この地は昔、摂津国西成郡南中島村光立寺大字本庄七三三番地という。
氏子地域は字光立寺東部・下三番・南浜村他五ヶ村の人々が鎮守の氏神として国土安泰・五穀豊穣・氏子繁栄を日夕祈願して氏子の崇敬殊に篤く、多く農業を営んで安堵の土地であった。
文禄三年九月、片桐市正検地。
延宝五年十二月、青山大膳亮検地。いずれも検地帳に、牛頭天王社除地一反二十歩(一〇六六平方米)とある。
寛文三年、馬場先に石造鳥居を建立し、氏子衆挙って神幣を捧げ持って行きつ戻りつ祝踊りを奉納した。
明治元年四月十日、神仏習合禁令により、神号に菩薩・権現・牛頭天王等の使用が禁止された。
同二年、浪速八十島の中の利島にちなみ、利島神社と改称する。これは神祇伯白川資訓王の選名である。
同五年、村社に列格される。
同十八年、枚方の淀川堤防決壊による大洪水で、神主邸浸水し、古記録ことごとく流失する。
同三十一年五月二十九日、淀川の改修工事が始まり、中津町の六割が河道に没した。
同三十三年五月、淀川改修に伴い、島神社を境内の末社として遷宮。
同三十四年十月二十一日、村社兵衛府神社を鷺島神社境内に遷宮。
同三十六年一月、社殿の南及び西側の田地を埋立てて境内を拡張し、社殿を東向きから南向きに改築。
同年九月、社殿改築竣工。
同三十八年、この頃より、全国一般に神社の維持が困難になって、かえって敬神思想に反するので、神社の合併の議が唱道され、一町村一神社を基準として、基礎設備を鞏固充実させるために神社の整理に着手した。
同四十一年七月十日、無格社春日神社を合祀する。同年十一月五日 村社天満宮を合祀する。
同四十二年四月六日 村社鷺神社を兵衛府神社を合祀したまま、当社に合祀する。同年五月四日、村社八阪神社を合祀する。同年六月7日、四社の合祀をおわる。
同四十三年一月二十一日、昔、この辺りを富島の荘と呼んでいたことから、富島神社と改称する。
同四十四年七月、合祀された神社の建物を移し、社務所・神具庫を建てる。
大正四年十一月、周囲の石玉垣が氏子により奉献される。
同十年五月十五日、島神社・春日神社・兵衛府神社の3社を合祀して、本殿の西に美津神社を創立する。
同十一年七月、氏子の手により、西方石垣が築造された。
昭和二十年六月一日、大阪空襲により、美津神社と神具庫を残して建物はことごとく焼失したが、御霊代は別所に奉安してご安泰であった。
同三十年七月、復興奉賛会が組織され、氏子諸氏のご協賛により、拝殿を新築する。
同三十八年九月、御旅所移転する。
同三十九年二月、八阪神社を分離して、塚本神社を創立する。
同四十一年七月、社務所新築により戦災復興事業完了。夏祭に合わせ盛大に祝祭を行う。
同五十三年十月二十一日、新北野二丁目四十五番地に鷺島神社(仮称成小路神社)を移転改築し御神霊を奉遷す。
同五十八年七月十二日、本殿改築。
同五十九年七月十二日、稲荷社、境内東側より北西角に移転改築。 以上 |
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