温泉神社
神戸市北区有馬町1908 itu-mo

鳥居

交通案内
有間温泉口 東 700m


祭神
大己貴命、少彦名命、熊野久須美命 合祀 軻遇突智命


摂社 天津神社、胸形神社 等

二の鳥居と拝殿


由緒


 『伊呂波字類抄』に、「温泉三神社、旧記云、湯泉鹿舌三像(輪)大明神者是一体分身也 故名号三和社崇神天皇之時七年始被定置神戸 載天慶八年の交替帳」と記されてあり、天慶八年の交替帳に、崇神天皇七年に初めて神戸を定め置かれたことを述べている。

 有馬温泉の名は『日本書記』に現れ、舒明天皇三年九月及びその後七年にも行幸あらせられ、しかして相次ぐ行事に際し、温泉の守護神たる当社へ「奉幣のことあり。」と見え、古くから朝廷の崇敬の社となっていた。

 『摂津国名所図会』には、「湯山にあり、式内社で、今は湯山三所権現と称す。祭神三座。中央熊野権現、左三輪明神、右鹿舌明神n也 この神は神内羽束山香下明神にて、神体は少彦名命なり。三所の内、三輪明神を地主神とす。」と記している。

本殿と摂社天津神社


お姿
 神戸電鉄有馬温泉駅を下車、少し東に歩く。そこから南へ坂道をじぐざくに行くと鳥居が現れる。そこからまた石段が続く。愛宕山の中腹に鎮座している。
 鳥居をくぐり、少し登ると妙見神社が鎮座している。
 拝殿前の広場の向かって右側に摂社がいくつか鎮座している。
 

摂社妙見神社


お祭り
 10月 2日 2日間 例祭(秋祭り)

『平成祭礼データ』湯泉神社 御由緒


みなと神戸の裏山、六甲山を越えると有馬の町になります。海抜四百メートルの山狭に位置していますので、景色はすばらしく、春のコブシ、桜、秋の月、モミジは有名です。しかしなんといっても有馬が全国に知れわたったのは、日本最古の温泉だということによると思います。なにしろ大己貴神さまと少彦名命さまとが人々を病気から守るため、国々を旅し、薬草を捜し歩かれたときに発見されたといわれています。つまり、神代の昔のことです。
 というのは、川のほちりで赤い水が岩の間から湧き出ているのを神さまたちが見つけられました。そこえ三羽の傷ついたカラスが飛んできて、水の中に降り立ち、水を浴びていました。しばらくするとカラスの傷がみるみるうちになおっていきます。 神さまたちが不思議に思って手をつけてごらんになると暖かい水でした。「きっと病気にも効くに違いない」・・・神さまたちはカラスをまねられ、さっそく、その湯を浴びられました。こうして有馬温泉が見つけ出されたいい伝えられています。これらの神さまがたを、おまつりしてあるのが湯泉神社です。
 史実の上では「日本書紀」に西暦六三〇年秋九月、舒明天皇が摂津国有間温湯に行幸された、と記録されていますから、少なくとも千参百五十年以上もの昔から有名だったことがわかります。
 舒明天皇は七年後にもう一度有馬を訪ねられ、さらに九年後には孝徳天皇もお出でになっていますが、その後は行幸もと絶え、温泉もさびれてしまいました。
 この有馬温泉を再興されたのが、行基菩薩と仁西上人です。行基菩薩は今から約千二百六十年前の神亀元年に有馬を訪れ、温泉をさらえ、一寺三院を建立、療養地にしました。また、仁西上人は約七百九十年ほど前に、夢にあらわれた熊野権現のお告げで、山津波のために全滅していた有馬の復興を思い立ち、薬師十二神将にちなんで十二の宿坊を建てました。現在、有馬の旅館に○○坊≠ニいうの名が多いのはこのためです。
 さて、もうひとり、有馬温泉の恩人として忘れられない人がいます。豊臣秀吉です。 秀吉が有馬温泉を知ったのは、信長の命で中国地方に兵を進めていたとき、戦傷病兵を送りこみ、たいへん効能があったので、すっかり有馬が好きになりました。天下をとってからもしばしば有馬通いをし、豪荘な別荘を建て、湯女にまで扶持米を与えて直参湯女≠ニ呼ばせていたといいます。
 湯泉神社の境内に「亀の手洗バチ」というのがあります。これも秀吉の頃をしのぶものです。この地にも、湯泉神社の近くにある善福寺には阿弥陀堂のカマ、瑞宝寺には石の碁盤など、ゆかりの品々が残っています。 こうして有馬温泉は多少の曲折もありましたが、熱海、伊豆が東京の奥座敷でありますように、有馬は関西の奥座敷として千三百年もの長い間栄えてきました。
 それというのも豊富な湯量と変化に富んだ温泉の種類が魅力となっています。摂氏九十度の高い温泉から摂氏四十度〜六十度の低温泉、また常温の鉱泉などがあり、一日三千立方メートルもの湯が浴用に使われています。温泉の種類も金水≠ニ呼ばれる含鉄炭酸食塩泉をはじめ、鉄分の少ない銀水%ァ明な炭酸泉、ラジウム泉があり、婦人病、リュマチ、貧血病に効き目があります。そして、最近では年間に二百萬人もの人々が有馬に訪ねてこられます。
 この日本最古の有馬温泉の守り神として、いつの時代も湯泉神社は人々の崇敬を受けてまいりました。平安時代の初期、九二七年に撰上された「延喜式」という宮廷諸官の行事を規定開いた、いわば法律の中に、当時の全国神社が三千百三十二座登録されていますが、その中で湯泉神社四百九十二ある「大社」の一つに数えられています。
 ということは、五穀豊作、天皇がおすこやかでいらっしゃるよう、また日本の国が平和であるようにと、お祈りする夏と冬の月次祭、旧暦二月四日の祈年祭、そして豊作を感謝し新米をお供えする旧暦十一月の中の新嘗祭には、神祇官からお供えが届けられていたということでこのことを見ても、いかに古くから湯泉神社が人々の厚い信仰をあつめていたかを知ることができます。
 湯泉神社の現在の御社殿は寛政十年に建てられましたが、重要文化財の熊野蔓茶羅図や、たくさんの社宝が保存されています。
 湯泉神社では、七月三日のみこし渡御が行なわれる夏祭、十月三日の氏子でコミュニケーションをはかる秋の大祭、それに、春、花が飛び散る頃疫病が流行するため、病気や諸々のわざわいから守ってもらうようにお祈りする、五月五日に行なわれる鎮花祭を中心に由緒ある祭典が今日まで伝えられ、奉仕されています。
 特に最近では、個人の祈願である安産祈願・命名・初宮詣・七五三・入学・卒業・就職等の報告祭。成人式・結婚式・寿令の祝・厄除・災難除等の神事。あるいは、先祖祭・家内安全等の家庭家業に関する神事。また地鎮祭・起工祭・上棟祭・竣工祭・開業式等工事に関する神事、といった氏子崇敬者の御依頼も多く、湯泉神社の御神威のほどが、いやますますに人口に膾炙されるようになりました。
 なかでも「玉鉾さま」「阿福さま」と呼ばれている子授けの御守りは大変な評判です。これは平安時代末期に作られた「伊呂波字類抄」という日本最古の辞書にも記載されていますが、子宝に恵まれない人々が、男形・女形それぞれの形を作り、夜陰ひそやかに神前に献じ、子授けの祈願をしていたことに瑞を発しています。
 「玉鉾」の玉≠ソは、よりよいもの、美しいもの、との意味ですし、鉾≠ニは男性を表わしたものです。また「阿福」の阿≠ヘ女性の名前の上につけていう言葉ですし、福≠ニは女性そのものを表わしたものです。このように男性・女性を神前にお供えする風習が現在も連綿として湯泉神社では続いており、ご希望の方にこれを授与しています。
 ところで、この有馬には山地の特性から生まれた数々のみやげ物が古来より現在にと伝えられています。
 なかでも、有馬の各所に散在する竹林を背景とする、篭細工と有馬筆ちは江戸時代の湯治客に大好評を博し、その頃有馬全戸の約半分が篭職であり筆職であったといわれています。もちろん日本一の生産量を誇っていました。とりわけ秀逸なのは竹管を五彩の糸で巻き、管頭にからくりをしかけた人形筆ですが、これの由来は舒明天皇や豊大閣などの有馬の恩人にからませ、いろいろと伝説化して取沙汰されています。
 それから六甲深山の味覚である山椒。山ぶき・松茸などを佃煮にした「花山椒」「越天楽」「松茸昆布」などは、その起源のほども判明しないくらい古くから、有馬の特産として愛賞されているものです。
 また舒明・孝徳両帝の行宮跡である杉ケ谷に湧く水が、里人は毒水だとして近づかなかったのですが、明治六年、横浜の一商人の示唆により霊水であると証明され、この天然炭酸水の顕著な薬効を利用し製造されたのが炭酸煎餅です。明治の末に登場したこの有馬みやげは都人士に愛好喧伝されました。
 正月二日の有馬の町は、ひえびえとはしていますが、まったく静かな、それでいてどこか艶っぽい町のたたずまいです。その温泉街に雅楽の音が流れ、古式豊かな行列が続き、練って行きます。赤地に白く、入初式≠ニ染め抜いたノボリを先頭に、きらびやわな神輿と連台が続き、連台には真っ黒になった行基・仁西、両上人の座像が二つありその後に湯泉神社の神主、寺のお坊さん、湯女姿と稚児姿の芸者衆、羽織はかまの旅館の主人たち、お座敷のきれいどころが従い、ゆっくりと町を進みます。
 陽光に輝く金具、山の緑に美しく映える衣装、荘重な雅楽のメロディー。毎年この日に行なわれる入初式の風景ですが、このお祭に、有馬の町の温泉と信仰との結びつきが、じゅうぶんにうかがうことがで
 以上




 

神奈備神社一覧兵庫県

神奈備にようこそ