豊崎神社
大阪市北区豊崎6-6-4

鳥居

交通

地下鉄中津駅 北東700mits-mo



祭神
 孝徳天皇
 配祀 素盞嗚尊、應神天皇
 合祀 僧形八幡宮

摂社
 鹿島神社「武甕槌命 配祀 豐受姫大神」
 恵美須神社「事代主命」
 東照宮社「徳川家康 配祀 市杵嶋姫神」
 稲荷神社「宇賀御魂神、豐受姫大神」

境内と拝殿

由緒
   孝徳天皇の都した難波豊崎宮の廃された後、この地は荒れるにまかされ、宮址の一隅は松林となった。世に八本松とよばれた。
 藤原重治がこの地を開墾するに及び、宮地がむなしく埋滅することを恐れ、樹林中に小祠を建立して孝徳天皇を祀った。
 後に村一の願いよって」須佐之男命を合祀した。

 明和九年(1772)火災に罹って社殿と舊記を悉く焼失した。

 明治末期に南長柄の八幡神社を相殿に合祀、また東照宮と厳島神社を合祀した。

本殿

お姿
 木々がほどよく茂って都会の団地地域のオアシスになっている。摂社に鹿島神社が鎮座、武甕槌神を祀る。寛永の始め(1624〜)、諸国に疫病が流行ししたので、常陸国から勧請した。
 


お祭り
 
 10月14日 例祭宵宮祭
  10月15日 例祭

摂社 鹿島神社    石 孝徳天皇の御履脱石か?
 

由緒 平成祭礼データから

 由緒
 難波長柄豊碕宮は、第三十六代孝徳天皇の御一代の皇居で、当宮に於て大化改新を行はせられたのであります。
 孝徳天皇は、御諱(いなみ)は、軽、天万豊日天皇(かるあめよろづとよひのすめらみこと)と申し、御姉、皇極天皇に次で、大化元年六月十四日、御即位遊ばされたのであります。
 之より、白雉五年迄、御在位十年間、皇太子、中大兄皇子(後の天智天皇)と共に、万機を臠(みそな)はせられたのであります。
 孝徳天皇は即位と同時に天皇という称号をお使いになって居られますが、これ迄の天皇は奈良時代になって天皇という称号を諡とせられたのであります。
 それ迄は、御在世中は、中国の文字や言葉をそのまま使って、天子、大王、尊等という称号をお使いになって居ったのであります。
 大化元年十二月九日、大和飛鳥板蓋宮より難波長柄豊碕宮に遷都し給い、白雉五年十月十日、豊碕宮の正寝に於て崩御遊ばし、その後、御姉の皇極天皇が御重祚遊ばし斎明天皇と申し上げる。
 難波の都は、その後、しばしば陪都として栄えたのであります。
 我が国、史上の一大変革でありました大化改新の聖業は、天皇の御理想を基とせられて断行せられたのであります。
 天皇の御代が如何に重要な時代であったか推測されるのであります。
 然し乍ら、時勢は非常にむつかしく容易に改新の断行を行う機会を得なかったのであります。
 この内外情勢の止み難き要請に基き、この時、遂に、皇極天皇四年六月十二日、板蓋宮の大極殿にて、中大兄皇子、中臣鎌足等は、蘇我入鹿を誅し、改新への大道を茲に切り開かれたのであります。
 ついに、蘇我氏打倒の計画は成功し、この月十四日、孝徳天皇は御即位遊ばし中大兄皇子を皇太子にたてられ、我が国始めて、阿部内麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に、中臣鎌足を内大臣に任じ、僧旻・高向玄理(たかむくのくろまろ)を国博士として、政治の顧問とせられた。
 即位後五日目の、同月十九日、始めて元をたてて大化の年号を制定し、天皇は群臣を大槻樹の下に召し、天神地祇に盟って、「天は覆い地は載せ帝道唯一なり。而るに未代澆薄(よのうすら)ぎて、君臣(ついで)序を失えり。
 皇天手を我に仮し、暴逆を誅し殄てり。
 今共に心の血を瀝ぐ、而して今より以後君は二つの政無く、臣は朝に貳くこと無かれ、若し此の盟に貳かば、天災し地妖し、鬼誅し人伐ち皎きこと日月の如し」と仰せられ、改新政治の本義を明らかにし給うたのであります。
 又、朝鮮の使にたいしては、「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしろしめすやまとのすめらのみこと)」と、号を示した、「日本」の国号が公定されたのは、この時であります。 大化元年十二月の条に、天皇都を難波長柄豊碕に遷したまう。
 老人等相謂りて曰く、春より夏に至り、鼠の難波に向きしは、遷都の兆なり、白雉二年十二月晦日の条に、是に於て天皇大郡より遷りて新宮に居ます。
 号けて難波長柄豊碕宮と曰う。と、称せられた。
 中央集権、国権伸張の思召をもって、天皇が都を飛鳥の地より内外諸国交通の要地である難波長柄豊碕の地に移し、この地を首都と奠めて大化改新の策源地とせられた。
 大化二年一月元旦、豊碕宮に於て賀正の礼畢るや直ちに大化改新の詔を仰せ出され給うたのであります。
 この詔の要点は、
 一、土地人民を悉く国家に直属せしめ、公地公民制を布く。
 一、行政区劃を制定し、その制度を樹立す。
 一、戸籍、計帳を造り班田収受の法を行う。
 一、調、庸等各種税法を規定す。
 等強力な国家制度の樹立こそ大化改新の主眼とするところでありました。
 御即位以来、改新の大業は着々として進展し、大化六年二月、長門の国司草壁連醜経が白雉を天皇に奉った。この白雉の祥端によって年号を白雉と改め給うたのであります。    以上

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