由緒 平成祭礼データから
当社創建の事蹟は悠遠の時代に属し、また中古の擾乱に会い、記録散逸して審にし難し。
然本社所蔵の縁起書並に古書等の伝えるもの、また古伝たるを失わず。 今これらに依りて由緒の大略を記述すれば、弘仁十三年(八二二)、嵯峨天皇兎餓野に行幸あらされて当地に一宿を過ごさせ給いしことあり。
同天皇崩御の後、左大臣源融公御追悼の余り承和十年(八四二)、天皇暇殿の跡、すなわち現在の社地なる宇神山に社殿を創建し、天皇の尊像を自ら作りて奉祀す。
社名は御諱神野(おんいみなかみぬ)の2字を採りて「神野太神宮」と称せられる。また当社を「北野天神」と称するは、菅原道真公を祀れるによるなり。
醍醐天皇の延喜元年(九〇一)正月二十五日、菅原道真公、無実の讒言によりて太宰の権師に左遷せられ、筑紫に流され給う。
公、御船に召され摂津国浪速の淀の川尻、すなわちこの北野の地に御船着きたり。 船より上がらせたまい、一樹の梅の色、殊に今を盛りと咲きしに御心をうつされ、昔、仁徳天皇この浪速の梅を御賞翫ありし、賢き御代のためしも恩召されければ、この梅のもとに、しばらく船の綱を解きたくりてその上に御座をかまえ賞翫あり。
それより此所を代々に伝えて梅塚という。
この時、村の農民、「ゆりわ」といえる器に団子を盛りて公をもてなし奉りしに、甚だ御賞美せられしとなり、その習いにより今も神楽祭礼の時、「ゆりわ」に団子を盛りて神供とし奉る。
従者、度会春彦及びその男、春茂の一族六人、此所まで供奉したりしを御側近く召され、汝ら一族は此所に留まるべしとて自ら御影一躯を書き給い、我霊魂ここに留りて擁護の憐をたれんと御遺訓を残され、御影をこの一族にたまう。一條天皇正暦四年(九九三)、菅公、正一位太政大臣を贈られければ、この時この喜多埜(きたの)にも神殿を建立し、産土神とし、且つ嵯峨天皇の聖霊に合せ祀り、恒例の神事怠慢なく神慮をすすめ奉る。然るに、暦応年中(一三四〇頃)、兵火のために社頭神宝、悉く焼失せり。
されども悦ぶべきは綱敷の御影、幸いに恙なかりしによりて今に至まで連日神供を奉る。
尚、白
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