山阪神社
大阪市東住吉区山坂2-19-23 its-mo
鳥居
交通
JR南田辺駅 南200m
祭神
天穗日命
配祀 野見宿禰
合祀 猿田彦命、宇賀御魂神、素盞烏尊
摂社
荒川稲荷神社「湯津志可由布比賣命 配祀 地主神」
拝殿
由緒
三代実録に、清和天皇貞観四年(862)八月十一日乙玄摂津国正六位上 田辺東神 田辺西神 並授従五位。
とあるが、この田辺西神が当社のことのようだ。なお、東社は南百済村字平野(東住吉区針中野2−3)にある中井神社というが、素盞嗚尊を祀る小祠で、境内僅かに数十歩。榎木の大樹と老楠があると、『大阪府史蹟名勝天然記念物』に記載があるが、現状は立派な神社となっている。
山阪神社はその昔野見宿禰が祖神の天穂日命をこの地に祀ったと社前掲示にはある。
また、社前掲示には、後醍醐天皇が紀州熊野権現御臨幸の砌、国家安康を当社天穂日命に祈念されたと記録にのこされている、とある。
本殿
お姿
往古は境内頗る広潤で樹木鬱蒼と繁茂していたようだが現在も木々が多く、下町のオアシスを為しているようだ。
普通の日に参詣したのだが、神職さんが熱心に掃除をなされていて、箒目を踏みつぶして歩くのが気が引けた気分。
お祭り
10月 14,15日 秋祭
平成祭礼データから
山阪神社のしおり
当社は一に田辺神社といい、三代実録にも掲載されている「田辺西ノ神」です。
田辺の地名は、田辺宿禰に関係ありといわれておりますが、詳かではありません。
天穂日命の子孫が、この土地に住し、その祖神 天穂日命を祀って社殿を建立しました。さらに、その同族土師(ハジ)氏たる野見宿禰命を合わせて祀られたのが当社の創めとされています。
後に土師氏弓部十六人を率い神功皇后に従い三韓に渡り偉功をあらわしたとあります。凱旋後、摂津住吉神社創立と共に、その地に邸宅を賜り梅園氏と称し、住吉松葉大記によりますと、大海、大依羅、開口、座摩、生国魂の各末社の上位にしるされ、当社が住吉大社より重視されていたあかしでもあります。
当社の祭儀もこの頃より梅園氏によって行なわれ、その同族にして配下の田辺宮主即ち禰宜長ならびに舎人よりなる宮座によって奉仕されたのであります。
九月朔日の例祭には、当社および後に現れる田辺東ノ神の祭儀には梅園氏親しく奉仕し、ことに禰宜長以下の宮座は当社に奉仕すると共に、住吉神社の神馬を飼養し日々住吉神社へ曳くを例とするようになり、当社の宮座は住吉神社との間に古くより特殊な交渉があったものとかんがえられます。
降って、平安朝に入り清和天皇の貞観四年八月十一日には、当社西ノ神、同東ノ神とともに従五位下に叙せられたと記録に残っています。思うに、田辺神社が東西にわかれてあったのは平安朝以前のことで、その時期は不明確ですが田辺発達の推移より考えまして、西ノ神まず田辺神社として創立され、次に人文の東方に発達するに伴い新たに田辺東ノ神を勸請され、何時か東西を付して両社を区別されたものと思われます。
以上
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