下總國11座:大1小10



香取郡[カトリ]:1座大

香取神宮[カトリ](名神大。月次新甞。)
香取神宮[かとり]「經津主大神、武甕槌命、比賣神、天兒屋根命」下総国の一の宮。香取連は物部系であるが、後中臣氏とのつながりで、祭神を饒速日命とせず、経津主神としたとの見方がある。
千葉県佐原市香取1697http://www.katori-jingu.or.jp/神宮公式 玄松子の記憶
香取神宮御由緒
<鎮座地>千葉県佐原市香取

<御祭神>経津主大神(フツヌシノオオカミ)(又の御名伊波比主命)<イハヒヌシ ノミコト>

<御事歴>大神は天照大御神の御神意を奉じて、鹿島の大神と共に出雲国の大国主命 と御交渉の結果、円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめ、更に国内を御幸して荒振る神 々を御平定され、日本建国の基を御築きになり、又東国開拓の大業を完遂せられて、 平和国家の建設と民生の安定福祉に偉大なる御神威を顕わされた。

<御神徳>古来国家鎮護の神として皇室の御崇敬最も篤く、特に「神宮」の御称号を 以て奉祀され、名神大社として下総国の一の宮である。明治以後の社格制では官幣大 社に列せられ、その後勅祭社に治定せられて今日に至っている。奈良の春日大社、東 北の鹽竃神社を始めとして、香取大神を御祭神とする神社は全国各地に及んでおり、 昔からの伊勢の上参宮に対し下参宮と云われ、広く上下の尊崇をあつめて居る。又、 一般からは産業(農業・商工業)指導の神、海上守護の神或は心願成就、縁結、安産 の神として深く信仰されている。尚その武徳は平和、外交の祖神と敬われ、勝運の神 、交通安全の神、災難除けの神として有名である。

<御社殿>宮柱の創建は神武天皇御宇十八年なる由香取古文書に記されている。去る 昭和三十三年四月、御鎮座二千六百年祭が盛儀を以て斎行せられた。古くは伊勢神宮 と同様式年御造営の制度により、御本殿を二十年毎に造替されたのであるが現在の御 社殿(本殿・楼門・祈祷殿)は元録十三年(西紀一七〇〇年)、徳川綱吉の造営に依 るものである。昭和十五年、国費により拝殿の改築と共に御本殿以下各社殿を御修営 し、その後昭和五十二年から三年の歳月を懸けて、御屋根茸替・漆塗替が行われた。 構造は本殿(重要文化財)、中殿、拝殿相連れる所謂権現造である。

<境内>香取の神域は大槻郷亀甲山と呼ばれ県の天然記念物に指定され、その面積は 一二三、〇〇〇平方米(約三万七千余坪)で他に境外社有地がある。神域内は老杉鬱 蒼として森巌の気自ら襟を正さしめる。




千葉郡[チハ]:2座並小

寒川神社[サムカハ]
二宮神社「速須佐之男命」泉があり水流を聖なる流れ[さむかわ]の語源とする。
千葉県船橋市三山5-20-1http://www.genbu.net/data/simofusa/ninomiya_title.htm
二宮神社御由緒

一、由緒

一.当社の儀は弘仁年間嵯峨天皇の勅創に係り、古来寒川神社二宮大明神と聯称す。 往昔より近郷二十三ケ村の総鎮守にして、丑未七年目毎に二宮神社外八神社の神輿を 会し大祭を執行す。

二.治承四年、藤原師経当国へ左遷の際、同人及神官倶々協議して左大臣藤原時平公 を本社の相殿に合祀す。

三.慶長年中、東照宮上総国東金へ御成りの砌り、御参詣の際御墨印寄せられ、二代 将軍秀忠公より御朱印御寄附、三代将軍家光公より御朱印を以て下総国千葉郡三山村 に於て御神領拾石御奉献。其の後貞享元年三月十一日、東照宮より四代将軍家綱公ま で神官宅火災の砌り御朱印焼失に付其の砌り寺社奉行へ御訴へ申上げ御吟味相済、翌 二年六月十四日、五代将軍綱吉公より御朱印前々の通り御社領御寄附あり。(現在の 御社殿は安永年間再造営せるものなり)

四.明治四十三年十二月十六日、千葉郡二宮村三山字北ノ海道一九九番、無格社若宮 八幡神社(大雀命)、同所字西ノ庭四四、二宮神社摂社阿波八幡神社(誉田別尊)御 本社へ合祀す。

一、大祭起源及沿革
当社は今を去る五百有余年前、馬加村(千葉市馬加町)の城主陸奥守康胤奥方懐妊、 十一ケ月到るも何等出産の模様なきをいたく憂い、三山村二宮神社、畑村子安神社、 馬加村子守神社、武石村三代王神社の各神主に命じて馬加村の磯部に地を相会し安産 御祈祷の祭禮たる産屋の古式を執行せしむ。(磯出祭は是なり)さる程に奥方安産あ り然も男子御出生の事とて康胤初め家臣領民等殊の外喜び此神徳に報いんと総社二宮 神社二宮安産御禮の大祭を執行する様領内村々に告げ知らせ、康胤は此度出生せる若 殿を伴ひ家臣一同を引連れいとも麗やかなる大祭を挙げたり。(是れを安産御禮大祭 と云ふ)是ぞ三山大祭の濫觴にして後年此二つの祭を一つに合せて同時に式事を執行 する様になりたり。此処に「三山の祭後が先」と云ふ伝説生じたり。是より庶人亦其 霊徳に浴せんと安産の祈願をなす者多きを加へ今や関東一の御産の神として有名とな り、この先例を丑年未年の七ケ年毎に踏襲し本社の外八神社、三山・二宮神社、畑・ 子安神社、馬加・子守神社、武石・三代王神社、久々田・菊田神社、高津・高津比・ 神社、実籾・大原神社、大和田・時平神社、古和釜・八王子神社の神輿三山神揃場に 集ひ其れより行列を以て御本社に参進し大祭を執行す。当夜は馬加村磯部に四基の神 輿相会し安産御祈祷の式事を行ふ。この夜畑村に必ず男女の出産ありて後七年目の大 祭には稚児となり参列する。


寒川神社[さむかわ]「寒川比古命、寒川比賣命」かっては堀貫井戸があった豊かな湧き水の地であった。御神殿奥深く祀られている獅子頭は鎌倉時代の作と伝えられている。千葉県千葉市中央区寒川町1-123 神社公式
参拝のしおり
下総国寒川郷仲宿(寒川一丁目)に、寒川地域(寒川町一、二、三丁目、港町、長洲 一、二丁目、末広一、二、三、四、五丁目、出洲港、神明町、新宿一、二丁目、新田 町)の守護神として鎮座まします寒川神社は、寒川比古命、寒川比売命配祀に天照皇 太神の御三神を祀り、世に神明様又は伊勢神明様として知られた御神徳のたかい神社 であります。徳川家康も拾石の社領を奉納して崇奉の誠を捧げました。
往昔海上往来の船舶が当社の沖合にかかると、礼帆と称して帆をなかば下げて航行し 、又社前を馬上にて通行する者は、武家平民を問わず下馬して敬拝をするを常とした と伝えらる、霊験のあらたかな鎮守様であります。王政復古により、明治と年号が改 められたその元年に寒川神社と改称されたのが現今の寒川神社であります。千葉市の 急速な発展に伴い、神社も氏子崇敬者約六千名を数え、歴代の宮司は身心を打込んで 日夜その全員の家内安全、商売繁盛を祈祷して居ります。
神社として記したいものは御神殿奥深く祀られている獅子頭のことです。これは、桐 材を使用、添塗刻様式で法隆寺にあるものに類似して居り鎌倉時代の作と伝えられて 居る御神体であります。伝承によれば「あるとき漁師が沖に舟を漕出して投入れた網 に、不思議な獅子頭が掛かったので持ち帰って大切に安置していたところ、之を私蔵 すると恐ろしいたたりがあると古老達に諭され、鎮守の神明様へ奉納してお祀りする ことにしました。それより神明様の沖合を帆をあげて航行する船舶の覆没するもの相 次ぐようになりました。そこで村の古老達が相談をして、之は獅子頭のたたりであろ うと早速神殿の下に石室を築造して封じ埋めたところ、それよりは珍事災難は全くな くなったといいます」これが現在の御神体の獅子頭であります。
寒川神社の御神殿は、文明十三辛丑年九月二十日(今から四百八十七年前)大破して いたのを再建しましたが、その後弘化二乙巳年十月二十七日、夜の大火のため御神体 を始め僅かな御神宝を残して尽く灰燼と化しました。
爾後五十五年ぶりの明治三十三年に漸くにして復元なり、仮御神殿(現今の新田町の 道祖神社の御神殿とも伝えられる)から御本殿へ移られましたが、明治四十一年二月 二十二日、夜の寒川の大火災で再び炎上しました。昭和二年当時の役員諸氏の献身的 努力と氏子崇敬者の奉賛とにより、三万数千円と言う巨額な浄財を以て約一ケ年の歳 月を費して再建されたのが現在の御神殿及び社務所であります。
このような由緒の深い霊験のあらたかな御宮を鎮守様として信仰の出来る地域の人々 は幸であり、又おのずから崇敬の念がますますたかまってくることが自覚されます。 然るに寒川地域に或いは未だ氏神様を知らない方もあるかと思われますが、明治百年 を記念とし敬神の念を一段とたかめ、家内安全・交通安全のため切ないときの神頼み ではなくして、転ばぬ先の杖と言う古諺の如く常日頃大いに寒川神社を信仰して、鎮 守様の御加護をいただき更にお互いの幸福をたかめることにつとめましょう。


蘇賀比盗_社[ソカヒメ]
蘇我比盗_社「蘇我比大神、千代春稻荷大神 配 天照皇大神、經津主神、武甕槌神、天兒屋根神、天兒屋根比賣神、應神天皇、比大神、神功皇后」天兒屋根比賣神が祀られている珍しい神社である。千葉県千葉市中央区蘇我町1-188http://www.geocities.jp/engisiki02/shimousa/bun/smf200202-01.html
参拝のしおり
当社は、今から千五百年前から建てられていたといわれている。
古記によると、第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が、東国地方を統 一すべく勅命を受け、弟橘姫を始め多数の家来を引きつれ軍船に乗りて、千葉沖に差 しかかったとき、風雨が強くなり船は進まず沈没の危険にあった。このとき弟橘姫は 「竜神の怒りに触れた」とこれを静め和らげんと同道して来た五人の姫達と共に身を 海中に投じた。そして日本武尊命は、無事航海をつづけた。身を投じた五人の姫の中 に蘇我大臣の娘たる比がおり、この方がこの下の海岸に打ち上げられた。里人等の 手厚い看護で蘇生することが出来た。そして無事に都に帰ることが出来た。又里人達 は、日本武尊命が日嗣の皇子でありながら東征の途中にて崩ぜられ皇位を継承するに 及ばなかった事を聞き及んでその霊をなぐさめんと社を建て神として祭った。この里 人等の行為にに深く感激した第十五代応仁天皇は、特別の命により蘇我一族をこの周 辺の国造として派遣し政治をおこなわせた。蘇我一族は、代々「春日神社」「比・神 社」を守護神としており、両神社の御分霊をいただき「蘇我比・神社」を建立した「 延喜式巻九神祇神名帳千葉郡記載」。その徳は山より高く海とり深く「春日様」「下 總の国香取神明様」と下總の国の守護神として人々に敬神された。
江戸時代には、徳川家康も敬神され十石を献上した。この所は江戸又上総、香取への 街道の要所にもあたり参勤する大名また人々の集まる宿場町であったため参詣する賑 わいをみせた。
明治五年、社格郷社となり皇室、国家の守護となり皇族の尊宗をうけ参拝もあり、御 手植の松もあったが、明治の大火事で神社も社宝、古文書、御手植の松すべて焼災し てしまった。だが今もって海難防止、民政安定、家運繁栄、五穀豊穣、諸病消除、延 命息災など神威をこよなくあらたかな神として近隣の人々に敬拝されている。



匝瑳郡[サフサ]:1座小

老尾神社[オイヲ]
老尾神社[おいお]「阿佐比古命 配 磐筒男命、磐筒女命、國常立命」匝瑳大明神。祭神は経津主命の子神、また物部小事を祭神とする説がある。宇麻志麻治命の十二世の孫物部木蓮子[きたみ]連の弟であり、板東を征したたとされる。千葉県八日市場市生尾75http://www.genbu.net/data/simofusa/oio_title.htm


印播郡[インハ]:1座小

麻賀多神社[マカタ]
麻賀多神社[まかた]「稚産靈命」祭神は迦具土神の子。奥宮は北800mの船形に鎮座、稚日命を祀る。本社の杉の巨木は[公津の大杉]として昔から崇拝されている。千葉県成田市台方字稷山1 古代であそぼhttp://www.genbu.net/data/simofusa/makata_title.htmhttp://www.genbu.net/data/simofusa/makata2_title.htm奥宮


結城郡[ユフキ]:2座並小

高椅神社[タカハシ]
高椅神社[たかさき]「磐鹿六雁命、國常立尊 合 木花開耶姫命、經津主神、高神、火産靈命、豐受比賣神」栃木県小山市大字高椅702 玄松子の記憶
参拝のしおり
当社の創立は、景行天皇の四十一年、日本武尊が御東征の折、現在の白旗丘(当社北 方約一粁)に御旗を立てられ、国常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝 を祈願されたのが起源であると伝えられる。
その後、天武天皇の十二年(六八四年)祭神の後裔高橋朝臣が氏祖神磐鹿六雁命を合 祀して、高椅神社と尊称するに至った。
延喜式の神名帳(九二七年)に登載されている古社である。
磐鹿六雁命は、崇神天皇の御代、各地に派遣された四道将軍の一人である大彦命の御 孫に当られる御方で、景行天皇が、御皇子日本武尊の御東征の戦跡を御巡視なされた 際、膳臣としてお供をなされ当地まで来られたが、老令のためお許しを得てこの地に とどまり、以後代代豪族としてこの地方を支配した。
天武天皇の十二年、朝廷より高橋朝臣の姓を賜わり代代高橋朝臣を襲名した。 「高椅」の地名も高橋朝臣よりとったという。
後一条天皇の長元二年(一○二九年)社域に掘った井戸から大きな鯉が出たため奇異 であるとして、時の神主が都に参上、その由を奏上したところ、誠に霊異なことと思 召され、「日本一社禁鯉宮」の勅願を賜わった。
以来氏子民は、鯉を食うこと及び鯉絵のついた器物等の使用を禁ぜられたが、今日ま でこの禁を犯す者がなく、鯉を食べないことは勿論、五月節句の鯉のぼりも立てない 風習が現存している。
当社が「鯉の明神さま」と親しまれているのは、この由緒によるものである。境内の 南端にある神池には、氏子、崇敬者の奉納した鯉が多数放流されている。
結城代代の城主の崇敬殊に厚く、政朝、政直、政勝、晴朝、秀康の各城主よりの寄進 状、祈願文、修行留等二十余通神納され現存する。
殊に秀康公が、越前福井へ国替になった後も代々例度の代参を欠かすことがなく、明 治維新まで続けられた。 明治五年郷社となり、同十年七月県社となる。


健田神社[タケタ]
健田須賀神社に合祀[たけだすが]「武渟川別命、須佐之男命」茨城県結城市浦町195http://www.genbu.net/data/simofusa/takeda_title.htm 神社
参拝のしおり
当社は結城市大字結城195番地に鎮座しており、タケヌナカワワケノミコトならび にスサノオノミコトを祭神とする。タケヌナカワワケノミコトは第10代崇神天皇の 勅命により四道将軍の一人として東国地方を開拓、鎮定の大功をたてられ、開拓殖産 興業、交通運輸の途を授け衣食住等人間生活の根源を開発指導せられ、所謂結城地方 の文化の親神である。この地方に生を享ける者としては夢うつつにも忘れる事のでき ない一切生業の大恩神にましますのである。スサノオノミコトは疫神、疫病をはらい 多くの人々を救い給わり、厄除け、身体健全、病気平癒の守護神として悪事災難を取 り除かれ生活活動の限りなき恩恵を蒙り、その御神徳は実に広大無辺である。健田神 社の創建は古く、竹田臣一族、結城の国造が祖神タケヌナカワワケノミコトを奉齋し たと伝えられ、醍醐天皇の御代に制定された『延喜式』(927年)に下総11社に 撰ばれ国司により奉幣があった。従って千年前に東国地方における著名の神社として 遠近に知られていたことが明らかで、創建が極めて古い事、朝野の崇敬が厚い事がし られる。古くは結城本郷字健田の地に鎮座し、その後幾星霜を経て、神仏習合により 宝暦14年(1764)小塙乗国寺と習合する。徳川幕府より祀田9石の寄進あり。 (朱印状現存)。
明治3年神仏分離により浦町須賀神社に合祀する。須賀神社は古くは天王宮と称し、 養和元年閏二月(1181)小山七郎朝光が結城に封ぜられ治績大いに上がり民心を 得て結城氏を称した。仁治3年6月(1242)尾張国津島神社より神霊を勧請しこ の地に創始する。その後歴代の領主結城氏をはじめ士庶に至まで崇敬を仰ぎ、康永2 年(1343)結城直朝が結城七社を定め結城108郷の総社として盛観を極めた。 領主移封後も毎年当神社の参拝を恒例とした。徳川幕府より祀田6石寄進。明治元年 神仏分離令により社号を須賀神社と改め、同3年健田神社を合祀し、健田須賀神社と 称し、明治6年に郷社、昭和5年に県社に列格される。現在も茨城県の特別神社に指 定されている。



岡田郡[ヲカタ]:1座小

桑原神社[クハハラ]
桑原神社「天熊大人命 配 稚彦命」宝亀三年。茨城県結城市石下町国生1186http://www.genbu.net/data/simofusa/kuwahara_title.htm
桑原神社
当社は下総国司従四位桑原王が、この地を開拓のさい里人を率先し、宝亀三年三月里 の 総鎮守神として創祀鎮齋。始め鬼怒川の右岸に御鎮座しておつたのを、延宝六年 現神地 に奉遷した。中世戦乱や世変のため伝を失い、香取神社と思われていたが、 享保年中棟 札によって延喜式神明帳に下総国岡田郡一座小 桑原神社と知ったと伝 う。(鎌倉時代 の板碑十数枚現存す)
明治六年岡田・豊田両郡の総社と定められ、郷社に列格。同四十年五月十三日(第二 三 四号)供進指定。昭和二十七年八月十八日宗教法人設立。



葛餝郡[カツシカ]:2座並小

茂呂神社[モロ]
三輪神社「大己貴尊 配 木花咲耶姫命」建立が近世との見方がある。埼玉県吉川市三輪野江1954 玄松子の記憶
三輪神社茂侶神社 千葉県流山市三輪野山619http://www.genbu.net/data/simofusa/moro_title.htm

意富比神社[イフヒ]
意富比神社[おおひ]「天照坐皇大御神 配 萬幡豐秋津姫命、天手力雄命」海上の捨て船の中から発見した神鏡を祀る。漂着神信仰の一類型である。また社名を[大日]と解する説もある。千葉県船橋市宮本町5-2-1 古代であそぼ
意富比神社
船橋大神宮の由来 当船橋大神宮は、景行天皇の御代四十年に、皇子日本武尊が御東征の途次、船橋湊郷 に到着なされ、東国平定の目的成就を御祈願なされたのを以てその御創建とします。 当時隅々住民が旱天に苦しんで居り、尊は併せて祈雨の由を念じられますと、一天俄 にかき曇り雷雨起り、土地が潤ったと言われて居ります。其後、景行天皇東国へ御巡 幸の折、その御事績を御追憾なされて「意富比神社」の御社号を賜り、後には延喜式 にも記載されて居ります。以来、朝廷・将軍家などより御崇敬極めて篤く、清和天皇 貞観十三年三月には、勅願により天下泰平・五穀豊饒を御祈念なされるため奉幣使の 下向あり、また後冷泉天皇の御代天喜年間には源頼義・義家の両朝臣当宮を修造し、 また仁平年間には船橋六郷の地に御寄附の院宣を賜り、源義朝之を奉じて当宮を再興 されましたが、その文書には「船橋伊勢大神宮」とあります。また鎌倉時代、日蓮上 人は篤く当宮を崇敬され、自己の宗旨興隆発展のため断食祈願の上自筆の曼荼羅と剣 を御奉納されました。降って徳川家康公は社領を御寄進、伊奈備前守忠次を奉行とし て摂末社を御造営せしめました。以後、徳川十五代に亘る間各々に五十石の禄高を献 納されて居りました。更に、明治天皇陛下には習志野練兵場、三里塚御料牧場へ行幸 の都度、勅使を以て幣帛料を御奉奠なされました。旧社殿における祭典の様は、江戸 名所図会にも描かれて居りますが、明治維新の戦火によって焼失し、其後明治六年( 本殿)、同二十二年(拝殿)と順次御造営せられ、以後大正十二年、昭和三十六年、 更に昭和五十年と各々に本殿、拝殿、末社、玉垣、参道、大鳥居などの改修を経て今 日に及んで居ります。



相馬郡[サウマ]:1座小

神社[ミツチ]
神社[こうもう]「彌都波能賣命、波迩夜須毘賣命」蛇に似た想像上の動物で角と四足をそなえ毒気を吐いて人を害したと言われる。茨城県北相馬郡利根町立木882http://www.genbu.net/data/simofusa/koumou_title.htm


H16.11.30
延喜式神名帳目次

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