下野国:11座 大1小10


都賀郡[ツカ]:3座並小

大神社[オホムワノ]
大神神社[おおみわ]「倭大物主櫛甕玉命」
由緒書き
崇神天皇四十八年、豊城入彦命東征の折、当室八嶋の地に大和三輪の大物主神を奉斎 したと伝えられる。保元平治の頃は社殿宏大にして美麗この上なしと称へられた。戦 国に入り小田原北条と皆川氏との戦いの際、兵焚に会い社殿宝物悉く灰に帰し、その 後、復興の力なく荒廃した。三代将軍家光公により社領三十石、松苗一万本の寄進と 諸大名よりの寄進により、天和二年五月、現在の形に復興し、更に大正十三年、野中 氏により大改修あり現在に至る。
栃木県栃木市惣社町477 玄松子の記憶
大平山神社[おおひらやま]「瓊瓊伎命、天照皇大神、豐受姫大神」
由緒沿革 太平山神社は、神護景雲三年(七六九年)、今より一二二三年前この地に鎮座なされ ました。(奥の宮、三光神社太平宮は約一千七百年前) 時至りて人皇五十三代淳和 天皇の御宇天長四年(八二七年)、勅命により天下太平を祈る社として社頭の造営が なされ、慈覚大師円仁により多くの末社寺も建てられ、以来天下万民の心の支えとし て下野国の信仰の文化の中心として信仰され今日に至ります。御祭神は「瓊々伎命− ににぎのみこと」を主神として仰ぎまつりて、天照皇大神・豊受姫大神・稲荷大神を 始め四十二座の神様をお祭り申し上げております。故に古来人々の家内安全・商売繁 盛・事業繁栄・開運・交通安全・厄除け・学業成就・願望成就・縁結び・安産・命名 ・初宮参り・身上安全・豊作祈願・方除け等々の「祈願成就」の「祈祷の神社」とし て信仰され、年に八十二度の祭りが斎行され、特に「正月の元旦祭・毎月一日の月参 り・四月十九日太々神楽・五月五日粽祭・六月の大はらい・七月一日交通安全祭・満 願祭・七月第一日曜精勝祭・十一月の七・五・三参り」など、日々の参拝者や祈祷者 は数十万に及びます。又、四方の眺望は陸の松島といわれ、四季それぞれに美しい景 観を呈し、自然の神々の偉大さにふれることが出来ます。
栃木県栃木市平井町659 玄松子の記憶

 
大前神社[オホサキノ]
大前神社[おおまえの]「於襃婀娜武知命、神日本磐余彦火火出見命」
由緒沿革
当神社は創立時代未詳であるが、人皇六十代醍醐天皇の勅撰に蒙り延喜五年八月式内 社に列せられ延喜式内の称号をたまわり下野十一社の一社として神名帳に登載されて いる。
社伝によれば天慶三年(九九三)平将門の乱の際、村中ことごとく兵火に焼かれ当社 も焼失したが間もなく再建された。 而して室町時代再度の火災により社運が衰い祭祀も廃すること百年に及んだと云う。
天正十九年(一五九一)徳川家康入府の際再建され、元和八年(一六二二)当地が古 河領となり領主永井直勝は社地五段百歩田四段七畝を寄進し、永井氏佐倉に移封され た後も武の神として近隣近郷の崇敬があったという。明治三年栃木県管轄となり近郷 の総鎮守とされ、明治五年十一月郷社に列せられた。
栃木県下都賀郡藤岡町大前383 玄松子の記憶

村檜神社[ムラヒノ]
村檜神社[むらひ]「譽田別命 配 大山命、熊野大神」
略記
創祀は孝徳天皇の御宇大化二年(六四六年)と伝えられ、熊野大神、大山咋命二柱を 祀り、佐野庄小野寺十郷(小野寺、上岡、下岡、三谷、新里、古江、下津原、駒場、 鷲巣、畳岡)の総鎮守として崇敬され、のち平城天皇の御宇大同二年(八○七年)に 皆川村小野口に鎮齋せる八幡宮を当社に合祀、主祭神と仰ぐ。

醍醐天皇の御宇延喜年間には勅命により、国内神社を調査せし時にその撰に入り、全 国二八六一社の延喜式内社に列せられる。

藤原秀郷公、唐沢山に築城の際当神社が鬼門に当ることから守護神として、厚く崇敬 し、天慶二年(九三九年)平将門叛せし時、藤原秀郷公これを亡ぼし村桧神社の御神 徳の賜ものであると奉幣且つ弓矢を奉納、又永代七○貫文を奉り特に尊信した。(下 野国誌。)

現在の社殿(本殿)は室町後期の建物で三間社春日造屋根は桧皮葺にして国の重要文 化財の指定を受けて居り、造営に付いては小野寺領主、唐沢城主、足利義持等があた ったと伝えられている。など崇敬極めて厚く、下野国式内三之宮として今もなお崇敬 せられている。

栃木県下都賀郡岩舟町小野寺4697 玄松子の記憶
胸形神社[むなかた]「田心姫神」栃木県鹿沼市村井町1088 玄松子の記憶


河内郡[カウチ]:1座大

二荒山神社[フタアラノ](名神大)
二荒山神社[ふたあらさん]「大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命」
男体山への崇敬から奉祀された。空海の記録によれば「下野国芳賀の人沙門勝道が補陀洛山登拝を試み、天平神護二年日光の大谷川のほとりに達し紫雲石に草庵を結び四本竜寺とし、その傍らに三神を奉祀した。 男体山頂をきわめ中禅寺を創立、さらに補陀洛[ふだら]→二荒[ふたあら]の山神を奉祀したと言う。
御由緒
日光二荒山神社は太古、秀峰二荒山(男体山二、四八四米)を神鎮まり坐す御神体山 として尊崇したことから奉祀された御社である。

御祭神は二荒山の大神と申し大己貴命(大国主命)、妃神の田心姫命、御子神味耜高 彦根命三柱の大神をお祀りし、延喜式名神大社、下野国一の宮と崇められ国幣中社に 列せられた名社である。

主神大己貴命は国土経営、産業開発、凡ての産業を司り福の神と称へられ、農業、醸 造、婚姻、温泉、医薬の祖神として遍ねく国土国民を守り幸へ給う神で、妃神、御子 神と共に御神徳いよいよ高く広く輝き給うのである。男体の御山に大己貴命、女峰の 御山に妃神、太郎の御山に御子神が鎮まりまして、親子三神大空に聳えて和気あいあ い団欒の和やかさを拝すれば自ら景仰の思ひ新たなるものがある。

当社の境内地は面積凡そ三千四百町歩に及び伊勢神宮に次ぐ広大な境域で、日光連山 の主峰男体山を始め、女峰山、太郎山、大真名子山、小真名子山、前白根山、奥白根 山の諸山は夫々神体山として気高くそそり、鬱蒼たる原始林に囲まれ華厳滝、白雲滝 、般若、方等七滝等名瀑がどうどうと千古の神韻を轟かしている。此等の地域は悉く 神域たると共に日光国立公園の中枢となっている。

栃木県日光市山内2307 神社公式
二荒山神社[ふたあらさん]「豐城入彦命」
臼ヶ峰なる独立丘陵の頂部に鎮座、ここと二荒山の観念は結びつかない。祭神は国造下毛野君の祖神である。毛野の地は東国随一の古墳地帯であり、大和政権との深いつながりを示している。
由緒沿革
主祭神、豊城入彦命は、第十代崇神天皇の第一皇子であらせられ、勅命を受けて、東 国治定のため、毛野国(栃木県・群馬県)に下られました。国土を拓き、産業を奨励 し、民を慈しんだので、命の徳に服しました。その御子孫も東国にひろく繁栄され、 四世の孫奈良別王が、第十六代仁徳天皇の御代に下野の国造となられて、国を治める に当たり、命の偉業を偲び、御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せて、国 土開拓の神、大物主命・事代主命を祀られました。その後承和五年(八三八)に現在 地の臼ヶ峰に還座されました。以来、平将門の乱を平げた藤原秀郷公をはじめ源義家 公、源頼朝公、下って徳川家康公などの武将の尊崇を受けられました。

古くは、延喜式内社名神大、当国一之宮、明治になって国幣中社に列せされ、「お明 神さま」の名でひろく庶民に親しまれ、篤く崇められてきております。宇都宮の町も 、お宮を中心に発展してきたので、町の名も社号をそのまま頂いてきており、市民憲 章にも「恵まれた自然と古い歴史に支えられ、二荒の杜を中心に栄えてきた」と謳わ れています。

栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1 玄松子の記憶


芳賀郡[ハカ]:2座並小

大前神社[オホサキ]
大前神社[おおさき]「大己貴命、事代主命 配 天照大神」
由緒沿革概要書
社伝によれば、当大前神社は、芳賀郡と若色郷(若績郷)古聖(こひじり)、鏡田等 地名の発祥地にして、社名祭神の霊跡に起源し、(社家別当代官の交代により、古代 の創立の事、文蹟に詳かでないが)古くから大内庄三十三郷の総社として、宏大な社 領の中に壮厳なる社殿を営み、大利根の支流鬼怒川、五行川、小貝川、三川の間湖沼 に点在する田畑丘陵に恵まれ、農林漁労豊富な中心地に位置し、周辺非常なる繁栄の 中に、北は氏家、南は常陸真壁郡一帯にまで崇敬圏が及び、延喜の制下野国十一社の 内に撰定せられた式内名社である。

神護景雲元年社殿を再建す。常陸国真壁郡坂東の東叡山黒子千妙寺の末寺として現存 する大前山般若寺縁起にも「当山は大前山金剛院と称し、創立は清和天皇の貞観四年 慈覚大師の開基にして、古聖に建立千妙寺と号せり。野州芳賀郡鎮守大前神社別当也 云々」とある通り、古くから神仏習合し、薬師如来を配し本地堂を営み、明治初年廃 仏毀釈まで神仏混淆す。即ち代々の神職祠官祝詞を奏し玉串を奉り、別当は大般若経 を転読し護摩を焚き、天長地久国家安穏、晴雨順次、五穀豊穰家内安全を祈願す。爾 来、豪族城主代官と、地元氏子民の力を合せ、代々その都度改築修理再建を重ねて今 日に至る。

降って、平将門殊に崇敬厚く、為に天慶二年関東に下りて戦を起すや、合戦勝利の祈 願を真岡大崎大明神にかけて、其の勘行を五行川の水辺に為せりと云う。ついで六十 五代花山天皇寛和元年、清原滝口蔵人吉澄(天武天皇皇子舎人親王八代の後胤)の子 大監物清原高重天皇の勅勘を蒙り、芳賀郡に配流され、社領内の大内京泉に居館し当 社を尊崇せられた。高重六世の子孫高澄は、若色の郷(当神社の東隣の地)に居城し 、康平六年勅免に依り上京を許され、滝口蔵人に復職し、芳賀氏を称し始祖となり、 当社を尊崇せられること益々厚きを加えた。芳賀高澄七代の孫、高親に至り、当社の 南に御前城を築き従来より引続き二十二代芳賀十郎清原高定に至るまで、当社の社領 守護職を兼ね、豪族城主として代々厚く尊信された。殊に現存する社宝の中で、十四 代左兵衛尉芳賀禅下入道清原高名は、観応二年北朝足利氏の武将として戦功あり、南 北和議に際し、当社に平和祈願の為に太刀一振を寄進す。天正十六年二十三代清原高 継は、真岡の東台地(現在の城山真岡小学校敷地)に芳賀城を築くに先だち、当社別 当大前山般若寺能海に写筆させた平家物語大前神社本十二巻を同年八月寄進し、平和 祈願の為奉納す。更に高継は、これより先天正元年十一月十七日兵火により社殿炎上 し、悉く烏有に帰したのを嘆き、仮殿のままなりし当社本殿並に本地堂改築の大事を 氏子と共に進め、文禄二年正月完成した。慶長の始め二十四代芳賀高武山形に去り、 芳賀城主欠所と同時に、境内と鏡田、芳賀沼、古聖を除く社領の大半を没収せられ、 式微となったが、徳川家康公は、当社の由緒を重んぜられ、慶長九甲辰年所領丈量の 際伊奈備前守忠次をして当社に黒印八石を寄進せられ、寛永四年稲葉佐渡守正成初代 城主として越後国糸魚川より入城するや、篤く当社を崇敬せられ、未完の工事を受継 ぎ大補修せられたとも云われる。

稲葉正成正勝父子二代に亘りて、真岡在城の折は、殊に当社を尊崇し、神饌料(鏡田 芳賀沼外)八石七斗三升七合を寄進せられ、慶安元年九月十七日、三代将軍家光公日 光社参に当り、朱印高八石を下され、次いで寛文十年十一月十七日領主稲葉美濃守正 則(当時相州小田原在城、小田原侍従と称す)より、先規の神饌料、除地状を下附さ れ、従前より式微となったが、漸く維持を完うし、拝殿の再建工事を進め、氏子民と 力を合せ、元禄の始め未完ではあったが現在の如く完成を見た。尚、屋根葺替の外重 なる修繕は、宝永二年(本殿彫刻完成)、享保(本殿拝殿鳥居)、宝暦(拝殿)、享 和二年(拝殿)、天保十年(本殿)、慶応二年(本殿)、明治二十三年(本殿)、大 正三年(拝殿)、昭和二十四年本殿の修理屋根替の工事を致し、更に昭和五十五年よ り昭和の大修理を目論見氏子崇教者の寄進と栃木県真岡市の補助を合せて昭和六十一 年四月九日本殿遷座祭、翌十日竣工奉祝祭を斎行、本殿、拝殿、祝詞殿、神輿殿、両 部鳥居、瑞垣、参道等一新して現在に至る。

二宮尊徳、小田原城主大久保忠真の家老宇津家の所領桜町四千石復興の為物部桜町に 派遣せられるや、復興事業遂行の為穴川上流大前堰に至り、真岡代官山内総左ェ門に 乞い、当大前神社領、東郷陣屋手附を命ぜられ、天保十四年五十七歳より嘉永三年六 十四歳まで報徳仕法完成の歳月を大前神社別当神宮寺に仮寓し、陣屋に勤務し或は諸 地方の仕法に着手助言を行う。在住の朝夕当社に参拝し、難工事の大前堰と穴川の改 修を完了す。

明治六年郷社、同十年八月県社に昇格、明治二十五年八月内務省より、古社寺保存資 金下附、昭和九年十一月恩賜幣帛料下賜せらる。昭和二十一年宗教法人令により登記 する。宗教法人法施行により継承登記し現在に至る。

栃木県真岡市東郷937 玄松子の記憶

荒樫神社[アラカシ]
荒橿神社[あらかし]「國常立尊、國狹槌尊、豐斟渟尊」平城天皇の御宇大同元年創祀。
栃木県芳賀郡茂木町小井戸325 玄松子の記憶
大前神社に合祀 前掲
栃木県真岡市東郷937

那須郡[ナス]:3座並小

健武山神社[タケムヤマ]
健武山神社[たけぶやま]「日本武尊、金山彦命」
由緒沿革
社記に日く、当神社の創立は大同元年にして、延喜式神名帳所載、下野国十一社の明 神たり。承知二年五月に下野国武茂神に従五位下を授り、此の神座は採砂金山にあり と続日本後記に載せられ、今尚本社は砂金山に鎮座す。衆庶尊信篤く、住古本社は武 茂郷に属して水戸領に帰す。源斉昭公当社を崇敬して社領七石を寄進す。弘化元年正 月、那須郡にある水戸領十八ヶ村の総鎮守と定む。社域七百八十五坪。明治六年、郷 社に列せられる。当神社沿革は続日本後記那須記下野神社沿革誌に記載せらるるを以 て、地方有名神社にて庶民尊崇最も篤く今日に及ぶのである。

尚、古代産金の里の碑は奈良時代の天平十九年、奈良に大佛鋳造が始められ佛像に塗 る黄金が不足していた。この年に下野国のこの地から砂金が発見され、聖武天皇の朝 廷に献上された。これが我が国最古の産金である。 これを後世に伝えるため昭和六十三年三月に建立された。

栃木県那須郡馬頭町健武2302 玄松子の記憶

温泉神社[ユノ]
温泉神社[おんせん]「大己貴命、少彦名命」
略記

一、祭神
大己貴命 少彦名命  相殿 誉田別命

一、創立
第三十四代舒明天皇の御代(奈良朝)、湯本より南方約八キロメートルの茗荷沢村の 住人、狩ノ三郎行広は、小牛ほどの白鹿を追い求め、矢傷を負わせてなおも追い続け て雪不尽山(那須岳)の麓、霧生谷(元湯附近)に至った。濃霧に包まれ白鹿を見失 ない茫然として佇んでいる時、岩上に白髪の老翁表われ、「吾は温泉の神なり。汝の 求める鹿はかの谷間の温泉に浴しておれり、その温泉は万病をなおして甚だ効あり。 鹿の浴するも手負いを癒さんがためなり、汝よろしく之を聞いて万民の病苦を救うべ し。」と言い終りて消え去る。三郎白鹿を射止め、温泉を発見して神社を建立し、歳 時の祭礼怠りなく崇敬の誠をつくしたと言う。これが本神社の創建である。

一、由緒
上代より温泉名を冠せし神社は、延喜式神名帳(西暦九百年代)に十社を数え、当温 泉神社の霊験は国内に名高く、奈良朝時代の貴族の温泉浴のことは正倉院文書により ても明らかである。従って神位次第に高まり、貞観十一年(八六九)に従四位上を授 けられた。後世那須余一宗隆西海に扇の的を射るに当り、当温泉神社を祈願し名声を 轟かして那須郡の総領となるや領民こぞって温泉神社を勧請し奉り、貞享三年(一六 八六)六月十九日、正一位に叙せられた。

現在那須郡内に約八十社の温泉神社を数うるのをみればいかにこの地方の信仰を集め ていたかが推察される。

栃木県那須郡那須町湯本上ノ山182 玄松子の記憶

三和神社[ミワ]
[みわ]「大物主命」推古天皇十二年大和より勧請と伝わる。当社の前方那珂川西岸の丘陵地には主要古墳が群在する。大和政権に服属した地方の強大な首長勢力の様相を示している。
栃木県那須郡小川町大字三輪726 玄松子の記憶

寒川郡[サムカハ]:2座並小

阿房神社[アハ]
安房神社[あわ]「天太玉命、菟道稚郎子」
由緒書き
○ 崇神天皇の御代に創建され、仁徳天皇の御代に再建された。平将門下総猿島に拠 って叛するや、藤原秀郷公が戦勝を祈願し御宝前に什器供田を寄進して、永世守護神 と尊敬した。明治十年郷社に列せられ、大正二年拝殿改築、昭和二十五年神楽殿新築 、昭和三十年拝殿銅葺にする。
○ 神紋左二つ巴。
○ 祭礼日、列記する。
○ 宝物、古文書十通。
○ 当社は延喜式内社である旨を記す。
栃木県小山市粟宮1615 玄松子の記憶

形神社[ムナカタ]
胸形神社[むなかた]「田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命」
栃木県小山市寒川1730 玄松子の記憶
網戸神社[あじと]「田心姫命 配 大山祇神、天兒屋根命」
由緒沿革
当社の主祭神、田心姫命(水運の神)をいつ頃勧請したか、未だ明らかではないが、 社殿の再建は、平城天皇の御代、大同元年(西暦八○六)十月二十八日である。
醍醐天皇の御代に、延喜式内に列したともいわれたが、詳らかではない。
天慶二年、藤原秀郷は、平将門追討に際し当社に祈願し、戦勝の砌、金百貫文を奉納 した。

源頼朝も、文治三年、小山政光の妻、寒川尼を当地方の地頭職に任じ、当社に領地を 寄進した。以来、尼公をはじめ、歴代の網戸城主の崇敬も篤く、小山家の定紋「左二 ツ巴」を、当社の神紋としている。
この頃、藤原一族の祖神、天児屋根命(人神の間をとりもつ神)を併せて祀った。
江戸時代、後光明天皇の頃より、寛政・文政にかけて、社格問題その他で揺動し、か つ曲折した。
かくてその後、古河藩の治下にあっては、在郷の篤志家等が、神官を輔翼して、当社 を護持し、維新を迎えた。

明治新政府は、国家神道の観点から、神社の再編成をなしたが、当地方は大幅に遅れた。 大正三年五月二十日、渡良瀬川改修工事の一環として堤防拡幅がなされ、当社は、本 宿二四四八番地の千古の杜より、旧城内に遷宮した。
この年の八月十九日、沼ノ台の浅間神社、庚申塚の皇宮神社、高揚の熊野神社、折本 の奥瀬神社、本宿の八坂神社、大境の神明宮を合祀し、既存の水神宮、天満宮、千形 神社、権兵衛稲荷神社、三峯神社等と共に境内神社とした。
神事は、陰暦二月十五日(湯立)、六月十五日(八坂神社の祇園祭)、九月十三日( 十三夜)、及び陽暦十一月二十七日(八郷廻りの御出)、十二月二十二日(稲荷神社 の冬至祭)である。
神職は、天正以降、小山家譜代久楽持家の世襲である。
天地のつきることなく縁なすこのふるさとの神をしぞおもう

栃木県小山市網戸102 玄松子の記憶


H24.1.20
目次

神奈備にようこそへ戻る