信濃國:48座 大7小41


伊那郡[イナ]:2座 並小

大山田神社[オホヤマタ]
大山田神社[おおやまだ]「大國主命、應神天皇、源爲朝」長野県下伊那郡下條村本村大字陽皐字宮の腰4588 阜嵐健

阿智神社[アチ]
阿智神社[あち]「天八意思兼命、天表春命」阿智神社は上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂高神社を中心とする安曇族とともに国の南端に位置して開拓にあたった阿智族の中心をなす神社としてその祖先を祭り、 「先代旧事本紀」に八意思兼命その児 表春命と共に信濃国に天降り阿智祝部(はふりべ)の祖となるとあり、信濃の国境を扼(やく)する神坂の東麓阿智地方に留まったとされる。
御由緒
社伝によれば人皇第8代孝元天皇5年春正月天八意思兼命御児神を従えて信濃国に天 降り、阿智の祝(はふり)の祖となり給うたと伝えられ、この地は古代東山道の沿線 にあたり、鎮座地昼神の地名は日本武尊東征(やまとたけるのみこと)よりの帰路神 坂峠を越えんとして峠に住む荒らぶる神の毒気に遮られて進むことができず、たまた ま噛んでいた蒜(ひる=にんにく)を吹き掛けた処、悪神たちどころに倒れて進むこ とができた。

それよりこの地を蒜噛(ひるがみ)という(日本書紀)と伝え、後好字に替えて昼神 になったとせられ、また一説にこの地に天降った八意思兼命は高天原(たかまがはら )随一の知恵の神として万機を建策ことごとく成就、殊に天照大神が弟神素盞鳴尊( すさのおのみこと)の余りの無道を憤り、天岩屋(あまのいわや)に隠れ給うやこの 神の差配によって無事大神を外にお出しし、太陽の神天照大神をお出しするに大功あ った神の鎮まります所、即ち暗(やみ)より昼に帰した功神(いさをがみ)を祭る処 故昼神であるといわれている。

延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)所載伊那郡(現上下両郡)2社の内の 1社が当阿智神社で(故に延喜式内社あるいは単に式内社ともいう)古くより国司( くにつかさ)祀祭の社として崇敬極めて厚い地方の名社である。

奥宮は前宮より阿智川に沿って上ることおよそ2粁、本谷川と黒川が合流して阿知川 となる三角に突出した半島状の先端部に祭られ、全山大木欝蒼と繁り、春はその間に 岩つつじが可憐な花を見せ、秋は紅葉が美しく川の流れに映え、四季を通じて景勝の 誉れ高い所である。

これより奥3粁程で歴史と伝説の里園原、更に神坂峠へと通ずる。

この奥宮の地こそ阿智地方開拓の祖神天表春命(あめのうわはるのみこと)の永久の 鎮り処川合陵(かわあいのみささぎ)にて、風光明媚まことに祖先の神霊を齋き(い つき)祭る奥津城(おくつき=墓)に相応しく、丘上に苔蒸した巨石が祀られ、かつ て国学院大学教授大場磐雄博士により磐座(いわくら)即ち上代における祭祀の遺蹟 であると立証せられた。

そもそも阿智神社は上古信濃国開拓の三大古族即ち諏訪神社を中心とする諏訪族と穂 高神社を中心とする安曇族とともに国の南端に位置して開拓にあたった阿智族の中心 をなす神社としてその祖先を祭り、平安初期に成立した「先代旧事本紀」(せんだい くじほんき)に八意思兼命その児(みこ)表春命と共に信濃国に天降り阿智祝部(は ふりべ)の祖となるとあり、信濃の国境を扼(やく)する神坂の東麓阿智地方に留ま りその一族を率いて伊那西南部地方を開拓経営にあたり、隣接する駒場町に鎮座する 元郷社安布知(あふち)神社もやはり天思兼命を主神として奉祀している。

この駒場は延喜の官道東山道阿智駅(あちのうまや)が置かれ、駅跡(うまやあと) と推定せられるところを中心に条理制の跡を残す水田開け、水田地帯の周辺部に古墳 多数が見られることからこの神社を含めて式内阿智神社であるとする史論も近頃高ま りつつあり、いずれにしても阿智神社奥宮の地より昼神、更に安布知神社の鎮座する 駒場にかけての一帯こそ古代阿智族の本拠地と見るべく両神社とも昔時は吾道宮(あ ちのみや)或いは吾道大神宮(あちのおおかみのみや)と称(とな)え、江戸期には それぞれ朱印十石の寄進を受けた有力な古社であった。

又上水内郡戸隠村鎮座元国幣小社戸隠神社中社の御祭神天八意思兼命、宝光社天表春 命の二神は村上天皇天暦年間当社より分祀せられたと伝えられ、更に埼玉県秩父神社 の御祭神天八意思兼命は同神、御児天下春命(あめのしたはるのみこと)は天表春命 の弟神にましますという、それぞれに極めて因縁深い関係の神社である。
長野県下伊那郡阿智村智里489 リンク 阿智神社 前宮(山王権現)

安布知神社[あふち]「天思兼命」
安布知神社由緒
御祭神は天思兼命(あめのおもいかねのみこと)須佐之男命(すさのおのみこと)誉 田別命(ほむたわけのみこと)。

社伝によれば人皇16代仁徳天皇56年、この地の地主神が明灯山に夜光となって現 われ、山の枯木の元を掘れとのお告げにより掘ったところ、八花鏡を見いだし、この 鏡を御霊代として祠を建てて祭ったのが当神社の創建であるといわれている。

天思兼命は、高天原最も知慮の優れた神として、古事記、日本書紀に記されているが 、平安時代の史書「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、天思兼命とその子天 表春命(あめのうわはるのみこと)は共に信濃國に天降り、阿智祝部(あちのはふり べ=阿智の神事を司る神主)等の祖となったと記され、古代の伊那谷西南部一帯を開 拓した天孫系の神で、昼神に鎮座する阿智神社の御祭神と同一で両社は古くより密接 な関係があり、北信の戸隠神社とも因縁が深い。 またこの地は、古代東山道の阿智駅(あちのうまや)が置かれたところで駅馬30頭 をおいて険難な神坂峠に備えた阿智駅の守護神として当社は重要な位置を占めている。

慶雲3年(706年)八幡大神を勧請して相殿に祭り、また天正3年(1573年) 松尾城主小笠原信貴は甲斐源氏の遠祖にゆかりの新羅明神を近江國三井寺から勧請し て、三間社流れ造り、間口18尺、奥行9尺の善美をつくした神殿を造営し、天思兼 命を主神に八幡神、新羅明神を相殿に奉斎し、日之御子大明神を明灯山に勧請した。 その後寛文11年(1771年)駒場上町の領主宮崎太郎左衛門公重により規模様式 共に天正のままの社殿を再建したのが現存する本殿で、正面の金柱、欄間の彩色等造 営当時の華麗さをしのぶことが出来る。

なお、拝殿は延宝3年(1575年)神主林杢太夫の建立で、境内のヒイラギ、サカ キと共に村指定の文化財である。

また江戸時代は徳川幕府から朱印領10石が寄進され、慶安2年(1649年)徳川 家光以来幕末まで9通の朱印状が現存する。
長野県下伊那郡阿智村駒場2079 安布知神社(よさか八幡、新羅明神)


諏方郡[スハ]:2座 並大

南方刀美神社二座[ミナカタトミ](名神大)

諏訪大社由緒略誌 平成祭礼データ(神社庁)から
御鎮座地
当大社は諏訪湖の南北に二社ずつ、四ヵ所に鎮座する独特の形の神社で関係の摂末社 は六十有余社を数え郡内全域に分散しています。
諏訪大社上社本宮 長野県諏訪市中洲宮山鎮座。
諏訪大社上社前宮 長野県茅野市宮川鎮座。
諏訪大社下社春宮 長野県諏訪郡下諏訪町鎮座。
諏訪大社下社秋宮 長野県諏訪郡下諏訪町鎮座。

御祭神
建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ) 建御名方神は大国主神と高志沼河比売神の御子神で、八坂刀売神は妃神です。下社に は御二柱に併せて御兄神八重事代主神を祀りますが、一般には古くから上社に男神、 下社に女神の信仰が広く伝わっております。

御鎮座、並、旧社格
御鎮座の年代は千五六百年から二千年前と言われ詳細については知るすべもありませ んが、我国最古の神社の一つと数えられます。延喜式神名帳には南方刀美神社(みな かたとみのかみのやしろ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃国 一之宮として信仰されていたことがわかります。明治四年に国幣中社に列格、同二十 九年に官幣中社、大正五年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和二十三年に諏訪大社 と改称致しました。

諏訪信仰
全国に分布する御分社は一万有余社を数えお諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、敬わ れつゝ巾広い信仰を有し、御神徳の数々、枚挙にいとまありませんが、古くからある 信仰には雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての 信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ず と言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。
神功皇后の三韓征伐や坂上田村麿の東夷平定にも神助ありと伝えられ、東関第一の軍 さ神、武家の守護神とも尊ばれて来ました。
 精進潔斎を形だけする者より、肉を食べても真心込めて祈る者を救おうという諏訪 大明神御神託や、浄瑠璃や歌舞伎の本朝二十四孝が世上に広まるにつれ、日本の屋根 信州諏訪の地へとの参拝者も日と共に繁く、諏訪大明神の御神徳の厚きことが伺われ ます。

上社本宮
中央線上諏訪駅から東南へ6キロ、守屋山の山麓で中部地方唯一と言われる原生林に 抱かれる如くに鎮座しております。諏訪大社は社殿の四隅におんばしらと呼ぶ大木が 建ち幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、本殿を欠く等社殿の配置にも独特の形を備えて いますが、中でも本宮は諏訪造りの代表的なもので、建造物も四社の中で一番多く残 っています。また神体山をお祀りするという大きな特徴を持ち、祭祀研究の上からも 注目されております。
境内のほゞ真ん中に東御宝殿、西御宝殿と言う二棟の茅葺の建物があります。本宮で 最も大切な御殿で、寅年と申年毎に交互に建替がなされ遷座祭が行なわれます。軒か らはどんなに干天の日でも最低三粒は水滴が落ちるといわれ、七不思議の一つに挙げ られ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される所以にもなっております。
本宮の昔の建物は極彩色が施され、御社殿以下建物が沢山並んでいましたが、天正十 年(1582)に織田信長の兵火のために、山中に逃れた神輿の他はすべて焼失しま した。この時まず仮殿が作られ順次再建された社殿は元和三年(1617)に完成し ました。その後約二百年を経て諏訪藩主に依り社殿の改築が計画され、立川和四郎二 代目富昌が地元の宮大工と共に事に当たり、天保二年から九年(1838)迄八年の 歳月を要し現在の社殿が落成し、立川流の代表的建築物とも目されております。尚旧 殿の拝殿は嘉永二年(1849)に群内富士見町乙事の諏訪神社へ移築され、桃山 代の代表的建造物として重要文化財に指定されております。
本宮最古の建物は四脚門で、慶長十三年(1608)徳川家康が家臣大久保石見守 安に命じ、国家の安泰を祈願して造営寄進したもので、別名を勅使門とも言います 神楽殿は文政十年(1827)の建立で、色々な神楽が連日行なわれていたようで が、残念なことにその神楽は現在絶えております。中にある大太鼓は江戸時代のも で、唯今では元旦の朝のみ打つことにしております。

上社前宮
本宮の東約2キロ、中央線茅野駅からバスで約五分の所に鎮座します。境内の大半 占める広場を神原(ごうばら)と言い、大祝の居館である神殿(ごうどの)と附属 る沢山の建物が軒を連ね、上社の祭祀の中心地でしたが、室町時代の中葉に神殿が 転され、多くの建物が消滅し、現在では祭典に必要な建物だけになりました。
神原の中心をなし諏訪大神の幸御魂、奇御魂を祀る内御玉殿(うちみたまでん)は 部に天正十三年の旧殿の材を使い、昭和七年の造築です。隣の十間廊はその奥行か 付いた名称で神原廊とも言い、上社最大の神事御頭祭はこの上段に神輿を安置して 行します。
前宮御本殿は内御玉殿から二百米上段で、古くは神殿に附属したお社でした。高台 豊富な水や日照が得られる良き地で、御祭神が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の 地と伝えられています。現在の社殿は昭和七年伊勢神宮の御用材を以て建てられたも のです。
内御玉殿の百米程西に諏訪大神の神裔諏方氏が大祝の職に就く時、極めて重要かつ神 秘な儀式が行なわれた鶏冠社という社があります。

下社春宮
中央線下諏訪駅から北西へ1キロ、秋宮から西へ1キロの位置で旧中仙道添に鎮座し ます。上社へは諏訪湖を隔て約10キロです。
社頭から真直ぐ八百米程伸びる道路はかっては春宮の専用道路で、下社の大祝金刺一 族を始め多くの武士達が流鏑馬を競った馬場でした。途中の御手洗川に懸かる下馬橋 は室町時代の建立ですが、建築様式は鎌倉時代のもので1730年代の元文年間に修 築されましたが、下社では最も古い建物で遷座祭の折りに神輿はこの橋を渡ります。 入口の御影石の大鳥居は万治二年(1659)建立と推定され、境外にある万治の石 仏と同じ作者と言われます。
神楽殿と拝殿、左右片拝殿及び御宝殿と続く建物の配置は秋宮と同じです。神楽殿は 修改築が幾度となくなされています。春宮と秋宮の社殿の建替が諏訪藩に依って計画 された時に同じ絵図面が与えられたと見え、大きさこそ違いますがその構造は全く同 じで、春秋両社の建築は彫刻において技が競われております。春宮の社殿は地元の宮 大工柴宮(伊藤)長左衛門が請負い、秋宮より後から着工して一年早く安永九年(1 780)に竣工しました。
御宝殿は上下社共に三間四方で、方三間の神明造りと言います。下社では寅年と申年 の左右の御遷座祭の他に半年毎に春宮と秋宮の遷座祭が執行されます。御宝殿奥の御 神木は杉の木で、秋宮は一位の木が祀られています。
神楽殿の西の建物が筒粥殿、その西の清流は砥川です。川の中の島は浮き島と言い、 どんな大水にも流されず下社七不思議の一つです。お社は浮き島社と言い、清め祓い の神を祀り六月三十日の大祓式、夏越しの祓いはこゝで行ないます。鎌倉武士が御射 山の祭典に参列する時まずこの川で身を清め八島高原へ登山したと伝えられます。

下社秋宮
中央線下諏訪駅の東北約1キロ、春宮からも東へほゞ1キロの地点で、旧中仙道と甲 州街道の分岐点の要所に鎮座しています。
鳥居を入ってまず目に付く正面の大きな木はネイリの杉と呼ばれ樹令は六七百年、大 社の御神木の一つです。身長一米七十青銅製では日本一と言われる狛犬を両脇に従え た神楽殿は三方切妻造りで天保六年(1835)立川和四郎二代目富昌の作です。御 社殿は神楽殿の奥で、二重楼門造りの拝殿と左片拝殿及び右片拝殿が横に並びます。 これ等の建物は江戸時代中期の絵図面では帝屋(御門戸屋)及び回廊と記されており 、現在の建物は安永十年(1781)春に立川和四郎初代富棟の棟梁で落成しました 。
拝殿奥の神明造りの建物は御宝殿で、新しい方を神殿、古い方を権殿と呼び、寅年と 申年毎に左右の御遷座祭を行ないます。当社の御宝殿は上社、下社共に平素二殿並ん でいます。室町時代の記録では新築後六年間雨風に晒し清めて御遷座をなし、直ちに 旧殿を解体新築という形式だったようですが、いつしかこれが逆になり、祭典の直前 に旧殿を建直して神殿に御遷座するようになりました。
御宝殿の奥が御神座とも相殿とも言われ、御神木をお祀りする下社の最も重要な場所 です。上社の神体山に対し下社は御神木を御神体としてお祀りし、古代祭祀の形式を 今に残しております。

主要神事
大社の恒例神事は例大祭を含む七回の大祭式に依る祭典以下関係する摂末社の神事迄 年間二百余度の祭典が執行されております。              

御頭祭、上社例大祭、四月十五日、本宮で例大祭の神事執行後神輿行列を仕立て前宮 に赴き十間廊で古式に依る祭典が行なわれます。古くは三月酉の日に行なわれたため 酉の祭とも言われ、農作物の豊穣を祈って御祭神のお使いが信濃国中を巡回するに際 して行なわれたお祭りで大御立座神事とも言います。特殊神饌として鹿の頭を始め鳥 類魚類等が供えられるため、一部では狩猟に関係したお祭りの如く言われています。 唯今は剥製の鹿頭をお供えしますが、昔は七十五頭献じられたこともあり、中に必ず 耳の裂けた鹿があって高野の耳裂け鹿と言い七不思議の一つに挙げられています。

御船祭
下社例大祭、八月一日、二月一日に春宮に御遷した御霊代(みたましろ)を神幸行列 を以て再び秋宮へ御遷座する遷座祭に引続いて、下社例大祭は秋宮で執行されます。 この遷座の行列に次いで青柴で作った大きな舟に翁媼の人形を乗せた柴舟が、当番地 区(御頭郷)の氏子数百人に依って春宮から秋宮へ曳行されます。秋宮へ曳付けて神 楽殿を三巡し、神事相撲三番が行なわれて式が終り、翁媼人形は焼却されます。明治 初年迄は柴舟を裸の若者が舁いで練ったので裸祭りの名も伝わっております。尚遷座 祭には当社独特の風習として楊柳(川柳)の幣が献じられます。

蛙狩神事並御占神事
上社、一月一日、本宮前の御手洗川の氷を砕いて蛙を捕え、神前で小弓を以て射通し 矢串のまゝお供えしますが、どんな寒いときでも蛙が捕れ、七不思議の一つです。続 いて宮司が神秘な占いを行ない、当年の諸祭儀に奉仕する地区、御頭郷を選定する御 占神事が行なわれます。

筒粥神事
下社、一月十五日、春宮で米と小豆と葦の筒を大釜に入れて一晩中粥を炊き、十五日 未明に筒を割り中の粥の状態で豊凶を占います。現在は四十四本の筒で農作物四十三 種と世の中全般を見ますが時代に依り本数は違います。占いの正確なこと神占正に誤 りなしと七不思議の一つです。

御田植神事
下社、六月三十日、下社の末社御作田社の神前で雅楽を奏し、三坪程の神事田で田植 えをします。一ヵ月後の八月一日には神前に供えることが出来たと言われ、御作田の 早稲と言い七不思議の一つになっています。室町時代の記録では上社の藤島社でも同 日田植神事が行なわれていますが現在の上社のそれは一般の田植と同じ頃行なわれま す。御射山社祭、上社、下社、八月二十六、二十七、二十八日、上社の御射山社は八 ケ岳の山麓にあり、下社は江戸時代初期に八島高原から秋宮東北5キロ程の山中に移 されました。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参篭の上祭典を行なうので穂屋祭 りの名称があります。鎌倉幕府は全国の武将をこの神事に参列せしめ、八島高原や霧 ヶ峯一帯で武芸を競わせたりして祭事を賑わしめ、参加した武将は諏訪大神の御分霊 を拝戴して任地に赴き御分社を奉齋しました。その為多くの御分社はその例祭日を秋 の二十七日前後にしております。尚唯今では農作物の豊穣祈願と二才児の厄除健勝祈 願が行なわれます。

式年御造営御柱大祭
寅申相当年、四月山出祭 五月里曳祭、下社遷座祭、六月上社遷座祭
諏訪大社の諸祭儀の中でも特筆すべき大祭で、社殿の建替とその四隅におんばしらと 呼ぶ大木を曳建てることに大別されます。起源は遠く古代に遡りますが、平安朝時代 初期桓武天皇の御代からは信濃国の総力をあげて奉仕され費用の調達の為に元服の式 や婚礼、家屋の新築や増改築が禁じられたこともあります。唯今では造営も一部の建 物に留まり、奉仕も諏訪地方一円二十万氏子へと縮小され、老若男女の区別なく御奉 仕頂いております。
おんばしらの用材は樅の木が使われ、三年前から木の選定等準備が始まり、上社関係 は約25キロ隔たる八ケ岳の中腹から、下社関係は八島高原の近くから約10キロの 里程を曳き出します。大きな柱は周囲三米、長さ十六米余、重さ十二、三トンにも及 び、独特の木遣り歌と共に二、三千人の人々に依って曳行されます。
車もコロも使わず人の力だけで曳き摺る為に原始的ではありますが、急坂を曳き落と したり、川を引き渡したりして怪我人が出ない方が不思議と言われる程に荒く勇壮な 行事として知られ、奇祭の一つに挙げられています。

諏訪の七不思議
氷湖の神幸(おみわたり)、元朝の蛙狩、五穀の筒粥、高野の耳裂鹿、御作田の早稲 、葛井の清池、宝殿の点滴

御神紋
梶の葉、葉が三葉あるので三本梶とも言い、足の数四本が上社、五本が下社の社紋で す。

信濃国一之宮諏訪大社由緒略誌、その2

御鎮座地
お諏訪様、諏訪大明神と親しまれ、崇敬されている諏訪大社は、諏訪湖をはさんで南 に上社、北に下社があり、更に上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれて鎮座 しております。この四社を合わせて信濃国一之宮諏訪大社と称し、氏子区域は旧諏訪 郡24ケ町村にわたっております。又、付属の摂社末社の数は郡内に六十余社をかぞ え、特殊な祭祀の形態と信仰とを今日に伝えております。 上社、本宮(ほんみや)長野県諏訪市中洲。前宮(まえみや)長野県茅野市宮川。下 社、春宮(はるみや)長野県諏訪郡下諏訪町。秋宮(あきみや)長野県諏訪郡下諏訪 町。

御祭神
建御名方神(たけみなかたのかみ、男神)。八坂刀売神(やさかとめのかみ、妃神) 。八重事代主神(やえことしろぬしのかみ、兄神)。建御名方神は神代の昔、父神大 国主神、兄神八重事代主神を助けられて、国造りの大業を成しとげられ、その後、八 坂刀売神並びにその御子神と共に、信濃国の開拓に御神意をそそがれ、やがて、この 諏訪湖畔の聖地を永久の神居と定め、お鎮まりになられました。

御神徳
当大社は古来より朝廷の崇敬がきわめて厚く、持統天皇5年(691)には勅使を遣 わされて、国家の安泰と五穀豊穣を祈願されたのをはじめ、歴代の朝廷が神位や神階 を進められ、或は神田、幣帛、御宸筆等を御奉納なされ、又、皇族の方々が数多く御 参拝なされております。又、諏訪大神は武勇の神、武門武将の守護神として仰がれ、 古くは神功皇后の三韓出兵の折りに御神威を顕わされ、平安時代には関より東で、第 一の軍さ神として広く世に知れ渡りました。鎌倉時代以降は源頼朝をはじめ北条氏一 門、足利尊氏、武田信玄、徳川家康以下歴代の将軍、その他、高島藩主をはじめ諸国 の大名たちがいづれも社領を寄進し、或は神宝を奉納して武運の長久と国家の安泰を 祈願されております。人々は雨、風の守り神、水の守護神と仰いで五穀の豊穣を祈り 、或は又、生命の根源、生活の源を司られる神として、家内安全、健康長寿、交通安 全、商工業の繁栄、開運招福を祈るなど、諏訪大神の広大無辺なる御神徳は、広く深 くゆきわたっております。

社格
延喜式神名帳に名神大社として信濃国の第一にあげられ、朝廷の奉幣をうけ、広く全 国の崇敬を集めておりました。上社と下社は明治維新の際に一社となり、明治四年に 国幣中社に列格、大正五年に官幣大社に昇格し、昭和二十三年に諏訪大社と改められ ました。全国の御分社との交流、諏訪大神の御神威が全国各地に広がるにつれ、御分 霊を祀る神社が増し、北は北海道から南は九州鹿児島まで各地に祀られて、現在、御 分社の数は一万有余社にのぼります。毎年秋にはこれらの御分社が集う、全国諏訪神 社連合大会が本社において開催され、共々に諏訪大神の高く尊い御神威を仰ぎ、交際 を深めております。

御社殿
上社本宮、幣殿、拝殿、左右片拝殿、脇片拝殿、以上天保九年(1838)、四脚門 、慶長十三年(1608)。下社春宮、幣拝殿、左右片拝殿、以上安永九年(178 0)。下社秋宮、幣拝殿、左右片拝殿、以上安永十年(1781)、神楽殿、天保六 年(1835)。

祭事の大要
恒例の大祭/遷座祭下社二月一日、祈年祭上社三月十七日、同下社三月十八日、例祭 並御頭祭(酉の祭)上社四月十五日、例祭並遷座祭下社八月一日、新嘗祭上社十一月 二十三日、同下社十一月二十四日

特殊神事
薙鎌の奉斎/薙鎌は諏訪大神を象徴する神器で、例祭の神幸行列に奉じ、御分霊の勧 請及び、御柱大祭の際に授与する。蛙狩神事と御頭御占の神事(元旦上社本宮)/本 宮前の御手洗川の氷を砕いて蛙を捕え、神前において弓矢で射抜き、矢串のままお供 えして五穀豊穣と国家の安泰を祈る、年頭第一の神事である。続いて宮司の神秘な占 いにより、一年間、大社の重要な祭事に奉仕する地区、御頭郷を選定する御占神事が 行なわれる。田遊の神事(一月十五日上社本宮)新年祈請祭(一月十五日上社、下社 )/筒粥の神事(一月十五日下社春宮)/小正月の年占の行事で、春宮の筒粥殿にお いて大釜に白米、小豆、葦の筒を入れて一晩中粥を炊き、十五日の早旦にとり出して 筒を割り、中の粥の状態で四十三種の農作物と世の中の吉凶を占う。御頭祭(酉の祭 )(四月十五日、上社前宮)/上社第一の祭儀で、古くは三月酉の日に行なわれたの で、酉の祭とも呼ばれる。本宮での例大祭の後、御頭郷地区の氏子役員が供奉し、行 列を整えて神輿を前宮十間廊に安置し、御杖柱の幣帛を献り鹿の頭、鳥獣魚類等の特 殊な神饌をお供えして大祭が行われる。御田植祭(六月第一日曜日上社)御田植神事 (六月三十日下社)/御舟祭(八月一日下社)/二月一日に春宮にお遷しした御霊代 を、神幸行列を以て再び秋宮に御遷しする遷座祭に引続き、例大祭が行われる。この 遷座の行列に次いで、青柴で造った大きな御舟に翁と媼の人形を乗せた柴舟を、御頭 郷の氏子達が春宮から秋宮に曳き付ける。神楽殿を三周した後、神事相撲があり、翁 媼の人形は焚き上げられる。明治初年迄は柴舟を裸姿の若者が担いだので、諏訪の裸 祭とも言われた。遷座祭には楊柳(ようりゅう、川柳)の幣が献じられる。御射山祭 (八月二十六日・二十七日・二十八日上社下社)/上社下社両社それぞれの御射山社 で行なわれる。青萱の穂で葺いた仮屋(穂屋)に神職他が篭って祭を行なうので穂屋 祭とも呼ばれている。鎌倉幕府は全国の武将を集めて祭に参加させ、武芸を競わせた 。参加した武将は諏訪大神の御分霊をいただいて任地に赴き、御分社を奉斎した。全 国各地の御分社で、この日を諏訪祭として例祭日にあてている御社が多い。現在では 農作物の豊穣と二才児の厄除健康の祈願が行われる。式年造営御柱大祭(寅、申相当 の年、四月山出祭、五月里曳祭、下社遷座祭、六月上社遷座祭)諏訪大社の特筆すべ き大祭で、社殿の建替とその四隅におんばしらと呼ぶ巨木を曳建てることに分けられ る。起原は遠く古代に遡るが、平安時代、桓武天皇の御代からは、信濃国の総力をあ げて奉仕され、費用や材料の調達のために元服や婚礼、家屋の新築が禁じられたこと もある。現在では造営も一部の建物に留まり、諏訪郡内二十万人の氏子の奉仕によっ て盛大に行われる。上社は八ケ岳の御小屋岳の神林から、下社は霧ケ峰の中腹からそ れぞれ直径一メートル余、重さ十二、三トンの樅の大木を各八本伐り出し、独特の木 遣り歌にあわせ、一本二、三千人の人々によって曳行される。途中、急坂の木落とし や宮川の川越等があり、その豪壮雄大な様は他に比類なく、天下の奇祭とされる。

御神紋
梶の葉(かじのは)足の数は上社が四本、下社五本の区別がある。

諏訪[すわ]大社上社本宮「建御名方神、八坂刀賣神」赤石山系守屋山の北麓に鎮座、南側の広大な社背林は[神体山]と呼ばれる。本殿を持たず信仰の古態を留める。自然信仰が顕著で[七石][七木]信仰の他に[風]の信仰もある。 諏訪大社は社殿の四隅におんばしらと呼ぶ大木が建ち幣拝殿や左右片拝殿が横に並び、本殿を欠く等社殿の配置にも独特の形を備えている。長野県諏訪市大字中洲字宮山1 諏訪大社上社 in しゃこちゃんのお部屋
諏訪大社上社前宮「建御名方神、八坂刀賣神」神殿跡。長野県茅野市宮川字前宮2062
諏訪大社下社春宮「建御名方神、八坂刀賣神」下社本来の祭神は八坂刀賣神と考えられている。長野県諏訪郡下諏訪町193 諏訪大社下社 by しゃこちゃんのお部屋
諏訪大社下社秋宮「建御名方神、八坂刀賣神」長野県諏訪郡下諏訪町5828

筑摩郡[ツカマ]:3座 並小

岡田神社[ヲカタ]
岡田神社[おかだ]「保食神」創立詳かならざるも口碑は白雉五年五穀守護神を勧請。水霊を祀った。
岡田神社由緒
祭神 保食神(豊受大神)
神域四千二百二十四坪 創立詳かならざるも口碑は白雉五年五穀守護神を勧請、延喜の制に式内神社となる。 又昔木曽義仲の配下岡田親義並松本城主水野侯元旦及び臨時に参拝ありしと伝う。明 治五年郷社に列し、大正八年より本県知事参向し神饌幣帛料を供られしが、昭和二十 年宗教法人法の定により止むに至れり。
昭和三十一年三月
式内岡田神社社務所

長野県松本市大字岡田下岡田式内社1395-イ 玄松子の記憶


沙田神社[イサコタ]
沙田神社[いさごた]「彦火火見尊、豐玉姫命、鵜草葺不合尊、沙土煮[しおつちのおじ]命」波田方面から流れる梓川の水霊を祀る神社であった。長野県松本市大字島五字式内73316 玄松子の記憶


阿禮神社[アレイ]
阿禮神社[あれい]「素盞嗚命」原初は水分神の性格と推測されている。
阿禮神社
創建の年月は不詳なるも延喜式神名帳に登載された古社である。五百渡山に鎮座が阿 禮神社の発祥で此れが何時の時代か明かではないが、其後大同二年(八〇七)坂上田 村麻呂将軍が明神平(現奥社所在地)に奉遷、更に仁寿二年(八五二)現在地(大字 塩尻町六番地)に前宮を造営して遷座した。此の時合殿に誉田別尊・大己貴命を奉祀 した。

長野県塩尻市大字塩尻6 玄松子の記憶
阿禮神社奥宮「 」長野県塩尻市大字塩尻町字明神平  玄松子の記憶


安曇郡[アツミ]:2座 大1小1

穂高神社[ホタカ](名神大)
穂高神社[ほたか]「穗高見命、綿津見神、瓊瓊杵尊」安曇氏はエゾ地開拓の兵站吉を設けるべく大和朝廷により派遣され、この地に定着したものである。遺物が多く出土している。長野県南安曇郡穂高町大字穂高6079 神社公式

川會神社[カハアヒ]
川會神社[かはあい]「底津綿津見命」長野県北安曇郡池田町大字会染字十日市場12079 玄松子の記憶


更級郡[サラシナ]:11座 大1小10

布制神社[フセ]
布制神社[ふせ]「大倭根子彦國玖琉尊[孝元天皇] 配 大毘古命、彦太忍信命」古代豪族布勢氏がその祖大毘古命を祀ったものであろう。布勢氏は大豪族阿倍氏の一族である。長野県長野市篠ノ井字石川布制山2173 玄松子の記憶
布制神社[ふせい]「大彦命、豐受姫命、健御名方命、八坂斗女命」背後の台地[海道北山]には将軍塚と言う大きい古墳があって、大彦命の墓との推測もある。長野県長野市篠ノ井字布施五明235 玄松子の記憶
布制神社[ふせい]「天照大神、大彦命」式内社論社としては上記二社が有力である。長野県長野市篠ノ井字山布施1 玄松子の記憶

波閇科神社[ハヘシナ]
波閇科神社[はべしな]「天照大神 配 豐受大神、日本武尊」長野県更級郡上山田町大字上山田字城山3503-イhttp://www.genbu.net/data/sinano/habesina_title.htm" TARGET="_blank">玄松子の記憶 古代であそぼ

佐良志奈神社[サラシナ]
佐良志奈神社[さらしな]「譽田別尊、息長足姫尊、大鷦鷯尊」長野県埴科郡戸倉町若宮2-イ 玄松子の記憶

當信神社[・・]
當信神社[たぎしな]「健御名方命」長野県上水内郡信州新町大字信級字當信平3041 玄松子の記憶

長谷神社[ハセ]
長谷神社上社[はせ]「?」長野県更級郡塩崎村字白助879 玄松子の記憶
長谷神社下社「八聖大神」長野県長野市篠ノ井塩崎960 玄松子の記憶

日置神社[ヒヲキ]
日置神社[ひおき]「彦火火出見尊、天照皇大神、菅原道眞」麻績神明宮にゆかりの深い神社の一つである。長野県東筑摩郡生坂村大字北陸郷字日岐8699 玄松子の記憶
日置神社[ひおき]「天櫛玉命、天櫛耳命、健御名方命、八坂刀賣命」長野県上水内郡信州新町大字日原字宮脇2306 玄松子の記憶

清水神社[シミツ]
清水神社[しみず]「廣國押武金日命 配 秋津比古神、秋津比賣神」長野県長野市真島町大字真島字藏王沖2234-3 阜嵐健
清水神社「罔象女命」長野県信更町田野口1243 玄松子の記憶
清水神社「天手力男命」長野県信更町三水氷山1264-1 玄松子の記憶

斗賣神社[ヒカナトメ]
氷鉋斗賣神社[ひがのとめ]「宇都志日金拆命」古事記神代巻に綿津見神は、阿曇連等の祖神と以ち伊都久神なり。故に阿曇連は綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なりとある。これを受け、穂高見命の妹あるいは妃を祀るかとされている。長野県長野市稲里町下氷鉋字田中島1092 阜嵐健
更級斗女神社[さらしなとめ]「健御名方命 配 八坂刀賣命」長野県長野市川中島町御厨1622 阜嵐健

頤氣神社[イケ]
頤氣神社[いけ]「頤氣神」長野県長野市小島田町頤気沖837 阜嵐健
頤氣神社「池生神」長野県長野市松代町西寺尾字柳島1006 阜嵐健

治田神社[ハルタ]
治田神社[はるた]下の宮「治田大神」長野県更埴市大字稲荷山2280-1 玄松子の記憶
治田神社「健御名方命」長野県更埴市桑原字宮沖1 玄松子の記憶

武水別神社[タケミツワケ](名神大)
武水別神社[たけみずわけ]「武水別大神 配 八幡三神」孝元天皇御代鎮座とされる。信濃国の名社の一つである。石清水八幡宮の荘園となり八幡宮が勧請されている。
長野県更埴市大字八幡3012 玄松子の記憶 古代であそぼ
桶知大神社[ひじりだい]「水波女命」 長野県更級郡大岡村丙5405-2 玄松子の記憶


水内郡[ミノチ]:9座 大1小8

美和神社[ミワ]
美和神社[みわ]「大物主命、國業比賣神、神服部神」國業比賣神は大物主命の母神と伝えられる。長野県長野市大字三輪字相木東514 玄松子の記憶

伊豆毛神社[イツモ]
伊豆毛神社[いずも]「素盞嗚尊、大己貴命」古くは現社地の西北1kmの八雲台に鎮座、ここからは弥生土器や後期古墳がある。長野県上水内郡豊野町大字豊野下伊豆毛845 玄松子の記憶

妻科神社[ツマシナ]
妻科神社[つましな]「八坂刀賣命 配 健御名方命、彦神別命」地主神であった。つまなしとも呼ばれる。長野県長野市大字南長野字本郷219-1 玄松子の記憶

小川神社[ヲカハ]
小川神社[おがわ]「健御名方命、大己貴命、言代主命」長野県上水内郡小川村大字小根山6862 玄松子の記憶
小川神社「健御名方命 配 事代主命」長野県上水内郡小川村大字瀬戸川18314 玄松子の記憶
小川八幡宮「日本武尊、譽田別尊 配 八坂大神」長野県上水内郡小川村大字高府9700 玄松子の記憶

守田神社[モリタ]
守田神社[もりた]「守達神、大碓命、久延毘古命、大物主命、健御名方命、素盞嗚尊、譽田別尊」守達神は健御名方命の御子神で当地開拓の祖神。長野県長野市七二会字守田乙2769 玄松子の記憶
守田神社「大碓命、大己貴命、大山命」長野県長野市大字長沼穂保字外堀内951 玄松子の記憶 神社
守田廼神社[もりたの]「譽田別命、建御名方命、保食神」長野県長野市大字高田字八幡宮西沖174 玄松子の記憶

粟野神社[アハノ]
粟野神社[あわの]「天日方奇日方命」 長野県上水内郡豊野町石2644 玄松子の記憶
粟野神社「健御名方命 配 少彦名命」 長野県長野市上野1丁目652 玄松子の記憶


風間神社[カセマ]
風間神社[かざま]「伊勢津彦命」 長野県長野市風間字宮河原781 玄松子の記憶


足穂命神社[・・タリホノ・]
皇足穂神社[すめたるほみこと]「保食命」
長野県長野市大字富田字向台380
皇足穂神社「邇邇藝命」長野県上水内郡信州新町大字穂刈字穂刈沖287-1 玄松子の記憶
皇足穂命神社諏訪社合殿「倉稻魂命、健御名方命、事代主命」長野県上水内郡中条村大字中条字宮前2270 玄松子の記憶

健御名方富命彦神別神社[タケミナカタトムノ・・ワケ](名神大)
健御名方富命彦神別神社[たけみなかたとみのみことひこかみわけ]「健御名方富命」水内[みのち]の神とされる。善光寺に隣接して鎮座。長野県長野市大字長野字本城東2411 玄松子の記憶
健御名方富命彦神別神社「健御名方富命 配 庭津女命、麻負命、八須良雄命、知奴命、沙南豆良姫命、武彦根命」長野県飯山市大字豊田字伊豆木原3681-1 玄松子の記憶
健御名方富命彦神別神社「彦神別命、健御名方命、八坂戸賣命、神八井耳命」長野県上水内郡信州新町大字水内3154 玄松子の記憶


高井郡[タカヰ]:6座 並小

墨坂神社[スミサカ]
墨坂神社[すみさか]「墨坂大神、帶中津日子尊、氣長足姫尊、品陀和氣尊、天照大神 配 健御名方命」長野県須坂市墨坂1-8 玄松子の記憶
当社は其の草創年月不詳と雖、住古大和部族移住に際し同国宇陀郡榛原より墨坂神を 遷祀したるものなり。

一に白鳳二年ともいう。貞観二年十月十五日男山八幡より八幡神を勤請し爾来墨坂神 社八幡宮と称し奉る。朝廷の御崇敬も行われ畏くも光仁天皇天応元年十月十四日神封 一戸を賜りたり。延喜式高井郡初筆記載として後一郡一ノ宮と定められる社家山岸氏 勅使巡国の際郡内御供仕奉ると云う。

鎌倉時代に入り武将の崇敬殊に篤く、越後少将及右近太夫は各々高三石宛を寄進し、 信玄公祈願状を寄せ武運長久を祈る。土豪八幡長者、領主須田氏等産宮として崇敬し 多数の神器を奉納せらる。堀公藩主となるに及び産神とし殊に藩祈願所と定められた り。累代の崇敬敦く、年々祭事料として籾一石二斗五升、人足四人宛を遣わさる。2 代直升公高三石を寄進せしを始め一万石の小藩にして寄進高八石餘に及ぶ。猶多数の 神器々物等社納せられたり、明治に至るまで十日間の大祭中日市、馬市、大角力芝居 、競馬等行われ番所を設け藩より重職出張して警護の任に当り、三道具、紋入御幕、 高張等奉納あり、藩公定式の社参あり幣帛を奉る例たり。出府の節等必ず社参し道中 安全武運長久を祈願せらりたり。往古多数の門前(今の市川添)ありたるも荒廃する に及び堀公、寛永九年更に二十五戸の門前新田(今八十余戸八幡町)を開発し神役に 使用せしむ。

外に社家を始め下社家、神人神子数戸あり寛永の頃既に広大な神楽殿を有す。神社奉 加等領内御免の外北四郡より上州吾妻郡に及ぶ。藩公社領を拡め祭祀を厳厚す、庶民 の崇敬愈々加わり祭事の殷盛なること往事比なきに至れり。境内一町五反余稀にみる 撞木形境内なり。千余年の欅樹を交え神域欝蒼たり。昭和三年県社に列せられ愈々近 郷の大社として崇敬をあつめ神徳宣揚せらる。知名士の参拝歳々亦多し。境内社若宮 八幡社は高梨氏の守護神として崇敬並びたる社なり。数十点の古文書等銘記すべき由 緒の尊きを語り他事を要れず恐れむ所以なり。
長野県須坂市大字小山字八幡1593-2
墨坂神社「墨坂神、健御名方命」有数の広い境内である。白鳳二年、大和部族移住に際し同国宇陀郡榛原より墨坂神を遷祀したるものと伝わる。南4kmに小坂[おさか]神社、更に3km南に小内[おうち]神社が鎮座、これが神武天皇の宇陀での聖跡「女坂に女軍、男坂に男軍、墨坂に熾し墨を置く」に相似し、古代の大和宇陀とこの地の交渉を示している。長野県須坂市大字須坂字芝宮1048 玄松子の記憶

越智神社[ヲチ]
越智神社[おち]「饒速日命」 長野県須坂市幸高字屋敷添389 玄松子の記憶
越智神社「御穗須須美命」  長野県中野市大字越字屋敷添740 玄松子の記憶
小内神社[おうち] 次に掲載

小内神社[オウチ]
小内神社[おうち]「宇麻志摩遲命、建御名方刀美命、埴安神」長野県長野市若穂綿内字森5908 玄松子の記憶
小内八幡神社「應神天皇、大氣都姫神、神功皇后」参道には欅の大木が並び社殿を杉の老木が囲む。周辺からは弥生遺跡が多く出ている。長野県中野市安源寺字石原572 玄松子の記憶
欅原神社[くぬぎはら]「健御中方命」 長野県上高井郡小布施町大字都住字字三毛282 玄松子の記憶

笠原神社[カサハラ]
笠原神社[かさはら]「少彦名神」 長野県中野市大字笠原字下河原408 玄松子の記憶

小坂神社[ヲサカ]
小坂神社[おさか]「小坂神、譽田別命」大和宇陀の男坂の神の勧請は後世の付会であろう。祭神は鴨氏の祖神高角身命とする説があるがこれも付会であり、古代この地方一帯を開発した氏族の祖神であろう。
小坂神社
鎮座地 須坂市井上小坂二五七八
当社は十世紀の延喜式に載せられている名神です。祭神は古代この地方一帯を開発し た氏族の祖神又は勤請神と考えられますが具体的には不明です。十一世紀後半清和源 氏井上氏がこの地に入国して当社後方に居館を営んだとき八幡神を当社に祀りました。
高井郡式内六社の中で、社名と社地が確定しているのは当社だけです。鎌倉時代の史 料に、地名「小坂」が現われ、現在まで続いているからです。
境内は北信濃特有のケヤキの純林で、須坂市天然記念林に指定されています。

長野県須坂市大字井上字小坂2578 玄松子の記憶

高社神社[タカモリ]
高杜神社[たかもり]「少那彦名之命 配 大國主之命、健御名方之命」古来の山岳信仰の名残をとどめる高社山の山頂に奥宮、山腹に本社、山麓の里宮からなる。里宮の鎮座する赤岩は縄文期より連綿として集落が営まれた、七世紀には相当な規模となった。長野県中野市大字赤岩字宮之裏1552 阜嵐健
高杜神社「健御名方命、高毛利神、豐受姫命、武甕槌命、市杵嶋姫命」長野県上高井郡高山村大字高井字大宮南2040 久保の家


埴科郡[ハニシナ]:5座 並小

粟狭神社[アハサ]
粟狭神社[あわさ]「健御名方命」境内は古木多く古社の姿を観し、旧本殿は正応年間(1288)以前の建造物であり、本殿は慶応二年(1866)の御造営である。
粟狭神社由緒
往古の鎮座にして創立勧請の年月は不祥であるが、延喜年中(910)に埴科郡五座 の筆頭をもって神名帳に記載された延喜式内の名社である。
船山郷を含む近郷にわたる総社であり郷民の崇敬は厚く、大領の時代は祈願所として 尊崇を受け、代々の領主よりは祭典料の寄進があった。
七年に一度の御柱大祭を斎行するを例とし船山郷(杭瀬下・新田・鋳物師屋・寂蒔・ 内川・打沢・小島・桜堂・粟佐)の九ヶ村にて執り行ってきた。
境内は古木多く古社の姿を観し、旧本殿は正応年間(1288)以前の建造物であり 、本殿は慶応二年(1866)の御造営である。

長野県更埴市大字粟佐字宮内宮浦1324 玄松子の記憶

坂城神社[サカキ]
坂城神社[さかき]「大己貴命 配 事代主命、建御名方命」景行天皇の御代、日本武命東征の折、日野の里(日名)に住せし時、御陵が峯(五里ケ峯)の麓の霊地に奉祀すると伝わる。
坂城神社由緒
今を去る1900余年前、景行天皇の御代、皇子日本武命東征の折、日野の里(日名 )に住せし時、御陵が峯(五里ケ峯)の麓の霊地に奉祀せられ、天武天皇白鳳二年( 西暦673年)社殿奉建されるといわれている。
延長五年(927年)延喜式発令され、全国3,132社として延喜式神名帳に登録 され、毎年2月4日国司長官ともに幣を奉り、豊年を祈年したと伝えられる。

長野県埴科郡坂城町大宮1205 玄松子の記憶

中村神社[ナカムラ]
中村神社[なかむら]「天兒屋根命、大國主命、健御名方命 配 素盞嗚命」
長野県長野市松代町西條字中村2 玄松子の記憶

玉依比賣命神社[タマヨリヒメ・]
玉依比賣命神社[たまよりひめのみこと]「玉依比賣命、天照皇大御神、建御名方命」玉依比賣命は海神の娘[神武天皇の母]であり、信濃に多い海神系の神社の一つであろう。しかし鴨の建角身命の女も玉依比賣命とされ、大和宇陀との結びつきもある事から可能性は比定できない。魂依姫とすれば巫女の神格化となる。長野県長野市松代町東条字内田443

祝神社[ハフリ]
祝神社[ほおり]「生魂命 配 健御名方富命、八坂斗賣命」長野県長野市松代町松代566 神社探訪
須須岐水神社[すすきみず]「大國主命、生魂命、事代主命 配 罔象女命、豐玉姫命、速秋津彦命、速秋津姫命、少彦名命、保食神、國常立命」天武天皇白鳳年代に祝[ほうり]神社として創建されたと言う。
長野県更埴市大字屋代1858 玄松子の記憶


小縣郡[チイサカタ]:5座 大2小3

生嶋足嶋神社2座[イクシマタルシマ](名神大)
生島足島神社[いくしまたるしま]「生嶋神、足嶋神」信濃では諏訪大社と並ぶ名社である。生嶋神、足嶋神は宮中の奉斎される二十二座の内の神々であり、信濃国造[多氏金刺氏他田氏]が国魂の神として勧請したものであろう。諏訪神が二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたと伝えられ、その古事は今も御篭祭という神事に伝えられている。
日本中央生島足島神社
日本の真中国土の大神
御祭神生島大神足島大神
御神徳この二柱の神は日本の中央に鎮座して、万物を生み育て、国中を満ち足らしめ 給う日本国土の守護神である。生島大神は人々に力強い生命を与え、病気平愈、災難 除け、安産に、足島大神は人々の願いに満足を与え、五穀豊穣、商売繁盛、受験、縁 結び等に霊験あらたかと昔より伝えられている。

御由緒太古より日本総鎮守と仰がれる無双の古社で、神代の昔建御名方命が諏訪の地 に下降される途すがら、この地にお留りになり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜ られたと伝えられ、その古事は今も御篭祭という神事に伝えられている。

御社殿御本殿には床板がなく、その土間の大地が御霊代とされている。神域は老樹が 茂り、社殿をめぐる大池に朱塗の神橋がうつる景趣はよく崇高の美を現している。こ の神域の様式は池心宮園地(いけこころのみやえんち)と称され、出雲式園地の面影 をそのまま保存するものである。現在の社殿は昭和16年国費をもって竣工した。

崇敬のあらわれ歴代の帝の崇敬厚く、平城天皇の大同元年には神封戸の寄進があり、 醍醐天皇の延喜の代には名神大社に列せられた。建治年間には北条国時が社殿を営繕 し、地頭領家も祭祀料の田地を寄進、戦国時代以後、武田信玄、真田昌幸・信幸等の 武将をはじめ、代々の上田城主も神領を寄進し、社殿を再建する等崇敬を表している 。ことに天皇が新たに都を定められる時には必ず生島・足島の二神をその地に鎮祭さ れる例であり、近くは明治天皇が都を東京と定められた明治2年宮中にこの二柱の大 神を親祭され同22年勅使差遣になり国幣中社に列せられた。
古文書永禄の頃、武田信玄の奉られた願状をはじめ、その家臣の起請文等九十四通は 今なお宝物として保存されており重要文化財に指定されている。

長野県上田市大字下之郷中池西701 玄松子の記憶 神社公式

山家神社[ヤマイヘ] 
山家神社[やまが]「大國主命、伊邪奈美命、菊理姫命 配 日本武尊、神八井耳命」吾妻山[四阿山]の頂上に奥宮が祀られている。往古はこの山が信仰の対象であり、雨を頼み、農業の神、水分の神として、この神々しい白雪を頂く山を尊んだのである。長野県小県郡真田町大字長字山家4473ロ-2 玄松子の記憶

鹽野神社[シホノ]
塩野神社[しをの]「鹽垂津彦命 配 素戔嗚命、健御名方命」長野県上田市大字保野字塩野429 玄松子の記憶 古代であそぼ
塩野神社「素盞嗚尊、少名彦命、大己貴命」塩田平の南に聳える[とつこ山]から流れ出る清流のほとりの杉檜のうっそうと茂る社叢の中に鎮座している。塩田平は降雨量が少なく水は貴重である。境内には磐座があり、この神社の原型であろう。
長野県上田市前山字塩野1681 玄松子の記憶


子檀嶺神社[コマユミノ]
子檀嶺神社[こまゆみのねの]「木俣神、健御名方富神」子檀嶺山頂に奥社、立谷遺跡地に中社、田沢温泉に里宮が鎮座。この地域は大牧場地帯であり[こまゆみ]は[駒斎み]であり馬神を祀る。またこの山は卓越した山容を呈しており、木俣神[水神]などの古い山岳信仰も基層にはあったのだろう。(日本の神々9黒坂周平氏、若林清氏)長野県小県郡青木村大字田沢字宮下2378 玄松子の記憶
子檀嶺神社[こまみね]「健御名方刀美命、倉稻魂命、八坂刀賣命」長野県小県郡武石村大字小沢根字小沢根230 玄松子の記憶  


佐久郡[サク]:3座 並小

英多神社[エタ]
英多神社[えいた]「健御名方命」 長野県佐久市大字安原字英多沢1669 玄松子の記憶

長倉神社[ナカクラ]
長倉神社[ながくら]「譽田別尊、息長足姫尊、玉依姫命」沓掛の地である。東山道の要衝であった。長倉駅は浅間山の火山灰の下に埋もれている。
長倉神社由緒書
天長年間當地方開発當初守護神トシテ奉祭以来一千七百有余年長倉御一帯ノ鎮守産士 神トシテ崇拝セラル。中世、長倉神社八幡宮トモ奉稱セリ。長倉ノ駅.長倉ノ牧ト共 ニ延喜式神明帳記載ノ神社ナリト伝ヒ傅フ。現在氏子五百有余戸。

長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉字長倉2283 玄松子の記憶

大伴神社[オホトモ]
大伴神社[おおとも]「月讀命、須佐之男命、天忍日命、天道根命、大己貴命、少名彦命、木花咲耶姫命」本殿の神像は[善淵][岩船]と呼ばれ、前者は望月であるが、後者は怪異なる憤怒相でタタール人とする説もある。長野県北佐久郡望月町大字望月字御桐谷227 玄松子の記憶



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