但馬國:131座 大18小113

朝來郡養父郡出石郡氣多郡城崎郡美含郡二方郡七美郡


朝來郡[アサコ]:9座大1小8

粟鹿神社[アハカ](名神大)
粟鹿神社[あわか]「彦火々出見命」日子坐命との説もある。山陰道の粟鹿郷、粟鹿川左岸に鎮座、出石神社とともに但馬一ノ宮として崇拝。兵庫県朝来市山東町粟鹿2152 玄松子の記憶

朝來石部神社[アサコノイソベ]
石部神社[いしべ]「大己貴命」兵庫県朝来市山東町滝田字マリ559 玄松子の記憶

刀我石部神社[トカノ]
石部神社「蹈五十鈴姫命、天日方奇日方命、五十鈴依姫命」兵庫県朝来市和田山町宮645 玄松子の記憶

兵主神社[ヒヤウス]
兵主神社[ひょうず]「大己貴命」兵庫県朝来市山東町大字柿坪字棚田972 玄松子の記憶
八幡社「譽田別命」兵庫県朝来市山東町大字森宮馬場706 玄松子の記憶

赤淵神社[アカフチ]
赤淵神社[あかぶち]「赤淵足尼命、大海竜王命、表米親王」日下部氏の奉斎。兵庫県朝来市和田山町大字牧田字上山2115 玄松子の記憶

伊由神社[イユ]
伊由神社[いゆ]「少彦名命」兵庫県朝来市山東町大字伊由市場字谷口243-1 玄松子の記憶

倭文神社[シトリ]
倭文神社[しどり]「天羽槌命」近世聖儒大明神、倭織大明神、鮭ノ宮とも称した。兵庫県朝来市生野町大字円山字下代201 玄松子の記憶

御由緒
創立年月不詳にして延喜式の制小社に列し町内円山字鹽谷に鎮座し中古同字下代に遷 座せらる近世聖儒大明神、倭織大明神、鮭ノ宮とも称したり正徳三年社殿大破の為め 再建し寛政十一年又之を再建せり明治六年十月村社に列し同十四年社殿を修造せり。



足鹿神社[アシカ]
足鹿神社[あしか]「道中貴命」兵庫県朝来市朝来町大字八代字宮山229 玄松子の記憶

佐嚢神社[サナ]
佐嚢神社[さのう]「須佐之男命」兵庫県朝来市朝来町大字佐嚢字大西宮山132-2 玄松子の記憶


養父郡[ヤフ]:30座大3小27

夜夫坐神社5座[ヤフ・・](名神大2座。小3座) 
養父神社[やぶ]「倉稻魂尊、大己貴命尊、少彦名尊、谿羽道主命、船帆足尼命」崇神天皇三十年創祀。三ノ宮。但馬牛の牛市の中心地に位置する。 摂社五社神社の五十猛命は牛取引の神とされる。 当初は弥高山全体が神体山であり、山頂に上社「保食神、五十猛神」、中腹の中社に「少彦名命」麓の下社に「丹波道主命、船帆足尼命」と但馬考には記されている。兵庫県養父市養父町養父市場字宮ノ谷827-3 お走りまつり保存会

御由緒
創立年月不詳なるも仁明天皇承和十二年従五位下の神階を授けられ清和天皇貞観十一 年正五位下に進み同十六年正五位上となれり延喜式の制名神大二座、小社三座となり 明治六年十月郷社に列し同十二年四月縣社に昇格せり。



宇留波神社[ウルハ]
宇留破神社[うるは]「許乃波奈佐久夜比賣命」養父神社の米地川の対岸に鎮座。この付近は古墳が多い。兵庫県養父市養父町口米地字藪下1 玄松子の記憶

水谷神社[ミツタニ](名神大)
水谷神社「天照皇大神」養父神社の米地川の対岸に鎮座。兵庫県養父市養父町奥米地字中島235

淺間神社[アサマ]
浅間神社[せんげん]「木花開那姫命」兵庫県養父市八鹿町浅間字東房井戸前361-1 玄松子の記憶

屋岡神社[ヤオカ]
屋岡神社「天照大日留女命」一説には建御名方命。 兵庫県養父市八鹿町八鹿字篭ノ口1513 玄松子の記憶

伊久刀神社[イクト]
伊久刀神社[いくと]「瀬織津姫神、大直毘神」兵庫県豊岡市日高町赤崎字家ノ上438 玄松子の記憶

御由緒
古い記録がなく創立年代等不明、ただし本社東方一粁の進美寺が慶雲二年(七〇五) 創建の古刹で養父、気多郡内に広大な寺領を有した有力寺院であることから式内社中 厳もこの寺に近接した本社との関係が推測される。即ち伊久刀神社が進美寺の護法神 社的性格を有したと考えられる。
本社は延喜式の制で小社に列し、明治六年村社に列している。



楯縫神社[タテヌヒ]
楯縫神社[たてぬい]「彦狹知命」兵庫県養父市養父町建屋字宮山839 玄松子の記憶
齋神社[いつき]「天太玉命、手置帆負命」の摂社楯縫神社「彦狹知命」兵庫県養父市養父町長野字東山265 玄松子の記憶

齋神社の御由緒
聖武天皇の天平二年の創立と伝へ現在地より三百米ばかり隔てた丘陵に鎮座せり。鎌 倉時代神田一反歩を有し、足利時代、山名氏の崇敬を受け、江戸時代、生野代官の信 仰を得たり。
明治六年十月村社に列し、昭和十年十月郷社に昇格せり。
毎年四月十五、十六日の両日、但馬開発にかかわる伝説として、十六粁離れた養父神 社より神輿の渡御あり。



兵主神社[ヒヤウス]
兵主神社[ひょうず]「大己貴命」兵庫県豊岡市日高町浅倉202 玄松子の記憶

男坂神社[オサカ]
男坂神社[おさか]「黒坂大神」兵庫県養父市大屋町宮垣字天満山196

佐伎都比古阿流知命神社2座[サキツヒコ・・]
佐伎都比古阿流知命神社[さきつひこあるちのみこと]「佐伎都比古阿流知命」佐伎都比古は前津耳命の祖神。阿流知命前津耳命の子。天日槍命の妻の父神。兵庫県朝来市和田山町寺内435 玄松子の記憶

井上神社2座[ヰノヘ]
井上神社「素盞嗚命、稻田姫命」兵庫県養父市関宮町吉井1656-1 玄松子の記憶

手谷神社[テタニ]
手谷神社[てだに]「少彦名命」兵庫県朝来市和田山町寺谷字宮ノ下162 玄松子の記憶

板蓋神社[イタフキ]
坂益神社[さかえき]「正勝山祇命」兵庫県養父市大屋町上山字サカ6-1 玄松子の記憶

保奈麻神社[ホナマ]
花岡神社「祭神不詳」新たに「瓊瓊杵命、木花開耶姫」を勧請した。兵庫県養父市八鹿町坂本字宮ノ下650-1 玄松子の記憶
五社神社「祭神不詳」兵庫県養父市八鹿町岩崎字前田270 玄松子の記憶
春日神社「彦火瓊瓊杵命、天津児屋根命」兵庫県養父市八鹿町大江字方尾中 玄松子の記憶
大歳神社[おおとし]「大年神」兵庫県朝来市和田山町土田上ノ山1238 玄松子の記憶

葛神社[クス]
浅間神社に合祀「???」兵庫県養父市八鹿町浅間字井戸前361-1 玄松子の記憶

大與比神社[オホヨヒ]
大與比神社[おおよい]「葺不合尊、彦大大出見尊、玉依姫命、木花開耶姫命」兵庫県養父市関宮町三宅字大与比392-1

御由緒
祭神大屋彦命と伝へ天日槍命と伝へて所伝區々なれども現在にありては葺不合尊以下 を祀れり創立は大屋彦命となす所伝は推古天皇十五年冬十月三宅首が其祖神を祀りし ものと云ふ延喜式の制小社に列し明治維新前須田の庄総一の宮と称したり。



桐原神社[キリハラ]
桐原神社「祭神不詳」男山石清水八幡宮より勧請と伝わる。兵庫県朝来市和田山町室尾字男山169-21 玄松子の記憶

盈岡神社[ミツヲカ]
盈岡神社[みつおか]「譽田別命 配 息長足姫命、武内宿禰」神社名鑑s39年は大日め貴尊、大己貴尊、天児屋根命。兵庫県朝来市和田山町宮内字鈴竹 玄松子の記憶

更杵村大兵主神社[サラキネノ・・ヒヤウズ]
更杵村大兵主神社[さらきむらおおひょうず]「祭神不詳」兵主神は大陸山東地方に祀られていた天主・地主など八神のひとつ。武を司る神で鉄を常食とする神であった。兵庫県朝来市和田山町寺内字宮谷 玄松子の記憶

御井神社[ミヰ]
御井神社「御井神」大屋比古命、大屋比賣命も祭神に入れている古典資料がある。兵庫県養父市大谷町宮本字高尾481

名草神社[ナクサ]
名草神社「名草彦命、天御中主神」敏達天皇14年、養父郡司高野直幡彦、紀伊国名草よりその祖神を勧請。兵庫県養父市八鹿町石原1755-6

社内神社[モリウチ]
杜内神社[もりうち]「杜内大明神」兵庫県養父市養父町建屋村森字カカナベ919 玄松子の記憶

和奈美神社[ワナミ]
和奈美神社[わなみ]「大己貴命、天温河板譽命」兵庫県養父市八鹿町下網場156

夜伎村坐神社[ヤキムラ]
山神神社[やまのかみ]「伊弉册尊、速玉男命、忍穂耳之尊、事解男命、瓊瓊杵尊」一説には大山祇命を祀ると言う。兵庫県養父市八鹿町八木1182-1 玄松子の記憶


出石郡[イツシ]:23座大9小14

伊豆志坐神社8座[イツシノ](並名神大)
出石神社「出石八前大神、天日槍命」鉄の文化を大陸から持って来られた神である。兵庫県豊岡市出石町宮内字芝地99 玄松子の記憶

御由緒
神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命と多 遅麻比那良岐と相謀って、天日槍命を祀ったと伝えておりますが、諸書によりますと 奈良朝時代すでに山陰地方有数の大社であったことがうかがわれます。
但馬の国一宮として別名を一宮さんの呼び名で尊敬されており、当時泥海であった但 馬を瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を 現出され、円山川の治水に、殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めておりま す。また、鉄の文化を大陸から持って来られた神ともいわれております。



御出石神社[ミツシ](名神大)
御出石神社[みいずし]「日矛神」兵庫県豊岡市出石町桐野986 玄松子の記憶
桐野神社 次に掲載

桐野神社[キリノ]
桐野神社「倉稻魂命」兵庫県豊岡市出石町桐野字御前614 玄松子の記憶

諸杉神社[モロスキ]
諸杉神社[もろすぎ]「多遲摩母呂須玖神」初め有子山に鎮座。兵庫県豊岡市出石町内町28

須流神社[スル]
須流神社[する]「伊弉諾尊、伊弉册尊」兵庫県豊岡市但東町赤花字主楼谷632 玄松子の記憶

佐々伎神社[ササキ]
佐々伎神社「少彦名命」兵庫県豊岡市丹東町佐々木482 玄松子の記憶

日出神社[ヒテ]
日出神社[ひで]「多遲摩比泥神」兵庫県豊岡市丹東町畑山329 玄松子の記憶 神社
日出神社[ひので]「多遲麻日多訶神、由良止美神」兵庫県豊岡市丹東町南尾189 玄松子の記憶

須義神社[スキ]
須義神社[すぎ]「由良度美神」応神天皇40年。神社名鑑では「酢鹿之諸男命、須義毘古命、菅竈由良度美命」が祭神。兵庫県豊岡市出石町大字荒木字竹ヶ原273-1 玄松子の記憶

小野神社[ヲノ]
小野神社「天押帶日子命」姫宮と呼ばれる。兵庫県豊岡市出石町大字口小野字砂入210-2 玄松子の記憶

手谷神社[テタニ]
手谷神社[てだに]「埴安神、倉稻魂命、大彦命」兵庫県豊岡市丹東町河本885 玄松子の記憶

中嶋神社[ナカシマ]
中嶋神社「田道間守命 配 天湯河棚神」兵庫県豊岡市三宅1 玄松子の記憶

御由緒
持統天皇十五年の創立と伝ふ祭神多遅麻毛理命は天日槍命五世の孫にして三宅、橘守 、糸井連等の始祖なり命は現在地に居を定め安美谷(神社所在地附近六ケ部落の俗称 )を開墾して農蠶を奨励し民心を愛撫し給ひしが垂仁天皇の御世勅命を奉じて常世国 に渡り非時香菓を得て帰り給ひしに天皇既に崩じ給ひしかば復奏するを得ず遂に啼泣 して殉死せりされば時の景行天皇其の純忠を憐み先帝の陵側に葬らしめ給へりかくて 此の地に住める子孫は命を敬慕し祠宇を創建すると共に命の墳墓が垂仁天皇御陵域内 の池中に在りて島をなせるに因りて中島神社と称し其の遺徳を後世に伝へたるものに て國司文書には推古天皇の御代子孫なる三宅吉士なる人創祀せる旨を記せり中古に至 り安美郷中の四社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し総社とし て中島神社五社大明神と称せしが後ち各神社を分離移転して安美神社(祭神天湯河棚 神)のみは今尚相殿に奉祀せり。

社殿は應永年間火災に罹り社蔵古文書焼失のため詳かならざるも太田文其の他古文書 に神領又は社田を有せし旨を記せり其の後社殿は前記火災後時の藩主山名宮内少輔再 築し正長元年竣工す内外極採色の構造にして又古雅を極む松平伊賀守出石城主たるに 及び元禄十三年修覆せり後ち仙石讃岐守出石城主たるや社領高三十四石九斗を奉納せ しめ以て廢藩に至りて止む明治六年十月村社に列し同二十八年十二月郷社に進み昭和 十年十月縣社に昇格せり。

相殿安美神社の由縁沿革詳かならざるも祭神天湯河板擧命は垂仁天皇の御世勅命を奉 じて鵠を追ひ但馬國に至りて捕獲せられし由を國史に伝ふ其の捕獲地は和那美之水門 と云ひ現今神美村上鉢山に属し此の事有りてより此の谷を安美郷又は安美谷と称す此 の故を以て士民其の遺徳を敬慕し捕獲地を直親し得る三宅に社殿を建立して奉祀せし も中古此の安美神社は西方三丁にある中島神社に合併す今尚舊社地と伝ふる田甫中に 一本杉と称し一株の古杉あり合併年代不詳なりと雖も中島神社々殿は應永三十年の再 築に係り二間社造りなれば現社殿再築以前の合併なるは明かなり。



大生部兵主神社[オホイフヘヒヤウズ]
大生部兵主神社[おおうべひょうず]「大己貴命」有力な論社。兵庫県豊岡市奥野字宮1 玄松子の記憶

御由緒
創立年月不詳なれども弘仁元年此地に兵庫を建て在庫の里と云ひ兵主の神を祀りて兵 主神社と称せしが神社所在地の地名を冠し俗間に有庫兵主大明神とも称し奥野、穴見 市場の二村の産土神たりしにより一に奥野兵主大明神とも崇めたり中古以来有庫神社 とのみ称し市場村と分離し二社となせし由を伝ふ延喜式の制小社に列し延寶二年本殿 を再造し寛政三年社頭回禄に罹りて再建せり明治初年神社取調の際豊岡縣に於て大生 部兵主神社と確定し同六年十月村社に列し同十二年明細帳提出の際官簿に有庫神社と 記載しあるを発見し同十四年現在名に復称の許可を得たり。


大生部兵主神社「武速素盞嗚命 配 武雷命」兵庫県豊岡市丹東町薬王子字宮内848 玄松子の記憶  神社

御由緒
但東町薬王寺字宮内に鎮座する天王さん(大生部兵主神社)は、祭神として素盞嗚命 を祀り、用明天皇の皇子麻呂子親王勅を奉じて牛頭天王に参篭祈願され神像を彫刻せ られたとあり古くから牛馬の神様として毎年五月三日に祭が行われています。現在で は交通安全・家内安全・縁結びの神様としてお参りされています。


伊福部神社[いふくべ]「素盞嗚尊 配 天香山命、伊福部宿袮命」天平19年伊福部連其祖天香山命を祀ると言う。兵庫県豊岡市出石町中村809
穴見郷戸主大生部兵主神社「素盞嗚尊」兵庫県豊岡市三宅字大森47 玄松子の記憶

阿牟加神社[アムカ]
安牟加神社[あむか]「天穗日命」兵庫県豊岡市丹東町虫生字箱ノ宮267 玄松子の記憶
安牟加神社「天穗日命」兵庫県豊岡市森尾458 玄松子の記憶

比遲神社[ヒチ]
比遅神社[ひじ]「多遲摩比泥神」兵庫県豊岡市丹東町口藤字山姥547

石部神社[イソヘ]
石部神社[いそべ]「奇日方命、大山積神、大己貴神、大物主神、事代主命、健御名方命、高彦根命、瀧津彦命」この出石の地を拓き、国造りに貢献され、偉大な功蹟をのこし、あまたの信望をあつめられた、天日方奇日方命を祀る。兵庫県豊岡市出石町下62 玄松子の記憶

御由緒
神社創立の年代は、あまりにも古代に遡るため明らかではありませんが、式内神社と して、平安時代の延喜式神名帳に登載されているところから、少なくとも千百年以前 には、この地に鎮座され、人々の崇敬と参詣により祭儀が盛大に執り行われていたと 推定されます。祭神は、この出石の地を拓き、国造りに貢献され、偉大な功蹟をのこ し、あまたの信望をあつめられた、天日方奇日方命を祀るといわれ、古来より、五穀 豊穣、家内安全の祈願がなされ、人心不安な時代に遇っても、祭事は絶えることなく 今日に及んでおります。
時代の推移や社会の変遷に伴い、商業繁栄や交通安全の祓い多岐多様な様相をもたら しておりますが、いつの時代にあっても、産土大神(氏神様)として、初宮詣り、七 五三詣りなど、子等のすくすくと育ち、立派な成長を願わない時はありません。
さて、天明年中ですので今から二百年程前の事、谷山で大火が発生した際には、時の 城主仙石公が出馬され、当社頭で消火の指揮をとられたということです。火は折から の烈風に煽られて燃え拡がったところ、いかなる御神威か、社殿屋上より大雨が降り 注ぎあたり一帯の火は消滅したと伝えられます。
現在の神殿は、昭和九年に、氏子崇敬者である、一瀬粂吉氏により、一建立されまし た。新築の神宮造りとして、社殿は木の香も高く堅実美麗なたたずまいを誇っていま す。



小坂神社[ヲサカ]
小坂神社[おさか]「小坂神」兵庫県豊岡市出石町三木字宮脇1 玄松子の記憶

御由緒
天平十九年の創立と伝へ元同村字地主と称する地に鎮座せしが享禄年間大洪水のため 社殿流失せるため現社地に移転改築せりと伝ふ今尚舊社地附近を宮屋敷と云へり当社 は小坂郷九ケ村の総社と云ひ古来小坂神社九社大明神と称せしを明治以降小坂神社と 称し明治六年十月村社に列せらる同三十九年拝殿を新築せり由来当社は祭神未詳と明 細帳に記入ありしも大正十一年祭神確定の義を出願せしに忍坂連の祖天火明命に係る 確證なしとの理由に依り内務省と協議の結果小坂郷開拓に最も関係深き神なれば小坂 之神と決定奉祀すべき旨にて許可せらる。


小坂神社「小坂神」兵庫県豊岡市出石町森井字大坂59 玄松子の記憶

御由緒
聖武天皇天平年間の創立と伝へ延喜式の制小社に列し往古より森井尾崎両村の産土神 なりしも中古播州宍禾郡森井の人此の地に移住し熊野十二所権現を併せ祭るに至れり 然るに中古両村に山林の紛争絶えず遂に神社を分離し十二所権現と称し明治六年神社 調査に際し十二所神社と定め同年十月村社に列し次いで同二十五年小坂神社と改称す 大正十年在来祭神未詳なりしを忍坂連の祖天火明命なりとの出願に及びしも確證なし との理由に依り内務省神社局と協議の結果小坂之神と決定せり。




氣多郡[ケタ]:21座大4小17

多麻良伎神社[タマラキ]
多摩良木神社[たまらぎ]「彦火火出見命」兵庫県豊岡市日高町猪爪字玉谷367 玄松子の記憶

氣多神社[ケタ]
気多神社[けた]「大己貴命」兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227 玄松子の記憶

御由緒
創立年月不詳なるも大己貴命(葦原志許男命)と(天日槍命と)国占の争ありし時、命の黒葛此地に落 ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。延喜式の制小社に列し中世以 降総社気多大明神と仰ぎ鎌倉時代社領として大般若田、三十講田其他の神領田を有し たりき明治三年社名を現在の通りに改め同六年十月郷社に列せらる。



葦田神社[アシタ]
葦田神社[あしだ]「天麻止都袮命」兵庫県豊岡市中ノ郷森下1141 玄松子の記憶

三野神社[ミノ]
三野神社「師木津日子命」兵庫県豊岡市日高町野々庄字下コヤ782 玄松子の記憶

御由緒
創立年月不詳にして延喜式の制小社に列し在来十二所権現と称せしも明治三年三野神 社と復称す明治六年十月村社に列せらる。



賣布神社[ヒメフ]
賣布神社[めふ]「大賣布命 配 毘沙門天、稻荷大明神」兵庫県豊岡市日高町国保字山ノ脇797 玄松子の記憶

鷹貫神社[タカヌキ]
鷹貫神社[たかぬき]「鷹野姫命」兵庫県豊岡市日高町竹貫字梅谷429 玄松子の記憶

御由緒
創立年月不詳なるも祭神鷹野姫命は神功皇后の御生母にましませり延喜式の制鷹貫神 社と記して小社に列し明治六年十月村社に列せらる。



久刀寸兵主神社[クトネヒヤウズ]
久刀寸兵主神社[くとすひょうず]「素盞嗚尊、大己貴命」兵庫県豊岡市日高町久斗字クルビ491 玄松子の記憶

日置神社[ヒヲキ]
日置神社[ひおき]「天櫛耳命」兵庫県豊岡市日高町日置字高谷14 玄松子の記憶

楯縫神社[タテヌイ]
楯縫神社[たてぬい]「彦狹知命、譽田別命、息長足姫命」兵庫県豊岡市日高町鶴岡字保木177 玄松子の記憶

御由緒
白鳳時代、今から千三百年の往昔出雲国から、丹波国を経て当国で栄えた楯縫連(た てぬいのむらじ)が、遠祖(とおつおや)彦狭知命を楯屋丘(たてやのおか)多田谷 にまつる。西暦千九百四十七年此地に遷座奉祀す。



井田神社[ヰタ]
井田神社[いだ]「倉稻魂命」伊福八幡社と呼ばれる。兵庫県豊岡市日高町鶴岡字城山122 玄松子の記憶

思往神社[オモヒヤリ]
思往神社[おもいやり]「思兼命」兵庫県豊岡市日高町中字大道ノ下326 玄松子の記憶

御井神社[ミヰ]
御井神社「御井神 配 菅原道眞」兵庫県豊岡市日高町土居字天神228 玄松子の記憶

御由緒
創立年月不詳にして延喜式の制小社に列し近世天満宮と崇めしも明治三年御井神社と 改称す同六年十月村社に列せらる。



高負神社[タカフ]
高負神社[たこう]「白山比賣命、菊理比賣命」兵庫県豊岡市日高町夏栗字秋葉山116-1 玄松子の記憶

佐久神社[サク]
佐久神社「手力男神」一説に「佐久津彦命 配 木花咲耶姫」兵庫県豊岡市日高町佐田字宮山68 玄松子の記憶

御由緒
創立年月不詳にして楽前庄五箇村の開拓神と称す思ふに当社祭神に関しては國司文書 に人皇一代神武天皇九年冬十月齋祀佐久津彦命於佐久宮とあり但馬神社探秘考、神名 帳考證等には木花咲耶姫を配祀せるものならん延喜式の制小社に列し近世境内の山上 に楽前城ありて垣屋隠岐守隆國城主として天正の頃まで本郡を領し当社を崇敬せしも 垣屋氏滅亡後は自然舊観を損し社家退散し昔日の壮観なし、されども西気谷開拓の祖 神と尊崇し春秋二季の祭日には各村とも参拝するの遺風今に残れり又寛政十一年七月 二十六日神祇官領卜部良連の祝詞によれば此時佐久神社へ大川大明神に霊代を迎へた るものの如し天保十三年本殿を再建し明治三年佐久神社と復称す同六年十月郷社に列 し同四十一年十一月四日山祇神社、八幡神社、荒木神社、須賀神社を合祀し翌四十三 年幣殿拝殿、を新築、昭和四年本殿の屋根替を行へり。



神門神社[カント]
神門神社[かむと]「大國主命、武夷鳥命、大山命」兵庫県豊岡市日高町荒川字村上309 玄松子の記憶

御由緒
創立年月不詳なれども延喜式の制小社に列し天和四年本殿を修理し明治三年山王大権 現の称呼を神門神社と改称し同六年十月村社に列し同三十三年瓦葺に屋根替したり。



伊智神社[イチ]
伊智神社[いち]「神大市姫命」兵庫県豊岡市日高町府市場字楮根935 玄松子の記憶

御由緒 創立年月不詳にして延喜式の制小社に列し近世八王子大権現と称せしも明治二年伊智 神社と改称す次いで同六年十月村社に列せらる。



谷神社[スタニ]
須谷神社[すだに]「句句廼智命」兵庫県豊岡市日高町藤井字ヰトキシ308 玄松子の記憶

山神社[ヤマ](名神大)
山神社「句句廼馳命、大山祇神、埴山姫神」兵庫県豊岡市日高町山宮字前田409-3 玄松子の記憶

御由緒
欽明天皇二年二月九日の創立と伝えられ、宮の北山なる聖岩に鎮座せしも天平神護元 年四月八日今の地に遷座された。承和九年官社に預り、貞観十年神階従五位上に進叙 せられ、延喜式の制名神大に列し、源頼朝神領米三十三石、山三町四面を寄進すると 伝え、江戸時代藩主仙石氏の崇敬を受けて例祭には代参又は直参せられた。 宝永三年本殿を建立し、さらに明治二十七年本殿を建立し、さらに明治二十七年本殿 を再建されたのが現在の本殿である。
明治六年十月村社に列し、同四十一年三柱、八幡、八坂の三神社を合祀し稲荷神社を 境内に奉斎した。



戸神社[ヘ](名神大)
戸神社[との]「大戸比賣命、奧津彦命」兵庫県豊岡市日高町十戸字野18-1 玄松子の記憶

御由緒
創立年月は不詳であるが、往古は但馬国の名神大社十社中の一社に数えられた古社で ある。御祭神は亦の名を奥津比売神と申し、竃を司る神である。品陀和気命は合祀し た神で八幡神である。
続日本紀の承和九年冬十月に「戸神官社に預る」とみえ、三代実録には、貞観十年神 階従五位下から従五位上に進叙し、延喜式神名帳に戸神社名神大と載っている。 又、鎌倉時代に神田四十九反三百歩を有したとも伝えられている。
その後、由緒を称する資料がなく、明治六年村社に列し、同四十二年十戸区内にあっ た八幡神社と三柱神社を当社に合祀し、大正五年神饌幣帛料供進指定神社となった。 御社殿は、宝暦九年に本殿を再建した記録があるが、現存の本殿内宮は春日造りで文 化七年の造営である。大正二年に幣殿と拝殿を新築し、昭和四十一年本殿覆殿が老朽 のためこれを新築、同五十年には拝殿、幣殿、屋根銅板葺替を行った。



雷神社[イカツチ](名神大)
雷神社「????」兵庫県豊岡市日高町稲葉73 未確認 兵庫県豊岡市日高町大字佐野字稲場542-2 玄松子の記憶

椒神社[ホソキ](名神大)
椒神社[はじかみ]椒大神」兵庫県豊岡市竹野町椒字岩ノ内1738-2 玄松子の記憶


城崎郡[キノサキ]:21座大1小20

物部神社[モノゝヘ]
韓國神社[からくに]「物部韓国連真鳥、物部韓国連渚鳥」ケゴヤ古墳から金箔が検出された。渡来人にかかわる古墳であろう。神社も震旦国明神と呼ばれていた。兵庫県豊岡市飯谷字落シケ谷250 玄松子の記憶

久麻神社[クマ]
久麻神社[くま]「熊野忍隅命」兵庫県豊岡市大字福田字大門196 玄松子の記憶

穴目杵神社[アナメキ]
穴目杵神社「八熊大明神」兵庫県豊岡市大篠岡377-1 玄松子の記憶

女代神社[メシロ]
女代神社[めしろ]「高皇産靈神」円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。兵庫県豊岡市九日市上町460-1

御由緒
当社は延喜式神名帳に載する城崎郡二十一座の一社なり。 円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。御祭神 は造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)と賛えられ、高天原に在せられ し神である。往古祝融の災害により創立年月詳ならずと雖も古社たる事明かなり。
仁寿元年正月正六位(文徳帝御宇・西暦八五一年) 往古境内地五町四面なりしと伝えられる。当社御稜威の赫々たる事は古人の普く知る ところにして、往古浮島明神と称せられ神殿が田圃の低地にあると雖ども円山川氾濫 に際して未だ嘗て階段に浸水せしことなく浮島の名称空しからず、豊岡領主京極家は 家臣をして洪水に際し詣拝せしめ実地測量せしめし事天和、元禄年間等一再ならず、 僅かに数間の距離に於て数尺の水の高低あると伝え聞く。
然るに天正五年(安土桃山時代)社頭没収せられ其れがため祭祀衰えかつ寛永六年( 江戸時代初期)神主住宅並に社務所・宝庫焼失し当時の古文書悉く烏有に帰し史料空 し。其の後明和三年(徳川時代中期)古社大破せるを改築す。
文化五年(徳川時代後期)神祇伯白川資延王殿より社号の染筆を賜わる(由来神祇官 西院に八神殿を設けられ宮中を始めて崇敬者篤かりしが神祇官荒廃後には白川、吉田 家において共に八神殿を建てて奉斎せられしこと史実に明なり。当社の祭神は八神殿 奉斎の御一座にあらせられるがため現在の御本殿掲載の社号の染筆を賜わったものな り)



與佐伎神社[ヨサキ]
與佐伎神社[よさき]「依羅宿禰命」兵庫県豊岡市下鶴井字上ノ山2456 玄松子の記憶

布久比神社[フクヒ]
布久比神社[ふくひ]「岩衝別命」兵庫県豊岡市栃江字一ノ宮60 玄松子の記憶

小江神社[ヲエ]
小江神社[おえ]「豐玉彦命」天然記念物に指定された高さ三十米、目通り四米の大ケヤキがあり、樹齢三〇〇年と推定される。兵庫県豊岡市大字江野1452 玄松子の記憶

久々比神社[ククヒ]
久々比神社[くくひ]「久久遲命」兵庫県豊岡市下宮字谷口171 玄松子の記憶

御由緒
創立年月は不詳であるが、延喜の制では、式内社、城崎郡二十一座の内、小社に列し ている古社である。
垂仁天皇の皇子、誉津別王は、年三十歳になっても物を言われなかったが、ある日、 空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰せられた。天皇は大いに喜 ばれ、天湯河板挙命にこの鵠の捕獲を命じられた。命はこれを追って、但馬国で捕え 、天皇に献じたという「日本書紀」の記述と神社の創立は、何か関連あるものと考え られる。
古来、森林守護の名社として名高く、また、下宮、鎌田、庄境、中庄境、栄町、祥雲 寺の六部落の氏神として崇敬を集めている。



耳井神社[ミヽヰ]
耳井神社「御井神」兵庫県豊岡市宮井字大門215 玄松子の記憶

桃嶋神社[モゝシマ]
桃島神社「大加牟豆美命」兵庫県豊岡市城崎町桃島字宮脇1339-1 玄松子の記憶

兵主神社[ヒヤウズ]
兵主神社[ひょうず]「速須佐之男命」兵庫県豊岡市赤石字下谷1861 玄松子の記憶

深坂神社[フカサカ]
深阪神社[みさか]「寄日方命」兵庫県豊岡市三坂字見手山76-1 玄松子の記憶

兵主神社[ヒヤウズ]2座
兵主神社「速須佐男神」兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城100-1 玄松子の記憶

氣比神社[ケヒ]
気比神社「五十狹沙別命」兵庫県豊岡市気比字宮代286 玄松子の記憶

久流比神社[クルヒ]
久流比神社[くるひ]「闇御津羽神」兵庫県豊岡市城崎町来日字ロ587-2 玄松子の記憶

重浪神社[カサナミ]
重浪神社[しぎなみ]「物部韓國連神津主命」

『式内社調査報告』由緒
『兵庫県神社誌』によれば、「物部韓国連神津主命、推古天皇二十五年十二月城崎郡司となり、其の父物部韓国連墾磨命を墾谷丘なる物部の宮に祀り給しも、天武天皇白鳳三年(675) 六月楮主(かみつぬし)の命の子久々比命、城崎郡司となり給ひ父楮主命を敷浪の丘に葬り祠を建てて祀るの時、ともに祭祀を受け給ひ重波神社と称せり。、蓋し重浪は敷浪の転じたるなり。以上『神社誌』

 御船岩と云う大岩が社殿左側にある。神霊来臨の聖地を岩石で築き上げた磐境。そうすると祭神は櫛玉饒速日命または天火明命と申すべきかとある。

兵庫県豊岡市畑上字宮843 玄松子の記憶

縣神社[アカタ]
小田井縣神社[おだいあがた]「國作大己貴命」兵庫県豊岡市小田井町15-6 玄松子の記憶

御由緒
小田井縣神社は、延喜式神名帳(九〇五年)に記されている。いわゆる式内神社であ って、ご祭神は国作大己貴命であります。大神は大昔、この豊岡附近一帯が泥湖であ って、湖水が氾濫して平地のないとき、来日岳のふもとを穿ち瀬戸の水門をきり開い て水を北の海に流し、水利を治めて農業を開発されました。第十代崇神天皇の御代( 前八六年)の十一年甲午春の三月十日、四道将軍谿羽道主命が大神の偉徳を聞き、深 くその功績をたたえられ、天皇に奏上し、勅許を得てご神霊を鎮祭したと伝えられ、 この地方開拓の祖神であります。その後、代々の縣主が、この地方の開発と拓殖につ とめ、祭祀を営んだと伝えられ、四方の崇敬篤く国中屈指の古社であります。
弘安年中(一二七八年〜一二八七年)時の守護、太田政頼の注進による但馬太田文に は、小田井社々領三十一町三反あまり神供田二十五町一反あまりと見えており、この 時代には神仏習合となり。社家、(四家)社僧(四ケ寺=金剛、妙楽、正法、三坂) が祭事をとり行なっていたようです。
元弘三年(一三三三年)癸酉の夏第九十五代後醍醐天皇より、当社に正一位の神階と 、御製のご宸筆が下されたといい、当時は祠域広壮、祠宇雄麗で社運は隆盛を極めた と伝えられています。
天正三年(一五七五年)十月、垣矢筑後守広秀が田結庄是義を征めた野田合戦で、当 社の森に放火され、社頭を焼き拂われたために、古文書、古器物は、ことごとく灰と なりました。この時ご神霊はみこしで一日市に火難を避けられたといわれています。 天正年中(一五七三年〜一五九一年)羽柴秀吉が中国征伐のとき、当社に陣営をおき 、神領を没収し、わずか境内一町三反、神供田一ケ所、神主屋敷七反三畝が残されま した。この時より社家社僧は離散して祭祀がすたれ、社運が著しく衰微しました。 貞享年中(一六八四年〜一六八七年)社殿を再興し、鳥居を建て元文年中(一七三六 年〜一七四〇年)神殿を改造しました。現今の春日作の社殿がそれであります。 明治六年(一八七三年)社格が定められ県社に列しました。
明治十一年(一八七八年)とだえていた河内神事、矛立神事など古代の神事を復古し ました。
昭和六年(一九三〇年)円山川治水工事のため現位置に移転し、約四十年後の昭和四 十四年(一九六九年)堀川橋改築、堤防増強工事のため、境内の模様替え、えびす神 社、川下神社、社務所の改築を行ないました。 昭和二十五年(一九五〇年)河内神事、矛立神事の式年大祭を行ないました。



酒垂神社[サカタレ]
酒垂神社[さかたる]「酒美津男命、酒美津女命」兵庫県豊岡市法花寺725 玄松子の記憶

御由緒
酒垂神社は、いわゆる式内社で起源も古く、物部韓国連久々比命が、五穀豊穣を祈っ て酒造神、酒弥豆男命(さかみずおのみこと)を祀ったとされる。境内に隣接して酒 米を作った神田があり、酒造用水として、奥の谷あいにわく清水を使っていた。明治 以降自由な酒造が禁止されてから氏子らは、手作りの甘酒を供えている。
この神社の名が一般に知られるようになったのは、三十余年前、専門家の調査で、本 殿が室町時代の建造物とわかり、昭和三十三年に国の重文に指定されたことから。そ の後、全国的な解体修理が行われた。その際、永享十年(一四三八年)の棟札が見つ かったほか「大伴久清、小工十二人」と書きつけたものもあった。創建時の棟りょう の名がわかることは比較的珍しいケースという。そんな記述から、当時資金を工面し ながら十数年がかりで建てた様子などがうかがえる。
こけらぶきの本殿は、鮮やかな朱塗りが修理の跡を物語るが、すっぽりと覆い家の中 に収まり、古社建築を楽しむにはちょっとじゃまになる。だが折からの強い秋雨を見 て、この囲いがあったからこそ、本殿も数百年の風雪に耐えてきたのか、と変に納得 させられた。冬の豪雪は折り紙つきなのだから。様式は一間社流れ造り。数キロ離れ た中嶋神社が二間社、久々比神社が三間社で、同じころ相次いで建てられたらしく、 いずれも国指定の重文である。
境内では、かつて村芝居が行われたり、北但酒造組合が利き酒会を開いたり、にぎわ うこともあったが、今では秋祭りぐらいという。それでも、杜氏(とうじ)さんが酒 の神様を拝みに来たり、研究家が訪れたり、幼稚園児が小遠足で弁当を広げたりの光 景も見られる。
境内入り口の左右に瓶(かめ)石がある。酒をくみ入れる瓶を指すようだが、一方は 大杉を切った跡から見つかった。以前に調査した学者が「杉の下にある」との予言通 りとなった。棟札もさることながら、まだ眠っているものがあるのでは、と境内を見 渡しながら想像を刺激される。



西刀神社[ニシト]
西刀神社[せと]「西刀宿袮」兵庫県豊岡市瀬戸字岡746 玄松子の記憶

御由緒
稲背脛命は、天孫降臨に先立ち出雲の国、大国主命のもとに使者として行かれ、事代 主命に会見し、国譲りの諾否(古語いなせ)を求められた。
長途の旅を健脚に托し、勲功をたてられたので「いなせ脛命」の御神名がある。 国譲りのため長途の旅路を陸路、海路共に安全且つ速かに目的を果されたので、陸上 、海上の交通安全、同胞一和の守護神として崇敬されています。
仁徳天皇の御代(四五八年)円山川流域は黄沼前海と呼ばれ、沼地のような一大入江 であった。この時、海部直命(但馬五社絹巻神社の祭神)は、御子・西刀宿禰に命じ て瀬戸の水門を浚渫し、河水を海に流し、円山川の流域は蒼生安住の地になったと伝 えられております。
依って土木建築の神、交通安全、地方開発、同胞一和開運の祖神として当社に祀られ ています。



海神社[アマノ](名神大)
海神社[かい]「大綿津見命」兵庫県豊岡市小島字海ノ宮965 玄松子の記憶


美含郡[ミクミ]:12座並小

佐受神社[サウケ]
佐受神社[さず]「佐受主命、佐受姫命」兵庫県豊岡市香住町米地字宮脇417-2 玄松子の記憶

鷹野神社[タカノ]
鷹野神社[たかの]「武甕槌神 配 天穗日命、天滿大自在天神 合 須佐之男命、建御雷命、伊波比主命、五男三女神」懿徳天皇の第二皇子当芸志比古命は多遅麻の竹別の祖と記されている。武甕槌神を天つ神、即ち天孫系神族として尊崇し御神威をあがめて、出雲系神族を制御するため鎮祭されたと伝えている。兵庫県豊岡市竹野町竹野馬場町84-1

御由緒
当神社の創立年月については不詳であるが、古事記によると第四代懿徳天皇の第二皇 子当芸志比古命は多遅麻の竹別の祖と記されている。多遅麻之竹別については和名類 聚抄(略して和名抄二十巻)には「但馬国美含郡竹野郷がある」と書かれている。和 名抄は延長年中に源順が醍醐天皇の第四皇女勤子内親王の命を奉じて撰述した古書で あり、竹野別はたかの別とよんだのであり但馬国には竹という地名はその他の文書に 見えないから現在の竹野浜部落で、その氏族が居住していたための地名であると考え ることができる。同じく醍醐天皇の延長五年に「延喜式」神名帳が撰修せられ、その 巻一〇に「但馬国一三一座、美含郡一二座鷹野神社」とあるから、延喜の制に小社に 列せられた式内官社である。
御祭神については、「神名帳考証」「但馬式社改納帳」「旧事本記」「神祇志料」「 特選神名帳」「但馬考」等には諸説がのせられているが武甕槌神を御祭神として奉斎 しているのであって、社家大浜家の伝承にも竹野は「たかの」と言い、古来より加島 宮天神、浜の天神と称して、武甕槌神を天つ神、即ち天孫系神族として尊崇し御神威 をあがめて、出雲系神族を制御するため鎮祭されたと伝えている。古事記によると大 国主神が出雲国の伊那佐の小浜における国譲りの折衝に天孫系神族の代表としてその 使者に選ばれた武甕槌神が大国主神との談判が成立の後、出雲系神族に対して御神威 を示され、天孫神系の神に帰一することを誓約されているから、武甕槌神はこの竹野 郷に神降りまし居住民族が祖神当芸志比古命も天孫神系の神であるため氏神として奉 斎するに至ったと考えられる。武甕槌神は鹿島神社の主祭神として鎮護されたため、 神降りましたと伝えられる所が神の誕生浦といい、鹿島の神である武甕槌神を鎮祭し た島を加島山と称したと伝えられている。後に竹野浜即ち現在位置に移されたといわ れている。
なお国譲りの談判成立後大国主神は八十隈にかくれられ、天穂日命によって大国主神 の大前を祀らしめられたという古事記の記事により天穂日命が出雲系神族の代表とし て併せて相殿に奉斎されたものと考えられる。その後中古に至り、菅原道真公の怨霊 を怖れて全国各地に天満宮が鎮祭され、天満宮が鎮祭され、天満宮信仰が広まったた め、天神と天満宮とを混同する風が生じたため、天満天神の御神徳もあがめて相殿に 奉斎し、神紋も梅鉢を用い、境内に牛の像を奉献したものと考えられる。但馬考は「 笑うべきことだ」と記している。或は当芸志比古命を祖神とする竹野別の氏族が後に 竹野郷に移住してきたが、すでに原住民によって武甕槌神が鎮祭されていたため、鷹 野神社から少し離れた初日(宇日)の丘に当芸志比古命の同一神族である宇比売神を 奉斎して宇日神社とし、鷹野神社の別宮としたと考えられる。
祖神を氏神としないで、天孫神族の代表として武甕槌神を氏神として鎮祭したという 伝承もある。
万治三年に社殿より火を失して社殿はもとより全部落失し、その時社記、古記録を失 ってその資料の微すべきものがないが寛延二年刊行の大枝流芳の「貝尽浦の錦」には 竹野浜を紀伊の和歌の浦、河内の住吉浦と共に日本浜三景の一つに数えられ、但馬竹 野浦真図をのせて、その図に「加島」「誕生」と共に竹野浜に「天神社」の壮大な社 殿をえがいている。
江戸時代出石藩の崇敬特に篤く、山名、小出の藩主は度々参拝して随神門、鳥居が奉 献され、武運長久を祈請された記録が残っている。
明治六年社格の制定と共に郷社に列せられ、明治三十七年に当部落に鎮祭されていた 三柱神社、荒神社を合併して、その祭神を併せて奉斎している。



伊伎佐神社三座[イキサ]
伊伎佐神社[いきさ]「伊弉諾尊」文武天皇の御代彦坐王命をここ伊岐佐の丘に勧請。文永七年夏、異国(蒙古)来襲と聞き、武神男山八幡宮の御分霊、中臣氏の祖天児屋根命を勧請し、異賊退治の祈祷式を行う。兵庫県豊岡市香住町余部字宮内2746-2 玄松子の記憶

御由緒
文武天皇の御代、慶雲四年七月、諸国に悪疫病が流行す。時の天皇は諸国に神祇を祀 ることを命じられし時、美含郡大領椋椅連小楢、彦坐王命をここ伊岐佐の丘に勧請し たことに創まる。今より約千二百八十年前のことである。更に天平七年には伊弉諾命 を勧請し、主祭神とする。
嘉祥四年正月二十七日時の神祇官より、「正弐位の上」が授けられ、数少ない延喜式 の小社に列し延喜二十二年春三月には、奉幣の儀あり官社となる。
又、文永七年夏、異国(蒙古)来襲と聞き、武神男山八幡宮の御分霊、中臣氏の祖天 児屋根命を勧請し、異賊退治の祈祷式を行ふなど由緒ある神社である。



法庭神社[ノリハ]
法庭神社[のりば or ほうてい]「天照国照天火明饒速日命、野見宿彌」兵庫県豊岡市香住町下浜225-1 玄松子の記憶

美伊神社[ミイ]
美伊神社[みい]「美伊毘賣命、美伊毘彦命」兵庫県豊岡市香住町三川字イヨロ87-1 玄松子の記憶
美伊神社「大山命」兵庫県豊岡市香住町余部字明神谷3169

椋橋神社[クラハシ]
椋橋神社[くらはし]「伊香色乎命」兵庫県豊岡市香住町小原827-1 玄松子の記憶

阿古谷神社[アコタニ]
森神社「大山祇命、八幡大神」兵庫県豊岡市竹野町轟字轟356-1 玄松子の記憶

御由緒
創立年月不詳にして初め轟字阿古谷の口に鎮座し其地古木欝蒼として荘厳を極めしか ば士民自ら森の宮と尊称せり延喜式の制小社に列し阿古谷神社と称す延寶七年本殿を 再建し明治初年燈火より火を失して本殿以下を炎上す故に蓮花寺の守護社地へ移転し 六年十月村社に列せらる。



桑原神社[クハハラ]
桑原神社[くわばら]「稻倉魂神、大己貴命」同町桑野本字稲蔵の同社は「仁布命」を祭神としている。兵庫県豊岡市竹野町森原字苗原463-1 玄松子の記憶

色來神社[イロキ]
色来神社[いろく]「國狹槌命」兵庫県豊岡市竹野町林字宮ノ谷1236-1 玄松子の記憶

御由緒
創立年月不詳にして此地一に色来谷と称するが故に社名を生ず延喜式の制小社に列し 初め同村今林字廣瀧に鎮座せられしより一に廣瀧明神とも称し寶鏡宮寺尼宮門跡扁額 を御染筆あらせらる元禄四年本殿を再建し明治六年十月村社に列せらる。



丹生神社[ニフ]
丹生神社[にゅう]「丹生津彦命、丹生津姫命、吉備津彦命」兵庫県豊岡市香住町浦上字川東1185-2 玄松子の記憶


二方郡[フタカタ]:5座並小

二方神社[フタカタ]
二方神社「?」兵庫県美方郡浜坂町指杭字仲瀬20-2 玄松子の記憶

大家神社[オホイヘ]
大家神社[おおや]「大己貴命」大屋彦命との説があるが社名による付会との説もある。兵庫県美方郡浜坂町二日市字谷塩558-1 玄松子の記憶

大歳神社[オホトシ]
大歳神社「大歳神」兵庫県美方郡浜坂町居組字宮ノ前615 玄松子の記憶

面沼神社[メヌ]
面沼神社[めぬま]「美尼布命(面沼神)、倉稻魂命、天穗日命」兵庫県美方郡温泉町竹田字米持前1 玄松子の記憶

御由緒
一の鳥居は湯谷、二の鳥居は伏拝み、三の鳥居は宮前と伝えられ、後山の徳原さんに は奥宮の米持神社が祭られています。菅原道真公の延喜の時(九二七年)、大化改新 (六四五年)による律令制度が式に整えられました。この式の中の神名帳に面沼神が あり(式内社)、山陰道の駅名として面治駅があるのです。

温泉郷一宮、二方総社の面沼神には春と秋、国からお供えの列が参りました。奉幣と いい、国幣の宮だったのです。中、近世、神さまは「めしの宮」、「明持大明神」「 米持大明神」と、いろいろに云われました。そして、弘化四年(一八四七年)四月に は温泉庄一八ケ村の村人によって創立千二百年祭が三日間にわたって祝われておりま す。

明治になり、面沼神社と改称された宮は、郷社格が六年(一八七三年)にあり、神饌 幣帛供進神社として、大正四年(一九一五年)指定がありました。
但馬の七不思議の一つ、雪の中を境内の女奴池で茗荷が摘まれ、神に捧げられる。古 来、人々その芽を見て年の吉凶を占う。また、当日は裸参りが行なわれるが、風邪を ひくこともなく命延びると云い伝えられている。「命賀メデタヤ、富貴ハンジョウ」 、茗荷を拝して健康と富を頂くお祭りです。



須加神社[スカ]
須賀神社[すが]「?」兵庫県美方郡温泉町宮 玄松子の記憶



七美郡[シツミ]:10座並小

多他神社[タタ]
多他神社[おおた]「素盞嗚尊」太田他根子命、埴山姫命も祭神と記す古典がある。兵庫県美方郡美方町忠宮136 玄松子の記憶

小代神社[オシロ]2座
小代神社[こしろ]「天照皇大神、豊受大神」兵庫県美方郡美方町秋岡995 玄松子の記憶

志都美神社[シツミ]2座
黒野神社に合祀「黒野坐大神 配 志都美上大神、志都美下大神」当初は宮山山頂に鎮座。兵庫県美方郡村岡町村岡字宮ノ脇723-2 玄松子の記憶

黒野神社の御由緒
当神社は、村岡(旧称黒野村)の鎮守の神、氏神であり、古伝によれば、橘諸兄公ゆ かりの従三位参議黒野経秀卿但馬に配流せられた大同年間に創建と伝えられ、初め現 社地背後の宮山山頂に鎮座されており、延長五年に成立(九二七年)の延喜式神名帳 に列し(式内社)、永享八年(一四三七年)に、同じく宮山山頂に鎮座されていた七 美郷の総氏神社志都美上下神社を合祀して、社殿を現在地に移転、再建される。所謂 志都美神社は、清和天皇貞観一〇年(八六九年)に従五位下の神位授与のことが、三 代実録に記されている。三神社合祀後伊津岐三柱大明神と仰がれ、崇敬を集める。
鎌倉時代より神田を有し、江戸時代に入り、山名公が黒野村を村岡と改称、歴代村岡 藩主の崇敬を受ける。延享元年(一七四四年)九月一ノ鳥居を創建して(扁額は藩主 豊就公と伝える)参道を開き、明和二年(一七六五年藩主豊貴公)社殿再建、築地・ 石段が山名藩御家中並びに東西両町氏子の寄進により、整備される。以後村岡藩の祈 願社として、四時社参、藩公ゆかりの品々の奉納の例が多い。
明和二年の社殿再建以後も、寛政四年(一七九三年)、文政四年(一八二二年)、嘉 永三年(一八五一年)と社殿の改修を重ね、大正四年に拝殿新築、昭和七年に本殿を 銅板屋根替えを経て、現在に至る。
明治以後、明治六年郷社に列し、大正四年神饌幣帛料供進神社に指定され、大正一二 年八月県社に昇格する。



伊曾布神社[イソフ]
伊曽布神社[いそう]「保食神」兵庫県美方郡村岡町味取字神町880-2 玄松子の記憶

御由緒
創立は不詳であるが、貞勧二年勧請と伝え延喜式内小社に列し、射添庄の一宮であっ た。旧称を来庫大明神と称した。江戸時代山名藩主の崇敬も篤かった。明治六年村社 に列し昭和二十一年宗教法人届出をなし、今日に至る。



等余神社[トヨ]
等余神社「豐玉姫命 配 月讀命、天太玉命」兵庫県美方郡村岡町市原字豊田497-2 玄松子の記憶

御由緒
当神社は市原の氏神であって貞勧年間の創立と伝え、延喜式内小社に列し一説には坂 本大明神と称したと言う。正暦五年文中元年嘉永七年社殿再建、明治六年村社に列し 大正五年拝殿を新築、同年神饌幣帛料供進神社に指定され、昭和二十一年宗教法人届 出をして現在に至る。



高坂神社[タカサカ]
高坂神社「高皇産靈尊」兵庫県美方郡村岡町高坂字宮ノ脇165-1 玄松子の記憶

黒野神社[クロノ]
黒野神社「黒野坐大神」 兵庫県美方郡村岡町村岡字宮ノ上723-2 玄松子の記憶

春木神社[ハルキ]
春来神社「天照皇大神、伊弉諾命、伊弉册命、大己貴命、少彦名命」一説に「波比岐命、天穂日命」との説がある。 兵庫県美方温泉町春木827 玄松子の記憶

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延喜式神名帳目次

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