丹波国:71座 大5、小66


桑田郡[クワタ]:19座 大2小17

出雲神社[イツモ](名神大)
出雲大神宮[いずもだいじんぐう]「大國主尊、三穗津姫尊、少那姫尊」京都府亀岡市千歳町出雲 玄松子の記憶
出雲大神宮
御祭神 当宮では二柱を合わせ特に出雲大神、出雲太神宮(日本書記)、出雲神社な どと称へ奉り建国の所由によって元出雲といわれる。従って縁結びの神ということも 当宮を指すのである。鎌倉時代以後婁々京師の争乱つづき広大なる神領は失われ(愛 宕神社の愛宕山もその領域大原神社の小塩山は飛地社領)由緒も埋れた。兵乱のない 島根半島の大社は国譲りました大国主大神御一柱を祀る慰霊の社にすぎない。そこで は六十年毎にお建替へが行われるが愈竣功なると神火は丹波よりということが一般に 信ぜられている。
社殿創立 現在の社殿はその様式全国第一の古重要文化財に指定されている。丹波国 一之宮。延喜の制名神大社。明治之制国幣中社。宮司家には「千年の火」を伝うとい われている。粥占祭大護祭などの神事に用いられている火が特に尊ばれている所以で ある。

出雲神社「大己貴命」京都府亀岡市井手西山6 玄松子の記憶

桑田神社[クワタ]
桑田神社[くわた]「市杵嶋姫命 配 大山命、大山祇命」京都府亀岡市篠町山本北条51 玄松子の記憶 こんな言い伝えが…
桑田神社(延喜式内社)
由緒掲示板
祭神は、市杵島姫命・大山咋命・大山祇命。往古この地方は湖なりしを、亀岡市矢田 町鍬山神社の祭神と共に、自ら鍬鋤を持って保津の山峽を切り開き、山城の地に水を 流して亀岡盆地を干拓されたと大日本史の神社誌に見られる。本神社は保津川の急流 を眼下に、景勝の地に鎮座まします。なお、末社水神宮を祭り祭日は一月三日、末社 野々神社は九頭龍神を祭り、足の病に霊験あらたかにて、参拝者も多い。

桑田神社[くわだ]「市杵嶋姫命」京都府亀岡市篠町馬堀東垣内3 玄松子の記憶

三宅神社[ミヤケ]
三宅神社[みやけ]「倉稻魂命、稚産靈命、保食命」京都府亀岡市三宅町121 玄松子の記憶
由緒の概要
創立年代不詳。ただし、安閑天皇2年5月屯倉に併設されたとしている。天正の戦乱 で焼失した。延寶元年に城主の松平忠明が再建。代々城主の祈願所となり、多くの崇 敬者が参拝した。明治6年村社。明治40年指定村社となる。


小川月神社[オカハツキ](名神大)
小川月神社[おがわつき]「月讀命」大堰おおせき川沿いに開発を進めた秦氏が勧請。京都府亀岡市馬路町月読16

三縣神社[ミアカタ]所在不明


神野神社[カムノ]
宮川神社「伊賀古夜姫命、譽田別命」京都府亀岡市宮前町字宮川神尾山2 丹波の神社

山國神社[ヤマクニ]
山國神社「大己貴命」大山命との説もある。宝亀年間創建。京都府北桑田郡京北町鳥居宮ノ元1 丹波の神社
由緒略記
第五十代桓武天皇延暦年中平安遷都<七九四年>に当たり大内裏御造営の木材を山国 の郷より徴せられ此の郷を御杣料地として定め大工寮修理職の官人として本殿を御造 営せられ祭主として和気清麿呂公<七三三年〜七九九年>が奉仕せられた。
爾来大嘗祭の悠紀主基の御殿御造営の御用材を調達する事が恒例となった。第六十七 代三条天皇の長和五年<一〇一六年>神位正一位を贈られ御祈願所として菊花の御紋 章を賜り、春日、加茂、御霊、日吉の四社を建立して五社明神とした。
源平の兵乱に破壊されたが第八十七代四条天皇の天福元年<一二三三年>再建され第 九十六代後醍醐天皇、元弘の乱<一三三三年>に亦々破却されたが、足利尊氏の臣細 川頼之当地に隠棲する間、本社復興のことを執奏し、幸いにも応永六年<一三九九年 >社殿復旧綸旨を賜る、この時足利義満<一三五八年〜一四〇八年>丸に二引の徴章 を奉納する、爾来この紋章を当神社の紋章とする。
その後第一〇七代後陽成天皇の慶長元年<一五九六年>再建され明治六年<一八七三 年>郷社に明治三十三年<一九〇〇年>に府社に列格された、延喜式内の古くからの 社である。


阿多古神社[アタゴ]
愛宕神社[あたご]「伊邪那美命、火産靈命、大國主命」京都府亀岡市千歳町国分南山ノ口1 玄松子の記憶
愛宕神社[あたご]「稚産日命、埴山姫命、伊弉冉尊、天熊人命、豐受姫命」京都市右京区嵯峨愛宕町1
愛宕略記

愛宕神社は全国に御分社800余社を有し、防火・火伏の神として崇敬されている“愛宕さん”の総本宮として海抜924メートルの愛宕山、山上に鎮座する。
大宝年間(701−704)、役小角が泰澄を伴って愛宕山に登り禁裏に奏上して山嶺を開き、朝日峰に神廟を造立。(「山城名勝志」の白雲寺縁起)

光仁帝の勅により天応元年(781)、和気清麿公が慶俊僧都と力を合せ、王城鎮護の神として鎮座された。 中国の五台山に模した、1.朝日岳(峰)の白雲寺(愛宕大権現)2.大鷲峰の月輪寺3.高雄山の神願寺(神護寺)4.竜上山の日輪寺5.賀魔蔵山の伝法寺という五寺が山中の五山にあった(「扶桑京華志」)と記されている。
「和歌初学抄」・「八雲御抄」・「和歌色葉」の和歌に詠まれ「本朝神仙伝」・「今昔物語集」・「源平盛衰記」・「太平記」等の物語に登場し、古くより修験者の修業場ともされ、祭神も天狗の姿をした愛宕権現太郎坊とも考えられ、火神ともされた。愛宕山中で宗教生活を送る修験者を「愛宕聖」(「源氏物語」)とか「清滝川聖」(「宇治拾遺物語」)と呼ばれて、愛宕信仰を全国に流布させ、これが慶応4年(1868)の神仏分離令までの愛宕山・白雲寺内大善院・教学院・威徳院・長床坊・福寿院の五坊の修験者支配と続き、神仏分離令後は、祭神の一つ勝軍地蔵は金蔵寺(現・西京区)に移座され仏寺を廃して愛宕神社となった。(別表社)
以上


小幡神社[ヲハタ]
小幡神社[おばた]「開化天皇 配 彦坐王、小俣王」開化天皇を主神とする唯一の式内社。王権と丹波のかかわりは深い。京大名誉教授の上田正昭先生が宮司を勤めておられる。京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内1  玄松子の記憶
延喜式内小幡神社由緒書
参拝者配布用
祭神1.開化天皇。和風の諡(おくりな)は『古事記』に若倭根子日子大毘毘命(わ かやまとねこひこおおひひのみこと)と記し、『日本書紀』に稚日本根子彦大日日尊 (わかやまとねこひこおおひひのみこと)記す。孝元天皇の第二子と伝え、開化天皇 の第二子を崇神天皇とする。祭神2.彦坐王(ひこいますのみこ)。『古事記』に日 子坐王と記し、『日本書紀』に彦坐王と記す。開化天皇の御子とする。『古事記』に よれば、崇神天皇の代、丹波へ派遣されて、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を誅 伐したと伝える。祭神3.小俣王(おまたのみこ)。彦坐王の御子で、『古事記』に よれば、山代(やましろ)の荏名津比売(えなつひめ)(亦の名苅幡戸弁=かりはた とべ)を母とする。丹波の地域が丹波と丹後に分けられたのは、和銅六年(713) であり、それ以前の丹波は、丹後を含む地域であった。丹波の古伝承でみのがせない のは、『古事記』や『日本書紀』に記載する倭(やまと)王権とのかかわりである。
『古事記』には若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が旦波(たには=丹波)の大県主 由碁理(おおあがたぬしゆごり)の娘である竹野媛を娶(めと)って、比古由牟須美 命(ひこゆむすみのみこと)を生むと記し、『日本書紀』では稚日本根子彦大日日尊 (開化天皇)が丹波の竹野媛を納(め)して彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を 生むと記す。開化天皇の妃が丹波大県主の娘であったとする『古事記』の伝えは、「 大県主」と称される県主が、河内の志畿(しき)大県主の説話(『古事記』雄略天皇 の条)のほかにみえない点で注目すべきである。丹波の出自をめぐる皇妃伝承には、 『古事記』や『日本書紀』に垂仁天皇の代のこととしてみえる丹波道主命(みちぬし のみこと)の娘を妃にした説話あるいは『日本書紀』の仁徳天皇十六年の条に載(の )す仁徳天皇と丹波の桑田の玖賀媛(くがひめ)との悲恋説話などがある。
『日本書紀』には、崇神天皇六十年の条に丹波の氷香戸辺(ひかとべ)の小児(わか こ)に出雲大神の託宣があったとする伝えがあり、また垂仁天皇八十七年の条に、丹 波の桑田の甕襲(みかそ)が勾玉(まがたま)を貢上したとする伝承がみえているが 、とりわけ重要な所伝は、武烈天皇なきあとの皇嗣として擁立されんとしたのが、丹 波の桑田にあった倭彦王(やまとひこのみこ)であったとする記載である。倭彦王は 即位を避けて身をかくしたという(『日本書紀』継体天皇即位前紀)。弘計王(をけ のみこ=顕宗天皇)・億計王(おけのみこ=仁賢天皇)もまた丹波に難を避けた皇子 であり、「丹波の小子(わらこ)」とよばれたことが、『日本書紀』(顕宗天皇即位 前紀)にみえている。延長五年(927)に奏進された『延喜式』にも収録されてい る丹波国の小幡神社は、延喜式内の古社であって、開化天皇を主神とする式内社は、 全国いずれの地にもない。なぜ開化天皇を主神とし、相殿に彦坐王と小俣王を祭祀す るのか、そのいわれは前述の倭王権と丹波とのかかわりに深く根ざしている。
『日本書紀』には有名な「四道将軍」の派遣説話があり、崇神天皇の十年九月に、大 彦命(おおひこのみこと)を北陸へ、武渟川別(たけぬかかわわけ)を東海へ、吉備 津彦(きびつひこ)を西道へ、丹波道主命(みちぬしのみこと)を丹波へそれぞれ遣 (つか)わしたという。『古事記』ではその内容に差異があって、大毘古命(おおひ このみこと)を高志(越)へ、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東方へ、 日子坐命を旦波へ遣わしたとし、「四道」ではなく「三道」への派遣説話となってい る。これは『古事記』の記述が、孝霊天皇の条に大吉備津日子命(おおきびつひこの みこと)らを吉備へ派遣したことを別に載せているためである。
このように『古事記』と『日本書紀』とでは、そのなかみに異なるところがあるけれ ども、彦坐王(日子坐命)は開化天皇の御子であり、丹波道主命(『古事記』では丹 波比古多多須美知宇斯王=たにはのひこたたすみちうしのみこ=と書く)もやはり開 化天皇の御子であった。すなわち開化天皇と和邇氏(わにうじ)の遠祖意祁都比売( おけつひめ)(『日本書紀』では姥津媛=おけつひめ)との間に生まれたのが彦坐王 であり、開化天皇と近江の三上祝(みかみのはふり)がまつる天之御影(あめのみか げ)神の娘息長水依比売(おきながのみずよりひめ)との間に生まれたのが丹波道主 命であると伝承する。丹波の曽我部町穴太の里に、開化天皇・彦坐王・小俣王を奉斎 する小幡神社が創祀されたいわれは、丹波が開化天皇・彦坐王・丹波道主命と密接な つながりを保有していたことに由来する。
古伝承に丹波道主命がその父にあたる開化天皇を創祀したとするのも、こうした系譜 伝承にもとずく。社伝によれば和銅元年(708)、丹波国司となった大神朝臣狛麻 呂(おおみわのあそんこままろ)が、その霊域に社殿を建立したという。その後丹波 の神徳篤き氏神また産土神(うぶすなのかみ)として尊崇をあつめ、たびたび本殿の 修補がなされてきたが、現本殿は享保九年(1724)に改修されたものである。古 く穴穂宮とも称されたことは正長元年(1428)の古文書にうかがわれる。江戸時 代には穴太は旗本の知行地となったが、宮党(みやのとう)が組織されて祭祀の伝統 は氏子のなかに連綿とうけつがれてきた。
小幡神社の創祀にゆかりのある霊域に高熊山があり、また神社の裏山には、俗称「堺 塚」とよばれた竪穴式古墳が存在した。その調査報告は『考古学雑誌』(9巻の11 号)に掲載されているが、直刀一、剣身一、槍身一、蓋杯二、勾玉三、臼玉五、刀子 一などが出土し、東京博物館に収蔵されている。また宗教法人大本の出口王仁三郎師 は、幼少のころから小幡神社を信仰し、明治三十一年(1898)、二十七才のおり の高熊山での修行は、小幡大神の神示による。円山応挙もあつく小幡大神をあがめ、 応挙の父藤左衛門は応挙に命じて絵馬を描かしめ、享和三年(1803)には応挙の 子応瑞がこれに装飾して奉納した。社蔵の神馬図(板地着色)がそれであり、写実様 式による絵馬は珍しくその特色がよくいかされている。応挙の絵馬は全国的にも稀で 、貴重な傑作である。神名稚日本根子日子大日日尊の「ワカヤマト」は新しい「ヤマ ト」を象徴しており、その大いなる神霊の神徳は、氏子のみならず全国崇敬者におよ ぶ。
昭和五十二年八月二十七日謹記


走田神社[ハシリタ]
走田神社[はせだ]「彦火火出見命、豐玉姫命、彦波瀲武草葺不合尊」京都府亀岡市余部町走田1 玄松子の記憶
走田神社
参拝者配布用
祭神は、古事記の神話「海幸・山幸」に登場する「山幸」にあたる彦火火出見尊と、 その妃ーー山幸が失った釣り針を探しに行かれた龍宮に住む海神の娘・豊玉姫命と、 その御子彦波瀲武・・草葺不合尊の三神であり、男神女上の二神像と童形の神像との 三柱を奉斎する。当社の創立については書き記したものがなく不明であるが、口伝に よれば奈良時代の和銅四年(711)に創建されたという。平安時代初期に記された 「延喜式」の丹波国桑田郡の項にその名が見え、その存在が確認されている。以後中 世の記録はなく、江戸時代に入って、亀山藩松平家の支配地の安町村・余部村・河原 町村・新家村・穴川村の氏神として厚い尊崇を受けてきた。本殿は元禄十五年(17 02)にほぼ現在と同じ規模のものが建築され、盛大な正遷宮の祭典が行われたこと が記録に残り、その棟札の文面も現存する。以後、末社および諸付属建築物がつぎつ ぎと建ち、境内の燈篭は寛永元年(1624)建立のものを最初として、元禄、享保 、元文、宝暦、安永、寛政、天保と年号を記した二十基を越す燈篭が列立し、江戸中 期以後の氏子の人々の尊崇の的であったことが伺われる。氏子は農村地域であり、五 穀豊作、家内安全を祈願した。また、亀山藩主の尊崇も厚く、銀五枚が毎年寄進され ることになったことが寛文六年(1666)日付の文書に残っている。明治に入り亀 岡町制がしかれると、その西部の氏神として東の鍬山神社と旧亀岡町を二分した形と なって今日に至っている。大正年間に隣村篠町に小作争議が起こった時、遠く当社で その旗揚げ大会を催すなど農業の守り神としての信仰が厚かったが、戦後、旧亀岡町 西部も多くの住居が立ち区域も市街化されて氏子数の増加とともに氏神の尊崇も変貌 しつつある。末社としては、長吉稲荷の別称をもち倉稲魂命を祭神とする稲荷社があ り、文政九年(1828)の燈篭が立ち、江戸時代から商売繁盛を祈願する人が絶え ない。他に猿田彦命をまつる百太夫社、大国主命をまつる大国主社、経津主命の経津 主社、玉依姫命の弁財天社がある。

[所伝]言い伝えとして農耕にまつわるものが多い。境内の東を流れる「不鳴川(な らずかわ)」は増水の時にも決して川音を立てないのでこの名がある潅漑用水路であ る。昔、社殿に掛けられていた額の絵馬が見事な出来であり、この馬が毎夜額から抜 け出して近くの草地へ草を食いに行ったという。その足跡がだんだん窪みになり、溝 になりついにこの川になったという。そのために、この川の改修や溝さらえにの日に は、馬の好物の青豆を供えて祈願する風習が今も続いている。また、境内の通称「亀 の池」にはこんこんと清い涌き水が出て、不鳴川に注ぎ下流の水田を潤していた。茶 道に適する水と、多くの人が遠く大阪・神戸方面からも水を汲みにくる人があったが 、最近その涌水量が減少して昔日の清さや味はないのが惜しまれる。この池に当社の 遣わしものといわれる亀を放ち決していじめない風習が氏子の中にある。さらに、神 社の森および近辺は口丹波一の「まむし」の棲息地として知られるが、この毒蛇は決 して人を噛まないという言い伝えがあって、害を受けた話も聞かない。
[その他]当社と別に、同名・同祭神の「走田神社」が向日市にあり、ともに式内社 であるが、その関係はふめいである。



松尾神社[マツノヲ]
松尾神社「大山命、市杵嶋姫命」秦川勝が聖徳太子の命を受けて佳所である当地に祀ったことに始まる。京都府亀岡市旭町今峠4 玄松子の記憶
松尾(まつのお)神社(旭町、今峠)
由緒掲示板
三郎ヶ岳の山麓に位置する当社は、大山咋命(おおやまくいのみこと)と市杵嶋姫命 (いちきしまひめのみこと)の二柱を祭神として祀る。社伝等によると、秦川勝が聖 徳太子の命を受けて佳所である当地に祀ったことに始まるといわれ、平安時代の書物 である「延喜式」にも記載された古い社である。古昔は、近村も含めた氏神として境 内にも多くの建物があったと伝えるが天正年間(1573〜92)の明智光秀の丹波 進攻による兵火により焼失しわずかに本殿だけが難をのがれたという。本殿は一間社 流造檜皮葺の建物で明応七年(1498)頃に建てられたものである。身舎組物は三 斗組とし、頭貫端を肘木状につくり三斗を受ける。側面は二間で妻飾りを叉首組とす る。なお向拝の桁より下と縁廻りが江戸時代以降の改変によるが他は軒まわりも含め て室町時代の姿をよくとどめている。昭和六十年に本殿が府登録文化財に、また境内 及びその周辺が府環境保全地区に決定された。


伊達神社[イタテ]
伊達神社[いだて]「五十猛命」京都府亀岡市余部町安町加家16 
伊達神社 「五十猛命」 京都府亀岡市余部町字宇津根東浦1-2

大井神社[オホヰ]
大井神社「月讀命、市杵嶋姫命、木股命」京都府亀岡市大井町並河1-3-25 神社
大井神社(大井町並河)
由緒掲示板
和銅三年(710)の創建、光秀の兵火で焼失した社殿を、天正十二年(1584) 秀吉が片桐且元を奉行として再建せしめたものという。祭神は、御井神、月読命、市 杵島姫命で、伝説によると御井神(木俣神)が市杵島姫命と洛西松尾大社から神使の 亀に乗って大堰川を遡上されたが、保津の急流が乗り切れなかったので、鯉に乗りか えて、ここ大井に上陸して鎮座されたということである。為に当社の氏子は鯉を尊び 、食用は勿論、捕えることも禁じ、五月の節句に鯉のぼりもあげない風習が続いてい る。十月十六日の例祭には、古く貞観八年(866)に始まったという勇壮な競馬が 当社の馬場で武者姿の氏子によって奉納される。


石穂神社[イシホ]
請田神社[うけた]「大山命、市杵嶋姫命」京都府亀岡市保津町字立岩4 玄松子の記憶

與能神社[ヨノ]
與能神社[よの]「事代主命、健御名方命、天照皇大神、天兒屋根命」奈良時代の四道将軍丹波道主命が国家鎮護の為、桑田郡に三座の神社を祀った、これ三宅神社・山國神社・與能神社である。京都府亀岡市曽我部町寺蛇谷1 口丹波の社
與能神社
由緒掲示板
延喜式内社で「諸国鎮座神秘抄」の写しによれば、奈良時代の四道将軍丹波道主命が 国家鎮護の為、桑田郡に三座の神社を祀った、これ三宅神社・山國神社・與能神社で ある。と記述され奈良の東大寺が別当寺であったが、與能神宮寺が建立され、現在の 御旅所を中心に曼茶羅堂・講堂等、寺区全域に伽藍・五重塔などが立ちならび、その 地名が今も現存している。皇室・大名等の崇敬が篤く、口丹波南部の中心として隆盛 を極めたが、鎌倉時代に兵火にあい焼失したが、複弁蓮華軒丸瓦や五重塔の心礎・礎 石などが現存している。又、「谿端與能宮旧記」によると、僧空海が嵯峨天皇の命に より神宮寺の奥ノ院露堂に僧形八幡(現存)を祀り護摩祈祷を行った。後嵯峨天皇が 村山與能八庄を神領として寄進されたと記されている。本殿は三間社流造りで蛙股の 四神(玄武・白虎・蒼龍・朱雀)などの彫刻はすばらしく、現存する慶長八年(17 03)の棟札によると、文応元年(1260)に建立された本殿が慶長元年の地震で 倒壊し同八年再建されたことがわかる。現在の本殿は正徳四年(1714)の棟札に より改修されたものと考えられる。京都府登録文化財で、鎮守の森一帯は文化財環境 保全地区に指定され、又、シイ、カシなどブナ科の巨木が残っており京都府の自然2 00選(植物の部)に社叢林として選定されている。境内には応永二十二年(141 4)の銘のある優美な橘形仏燈があり、石造美術として日本燈籠史に掲載されている 。例祭は十月二十二日で古来「六華祭」と云う名で呼ばれ、六ヶ村の氏子を御輿がま わる輪番が廻り地蔵で決められる神仏習合の形が残っている祭りである。


多吉神社[タキ]
多吉神社[たき]「高御産靈神、神産靈神」京都府亀岡市西別院町柚原北谷1 玄松子の記憶
多吉神社
由緒の石碑
祭神、高御産霊神・神御産霊神。延喜式内社多吉神社は、和銅二年(709)当地柚 原の向山瀑布の岩頭に創立されて滝大明神と呼ばれていたが、天正十二年(1584 )霊夢を受け現在地に遷座されて御霊大明神と呼ばれ、のち明治六年に滝の字にちな んで多吉神社と改められた。本殿の妻側にある額は、正徳五年(1715)に京都吉 田神社の卜部氏の書いたもので「当社御霊大明神御神誌」とあり、当時の名称を示す 。祭神高御産霊神は、古事記等に国ゆずりや天孫降臨を命令された筆頭の神として登 場され、天照大御神が皇室の祖神としてあがめられる以前にあっては、大王家の祖神 であったとされている。この神を祭る神社は、全国でも式内社では五社しかなく、亀 岡市内では当神社一社のみである。


村山神社[ムラヤマ]
村山神社「大山祇命、木花開耶毘賣命」主神は、桑田神社の祭神と同じく、泥湖を干拓された神であるという伝説がある。社殿背後の洪積台地は宮山といい、古代陶器の窯跡がある。京都府亀岡市篠町森山先34 玄松子の記憶
村山神社(延喜式内社)
由緒掲示板
祭神は、大山祇命・木花開耶姫の二神で、社殿の右方に主神、左方に八幡宮をまつる 。主神は、桑田神社の祭神と同じく、泥湖を干拓された神であるという伝説がある。 社伝によるともとの社域は広かったが、兵火により焼失、応永二十七年、領主渡辺頼 方が社殿を再興したとある。社殿背後の洪積台地は宮山といい、古代陶器の窯跡があ り、このあたりから王子にかけての山麓に登窯が作られ、須恵器や瓦が焼かれていた という。又、裏山には、神霊の天降る聖地として重んじられた禁足地が残されている。


鍬山神社[クハヤマ]
鍬山神社「大己貴尊」大昔この地は泥湖であったが、大己貴命は東方浮田峡を開いて水を決せられた。よって鍬山大神として称えられたと言う。広大な神体山である面降山東麓に鎮座、この山には小祠が点在し山頂には影向石がある。京都府亀岡市上矢田町 玄松子の記憶

稗田野神社[ヒエタノ]
稗田野神社[ひえだの]「保食命、大山祇命、野椎命」古代集落の中心の森に土盛りをして食物や野山の神霊を祀っていた。和銅二年社殿を創建したと言う。京都府亀岡市稗田野町佐伯町付伯字垣内亦1 玄松子の記憶
由緒掲示板
当神社は和銅二年の創建といわれ祭神は保食命・大山祇命・野椎命の三神で五穀豊穰 の守護神として、又女の守り神として婦人の参拝者も多い。神殿南側塀内の八角石燈 籠は鎌倉期の作品で、旧法により国の重要美術品の指定を受けている。八月十四日に 行われる夏祭りは「佐伯燈籠」と呼ばれ、食物の豊作を祈願する三丹一の大祭として 伝られている。又同時に背丈30糎程の人形を操る人形浄瑠璃が演じられる。尚当神 社は鎌倉時代より稗田八幡宮とも称し疫病退散健康長寿の霊験あらたかな神として称 えられ、近年は癌封治の社として全国より参拝者も多い。



船井郡[フナイ]:10座 大1小9

船井神社[フナイ]
船井神社[ふない]「表筒男命、中筒男命、底筒男命 合 春日四柱神」京都府船井郡八木町大字船枝字才ノ上51 玄松子の記憶
参拝のしおり
此の神社の創立年代は明らかではありませんが大堰川のほとりオコノモリに鎮祭され てありましたが川に近く境内も狭まかつたので慶雲二年九月十三日(一九七〇年より 一二六五年前)現在の地にお遷しになりました。
当時大堰川は唯一つの交通路でありまして神社の西方は入江となり諸船や筏が集まり 交通の中心地でありまして住吉三神が祭られたことは当然だと思われます。
その後老の坂、亀岡、埴生、生野への陸路が発達して大堰川は裏通りとなり神社も衰 微荒廃して社殿の改築等も行はれなかったやうであります。其時当時の丹波国司が奈 良から春日四柱を合祀して以来春日神社と称しましたそして田、山林二百町歩を神領 としました。其後地震や火災にあい宝物、旧記を失い天保六年二月社殿を造営し現在 に至りました。又鎌倉時代安城寺と云う寺を建て社僧が神社を支配し神官は祭祀を司 る時代もありました。明治維新の前園部藩にて神社調査の結果元の船井神社と改称し 明治六年郷社となり祠官職を置き明治九年京都府に於いて調査考証の上延喜式内社に 公定され國幣を賜り郡中第三位でありました。昭和十五年皇紀二六〇〇年を記念し府 社に昇進を申請しましたが戦争其他に依り目的達成出来ず今日に至って居ます。


志多非伎神社[シタヒ]
籔田神社[やぶた]「月讀命、伊邪那岐命、須佐之男命」京都府船井郡園部町大字南谷字細川39

出石鹿部神社[イツシノカノイソヘ]
何鹿神社[いつしか]「大山祇命、品陀別命、彦狹知命」付近には古墳もあり多くの伝説がある。その記録は神社に保管されている。京都府船井郡丹波町大字曽根竿代29 玄松子の記憶
掲示板
白鳳時代(推古朝代)に既に祀られていた。大宝二年(七〇二)から出石鹿・部神社 と称されていた。何鹿神社と呼ばれるようになつたのは正和四年(一三一五)からで ある。
永禄十二年(一五六九)寛永十五年(一六三八)弘化五年(一八四七)三回の建築記 録がある。現在の社殿は弘化五年のものである。社殿の様式、三間社流れ造り、向拝中央に軒唐破風を設ける。梁などの構造部材は太 く丹念に仕上げられ直線的な強さを示し厳正な形をしている。彫り物は紅葉と鹿龍が 彫られその姿は優しく全体の謹厳な雰囲気を適度に柔らげている。
神社の創建は古く文化財的な価値も高い、付近には古墳もあり多くの伝説がある。そ の記録は神社に保管されている。
花おかや夜をふかし野にきてみれば衣のすそはしおたえにけり。一休和尚


嶋物部神社[シマノモノゝノヘ]
荒井神社「荒魂神 春日四柱神」京都府船井郡八木町大字神田字荒井1 玄松子の記憶

幡日佐神社[ハタヒサ]
幡日佐神社[はたひさ]「品陀別命、氷室命」京都府船井郡八木町大字氷所字中谷山1 玄松子の記憶

志波加神社[シハカ]
志波加神社[しわが]「月夜見命」京都府船井郡日吉町志和賀字宮ノ岡50 玄松子の記憶

辨奈貴神社[ベナキ]
岩山神社[いわやま]「大己貴命」京都府船井郡丹波町塩田谷岩山1 口丹波の神社

麻氣神社[マケ]
摩氣神社[まけ]「大御饌津彦命」[おうみけつひこのみこと]と天児屋根命の御子天忍雲根命を称え祭神とした。丹波唯一の北面する神社である。京都府船井郡園部町大字竹井字宮ノ谷1 玄松子の記憶
参拝のしおり
当社は延喜式内の名神大社で(延喜式三及十、名神祭二百八十五座の中の大社)、祭 神は大御饌津彦神(おうみけつひこのかみ)である。昔は摩気郷十一ケ村の総氏神で あったので摂社にこれを祀る。称徳天皇の神護景雲四年(七七〇年)勅して神封一戸 を充て給い文徳天皇の仁寿二年十一月(八五二)勅使を遣わされて幣帛を奉られ清和 天皇貞観元年正月(八五九年)神位従五位上を賜った。醍醐天皇の朝、延喜の制によ り名神大社に列せられ〔注〕祝部(はふり)をおいて奉仕せしめられた。
〔注〕名神大社とは名神祭にあずかった神社に対して名付けられた名称で、官国幣の 大社中、年代も古く由緒正しく崇敬の深厚な神祇を選んで特に奉称したものである。 名神大社の中、往古国家の事変に際し祈願のため奉幣して神祇官を遣わす臨時勅祭を 行なうを名神祭という。
その後ようやく荒廃に到らんとしたが、承歴三年(一〇七九)白河天皇行幸され其の 御崇敬により神事祭礼の旧式を復興し給い、「船井第一摩気大社」の勅額を賜った。 後水尾天皇の元和五年(1619年)に小出吉親公封を園部に移して藩主となつてか らは、領主代々の祈願所となり、神社建物の一切は官営となっていた。 宝歴十一年十二月十八日(一七五一年)不幸火災を被り全焼、宝物其の他一切烏有に 帰したが明和四年(一七六七年)に時の藩主小出英持公、社殿を始め一切の建物を再 建され現在に至る。
白河天皇以来、当社は九品寺の鎮守として尊崇され、明治以来以前まで久しく当町船 阪にある九品寺(真言宗)が当社及び各村末社の祭祀一切を主宰し、本社は当時ここ に建てられた神宮寺胎金寺の別当職の社僧により奉仕され、白河天皇皇子覚行法親王 も深く御崇敬になり屡々行啓参拝のことがあったが、明治元年神社制度の確立により 神仏混淆禁じられ爾来このことは止むに至った。
このように皇室の御崇敬、領主の尊崇も深かったのであるが、明治六年郷社に列し同 四十三年神饌幣帛料指定の神社となり、大正五年三月六日府社に昇格となった。
御祭神大御饌津彦神は、天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)の尊称であって、 天御中主神十一世の御孫である天児屋根命の御子である。神代の昔、天祖天照大神が 皇孫瓊瓊杵尊に神勅をもって「豊芦原の瑞穂の国を安らかな国として治め、天津日嗣 の高御座(皇位)にあって天津御饌を永遠の御饌とし、幾千代変わることなく尊い土 地として治めよ」と仰せられて、この国にお降し遊ばされて後、御父の天児屋根命は 皇孫に従い仕え奉り、皇孫の御食の水には現国の水に天津水を加えて奉れと申されて 御子天忍雲根命をして天上に行き天津水(あまつみづ)を乞わしめられた。そこで命 は天の神漏岐、神漏美命の詔により、天玉串を刺し立て、夕方から朝日の照るまで、 一心に天津詔詞の太詔詞を申されて遂に天八井(あめのやい)の水を乞い受けられ、 天よりお下りになって天神の神勅の通り天津水を奉られた。これより歴朝の大嘗祭に 奉る悠紀、主基の大御酒を始め、皇孫命の大御食の水には其の天津水を奉る例となり 、命の御仁徳により国民の五穀は豊かになつた。この奇霊の御神徳と御功績により、 天忍雲根命を称え奉って大御饌津彦神と申し、農業、食物主宰の神としてお祀りした ものである。
このように五穀の豊饒を守り給い、食糧を始め我が国産業の発達を守護されるのみで なく、御心性非常に情け深く且つ勇ましく優れていられたので国土の安穏、平和を守 らせられ国民を慈しみ給うみいずまことに尊く高いのである。
(巷間伝えていう、明治三十七.八年戦役の時、某日本兵満州の戦場に友軍と離れて 飢餓にさ迷い夜中夢の中に白髪白衣の老人現われて一椀の粥を与えて曰く、「これを 食してわが指さす方に進め」兵士大いに喜び粥をすすれども尽きず、其の名を尋ねる に「我は丹波北向きの神なり」とのみ答えて姿を消したが、兵士力を得て老人の示す 方向に進み無事友軍に帰るを得たという)丹波北向の神は当摩気神社唯一という。 摩気の村名は社号より定まり、社名は祭神より起こったものである。御饌(みけ)神 社の「み」が「ま」となって摩気神社と号し、その郷を摩気郷といつたのである。饌 (け)は食物の古語で「みけ」は神に奉る御食べ物の意である。現在の竹井は「上新 江」と呼ばれ今の仁江を下新江と呼んでいた。即ち昔は現在の竹井、仁江を「新江郷 」と称していたものである。
「新江」は即ち「新饗」であって新穀を神.人に饗ること(大言海による)である。 大御饌の神に奉る、またはその御神徳により作られる新穀の土地を称えて呼んだ名で 、まことにゆかしい由緒ある土地と申すべきである。この事は昔から竹井の氏子の家 で精米をするのに、足踏みの「から臼」は決して使わなかったことでもうかがえるの である。
毎年十月十五日町内船阪(約三キロメ〜トル東方)のお旅所における例祭神幸の神事 に、牛馬をひき、鋤をかつぎ、俵を持って廻るのは当祭神奉祀の昔、時あたかも陰暦 五月五日の田植時で、村民皆、すき、くわを持ち、牛をひいて供養したと伝えられる 古事と共に農業主宰の神であることを尊崇する意である。
また、現在も往古からの例により六月五日創祀を記念してお田植祭を執行し、宮主の 奉る「ちまき」を早苗に見立てて、神前で田植の手振りを行い、お神楽をあげて乙女 のお田植踊りを奉納している。


酒治志神社[サカチシ]
酒治志神社[すじし]「伊邪那岐尊、伊邪那美尊」元慶五年之頃創立。シュチシはアイヌ語で山麓の意。京都府船井郡瑞穂町質志三宮宮ノ本2 玄松子の記憶
掲示板
延喜式内社で元慶五年之頃創立(天保四年一千年祭より遡り推考)質志の里に鎮座す る故この社号ありという。
延喜元年の頃頂上葺修補。享保三年迄凡三百九十七回と古記にあるのでそれより遡り 推考享保三年は即ち社殿造営の年である。(ちなみにシュチシはアイヌ語で山麓の意 )
永正元年甲子桧皮造営。寛文十年庚戌三月拝殿建立。享保二年社殿建築。延享二年乙 丑上葺、享保二年造営より二十八年目。宝暦九年屋根修復、延享二年修復より十六年 目。文化八年宝蔵建立。文化十四丑年屋根修復。安政五年上葺。元治元年社殿造作。 巨大な岩、天をつく老杉、往時の勢力を物語る。
本殿 参間弐面流造向拝付 槻 桧造桧皮葺 六坪七合
向拝 壱間弐面軒唐破風  槻 桧造桧皮葺 弐坪弐合
宝物 剣 一口 焼刀直刀白鞘 至徳二年十一月日 備刀長船住幸光


多沼神社[タヒチ]
多治神社[たじ]「天太玉命、大山命」慶雲年間創建。清流深山川を巧みに利用し、南側には巨大な岩盤が露出している。本殿前には樹高約十六メ〜トルのタラヨウの高木二本があり神々しさをかもしだしている。京都府船井郡日吉町大字田原字宮後2 玄松子の記憶
掲示板
一、祭神 天太玉命、大山咋命
二、創祀 慶雲年間(七〇四〜七〇七年)
三、文化財環境保全地区(昭和六〇年府指定) 指定地区は参道から本殿裏までの境内一帯で清流深山川を巧みに利用し、南側には巨 大な岩盤が露出している。本殿前には樹高約十六メ〜トルのタラヨウの高木二本があ り神々しさをかもしだしている。
四、無形民族文化財(昭和五十八年度府指定) 田原の御田(毎年五月三日)立人二人が中心となり「種まきの準備」から「田植刈取 」までの稲作を模擬的に演じるもので豊作を願う芸能である。 かっこすり(毎年十月十五日)秋祭りの神輿の渡御に従い演じられるもので豊作を喜 ぶ素朴な民族芸能である。
五、本殿登録文化財(昭和六十年度登録) 現在の本殿は棟札から宝歴五年(一七五五年)の建立で大工は播州三木の藤原秀忠で ある。二間社造りの建物で丹波地方では最大級の規模である。日吉町教育委員会



多紀郡[タキ]:9座 大2小7

櫛石窓神社2座[クシイハマト](並名神大)
櫛石窓神社[くしいわまど]「櫛石窗命、豐石窗命、大宮比賣命」兵庫県篠山市篠山町福井1170 口丹波の神社 磐座(いわくら)見ぃ〜つけた新聞
御由緒
櫛石窓神社は千早振る神代の昔よりいと尊き御神にわたらせ給ふになん謹んで按ずる に古事記の葦原中國の巻に登由宇気神此者坐外宮之度相神也次天石戸別神亦名謂櫛石 窓神亦名謂豊石窓神此神者御門之神也云々と即ち皇祖天照皇大御神の此豊葦原の國を 経営し給ひし御代の元勲とも申し奉るべく誠に御由緒正しき大神にてありけり又古語 拾遺なる天の石屋の段は更に詳かに其事の由を載せて曰く天手力雄神をして其扉を引 啓き新殿に遷座せしまたまふ則ち天兒屋命太玉命日の御綱を以て其殿に懸け廻らし大 宮賣命をして御前に待せしめ豊磐間戸命櫛磐間戸命二神をして殿門を守衛せしむ是れ 並に太玉命の子なり(以上譯文)云々と其功徳の彰々乎として明かなり雄略天皇の朝 に豊受太神丹後國眞名井原より伊勢國度相に御遷座ましませしは已に國史に載する所 にして其所謂る丹後とは則ち古の丹波にして櫛石窓命の神の初より此地に鎮座ましま せしこと疑ふべくもあらず又延喜式神名帳に丹後國多紀郡櫛石窓神社二座とあり又神 祇官西ノ院に二座、御門巫祭神、櫛石窓神、豊石窓神是なりと其他國史に記録せらる るもの少なからず乃ち四時祭式に五月十二月御門祭とあるは此神の祭なりと又延喜式 神名式に宮中神三十六座神祇官西ノ院二坐御巫等祭神二十六座並大、月並、新嘗とあ るも亦則ち此神にして古へより宮中にて御崇敬遊ばされて御門の神と申し奉るになん 居民は家々戸々尊崇怠らざるが當地方には昔時より未だ會て疫疾の流行せしことあら ず全く御神徳冥護の致す所と申傳へり洵に霊瑞の至りなりと申奉るになむ。

鎮座後の沿革
當神社は平城天皇大同元年勅符により本國を定め五戸を封ぜらる陽成天皇元慶年中第 五の皇子御幸ありたり其頃京師の縉紳屡参篭して御禊の神事を行はせられ獻詠も多か りき現今神社のある所は則ち古の神田庄大芋郷にしてもと四十八箇村の總社たり故に 大宮と稱す延喜式神名帳にも亦名神大と記せられたる所以なり境域は大芋川の南岸に 位し一道の清流相廻り水を隔てて城山と對し森脇山の諸峰東南に聳立せり境内に霊厳 あり高さ數丈巍然として秀づ又神井あり福井と云ひ御供の水に用ふもと社領富饒祠殿 壯麗なりしが應仁以降細川山名両家の戰亂の爲め屡其災を被りたり天正中明智光秀の 波多野秀治を征討するや全莊其焚燒する所と爲りさしも輪換を極めたりし堂宇と累代 の寶什とを併せて烏有に歸せり次で社領没収せられ僅に供田二反の存するあるのみ然 れども境域尚九町歩(寶暦二年の調査)ありしと云ふ元来神田庄と稱するは此神社の 御供たりしによる故を以て往昔より霊淑の境として不淨物を埋葬することを厳禁し必 ず他村に持運びたり之を稱して大芋の持越しと云ふ享保十年市野々村民同村内に墳墓 を設くるに至り爲に物議を生じ遂に藩主に訴へ前例に復し維新迄厳禁せられたり明治 六年十月村社に列し同三十七年三月縣社に昇格す。



神田神社[カムタ]
神田神社[かうだ]「大己貴神」兵庫県篠山市丹南町大山上古川坪728 篠山の歴史・見処を訪ねる

川内多々奴比神社2座[カフチタヽヌヒ]
川内多々奴比神社[かわうちたたぬひ]「天照皇大御神、建速素盞嗚命」兵庫県篠山市西紀町下板井74 兵庫紀行
御由緒
崇神天皇の御宇四道将軍丹波道主命丹波に遺されし時蒙昧の徒皇軍に従はず一勝一敗 容易に平定すべくもあらず仍りて此地に野陣を張られ天神地祇に祈請せられしに東山 の麓に小川ありて其の小川の淵となる所より光輝赫灼として陣中に照り通り且震動し て止まざること數日命大いに訝り怪みて是れ神祇の御守護の顯に現れ給ふ事ならんと 思召し彼の水邊に至り給へば白髪の老翁身には白衣を着け左手に白玉を右手に剱を捧 げながら水上に漂へり命の曰く是れ人に非ず神ならんと敬ひつつ近寄り給へば彼の老 翁左右の玉剱を命に授け白玉は是れなん天神國神として齋き奉れ剱は賊徒を亡す霊剱 なりと誨へ給ひて御姿は見えず光輝も震動も次第に止みぬ命大いに喜び懇に天神國神 を祭りて其の恩頼に報ひ奉り給へり夫より賊徒悉く平ぎて國中平安となれり爰に於て 命この由を朝廷に言上して勅命を受け宮地を相して白玉を天照皇大神神霊剱を建速素 盞嗚命と稱し奉りて此地に勸請せられたり斯くて彼の玉剱は川の内に漂ひし神の分霊 なるにより社の名を川内多々奴比神社と稱して敬祭し給へり是れ即ち當社鎮座の起因 なり因って郷民社地の名を川内原と呼び光輝水上より東南の山々迄輝き渡りたればと て東の山を御光嶺南の山を南光山と謂ひ氏子を川内の郷と謂ふ

天智天皇二年九月九日勅命を以て祭事を行はる蓋し祭禮の始なり天武天皇白鳳元年九 月九日國司より造営せられ醍醐天皇延喜の制二座とも式内社に列せられ神名帳に丹波 國多紀郡川内多々奴比神社二座とあるに相當し同帳四時祭の部に國司祈年神云々又座 別に絲二両綿二両右國司の長官以下准列散齋三日致齋一日共に會祭し其幣皆用正税と あるは昔時祈年の國幣に預り國司親しく祭事を行はれたることを證すべし正暦元年三 月摂津守源頼光丹波賊徒征討の際太刀一口を奉獻せられたることは由緒により知るこ とを得、元弘年中兵燹に罹り霊代なる神玉神剱を紛失したることは頗る遺憾とする所 なり正平十三年八月再建新に神躰を造りて勸請せられ笈西勘太夫供奉明山權太夫出向 へたるにより現在板井村に笈西及明山姓のもの多し萬治元年社殿及び古文書寶物等全 部焼失に及び僅に源頼光奉獻の太刀一口出でたり同三年四月社殿を再建し明治六年十 月村社に列し大正九年五月郷社に昇格す



大賣神社[オホヒメ]
大賣神社[おおひるめ]「大宮賣命」付近に昼目なる地名がある。兵庫県篠山市篠山町寺内356 大賣神社 兵庫県・篠山市
御由緒
第十一代垂仁天皇(西暦二九年)の御代皇女天磐船にて当地に幸い給ひ、榊を植え、 注連縄を張り木を曲げて奉る。桓武天皇(西暦七八一年)の御代に至り始めて神殿を 営む。永禄三年(一五六〇年)の間は、領主、丹波八上城主波多野秀治の祈願所とし て崇敬篤く、自ら大磐若経全部を書写して奉納する。
寛文元年(一六六二年)松平、若狭守康治は、神田を寄附し社殿を再建する。享保一 八年六月(一七三三年)正一位大賣神社の神額を御染筆される。
当社は、多紀郡北の庄一一ケ村の総社であった。社を盡目山円光寺と云う。天保一三 年(一九四二年)社殿を再建、明治元年(一八六七年)社と円光寺が分離する明治六 年村社に列しし、明治四一年九ケ村の氏神となる。大正一〇年二月郷社に列し昭和四 年二月県社に列する。当社は県下一円に幅広い崇敬者を有している。


佐々婆神社[サゝハ]
佐佐婆神社[ささば]「天忍穗耳尊、應神天皇、後鳥羽天皇、春日大神、住吉大神」兵庫県篠山市篠山町畑宮377 篠山の歴史・見処
御由緒
第七代皇霊天皇の勅命によりて創立すと伝えられる古社にして、延喜式内神社となり 、古来、皇室の崇敬篤く、崇神天皇の御代丹波国平定し給へる日子坐王の長子佐佐君 の祖神志夫美宿弥一族の奉齋せられたる社である。明治六年十月村社に列す。大正十 年七月県社に昇格。拝殿建立昭和十四年。亦当拝所以下附属新建物は、人皇第七代皇 霊天皇の当神社御仰祭より、御享二百年を迎へまつる昭和十四年の弐年大祭を奉祝ま つり、当社の氏人の建立しまつるところなり。


二村神社[フタムラ]
二村神社「伊邪那岐命、伊邪那美命」兵庫県篠山市丹南町見内1-3 篠山の歴史・見処

神社[クマクラ]
熊按神社「皇大神、應神天皇」兵庫県篠山市篠山町春日江4 兵庫紀行


氷上郡[ヒカミ]:17座 並小2
高座神社[タカクラノ]
高座神社[たかくら]「高倉下命」兵庫県氷上郡久下村谷川字式垣内3557 神社探訪
高座神社「大日靈尊、天兒屋根命、經津主命、仲哀天皇、武甕槌命」蟻の宮。兵庫県氷上郡青垣町東芦田2283
御由緒
傳へいふ仲哀天皇穴門行幸の前年民の疾苦を憐み式内大臣を隨へ當國巡狩の際當地に 滞留せられ當社を創立せられ高座神社と稱し給ふと文武天皇慶雲三年春夏の間天大い に旱し村民社前に雨を祈る事數日忽ち巨蟻群出し俯仰して誘導の姿容を示せしかば村 民其行く所を追ふに凡そ八町餘にして蟻遂に見えず里民之れ神霊なりとして其歩みし 跡を掘りて清水を得穀物の豊熟を得たり之より世俗蟻の宮と仰ぐ又村民國の幸福を興 さんため當社に参篭せし時神夢に告げて曰く汝世利を謀らば須らく養蠶の權輿なり弘 仁四年嵯峨天皇勅額を下賜せらると傳ふるも弘化三年別當觀蓮發狂の際焼失す江戸時 代上下の崇敬篤く皇室に於かせられては明和九年十二月一日仙洞御所より翠簾一連を 寄進あらせられ武門にありては慶長六年八月當郡由良の城主別所吉治神燈田を寄進し 次いで柏原藩織田出雲守自筆の扁額一面を、安永六年八月豫州宇和郡吉田城主伊達村 賢青銅製重量壹貫七百目の金燈篭一箇を何れも奉納せり明治六年十月村社に列せらる。


狹宮神社[サミヤ]
狹宮神社[さみや]「若沙那賣命」兵庫県氷上郡山南町和田138 兵庫紀行
御由緒
創立年代不詳にして往古和田村下河原に鎮座す天正十三年社殿を再建し江戸時代領主 織田平季今の宮山に遷座し奉る元禄十三年八月白川神祇伯王より八幡宮を勧請し相殿 に祀り狹宮八幡宮と稱す。


苅野神社[カリノ]
苅野神社[かりの]「葛原親王」兵庫県氷上郡柏原町上小倉字カツラ山270-1 ひょうご伝説紀行

部神社[イソヘ]
部神社[いそべ]「奇日方命」和銅三年。兵庫県氷上郡氷上町石生字剣璽山526 おそとで遊ぼ
御由緒
当神社の創立は詳かならざれども、和銅三年(今より約千百年前)の創立と言伝う。
現在の神殿は永録年間(今より約四百年前)の再建、その後修復再三に及べり。
領主別所豊後守は、元亀・天正の頃「軍神」として当社を崇敬し、燈明田高一石を寄 進せらる。また、領主九鬼長門守は寛文六年、丹後宮津鎮撫の時、武運長久祈願のた め当社に参拝せらる。境内に泉ありて清水涌出せるを以て祈雨の神として丹波地方の みならず一般の崇敬篤く、又比賣大神を祀るが故に安産を祈るもの多し。


知乃神社[チノノ]
知乃神社[ちの]「知奴王命」兵庫県氷上郡市島町南592 丹波のことは

伊尼神社[イチ]
伊尼神社[いち]「日子番能邇邇藝命、神大市比賣命」兵庫県氷上郡氷上町新郷1747 兵庫紀行
御由緒
當神社は人皇第二十九代欽明天皇の朝庚申の年の創祀と傳へられ丹波地方有名なる古 社なり。丹波平原開拓に當り國土経営の守護神として天孫彦火瓊瓊杵尊(紀)を齋き 祀り穀霊大市比賣命を配祀(神名帳考證七)せられたり。古へより伊知宮と稱へ奉る 。延喜の制、國幣社に列せられ(延喜式)祈年、月次、新嘗の祭儀には國幣に預り國 家事ある時臨時使を差遣はされて奉告あり。されば貞觀、寛平、天慶、永保以後庚子 、辛酉の年には神階昇叙の御事あり。古来領主並に武将の尊崇厚く明應三年(一四九 四年)當地赤井城主赤井伊賀守忠家公本社を造営、爾後累代崇敬深く弘治元年乙卯年 (一五五五年)十一月十八日其孫赤井五郎兵衛太夫家清公亦本社を再建甲冑一領を奉 納し武運長久を祈れり。延寳六年(一六七八年)小出伊勢守御検地御改めの節當神社 神宮寺遠林寺五十六間に五十間内畑貳反貳拾歩領主検地帳に除地と指定せられる。延 寳、天和以後當地旗本安藤、須田、水野三武将の崇敬殊に厚く當社が祈雨の明神とし て又武運長久の守護神として是等三氏の崇拝濃かりしことは其奉納せし金燈篭及額面 の今に存せるを見ても明らかなり。當社は沼貫庄の總社として又西丹波一帯の地方民 の尊崇仰慕厚く例祭の如き「立會祭禮」と稱して西丹波地方より神輿又は段尻(屋臺 )を奉じて當社に集まり渡御に加列扈従し壮觀を呈し地方稀なる祭禮として遠近より 参拝するもの多く總社として崇敬し来れり。現今にては其祭事廃れたるも尚例祭の渡 御には各村より神幣を奉じて其行列に列り今に其古風を遺存せり。明治六年村社に加 列、明治四十五年三月二十七日神饌幣帛供進神社に指定せられ昭和十三年七月十三日 郷社に加列、同十六年十月十五日舊社名奴々伎神社を伊尼神社に復古改稱、同十七年 六月十日縣社に加列せらる。舊拝殿新築は明治四十二年五月十六日にして舊渡殿は同 四十三年六月二十五日竣工せり。現在の拝殿並に社務所は昭和十六年十月十一日の竣 工にかかり現在の神饌所は舊拝殿を同時に移築せしものなり。


佐地神社[サチ]
佐地神社[さち]「天宇受賣命」兵庫県氷上郡青垣町小倉字宮の下575 ときどき旅

阿陀岡神社[アタヲカ]
阿陀岡神社[あだか]「吾田鹿葦津比賣命」兵庫県氷上郡春日町字多利2467-1
御由緒
創立年代は不詳なれども延喜式内の神社にして、延喜式神名帳(平安時代)に当社の 社名、鎮座地が所載されております。
明応元年(一四九二年)八月に再建され、元文四年(一七三九年)七月八朔祭も松明 の火で炎上、寛保二年(一七四二年)九月に新築竣工し現在に至っております。
伝説には、欽明天皇即位三年(五八三年)春日部乙身勅命により幣物を奉ったと言れ 、千四百年以上も昔から鎮座されていた古社であります。
公卿や武家の崇敬が厚く、明治維新の元勲、岩倉具視は自筆の神号を奉納している。


楯縫神社[タテヌヒ]
楯縫神社[たてぬい]「多紀理比賣命」稲葉川の流域に鎮座、この一帯の神社名・地名には古代の製銅・製鉄・武器などの関連がうかがえる。兵庫県氷上郡春日町長王ハチマン山1288-1 天璽瑞宝

芹田神社[セリタ]
芹田神社[せりた]「高雄神命」兵庫県氷上郡鴨内村字宮の谷37

兵主神社[ヒヤウス]
兵主神社[ひょうず]「大己貴大神、少名彦大神、天香山神」兵庫県氷上郡春日町黒井2967
御由緒
当神社は聖武天平十八年(七四六年)に兵庫の守護神として鎮祭され、延長五年(九 二七年)撰進「延喜式神名帳」によると兵主神社は全国に十九社あり、丹波國一社と して登載された「式内社」であります。
公家武家丹波但馬播磨等をはじめ各地の人々の崇敬厚く、特に戦国時代からは疱瘡の 守護神として主上御疱瘡の時、または皇子誕生の際には内侍局より御代参を立てられ ました。近衛関白家は代々崇敬厚く、左大臣近衛信尹は外戚の縁により慶長十年五月 二十六日心願の為参拝、神前に「祈るかひあるにつけても藤原にかかる契りや春日部 の郷」の歌を献詠、数多の寄進をされております。
その時の行列は、「御長刀一振、御供廻り刀さし八人、立笠一、都合十人、台傘一、 挾箱二、鳥篭二、竹馬一荷」であったといわれております。
文化十一年、内大臣近衛基前は自筆の鳥居額「兵主社」を寄進されましたが、その時 京都より沿道の住民が人夫になって御供をしました。
また嘉永二年、近衛忠熈は其子忠房の疱瘡安全祈願を行い、程なく全快され、その報 賽として種々の献上物があり、今に神社宝物として保存されております。


新井神社[ニヒヰ]
新井神社[にい]「高皇産靈神 または天照御魂命」兵庫県氷上郡柏原町大新屋字湯ノ森514-1 兵庫紀行
御由緒
新井神社は、式内社といって平安時代に定められた「延喜式」という法典によって定 められた神社で、平安時代の初め(九世紀)にはすでに創建されていたようです。
神社は、最初、現在地より奥の「滝ケ谷」という所に祀られていたのですが、一五七 九年(天正七年)高見城落城の時に類焼し、その後、現在地の「湯の森」で再建され たものが現存している社殿です。新井神社には、もともと天地創造の神である高皇彦 神霊が祀られていましてが、江戸時代の初め寛文年間(一六六一年〜一六七三年)に 比叡山延暦寺の守護神「日吉神社」の分霊が移されてきました。日吉神社は俗に「山 王権現」ともよばれ、山王の使者が猿であるということから、この付近では犬を飼っ てはいけないという伝承も残っていました。(兵庫県指定・重要文化財)
拝殿にある一対の猿の木彫は、柏原の名工中井権治の作です。


奴々伎神社[ヌヽキ]
伊尼神社[いち]「日子番能邇邇藝命 配 神大市比賣命」欽明天皇の朝庚申の年の創立。兵庫県氷上郡氷上町字新郷1747

蘆井神社[イホノイ]
芦井神社[あしい]「天押雲根命」兵庫県氷上郡青垣町栗住野字芦井1019 〜神社仏閣巡りと旅の風景〜

加和良神社[カワラ]
加和良神社[かわら]「上筒穗命」兵庫県氷上郡氷上町香良字陣道ヶ原127

伊都伎神社[イツキ]
伊都伎神社[いつき]「淤母陀流神、妹阿夜訶志古泥命」兵県氷上郡市島町中竹田1659-1 兵庫紀行

神野神社[カムノ]
神野神社[かんの]「別雷命」兵庫県氷上郡氷上町御油字マガリ40 ときどき旅
鴨神社「鴨別雷神」兵庫県氷上郡市島町梶原字カモ440 産田ノ眞名井戸ノ~ノ末裔ヨリ


天田郡[アマタ]:4座 並小

生野神社[イクノ]
生野神社[いくの]「天鈿女命」京都府福知山市字三俣541 玄松子の記憶
生野神社御由緒
境内方百間許、古木爵蒼たり、生野庄(三俣、池田、堀越、上野、生野、坂室、正後 寺、萩原の八ケ村)の氏神なり、社地より世間許前に高き所あり、(今の小学校の在 る邊)古、鳥居の址にて石など残れり、又同所より西へ六十間許の所に畠の中に方二 間の塚あり、古の旅所なりとぞ。本社は往古山上にありしを今の所に奉移せり、元禄 年中より正一位御幣大明神との扁額を掲げたり。上古は六人部七ケ村の産土神なりし と云。本社の山上に在りし頃往来の武士に崇りありき。今も旅立する者、此御社に詣 づれば、無事に皈着し得ると云。依て遠近の賽者頗る多し。毎年春季大祭に御神楽の 奉納あり。(近年、境内を拡張して社務所も新築され大いに面目を一新せり)


奄我神社[アムカ]
庵我神社[あんが]「天穗日命、生嶋神、氣長足姫命」京都府福知山市中字立戸2114 玄松子の記憶
庵我神社御由緒
当社は、古く奈良朝の頃の創建にして社殿中央に天穂日命(天孫卸降臨の前高天原か ら出雲に使に立たれた神様で土師部の祖)を左に生島神(八十島の守護神)右に気長 足姫命(聖大明神と称し仲哀天皇の后)を左右配神として祭祀する由緒ある式内社な り、昔この地方に勢力を誇っていた土器等の製造を業とする部民である土師連が祖先 を守護神として祀ったもので福知山藩累代城主の崇敬篤く宝物、神饌物等の奉献あり 、天正八年福知山内記十六軒町にありし八幡神社を当社に遷し祀ってよりは専ら八幡 宮又は、八幡神社と称せられ霊威極めてあらたかな鎮守の神として尊崇され、現在庵 我地区(猪崎、城山、下猪崎、中、池部)の氏神としてのみならずこの地方の守護神 として崇敬されている。
社宝の正二位聖大明神の扁額は重要文化財の指定を受けており、他に多くの社宝あり。


天照玉命神社[アマテルタマノ・]
天照玉命神社[あまてるたまのみこと]「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」和久川右岸に鎮座、近くから弥生土器、古墳、条里制の跡が出ている。京都府福知山市今安961 玄松子の記憶
天照玉命神社御由緒
祭神は天火明命で社格は元郷社延喜式内の古社で、天田四座の一つにして創建は人皇 第十三代成務天皇の御代丹波国造大倉伎命が宗家の祖先を祀られたものである。その 後、戦国時代の混乱と荒廃により一時期衰退していたが、承応二年、時の藩主松平忠 房公は崇敬の念、特に篤く、同年十一月荘厳な本殿及び拝殿を建立された。
現在の建物は、大正九年氏子の寄進により三ケ年の歳月を費やして、再建されたもの である。尚、本殿西に現存の校倉造の宝庫は近在唯一のもので、享保十四年(一七一 六)の造営によるもので非常に高い文化資料として称えられている。
当神社は、五穀豊饒の神として名高く、豊富庄を中心にした十三地区民の崇敬をあつ め、雨乞いの練り込みは今もって我々の記憶に新である。

丹波忠重朝臣の和歌
大江山 昔のあとの 絶えせぬは 天照神も あわれとや見む 以上                                    



荒木神社[アラキ]
荒木神社「天津神」京都府福知山市堀字荒木山152-2 玄松子の記憶
荒木神社御由緒
延喜内社 田村社
丹波誌天正年中兵火に懸り焼失す云々其の後久しく廃される寛文年中福知山藩士中目 権兵衛盛治と云ふ人古記を考へ再興すると云ふ。天津神座故に神並山と云ふ。後朱雀 院長元九年大嘗会神遨の歌丹波国神並山詠
・常磐なる神なひ山の榊葉をさして祈る万代の為
安徳天皇寿永元年大嘗会神楽の歌
・みしま木綿かたに取掛神なひの山賢木をかさにそする(権中納言兼光)
ニ首とも千載集に見へたり勧請年紀不詳
貞観元年五月四日荒木神社宮社に列すると三代実録にあり



何鹿郡[イカルカ]:12座 並小

波伎部神社[スハキヘ]
須波岐部神社[すはきべ]「大日貴命」京都府綾部市物部町横縁48 玄松子の記憶
社頭掲示板(綾部の文化財を守る会)より
祭神大日例貴尊(オオヒルメムチノミコト、天照大神)
伝承によると第五十一代平城天皇の大同二年(807年)須波伎山に創建されたとい い、三代実録によると貞観十一年(869年)十二月八日の条に「授丹波国正六位上 物部簀掃神従五位下」とあり、古代から階位を有した神社であったことがわかる。
恐らく古代に於てこの地に勢力をもった簀掃物部氏の氏神であったものと思われる。
元和九年(1623年)再建、元文四年(1739年)に改築。
尚、華表の扁額は山階宮晃親王の染筆にかかる。 当社の神宮寺であったと思われる中谷山天慈院が境内に接して建立されていたが、現 在は薬師堂だけが残って、等身大の本尊薬師如来坐像が安置されている。
本尊は室町時代中期を下らない仏像といわれている。
参道鳥居脇には樹齢数百年の欅がある。


阿比地神社[アヒチ]
阿毘地神社[あびち]「大日貴命」京都府福知山市字興567 玄松子の記憶

々伎神社[アスゝキ]
阿須須伎神社[あすすき]「天御中主神、神皇産靈神、高皇産靈神、道主貴神」往古物部氏部族が創立。本社の背後の高い山は、金ヶ峰と呼び、古代郷土人の信仰した霊山。志賀の七不思議の一つである節分の日「茗荷(みょうが)」占いをして、稲作の豊凶を神意に問う神事が伝わっている。京都府綾部市金河内町東谷1 玄松子の記憶

御手槻神社[・・ツキノ]
御手槻神社[みてつき]「伊弉諾尊」京都府綾部市位田町岩井107 玄松子の記憶

神社[サタ]
武大神社[たけだい]摂社賽神神社[さいのかみ]「猿田彦神」武大神社は「素盞嗚命」を祀る。妙見神社を摂社に持っている。京都府綾部市小畑町五反67-1

珂牟奈備神社[カムナヒ]
河牟奈備神社[かむなび]「天下春命」和銅年間の創立。鎮座地一帯から縄文遺跡が出ている。また円墳も発見されており、京都府綾部市十倉名畑町古気良10-1 玄松子の記憶
由緒
和銅年間の創立で、延喜式内社、元井根村を氏子元として八ヶ村の氏神であった。今 も大宮というのは、崇敬の厚い近在の大社であったためである。元亀、天正年間兵火 により宝物、記録等焼失した。後、後朱雀天皇の長元九年大嘗会主基方神遊の歌(千 載集)に神奈備山を歌った歌がある。
「みしまゆふ肩にとりかけ神なびの山の榊をか ざしにぞする」
阿上社には永久二年銘の御神体の石碑がある。(1114年)現在綾部市最古の金石 文であり、(平安末期)昭和五十年九月十一日有形文化財となる。


伊也神社[イヤ]
伊也神社[いや]「大日靈賣尊、月夜見尊、素盞嗚尊」京都府綾部市広瀬町城山14-3 玄松子の記憶

赤國神社[アカクニ]
赤國神社[あかくに]「瓊瓊杵尊、天宇受賣命、猿田彦命」丹國神社と言った。周辺は弥生時代の遺跡が多い。京都府綾部市舘町宮ノ前72-1 神社

高藏神社[タカクラ]
高藏神社[たかくら]「建内宿禰」古くは宮ケ嶽の頂上に鎮座。物部村であった所から推理すると「高倉下命」が祀られていた可能性がある。京都府綾部市西坂町宮ケ嶽21 玄松子の記憶
社頭掲示板より
物部村誌には、大字西坂小字宮ヶ嶽に鎮座、祭神は武内宿禰であって年月は不詳であ るが共延喜以前の創設である。初めは宮ヶ嶽の頂上に祭ってあったのを中古現地に遷 し祭ったものであるという。物部村宛の指令は次のとおりである。何鹿郡第三区西坂 村「其村鎮座高蔵神社延喜式内に相違無之今般詮議決定候条此旨相達候事」明治十年 六月京都府とあり、社名(号)については、「新訂増補国史大系延喜式」には、高蔵 神社(タカクラカミノヤシロ・タカクラカムヤシロ)の二種類乃訓がつけられており 、中院家本には「高蔵神社」と訓は空白となっている。社名のいわれはわからないが 、今も小字名に「高倉」があり、律令制時代にここに食料などを保管する高蔵が建立 されていたのか、その由緒から社名がつけられたものと思われる。

今の御社殿は、南方に聳える宮ヶ嶽の麓に東面して建つ。本社の本殿は、棟札から、 享保14年(1729年)九月吉辰に建立されているが、これは多分再々建であろう と考えられる。当社の特異神事として社伝記録に「源頼光が大江山の鬼退治の際、大 江山山系が一望できるこの高蔵神社に参詣し、諸願成就の上は再度参拝すると祈宣し 、その前兆として、鬼射の神事を執り行ったと云う。今にこの神事が三月二十八日の 脇宮、八幡宮社の例祭りの日に神事として執行されている。それは、長さ一尺幅三寸 の薄い杉板の1枚に、鬼の字を書き、別の1枚の杉板には、左馬の字を書き、各々を 庭中に建てた的の上につるし置き氏子中の両親がそろった3人の男子児童が半弓を以 て先に鬼の字を次に左馬の字を射抜かしむ。」(社伝記録文書より)とある。



我神社[サスカ]
佐須賀神社「武速須佐之男命 配 稻田宮主神、稻田宮主簀狹之八箇耳」古墳の石を御手洗石としている。京都府福知山市私市小字宮下25 玄松子の記憶

嶋萬神社[シマ]
島萬神社[しままん]「須佐之男命」京都府綾部市中筋町岩下13 玄松子の記憶
社伝
天平九年(737年)諸国に痘瘡が大流行し万民が苦しんだので、八田郷、吉美郷の 人々が相はかり、社殿を造営して平癒を祈ったという。
江戸時代まで当社に接して別当寺薬王山海蔵寺があって、本地仏薬王をまつり薬王大 菩薩と称したという。
秋の大祭には、テンテコテンで有名な「太刀振り」と「太鼓おどり」が奉納される。 室町末期に源流をもつ神事がよく伝えられているもので、綾部市の無形文化財に指定 されている。


福太神社[・・・]
福太神社[ふくた]「須佐之男命」京都府綾部市上八田町寺垣24 玄松子の記憶


H24.8.5
延喜式神名帳目次

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