大阪市中央区の玉造稲荷神社
大阪市中央区玉造-3-8 mits-mo


祭神 配祀 下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命 主神 宇迦之御魂大神

由緒

  創祀埀仁天皇十八年の創建で、比売社と言われた。比売神とは祭神トップの下照姫命であろうか。はたまた、伊勢神宮創建八年前であり、豊受之大神を祭ったのであろうか。

 豊受之大神については次の伝承が残っているとのこと。*1
 垂仁天皇の御世、摂津の国。難波の京のひがしに向かひて、一人の翁。稲をにない休みたまいしが、たちまち一つの星となり、卯(東)の彼方にあらせたまう。
 このこと、帝。叡聞ありて。御すかたを。文字にのべ、いなり大明神と。勅筆をくだしたまうると也。
 その後、応神天皇の御時。中天竺より、一の白狐飛きたれり。
 背中に三寸の玉あり。見る人、奇異の思いをなしけるところにこの玉より童子三体あらわれたないて。我は此神の身体なり。卯月初の卯に神慮をすずしめ祭事あるべし。
 万民国土。安全に。守るべしとて、神殿に入りたまう。


社殿と秀頼の鳥居の残滓
 

 天正十一年豊臣氏五百石の朱印地を寄進した。 慶長八年秀頼が社殿を再建したが、元和元年の大阪夏の陣に炎上した。 後、大阪城の守護神となり稲荷五幸大明神と仰がれ、「豊津稲荷社」と称した。
 社域は高台になっている。かっての石の鳥居の上部が置かれており、実に奇妙な印象を与えている。

 四天王寺の最初の創建の場所とされる。587年。
 玉造稲荷に人口の亀池があり、白龍が住むという。
四天王寺にも亀池がある。
 西向きに主な鳥居が建っている。四天王寺にも鳥居がやはり西向きにたっている。 四天王寺が完成するのは当社創建から100年後のこと。当初の玉造稲荷境内から数年で現在地に遷ったものと思われる。
 その時に、西鳥居の考え方も遷ったのか、それとも四天王寺の場所も一つの聖地であって、西向きに鳥居があったのかは不明である。四天王寺の鳥居は西方浄土から俗界への出口の鳥居である。

 七月十五・十六日 (夏祭)

 十月十四・十五日 (秋祭)


拝殿正面


摂津名所図会


高津宮由来記

   当地は難波玉作部の居住地で、この地で勾玉などを作っていたと云う。ここから八尾の玉祖神社にお参りに行ったそうだ。

 鳥居の横に玉作岡と云う石碑があり、その後に仁徳天皇の高津宮であるとの説明があるが、この狭い岡を高津宮と云っているのではなく、ここを含む上町台地の高台全体をさして、高津宮であり、難波長柄豊埼宮であり、後期難波の宮の地であると言っているようだ。

  当社の分社として、東雲稲荷神社が大阪市中央区上町1丁目8−3 ゼンリン。に鎮座。
 北側からストンと低くなった場所に鎮座。新山稲荷との名であったが、東雲(いののめ)稲荷神社と改名している。


東雲稲荷神社
 

*1 月海千峰「古代ユダヤ人と聖徳太子の秘密」日本文芸社


玉造稲荷神社公式サイト

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