群馬の五十猛命

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 上野、下野である。この地域は古来より開拓されている。
邪馬台国と同盟し、尾張の狗奴国を東西から挟撃したとの説もある。
 また、渡来人を多く配置した所でもある。



群馬県 前橋市 千代田町 3-8-12    熊野神社

群馬県 前橋市 堤町 49-1    熊野神社

群馬県 前橋市 荒口町 31    赤城神社

群馬県 前橋市 今井町 818    今井神社

群馬県 前橋市 西大室町 甲1711    大室神社

群馬県 沼田市 岩本町 458    岩本神社

群馬県 沼田市 恩田町 364    熊野神社

群馬県 利根郡 みなかみ町 真庭1    熊野神社

群馬県 吾妻郡 東吾妻町 川戸 1072    川戸神社

群馬県 群馬郡 榛名町 榛名山849    榛名神社

群馬県 高崎市 石原町 1247    小祝神社

群馬県 多野郡 吉井町 神保 435    辛科神社

群馬県 館林市 台宿町 2-8    熊野神社

群馬県 太田市 熊野町 23-25    熊野神社

群馬県 太田市 強戸 1711    熊野神社

群馬県 太田市 強戸 956    八幡社

群馬県 太田市 西長岡 1367    菅原神社

群馬県 太田市 浜町 8-21    伊佐須美神社

群馬県 新田郡 新田町 小金井 1112    松尾神社

群馬県 佐波郡 境町 米岡    米岡神社

群馬県 伊勢崎市 茂呂町    千本木神社

群馬県 利根郡 みなかみ町 相股 3380番地   伊太祁曽神社




 熊野神社
群馬県沼田市恩田町364 its-mo


鳥居



交通案内
 沼田駅の西側の道を北上 約2km。



祭神
 五十猛命、櫛御氣野命、大山祇命、大屋津比賣命、素盞嗚命、菅原道眞、火雷神、火産靈命、天日鷲命、御食神
 摂社 諏訪神社「健御名方命」



由緒 
 上野国利根郡渭田郷(ぬまた)。四釜川にかかる四釜橋を北上。四釜川は南に流れて薄根川と合流、ついには利根川に流れる。
 また、四釜川と四釜橋の存在は姫路総社の射立兵主神社の鎮座地である播磨国飾磨郡を思わす。というのは宮城県の宮城県加美郡色麻町四釜に伊達神社は鎮座、やはり姫路からの勧請社である。四釜については、アイヌ語の大三元さんは、アイヌ語の si には本当の とか 大きい との意味がある、釜には平岩、扁岩、岩などの意味があると指摘されている。大釜地名は四釜と同義と言える。中世には四釜川沿いに志賀摩地名があり、沼田氏が拠点としていた。四釜川沿いには熊野神社・熊野宮が鎮座している。
 当熊野神社は諏訪社、十二社、天神社を合祀している。櫛御氣野命は出雲の熊野大社の祭神であり、現在は素盞嗚尊と同一視されている。五十猛命、大屋津比賣命は素盞嗚尊の御子神で、抓津比賣命と三神で全国に木々の種を播いた神とされている。出雲と紀の国に主に祀られている神である。


社殿



お姿
 朝の4時半に参詣した。まだ薄暗い中に社殿が聳えていた。広くはない境内を見て回っていると徐々に周辺が明るくなってきた。 本殿は覆殿の中に納まっている。覗くと朱色が見えたが、全体像はつかめなかった。


覆殿の中の本殿(一部)


社殿の西側の石祠の列



お祭
春季例祭  4月  2日 2日間
諏訪祭   8月 31日 2日間 風祭
秋季例祭  9月 30日 2日間


四釜川の上流  四釜橋の標識
 


 熊野神社
群馬県前橋市堤町49番地の1 mapion


鳥居



交通案内
 上毛電鉄江木駅から南に1500m



祭神
 櫛御氣野命、大屋津比女命、抓津比女命



由緒 
 上野国勢多郡。
 当地は丘陵地のため、水利が悪いのは古代以来からのようである。地味は砂地。
 社伝によれば、景行天皇五十三年水利少なき此の地に堤を築き井堤野と称し水利地主の神として熊野三柱を奉斎。
 その後大胡常陸介まで崇敬厚く、氏族上泉伊勢守秀綱上泉に築城守護神として近くに遷す。


拝殿


お姿
 南面して鎮座、境内東は公園。本殿の西側には畑が迫っており、墓石も立っている。 松、銀杏、桜、檜など。
 絹笠大神・天照大神の石碑が立っている。


本殿は左側 右は境内社



お祭
  秋祭  10月 19日 1日間


絹笠大神   天照大神
 


 赤城神社
群馬県前橋市荒口町31 mapion


鳥居



交通案内
 バス辻 南西に1000m



祭神
 大穴牟遲神、譽田別命、建御名方命
 配祀 大屋津比女命、抓津比女命、熊野神魯岐奇御氣沼命
 境内神社 菅原神社、稲荷神社、絹笠神社、御獄神社、疱瘡神社、諏訪神社、日枝神社、琴平神社、丹生神社、大山祇神社


拝殿



由緒 
 上野国勢多郡。荒口の産土神。
 明治四十一年に近隣の熊野神社、八幡神社、諏訪神社を合祀している。配祀されている大屋津比女命、抓津比女命、熊野神魯岐奇御氣沼命は熊野神社の祭神であったと思われる。また奇御氣沼命の神名からは出雲の熊野大社からの勧請と思われる。


本殿 背後に石祠が並ぶ。


お姿
 大きい社叢が見える。境内に荒口町の公民館が建っている。
 南面して鎮座、境内には石祠が多い。この中に丹生神社もあるのだろう。
 銀杏、杉、欅の木々が豊。

 荒口前原遺跡が近くにある。弥生中期後半の竪穴住居跡一軒分が出ている。鶴谷遺跡は古墳時代から平安時代の住居跡で十六棟を検出、井戸もある。



お祭
  春季例祭  4月 8日 1日間


石祠の列


 今井神社
群馬県前橋市今井町818 mapion


鳥居



交通案内
 バス御蔵橋 南に300m



祭神
 菅原道眞
 配祀 大穴牟遲命、大屋津姫命、抓津比賣命、奇御氣沼命、宇迦御魂命、大物主命
 境内社 稲荷神社、熊野神社、琴平神社、愛宕神社


拝殿



由緒 
 上野国勢多郡。
 社頭の表示板から。本社天満宮は嘉永元年(1848)7月25日勧請。明治四十年八月二十九日字三木堂の赤城神社を合併し、今井神社と改称。境内敷地 5100平方メートル。
 当社は古代日本の七街道の一つ東山道に面して高い古墳の上から村を守ってくれている北向の神社として知られている。


観音堂



お姿
 北向きに鎮座している。社殿の奧に北向き観音がある。利根左岸十三仏の内の観世音菩薩が祀られている。
 古墳の頂上に社殿がある。銀杏、杉、欅、桜、梅など木々の青葉が映えている。
 境内には大国主神、大土御祖神の石碑があった。



お祭
  春季例祭  4月 8日 1日間

古墳の石棺の一部


今井神社古墳 市指定遺跡


 この古墳は、全長71mの前方後円墳で、前方部巾50m、後円部直径44mである。かつてこの古墳の周辺には、15基の古墳が築造され、本古墳は荒砥地区にあった大古墳群の西端にあたる。昭和55年に実施した範囲確認調査によると墳丘周囲には馬蹄形の周掘がめぐり、これを含めると全長は約90mになる。また多数の円筒埴輪も出土しており、墳丘上に配列されていたことがうかがわれる。主体部は、社殿建立の際掘り出され、「組み合わせ式石棺」と思われる石棺の一部が残存している。こうしたことから古墳は荒砥地区にあって古い古墳に属し5世紀代の築造と考えられる。  
          以上


 大室神社
群馬県前橋市西大室町甲1711 mapion


鳥居



交通案内
 バス五本辻 東に50m



祭神
 櫛御氣野命
 合祀 大屋津比女命、抓津比女命、建御名方命、譽田別命、八坂登女命
 配祀 倉稻魂命 大己貴命 大日靈命
 合祀 菅原道眞、大物主命、大山祇命、須佐男之命、大雷命、金山彦命


拝殿



由緒 
 上野国勢多郡。
 元々熊野神社と号していたが、明治四十一年に近隣の拾数社を合祀した際、大室神社と改称した。
 祭神の櫛御氣野命は出雲の熊野大社に祀られている神名であり、現在は素盞嗚尊と同一視されている。合祀の大屋津比女命、抓津比女命は五十猛命と共に素盞嗚尊の御子神としてこの国に植樹をした神とされている。


覆殿の中の本殿


お姿
 大室城址の本丸跡に鎮座している。大きい木々に囲まれている。古社と威厳を感じる。
 南側に鳥居が三基、東西にも各一基。

 赤城山南麓には前二子古墳(全長92m)、中二子古墳(全長107.5m)、後二子古墳(全長76m)の前方後円墳があり、周辺には一千基を越える古墳があった。6世紀後半から7世紀にかけてのもの。



お祭
  秋祭  10月 19日 1日間


舞殿


 岩本神社
群馬県沼田市岩本町458 mapion


鳥居



交通案内
 岩本駅を南下 約800mで分教場バス停、その南側の道を右に、線路を渡り南へ少し行く。



祭神
 五十猛命  合祀 木花開耶姫命
 摂社 八幡宮、諏訪神社


拝殿



由緒 
 上野国利根郡。
 五十猛命が祀られている。当地には児持社・諏訪社があったが、明治末期に沼田市下川田町の川田神社に合祀されたが、戦後再度分祀して岩本神社となった。児持社は木花咲耶姫命・諏訪社は建御名方命が祭神であろうから、五十猛命はどこに祀られていたのだろうか。地図の中には岩本神社の場所に熊野神社としているのもあり、熊野神社に先の二社を合祀したのかも知れない。

 群馬の熊野神社は多くは出雲の熊野大社からの勧請と見えて櫛御氣之命を祭神とする場合があるが、中には五十猛命を祭神とする場合もある。五十猛命を祀る本社は紀州の伊太祁曽神社とされているが、当社は果たして紀州からの勧請であろうか。


覆殿の中の本殿


お姿
 山の中腹に東面して祭られている。
 山中であり、木々も豊。社殿の左右に石祠が数個鎮座。狛犬も特徴があるお姿。


覆殿の中の稲荷社?



お祭
例祭    4月 14日 1日間
  祇園祭   7月 26日 1日間
   秋季例祭 10月 14日 1日間


狛犬
 


 熊野神社
群馬県利根郡みなかみ町真庭1 mapion


鳥居



交通案内
 後閑駅の西側の道を南下 約2km。真政寺の西。



祭神
 五十猛命  (合祀)櫛御氣野命、譽田別命、大雷命、健御名方命、大物主命
 摂社 神明宮、菅原社、秋葉社、稲荷社



由緒 
 上野国利根郡。
 沼田から月夜野町(現在はみなかみ町)に来るには、南から政所、真庭、師(もろ)、後閑(ごかん)と各村を通る。熊野神社は政所と真庭の境付近に鎮座。師の後田は三峰山から流れ出る多くの沢が流入している。その丘陵上に後田遺跡、一段下の師遺跡がある。後田遺跡は旧石器時代から平安時代の、師遺跡は古墳時代・奈良時代の遺跡である。
 後閑村には、『三代実録』記載の小高諏訪神社やその摂社の八束脛社が鎮座、小高諏訪神社には大屋毘古命が合祀されている。八束脛社はアラハバキの神を祀っているのだろうか。『地名辞書』には、「八束脛窟が出ている。後上野志云、後閑村、土人相伝ふ、上古長大人あり、居民を掠劫す、此地八幡山懸崖の半腹なる窟中に隠れ住み、昼は伏せ夜は発す、百姓之を愁ふ、久しくして後其窟宅を審察し、半腹上下の藤縄を剪断しければ、長人も縋下する能はず、遂に窟中に餓死す、其脛八束あり、故に奇として、八束明神と云ひ之を祭る、釈紀に引ける越後風土記、美麻紀(景行)天皇御世、越国有人、名八掬脛、其脛長八掬、多力大強と、此の地越後と境土を接す、蓋其類なり。

 群馬県の熊野神社の幾つかは出雲からの勧請社であり、これらは祭神を櫛御氣野命としている。 その中には御女神の大屋津比売・抓津比売を共に祀っているものが散見される。
 当社は主祭神として五十猛命が祀られている。これらの由緒はよくわからない。


拝殿


お姿
 目標としていた井筒屋が見えなかった。地方の衰退を感じる。 5時過ぎであったが、たまたま外に出てきたおじさんに尋ねると丁度真西にわずかに鳥居が見えた。まさに導かれた気がした。
 境内は広く、木々も豊。また石祠が多数鎮座していた。



お祭
春季例大祭  4月 15日 1日間
秋季例祭   8月 31日 2日間


本殿


 川戸神社
群馬県吾妻郡吾妻町川戸1072 mapion


鳥居



交通案内
 吾妻線の群馬原町駅から南下 約1800mで神社。



祭神
 迩迩藝命、吾妻太郎行盛、火産靈神、大物主神、五十猛命、大山祇命、品陀和氣命、鹿屋野比賣命、埴安神、天照大御神、豐受姫神、御穗須須美神



由緒 
 上野国吾妻郡。
 境内由緒
 古老曰わく 貞治年間(1362)の勧請。旧号首宮大明神(かみのみや)と称す。而も明治二年四月川戸神社と改称す。
 首宮と号するは吾妻太郎行盛の首級を祭ることに因りてなり。行盛は吾妻郡の領主にして代々岩橋城に居城し、貞和年間碓井郡の里見氏と戦い敗れて原町立石河原にて戦没す、と吾妻略記に云う。最後の時、敵近付候節立石に飛び上がり自らの首切って投げ給えは不思議なる哉その首二丁許り先なる川向こうの大木の中枝だに留まり霊光甚だしく、則ち行盛大明神として顕れ給いしなれば川戸村氏子集まり社を造りて首宮大明神と祝い奉りし鎮守これなり。享保年間の頃疫病頻りに流行の節、別当潜龍院社内にて疫病退散の護摩祈願の折一匹のヲサギが
 当社の宝物として吾妻太郎行盛の用いしという甲冑に太刀等及び幕府旗本朝比奈氏の寄進になる神鏡一面、長船長光の短刀、「ヲサキ」狐の「ミイラ」の箱入一個なりしが、慶応二年三月一九日の火災によりて悉く失せり。
    氏子会


拝殿

 祭神の五十猛命
 明治四十一年に大山祗神社を合祀している。
 吾妻郡削除神社明細帳(上野国神社明細帳 12吾妻郡)によれば:−
 羣馬縣管下上野國吾妻郡川戸村字玉科
  (付箋)
 「被合併」 無各社 大山祗神社
  (追記)
 「明治四十一年七月七日許可村社川戸神社へ合併」
 一 祭神 大山津見命
       五十猛命 鹿屋野比賣神
 一 由緒 不詳
 一 本社 間口一尺 奥行九寸
 一 境内 六拾五坪 官有地
 一 信徒 百三拾六人
 一 管轄廳迄距離  拾里
       以上

 この場所には現在、王子稲荷神社が鎮座している。
 鎮座場所

 明治初めには川戸村には、川戸、浅間、神明、諏訪、十二社4,稲荷、白髭、八幡、愛宕、春名の十三社が鎮座していた。


本殿


お姿
 東面して鎮座、拝殿と玉垣は新しいようだ。
 木々も多い。丸石は置かれている。丸石信仰だろうか。



お祭
例祭    4月 14日 1日間
  祇園祭   7月 26日 1日間
   秋季例祭 10月 14日 1日間


道祖神


 榛名神社
群馬県群馬郡榛名町榛名山849 mapion


鳥居



交通案内
 高崎駅前から榛名湖行きバス70分 神社前下車



祭神
 火産靈神、埴山姫神 (合祀)水分神、高オカ神、闇オカ神、大物主神、木花開耶姫神
 摂社
 杵築社「大國主命、事代主命 (合祀) 豐宇氣姫命、五十猛命、大屋津姫命、譽田別命、經津主命、奧津彦命、奧津姫命、日本武命」
 國祖社「豐城入彦命、彦狹嶋命、御諸別命」
 塞神社「八衢比古命、八衢比賣命、來名戸神」
 秋葉山神社「秋葉神、氷室神、天津神、國津神、雷天神、風天神」
 須賀神社「須佐之男命、稻田姫命」
 琴平宮「大物主神」
 オカ神社「水分神、高オカ神、闇オカ神」
 富士山神社「木花開耶姫神」
 稲荷社「倉稻魂命」



由緒 
 上野国群馬郡の延喜式内社。
 綏靖天皇御世に鎭座し、用明天皇元年(585)に社殿を造営と伝わる。
 万葉集巻十四・三四一〇 「伊香保ろの傍(そひ)の榛原ねもころに奥をな兼ねそまさかし良かば」の中の榛原が社名の語源とされている。榛名山は伊香保嶺と呼ばれていた。榛名山の神を祭る神社は群馬東部には伊香保神社、群馬西部には榛名神社が分布する傾向にある。


双龍門と岩

 現在の鎮座地は巖山と言い、奇岩・奇渓の多い深山、それ以前には里で祀られていたと言う。この話は目から鱗である。誰が見ても巖山が祭祀の出発点であり、ここから里へとの流れと思うのだが、修験者の手によって深山に遷されたと言う。今まで、「山頂から里へとの祭祀の流れ」と思いこんでいたのだが、注意深く見ていかなければならない。
 旧鎮座地は箕輪町西明屋字椿山に鎮座していた椿名神社との指摘がある。『上野名跡志』。
 当HPに投稿を下さる多美さんが、「西明屋村字椿山小字界図」を探してくれて、椿名神社の鎮座地を示されておられる。鎮座地


多美さんご提供古地図


多美さんご提供現状


本殿と御姿岩


お姿
 榛名神社前のバスを降りてから20分ほどひたすら登る。三重の塔、巨大な磐座が幾つか、相当に古い信仰だったことを思わせる。
 摂社の杵築社は本殿の横のお札売場の隣にあった。

 榛名満行権現、榛名寺とも呼ばれていたようで、寺院として崇敬されて来ている。参道には宿坊の名の「坊」がひしめいている。

 



お祭
秋季古大祭

  10月 9日


杵築社


榛名神社ご由緒
第三十一代用明天皇元(丙午)年紀元一二四六年(西暦五八六年)、創祀と伝えられ 、延喜式内の古社で上野十二社の六の宮である。南北朝時代から座主執行の二職が置 かれ、徳川時代の末期に至る迄神仏習合の時代が長く続き、東叡山上野寛永寺の管下 に属し、別当兼学頭が派遣されて一山を管理して居たが、明治初年神仏分離の改革に より榛名神社に復した。

御祭神
火産霊神(ほむすびのかみ)[鎮火・開運]
埴山姫神(はにやまひめのかみ)[五穀豊穣]
例祭五月十五日

社殿は寛政四年(百九十年前)の改築、周囲の巨厳と調和して建立されたもので荘厳 の極致を表している。御祭神は社殿の後ろに立てる御姿岩の洞窟中に祀られている。 榛名神社の太々御神楽(神代舞)三十六座は享保時代(約二百七十年前)以前より伝 えられたもので、その舞と拍子は極めて荘重古雅で昭和二十七年三月無形文化財に指 定されている。

御宝物と古文書
大織官藤原鎌足公真筆経文一、小野道風の真筆経文一、平相国清盛公真筆経文一、庁 宣一、足利持氏の許状(応永三十年三月二十八日)一、鎌倉御所入道知行書一、長野 伊予守立願書一、鎌倉執事上杉憲房の制札、同上杉憲政の制札一、武田信玄の高札 鏡之部八ツ花形(鏡経六寸白銅製奈良朝以前の物という)一、円形鏡(経五寸四分 乳鏡)一、円形鏡(経八寸裏に松喰鶴の模様あり)一、円形懸仏(経八寸七分十一面 観世音細線の像あり奈良朝の物という)一、円形懸仏(経八寸四分裏に大檀那源氏女 弘安四年八月とあり)一、円形懸仏(経六寸五分裏に富士権現とあり)

随神門(旧二王門)  一八四七年(弘化四年)上棟、棟梁は埼玉県宮内の関根修理 、神仏分離までは二力士像があって雲慶の作と伝えられていた。

矢立の杉  四百年前武田信玄が箕輪城(城主長野信濃守)攻略のみぎり矢を立て 戦捷祈願せられたる杉の巨木で周囲十米余、枝南七米余、北五米余ありさながら天を つくが如くである。近くに矢の久保、のぞき岩等の古戦跡がある。昭和八年文部省一 般史蹟に天然記念物として指定されている。

双龍門  八棟造りの建物で、原山宿大工棟梁清水和泉の建立したもの、彫刻は熊 谷宿長谷川源太郎の作で、中国の三国史から取材したものである。

尚榛名神社社殿(幣殿、間殿、拝殿)国祖殿、額殿、神楽殿、双龍門の七棟及び鉄燈 篭(元享三年奉納)一基は昭和五十七年四月二十日、県より重要文化財として指定せ られた。

榛名神社国指定文化財

榛名神社社殿(幣殿 間殿 拝殿〉
文化3(1806)年の再建(手前が拝殿、奥が幣殿で両者をつなぐのが間殿。幣殿・拝殿ともに入母屋屋根で権現造屋根は鋼版葺。目貫の鷲、左右海老虹梁の二龍ほか彫刻が多い。
格天井の花草飛龍の絵は仙台藩の絵師根本常南の筆。
祭神は火産霊神、埴山毘売神。

国祖社
天保12(1841)年修復。間口三間、奥行五間。
もと榛名山西部の御祖霊嶽にあったものを、いつの頃からか本社のそばに摂社として祭るようになったと伝えられている。神仏分離以前は本地仏を安置し、本地堂とも呼ばれた。
祭神は豊城入彦命・彦狭島命・御諸別命。

額殿
創建年月日不詳。本来は神楽の拝見所であるが、大小の、「太々御神楽」の扁額を掲げてあることから額殿とも呼ばれている。

双龍門
竣工は安政2(1855)年。間口十尺、奥行九尺。総欅造り。四枚の扉にはそれぞれ丸く文様化された龍の彫刻が施されていることから双龍門と呼ばれるようになった。
羽目板の両面には「三国志」にちなんだ絵柄が彫られており、天井の上り龍、下り龍とともに双龍門の風格を高めている。
棟梁群馬郡富岡村清水和泉、彫刻武蔵熊谷宿長谷川源太郎、天井の龍は高崎藩士矢島群芳の筆。

神楽殿
明和元(1764)年11月の再建。方二間の高床形式。神に奉納する神楽を演じる場所であり、本殿と向かいあい、床の高さを同じくする。棟梁は佐藤直右衛門。

鉄燈籠
竿の部分の銘文によると元亨3(1323)年に沙弥願智が大工芳十光長に作らせ奉納したとある。
材質が鉄であることや基礎の唐獅子が浮き彫りにされている格狭間の形状などに鎌倉期の特徴がよく表れている。
鉄燈籠としては県内最古。なお、笠の部分は後世の補作。
昭和57年4月20日指定
群馬県教育委員会
榛名町教育委員会


 小祝おぼり神社
群馬県高崎市石原町 mapfan


交通案内
高崎駅より上信バス吉井方面行き 小祝神社前  

祭神
主神 少彦名尊
合神 速玉男命、大日め命、五十猛神 ほか17神
由緒 

 式内社。本地仏は文殊菩薩。境内から縄文前期の土器片が出土しており、相当な歴史を持っている地域に鎮座している。
 少彦名神は外来の神であり、渡来人の斎祭った神社であった。氏族の名は不明。
 五十猛命が合祀された由来は不明であるが、速玉男命なども合祀されている所から近くの熊野に由縁の神社が合祀されたのであろう。




お姿
 境内に幼稚園がある。社殿は江戸時代に間部詮房が再建したものである。彩り鮮やかである。それでも室町時代よりは濃い色になっている。



お祭
例大祭 4月19日、9月19日


 辛科神社
群馬県多野郡吉井町神保 its-mo

鳥居 TAMIさんご提供写真


交通案内
上信電鉄西吉井駅 南30分


祭神
速須佐之男命 配祀 五十猛命 
合祀 金山毘古命 品陀和氣命 中筒男命 伊邪那美命 大山津見命 建御名方命 八坂刀賣命 大物主命 大日靈命 宇迦之御魂命 (主神)木花佐久夜毘賣命 天兒屋根命 市寸嶋比賣命 菅原道眞 鹽光清

拝殿 TAMIさんご提供写真


由緒
 往古、こと地には新羅系渡来人が多く居住し、この神社の鎮座している神保がその中心地であった韓級郷であろう。
 創建は多胡郡新設に伴い、郡の総鎮守とした。
 辛科神社は他にもあり、藤岡市上日野字田本、上日野字細ケ井戸に鎮座している。 また上日野字小柏の野々宮神社、下日野字駒留の地守神社も辛科神社に関係があった。
 社宝は神鏡と呼ばれる懸仏、本地仏である文殊菩薩ほかが毛彫りされている。

本殿の彫り物 TAMIさんご提供写真


お姿
 春日造の本殿、流破風造の拝殿及び権現造の随神門は明治二五年古社保存法の指定を受けている。  付近には数十基からなる円墳の小古墳群がある。6世紀後半である。神社の創建もこのころと思われる。 
 丘陵地帯の頂上付近に鎮座、この辺りは桑、トウモロコシの栽培が盛ん。社叢は大きい森になっている。
 渡来人が多く住み着いた地域とされ、地名にも名残がある。

拝殿と本殿 TAMIさんご提供写真



お祭
筒粥神事   1月15日
茅の輪神事 7月31日
例祭 4月9日、10月9日





 熊野神社
群馬県館林市台宿町2-8 ゼンリン


交通案内
館林駅より 北北東1.2km  

祭神
主神 五十猛命
合祀 大屋津姫命、抓津姫命

由緒 

 創建時期は不詳。

 紀ノ国の熊野大社には樹木神の櫛御氣野命、また豊作神の家津美御子命と言う名で素盞嗚尊として祀られている。現在、五十猛命の名は見えない。

 地方の熊野神社には当社のように五十猛命が祭神となっている社がある。かっては熊野大社にも五十猛命が祭神として祀られていた傍証と見ることができる。

お姿
 鳥居に熊野大権現と記されている。東側に法輪寺と言う大きい寺がある。鎮守であったようだ。
 神道と仏教とは明治維新以後分離されてきたが、この地方は仏教の勢いが強かったのであろう。法輪寺と比較できないほどみすぼらしい。 木々もない。法輪寺の大木が神木を兼ねていると見るほかはない。
 館林駅からこの神社方面までは200mおきに小さい神社が点在する。青梅神社、稲荷神社、琴平神社、熊野神社、長良神社と並ぶ。



お祭
例大祭 4月15日


 熊野神社
群馬県太田市熊野町23-25 ゼンリン



鳥居



交通案内
太田駅より 北1km

  

祭神
主神 櫛御氣野命、大谷津姫命、抓津姫命



由緒 

 創建年代等は不詳。この地域は弥生時代の遺跡は希薄であるが、 古墳時代以降は多くなる。

 神社は八王子丘陵の麓に鎮座。八王子丘陵からは埴輪の窯跡が出土している。古代武士埴輪が有名である。
 神社の祭神の櫛御氣野命はまた家津美御子命とも称され、豊饒や食物を司る神とされる。 大谷津姫命は多くは大屋津姫命と記され抓津姫命と共に紀ノ国の樹木神である五十猛命の妹神とされまた素盞嗚尊の御子神である。 この三兄妹の神々は共に祀られていることが多い。
 紀ノ国の熊野本宮神社では家津美御子命は素盞嗚尊の別名となっている。素盞嗚尊、櫛御氣野命、家津美御子命、五十猛命などは同一神であり現れ方で呼び方が違うとの理解であろうか。

 境内記念碑によれば、「元久元年(1204年)出羽の修験者小坂上人により御遷座されたと言い伝えられています。」とあることが、神奈備写真掲示板に投稿があった。


お姿
 太田駅から平和通りを北に向かう。八王子丘陵にかかる所に熊野神社が鎮座している。 参道の巾は広い。拝殿の前に大きい石が立てられている。これも由緒不明である。
 太田駅の南側には伊佐須美神社、江文神社が鎮座、また北側の金山丘陵には新田神社が鎮座している。明治8年の創祀である。



拝殿





お祭
夏大祭 7月第三日曜日 2日間
秋大祭10月中旬日曜日 1日間


 熊野神社
群馬県太田市強戸1711  its-mo


交通案内
東武桐生線治良門橋[じろえんばし]駅より 東1.5km  

祭神
主神 櫛御氣野命、五十猛命、大屋槌命、抓津姫命
由緒 

 上強戸の鎮守である。由緒、創建年代等は不明。
 強戸は額戸で新田義重の庶子三郎経義が額戸氏を名乗った。
 この地域には古墳が多く強戸の隣は成塚と言う名である。この中でも特に天神山古墳は全長210mの東日本最大の古墳である。 半島系の独立王権の存在を示唆する説がある。弥生時代の遺跡は希薄でそれ以後の須恵器や古墳時代以降の遺跡が多い。
 祭神の大屋槌命は神社庁発行の平成祭りのCDを参照したのであるが、五十猛命三兄妹の神々であろうから大屋津姫命と思われる。 また櫛御氣野命は、三兄妹神の父神とされる素盞嗚尊であろう。紀ノ国の熊野本宮神社では櫛御氣野命は家津美御子命、または素盞嗚尊の別名となっている。

お姿
 この辺りのお家は大きい。それにもかかわらず神社の建物は寂しい限りである。 勿論神社の命は杜であり、社殿ではないが、杜も木々は寂しい。背後の山は鳳凰ゴルフ場になっている。 熊野神社の社殿に向かって左隣に八坂神社[素戔男命]が鎮座。


神社



お祭
春大祭  4月第二日曜日 1日間
秋大祭 10月第二日曜日 1日間


 八幡社
群馬県太田市強戸956 its-mo


神社



交通案内
東武桐生線治良門橋[じろえんばし]駅より 東南1.3km

  

祭神
主神 品陀和氣命、建御雷神、伊波比主命、素盞嗚命、許登能麻遲比賣命、倉稻魂命、建御名方神、五十猛命 、櫛御氣野神、須勢理姫命、天子屋根命、大國主命、大屋津邊命、市杵嶋姫命、抓津比賣命、大日靈命
配神 菅原道眞



由緒 
 下強戸の鎮守である。由緒、創建年代不明。
 強戸は額戸で新田義重の庶子三郎経義が額戸氏を名乗ったのを起源とする。
 太田市の中心の金山丘陵の北西側に当たる。更に北西には成塚地域があり古墳群の中間地の田園地帯である。 実に多くの神々が祀られている。
 このサイトにこの神社を採録したのは五十猛命、大屋津邊命、抓津比賣命の三兄妹神が祀られているからである。 全国に木々を植えた神々として有功の神とされている。



お姿
 神木は樅の木である。境内には石の祠が数多くおかれている。祀られている多くの神々が合祀されたのであろう。


神社



お祭
春季例祭  4月第三日曜日 1日間
夏季例祭  7月第四日曜日 2日間
秋季例祭 10月第三日曜日 1日間


 菅原神社 
群馬県太田市西長岡町1367 ゼンリン


交通案内
東武桐生線治良門橋[じろえんばし]駅より 北正2km、藪塚駅東1km

祭神
主神 菅原道眞
配祀 建御名方命、櫛御氣野命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命

由緒 
 岡登用水は谷津川と呼ばれている。大屋津姫命は大谷津姫命ともされ、植樹や家屋の神でもあるが、地域によっては開拓の神でもある。 この神を奉じた人々の子孫が開拓したので谷津川と呼ばれたのであろうか。
 長岡の地は古くは石塩と呼ばれていた。東は菅塩であり、西は藪塚である。藪塚は温泉もありまた木枯紋次郎の故郷の三日月村がある。
 もっと北は桐生であるが岩宿遺跡は縄文土器以前の文化の存在を伝えている。
 太田市は利根川と渡良瀬川に挟まれた沖積低地であるが、弥生遺跡は少なく、古墳時代以降に大いに発展した地域である。新田が広大であったので太田と呼ばれたと伝わる。

お姿
 バス停北長岡の目の前に鎮座、境内には十二石橋の碑が建てられている。洪水で多くの橋が流され、堅固な石の橋を架けてその安全を祈願したものであろう。 明治32年に山田勝太郎氏の作となる石碑に以下の文章が刻まれている。
十有二水 徒杠既成 不朽不壊 盤固永横 四通八達 為■輸程 車馬絡繹 以北晶栄


神社



お祭
春季例祭  4月15日に近い日曜日 1日間
秋季例祭 10月15日に近い日曜日 1日間


 伊佐須美神社
群馬県太田市浜町8-21 mapion


鳥居



交通案内
 太田駅前から西に300m



祭神
 速須佐之男命
 配祀 木花咲夜姫命、皇御孫命
 摂社
 出雲神社「大國主命、事代主命」
 五十猛神社
 金比羅神社
 弁財天



由緒 
 上野国新田郡。 伊産済宮とも言うようで、扁額がある。
 八幡太郎義家が奥州本社(福島県大沼郡会津高田町の伊佐須美神社)から杉の苗木を持ってきて植えたとされる。昭和十二年まではあったようだ。現在では奥州と当社では祭神が違ってきている。


拝殿


お姿
 面白い配置の神社。 東側の鳥居の正面に出雲社が鎮座。 南側の鳥居の正面に伊佐須美神社があり、参道は途中で交叉していることになる。


本殿



お祭
春季大祭   4月 15日 1日間
秋季例祭  10月 15日 1日間


出雲神社鳥居


出雲神社拝殿


出雲神社本殿


五十猛神社 探し忘れとので多美さんご提供写真を借用


平成祭CD 伊佐須美神社由緒


 上野国神明帳によると、当社は承和年中奥州安部家の臣、蜷川氏が当地に居住の際勧請せしものなるが、古老の伝説によると、その後昌泰三年奥州二ノ宮より皇御孫尊・木花開耶姫命二神を相殿に奉斎し、伊産済宮と称し、安産守護の神となすとあり、遠近の人々は勿論、武人等も崇敬する者多く、八幡太郎義家は応徳年中、即ち後3年の役の折、安全祈願をせし所、無事に安産せしに依り、帰館に際し、奥州本社より杉の苗木を持ち来たり植えしものが御神木として昭和十二年まで存せり。

 奥州御本社とも言い、二ノ宮とも言うは、福島県岩城国に鎮座坐す。元国幣中社、伊佐須美神社に倣い、当然当社も明治初年までは伊産済宮と称し、以後は伊佐須美神社と称せしが、後監督官庁に届出の際、誤って須々美神社と記し、今日に至る。

 明治四十年、神社合併行はれし際、当神社も氏子少なく且つ、社有財産無きため、当然その範疇に入る筈であったがこれは祖先に対し、また子孫に対しても誠に忍び難い儀と、一同協力一致、神社護持の誓約書を作り署名調印善処す。

 大正十三年秋、境内社、五十猛神社を改築し、出雲神社並びに美保神社より御分霊を迎え出雲神社と称し、恵比寿講を開催し、その浄財を蓄え、本殿改築の資金に充つることになりぬ。

 久しく昭和二十八年、大戦後の人心混乱の為、氏子総代の交替あり。また宗教法人に依り、登録せし氏子は百三十人なり。 かくて、本殿一間流造は、元禄十一年、大阿闍梨権大僧都法印七代目良俊が、棟梁岩松佐兵衛助をして造営せし由緒あるものにて、星霜幾百年の腐朽もようやく加わり、その改築も多年の懸案であったが、ここに僅少の氏子を以て、よく協力一致、時勢の変遷に対処し、しかも予定の年数をはやめて、今日御造営を完了したことは、まことに時局がら、神社神道をこうようし特筆文書すべきことがらというべきである。

 なお、境内社、出雲神社は、神祇を敬い、祖先を崇ふは、日本国民の淳風美俗にして、国体の精華なり、而て我が両毛敬神団は、常に此美風を宣揚せんが為、年々神社参拝を怠らざる所、大正十三年甲子歳、更に甲子会を興し、同年二月、会員七十三名を相携えて、参拝の途につき、まづ、伊勢大廟を拝し、次に出雲大社及び美保神社を拝せり、因りて、此の事業を永遠に伝えんと欲し、出雲大社及び美保神社の分霊を上毛太田町に勧請し、社殿を創建して、出雲神社と称し、当町内浜町旧護国寺の恵比寿大黒神を奉遷し合わせてこれをまつれり。

 抑出雲大社は大国主神をまつり、美保神社は事代主神をまつる此の二柱の御神は忝けなくも福神にましまして萬民の渇仰する所なり而て毎年福神祭を行ひ、福運を授け給ふ。惟ふに大国主神は太古草昧の際、国土を天孫に奉献して、天業を翼賛し、其御子事代主神は御父神を輔けて、力を王事に尽し、明かに君民の分義を画し、範を後世に垂れ給へり。日本国民たるもの宏遠なる神慮を畏み、各臣民の本分を守り共に敬神崇祖の美風を持し、倍々国家の隆昌を期せざる可らず。而て、又た大国主神は世に縁結びの神と称せられ、万民の崇敬惜かざる所にして、神前結婚の慣例あり。夫れ婚姻は人生の大礼にして、一家の繁栄国家の隆昌一に之につながる故に浮華を戒め、軽挙を避け婚儀は必らず神前に於て行はんことを望まざるを得ず。夫婦和合し、子々孫々必らず広大なる神恩に浴す可きなり。因りて創建の次第を叙し不朽に伝ふ。
          以上


 松尾神社
群馬県太田市新田小金井町1112 ゼンリン


鳥居



交通案内
東武桐生線治良門橋[じろえんばし]駅より 西2km



祭神
主神 大山
配祀 品陀和神、市杵斯摩姫命、宇迦之御魂神、大屋都比賣命、木花咲夜姫命、健御名方命、抓津比女命、櫛御氣野命、菊理比神、天神七代地神五代神



由緒 
 水の乏しい地域であった。また水を保持しにくい土質であり、古来より桑を育て養蚕が盛んな地域である。現在も桑畑が多い。 秦氏の祀る山城の松尾大社から大山神を勧請した。承平年間西暦930年代の創祀である。
 神社の北1.5kmに二つ山古墳がある。6世紀後半から7世紀初に造営されている。 様々な神々を奉じてこの地を開拓した人々がおり、そこへ秦氏の一族が養蚕技術と大山神をもたらしたのであろう。 南の境町と一体となり、栄えたのである。平安時代以降の遺跡が多い。



お姿
 参道を道が横切っている。厳かな神域の雰囲気はない。杜も整備しすぎ、鬱蒼とした感じではなく、神々が鎮まるムードが少ないような印象である。
 境内には多くの摂社がある。 神明、竃、諏訪、北野、母加佐、春日、八坂、鷲、絹笠の社である。
 小金井太々神楽が伝わっている。町指定無形文化財である。
 神楽次第 国堅 1 猿田彦大神 2 住吉大神 3 児屋根神 4 天の岩戸開き 5 香取・鹿島大神 6 八幡大神 7 金山彦大神 8 大国魂・天若彦大神 9 恵比寿大神 10 稲荷大神 11 火の神 12 大山祇大神 外 八俣の大蛇退治


社域と拝殿



お祭
春季例祭  4月第三日曜日 1日間 太々神楽
夏季例祭  7月28日 1日間
秋季例祭 10月第三日曜日 1日間 太々神楽  


 米岡神社
群馬県伊勢崎市境米岡149 its-mo

鳥居




交通案内
東武伊勢崎線 境駅より 南東1.5km  

祭神
主神 櫛御氣野命
合祀 譽田別命、豐城入彦命、大日命、五十猛神

由緒 

 創建年代は不詳。利根川と広瀬川の合流地点から北の洪積低台地にある。
 西300mに米岡古墳がある。縄文後期、晩期の遺物や古墳時代の祭祀跡が出ている。

 境町には式内社として大国神社が下淵名に鎮座している。大國主命に配祀されている女神は日葉酢媛命、渟葉田瓊入媛命、眞砥野媛命、竹野媛命、薊瓊入媛命 である。

お姿
 松ノ木が多い。東日本の神社は瓦葺きが多い。

 



お祭
春祭    4月 3日
秋祭   11月 3日


 千本木神社
群馬県伊勢崎市茂呂町2280-1 its-mo





交通案内
新伊勢崎駅より 南1.5km

  

祭神
五十猛命



由緒
 創建年代は不詳。

 伊勢崎市の町名に植木町が見える。またこの神社の住所が茂呂であり、社名も千本木とあり、木々の密集を願う気持ちが伝わる。 伊勢崎市の東一円と西一円に五十猛命を祀る神社が利根川沿いに分布している。 製材、植林の中心地であったと思われる。



お姿
 村の鎮守の風情であるが、カッラカゼの中で、神木の銀杏の葉も落ちてもわびしい。



お祭
春祭    4月 3日
例大祭  10月17日



 伊太祁曽神社
群馬県利根郡みなかみ町相股3380番地 ゼンリン

TAMIさん参詣分 写真はすべてTAMIさんご提供


全景



交通案内
 上毛高原駅より車25分。



祭神
 五十猛命
 摂社 七福神を祀る神社



由緒 
 伊太祁曽神社由来鎮座
 樺キ谷川萬治商店初代社長長谷川萬治、明治生まれ十四才で、材木屋に奉公に出修行を重ね三十四才で独立開業し以来八十四才で天寿を全うする迄木材一筋に生きて来た人物。樹木の命を敬神すべきと思い、昭和十二年当時帝室林業局に伺ってたずねた処、樹木の神様は現にあると教えられ其の敬神は五十猛命と唱え紀伊国祖神で「木の神、いのちの神、浮宝の神」で祭神鎮座の地は和歌山市伊太祈曽常磐山で社号は官幣中社伊太祁曽神社であると知った。早速同社に参拝、敬神崇の一念から近くに祭神したいので分霊させて頂きたいと懇願するも同社は官幣中社なので宮内省の許可が必要、尚これまで一度も分霊の例が無いと断られましたが、参拝を重ね信仰と尊敬の一念でお願いし続けた結果、宮内省の許可を得て分霊が叶い東京深川の地に祀られる。その後長谷萬製材所鍋倉康人氏よりお話があり、お祀りさせて頂く事となり、平成十一年五月に本宮にお参りしてお願いしました処快く承諾して頂き、平成十一年六月二十七日に此の地に鎮座しました。  以上は現地掲示。

 TAMIさんから。
 由来と通り、先ず、東京深川に鎮座。
 次ぎに昭和35年に沼田駅前に移し祀った。
 更に、平成十一年沼田駅前開発のため鎮座敷地を譲渡、現在地に遷したとのこと。


社殿



お姿
 温泉地の中央に鎮座しているようだ。


本殿


五十猛神の説明



お祭


赤谷七福神めぐり パンフレットから


五十猛命ホームページ
神奈備にようこそ