天照皇大神宮、伊太祁曽宮
岐阜県大野郡丹生川村大字旗鉾字大平西


境内から鳥居、鳥居越し見ると山中に滝が見える。

写真ご提供 紀州伊太祁曽神社奥重貴様

交通案内
高山−平湯温泉バス 寺田下車 西(高山方面)に10分 南側に大きい石碑がある。 mapion



祭神
五十猛大神 配祀 天照皇大神



由緒
  創建年代は不詳。元乗鞍の恵比寿岳に鎮座されていたが、参拝するのに不便なため、南北朝時代の元中七年(1390)九月、現在の久手地区宮上田に遷し、更に明徳年間(1390〜)、旗鉾字東林に遷座し、寛永年間(1624)三度目に、現在地に奉遷した棟札がある。
 境内社の神明宮を通称「旗鉾大神宮」といい、当初より当地に鎮座していたが、創立年代は不詳だが、ここに天照皇大神宮が祀られたのは17世紀初頭とされる。伊勢皇大神が飛来したとの噂が高まり、近隣諸国から参拝者が押し寄せたと伝えられている。一日の参詣者は2000人に及び、高山との間には120軒もの臨時の茶屋が建った。西側の駄吉村の神明神社にも同様なことがあった。これは敬神勤皇家のなせる業であろうと噂された。

 このような状況を織り込んだ狂歌が作られている。
日々御神飛騨へひょっこり飛びたまい、ひだは日に日ににぎわいにけり(ひの字尽くし)
居なれたる伊勢の五十鈴にいまさずに、いかに思いで飛びたまいけむ(いの字尽くし)
夏のうちしばしすずみにここへ来て、はや秋風と伊勢に帰るな
ゆだんして又飛ばするな日の神を、抱きしめ居ませと日抱明神

社殿

社殿

写真ご提供 紀州伊太祁曽神社奥重貴様



お姿

 当社は日抱尊宮とも呼ばれる。ここは乗鞍岳3040mを見上げる地点である。この頂上の剣ケ峰にも伊太祁曽神を祀る乗鞍神社がある。
 五十猛命がこの地域に祀られた時期は不明である。山岳信仰の勃興期頃と想定されている。

 バス道158号線の下側に鎮座している。この道は神社の上を通って作られたのである。
 158号線沿いに天照皇大神宮と彫られた大きい石碑がある。 ここから川の方に下っていくと、やはり天照皇大神宮の額を掲げた鳥居がある。伊太祁曽神社を示す神社側の印は見当たらない。

 丹生川村の無形民俗文化財としてこの神社の筒粥神事が伝えられていることを示す村の教育委員会が立てた識標、また伊太祁曽神社の大杉、神像二躯と記された識標がここが伊太祁曽神社である事を示している。

 拝殿の奥に流れ造りの二社殿があり、右が伊太祁曽宮、左が天照皇大神宮である。この右左は神様の方から見ての右左である。
 村の天然記念物にも指定されている神木の大杉や飛騨らしく朴葉の木など境内を囲むようにして林立している。



お祭
例大祭 9月16日

『破られた二千年の魔法』山本貴美子著 福来出版 から


 仲哀天皇の御代(四世紀)三韓の兵が九州へ上陸して日本占領を計画し次々と上陸するので、三韓征伐の必要があるも、失敗すれば一大事なので、神功皇后は七日七夜の鎮魂により神示を請い給われました。その時天照大神に継いで出られたのが「尾田(神奈備注:本はヒダのかたかな表示)の国吾田節の淡郡に居ます神(飛騨の国、丹生川の乗鞍の麓にいる先祖の意味)」と名乗られていますが、続きが旗鉾に口碑となって伝わっているのです。
 神功皇后は凱旋後、戦勝の報告と御礼に家来を派遣されました。家来達は多数の朱塗りの旗竿(古代は旗鉾という)に旗を吊して神前に奉納して帰りました。布の旗は朽ちて落ちましたが、旗鉾(竿)はいつまでも神前に立っていたのです。それでその地を旗鉾というようになり、後に旗鉾という地名となりました。

 三代続いた消えずの燈明事件
 年代は降って文化八年(江戸時代末)旗鉾日抱宮のさわらの神木に川からヒラヒラと龍灯が上がって、頂上に神火が現れ、天照大神の札が現れ、神楽が響き神の姿が現れて、一日千数百人が旗を押し立てて参拝し茶屋が数百軒も並び、大谷に茶屋屋敷、大鳥居跡が三ヶ所にでき、信州から馬が献上され、旗鉾へ米や塩を買う人が来る有様となり、京都から寺社奉行常陸守が調査のために派遣されて、かぎ取りの小笠原家に滞在したので、慌てて部屋を新築したのです。その頃の詳しい記録が小笠原家に保存されています。



参考 飛騨の神社 平成祭礼CD

飛騨の五十猛命
五十猛命ホームページ

神奈備にようこそ