伊賀多気神社(いがたけ)
島根県仁多郡奥出雲町横田1278 its-mo



交通案内
JR 横田駅下車 北へ1km

祭神
五十猛命
配 素盞嗚尊、大己貴命

鳥居

由緒
 出雲国風土記によると横田郷の名は郷内にある四段ほどの形の長い田があることに由来するとされる。地名説話としてはへたな部類か。
 神社年間の由緒には垂仁天皇の時代、御神体二体を刻み、社造して祀るとある。相当に古い神社と伝わっていた。
 伊賀多氣神社は『雲陽誌』(享保六(1,717)年編纂の松江藩の藩撰地誌)では五十猛神社と記されている所から見れば、またオロチ伝説の地にふさわしい神ではある。
 もともと、現在より川上の五反田の東辺からそう遠くない所にあったと言う。大呂神社か鬼神神社の辺りであろうか。どちらにしても、鳥上峯とされる船通山に懐かれる地域である。 天文年間(1532?1555年)に横田郷を尼子氏が制圧し、藤ヶ瀬城下の鎮守となった代官森脇家真と五反田屋の手によって、現在地へ遷し、再興されたという。

拝殿

 この地域は石清水八幡宮の領有するところとなり、横田八幡宮が勧請されている。保元三(1158)年出雲八別宮の一つとして横田別宮となるように、 伊賀多気神社はかえりみられることのない時代があった。廃絶していたのであろう。  
 社宝 隋神立像二躰はヒノキ材の一木彫成で鎌倉時代後期の地方の作である。県文化財である。

隋神像(横田町ホームページ画像 www.town.yokoto.shimane.jp から)

平成祭礼データCDの由緒
 伊賀多気神社は垂仁天皇の御代に創建せられた延喜式所載の古社であり、旧郷社である。
 出雲風土記に神祗官社とせられている。
 御鎮座地島根県仁多郡横田町角は、古代横田庄と申し、仙洞院御領地であった。
 御祭神は五十猛命であり、合殿に父神素盞鳴尊と大己貴命を合わせ祀る。五十猛命は父神を助けて大蛇退治をなされた神で、父神と共に朝鮮新羅国曾尸茂梨(そしもり)より樹木の種子を持ち帰りになられ、大蛇の荒らした山野にその種子を播き、治山・治水の実あげられると共に、日本全国に植樹・育林を奨められたので、山林の守護神・樹木の神様として、古くは朝廷並びに林業関係者の崇敬が厚かった。

お姿

本殿

 御社殿 御本殿 大社造  間口二間  奥行二間
    通 殿 切妻造  間口一間半 奥行一間半
    拝 殿 入母屋造 間口五間半 奥行二間
    随神門 楽殿

祭壇

 斐伊川上流のよい砂鉄のとれる地域である。
 素盞嗚尊の八岐の大蛇退治伝承があるが、この神社から3km程東に大呂という地名がある。 そこに大呂神社が鎮座しているが、祭神は天照大神と素盞嗚尊の誓約で誕生したとされる五男三女神である。 軽々しく、祭神を疑うのは不敬ではあるが、斐伊川下流の簸川郡佐田町大字大呂に鎮座する大呂神社の祭神は譽田別命、日本武命、五十猛命、綿津見命の四柱であり、地域柄元々は五十猛命を祭神としていたように思われることを指摘しておきたい。

 「五十猛命の原郷」かも知れないと思ってやっと訪ね来た。黒い大社造の屋根が見えた時にはその威風堂々の姿に感銘した。

 この地域は、国策の洋式製鉄の開始によるたたら製鉄の衰退に伴い、往年の勢いがなくなったが、鉄師達が中心になって町の殖産興業のために力を注いだ。 種馬牛の導入、鉄道の開設、電灯会社・銀行の創業そして木炭の改良と次々と事業を興した。 また、雲州そろばんの珠削り技術の開発は、職人の研究心と奥出雲の鋼、鍛冶技術が結びついたものと言える。
 このような創意工夫は何か紀州の人々の雰囲気と相通じるような気がする。日本人の存在意義の原点である。

お祭り

祈年祭  四月八日
例大祭 十一月八日
新嘗祭 十二月八日

出雲国風土記 仁多郡[にたののこほり]から

仁多郡
合はせて郷[さと]四 里[こざと]一十二
 三處郷[みところのさと] 今も前[さき]に依りて用ゐる。
 布勢[ふせ]郷 本の字は布世[ふせ]。
 三澤[みざは]郷 今も前[さき]に依りて用ゐる。
 横田[よこた]郷 今も前[さき]に依りて用ゐる。
  以上四、郷別[さとごと]に里[こざと]三。

仁多と號[なづ]くる所以[ゆゑ]は、所造天下大神大穴持命[あめのしたつくらししおほかみおほあなもちのみこと]、詔[の]りたまひしく、 「此の国は大きくも非ず、小さくも非ず、川上[かはかみ]は、木の穂[ほさ]し加布[かふ](交ふ)。 川下[かはしも]は、河志婆布這[かはしばふは]ひ度[わた]れり。是[こ]は爾多志枳小国[にたしきをくに]なり」と詔りたまひき。 故[かれ]、仁多と云ふ。
三處郷[みところのさと]。即ち郡家[ぐうけ]に屬[つ]けり。大穴持命[おほあなもちのみこと]、詔りたまひく、「此の地[ところ]の田好[よ]し。 故[かれ]、吾[あ]が御地[みところ]の田」と詔りたまひき。故[かれ]、三處[みところ]と云ふ。
布勢郷[ふせのさと]。郡家の正西[まにし]一十里なり。古老の傳へに云へらく、大神命の宿[ふせ]り坐[ま]しし處なり。故[かれ]、布世[ふせ]と云ふ。神亀三年に、字を布勢と改む。

三澤郷[みざはのさと]。郡家[ぐうけ]の西南二十五里なり。大神大穴持命[おほかみおほあなもちのみこと]の御子[みこ]、阿遅須伎高日子命[あぢすきたかひこのみこと]、御須髪八握[みひげやつか]に生[お]ふるまで、晝夜[よるひる]哭[な]き坐[ま]して、辞[みこと]通[かよ]はざりき。 爾[そ]の時、御祖命[みおやのみこと]、御子を船に乗せて、八十嶋[やそじま]を率巡[ゐめぐ]りて宇良加志[うらかし](慰[うら]かし)給へども、猶哭[な]き止みたまはざりき。  大神、夢[いめ]に願[ね]ぎたまひしく、「御子の哭[な]く由[よし]を告[の]りたまへ」と夢に願[ね]ぎ坐[ま]しき。その夜、御子の辞[みこと]通[かよ]ふと夢見坐ししかば、則ち[さ]めて問[と]ひ給ふに、爾の時、「御澤[みざは]」と申したまひき。 爾[そ]の時、「何處[いづく]をか然[しか]云ふ」と問ひ給へば、即[やが]て御祖[みおや]の前を立ち去り出て坐して、石川[いしかは]を度[わた]り、坂上[さかがみ]に至り留まりて、「是處[ここ]ぞ」と申したまひき。 爾[そ]の時、其の澤[さわ]の水沼[みぬま]出[い]だして、御身沐浴[みみそそ]ぎ坐しき。故[かれ]、国造[くにのみやつこ]、神吉詞[かみよごと]奏[まを]しに朝廷[みかど]に参向[まゐむ]かふ時、其の水沼[みぬま]出[い]だして用ひ初[そ]むるなり。 此[ここ]に依りて、今も産婦[はらめるおみな]、彼[そ]の村の稲を食[くら]はず。若し食へば、生[う]まるる子已[すで]にもの云[い]はず。故[かれ]、三澤[みざは]と云ふ。即ち正倉あり。

 横田郷[よこたのさと]、郡家[ぐうけ]の東南二十一里なり。古老の傳へに云へらく、郷の中[うち]に田四段許[よきだばかり]あり。形聊[いささ]か長し。遂に田に依りて、故[かれ]横田と云ふ。即ち正倉あり。以上の諸[もろもろ]の郷より出す所の鐵[まがね]、堅くして、尤[もつと]も雑具[くさぐさのもの]を造るに堪[た]ふ。
澤社[みざはのやしろ]  伊我多気社[いがたけ]  以上二所は、並びに神祇官にあり
玉作社[たまつくり]    須我乃非社[すがのひ]
湯野社[ゆぬ]    比太社[ひだ]
漆仁社[しつに]   大原社[おほはら]
印支斯里社[いなぎしり]  石壷社[いはつぼ] 以上八所は、並びに神祇官にあらず

以降に山、野、戀山、川、道の説明が続く。各郷の神社のサイトに掲載する。
【横田郷】
鳥上[とりかみ]山。郡家の東南三十五里なり。伯耆と出雲との堺なり。鹽味葛[えびかずら]あり。
横田[よこた]川。源は郡家の東南三十五里なる鳥上[とりかみ]山より出でて西に流る。謂[い]はゆる斐伊河[ひのかは]の上[かみ]なり。年魚[あゆ]少しくあり。
 

出雲の五十猛命
五十猛命ホームページ
神奈備にようこそ