湯野神社
島根県仁多郡奥出雲町亀嵩1284

砂の器記念碑と湯野神社鳥居

交通案内
JR 亀蒿駅から広瀬町方面(北東)3km its-mo


祭神
大己貴命、少彦名命、迩迩藝命、事代主命
合祀 三保津比賣命、大年神、御年神、若年神、香香背男命、素盞嗚命、國常立命、國狹槌命、豐斟渟命、武甕槌命

摂社
隨神社「櫛石窗神、豐石窗神」
玉作神社「櫛明玉命、大己貴命、少彦名命」
上分山の神「大山津見命」
鹿島神社元宮「武甕槌命」
妙見社「天御中主命」
緑の主護神「須佐之男命、五十猛命」
観音堂原山神社「大山津見命」
御崎森神社「大己貴命」
御崎森神社「大己貴命」
貴船神社「高
恵比須神社「大己貴命、事代主命、蛭子神」
西湯野愛宕神社「加具土命」
久比須愛宕神社「加具土命」
金比羅神「大物主命」
湯場乃社「湯野神社の主祭神」
中湯野愛宕神社「加具土命」
山以後谷荒神「須佐之男命和御魂、須佐之男命幸御魂、須佐之男命奇御魂」
中湯野山神社「大山津見命」

本殿


由緒
 通称、大森神社とも呼ばれる。 また亀嵩温泉にちなんで湯野神社と云う名になったという。 『出雲国風土記』記載社で、温泉の医薬の守護神として崇められた。
 他の記載社では仁多郡の玉作社が向かいの玉峯山上に鎮座していたと云う。古老の伝に曰く、山嶺に玉上神を在(いま)せまつる。とある。

 玉峯温泉には仁多町が24億円を投じた玉峰山荘が偉容を誇っている。
 また雲州ソロバンの産地で手作りと質の良さで定評がある。この技術の延長の伝統工芸の木工品作りも行われている。

 松本清張の小説「砂の器」ではこの亀嵩部落改め亀嵩町(碑文は亀嵩集落)のズーズー弁がキイとなって事件は展開解決に向かうのであるが、 このズーズー弁が何故、奧出雲の一部と奧羽に残っているのだろうか。
 確定した説はないようだが、西日本のうどん嗜好と東日本の蕎麦嗜好があるなかで、茶色のそばは,大和王権に従わなかった出雲人が北陸,信州,東北に広めたともいわれている。 出雲と信濃、建御名方命は蕎麦文化を持ち込んだのだろうか。

 もうひとつ平安時代になってからだが蝦夷征伐が始まると杵築神社(出雲大社)が倒壊したそうである。 朝廷は再建のエネルギーを出雲にも注がざるを得ず、力が分散されたという。レズーズータンスだったのかも。

本殿左手の摂社群(石に神名) 右手の摂社の祠
 

お姿
 緒方拳が駆け上がった石段を登ると次に参道が100m程続く。両側に10mおきに杉の木が整然と並び立つ。 こけむした参道をゆっくり進むと冷気とともに霊気を感じる気分。 拝殿の太い注連縄は勇気を与えている。

 五十猛命を祀る緑の守護神の祠や石は見つけることが出来なかったが、全体が緑の守護神とよぶにふさわしい。

参道の風景


お祭り

 3月21日 祈年祭
 10月21日 例大祭

緑の守護神例祭 5月 3日


「平成祭礼データCD」湯野神社
由緒・沿革
創立年代は詳らかでないが、六国史及び出雲風土記所載の神社にして、亀嵩温泉の医薬の主護神として創建された神社である。
社名は「中湯野、西湯野、湯野の小川」など出雲風土記関係や雲陽誌・出雲神社巡拝記・出雲国神社考にあるがごとく、亀嵩温泉に関する地名から「湯野神社」となったものである。古文書、古記録、棟札によれば、温沼神・湯野社・大森大明神・湯野社大森大明神・大森社・大森神社・亀嵩大社・中湯野村社・亀嵩神社とあり、又亀嵩の各集落にあった神社(村社)の総氏神であったことは、棟札に総本願のほかに各部落の神社の氏子中より村本願がで、遷宮費もその全集落が負担していることが明記されており、又天保十三年の祭礼神事当人組帳や第二の鳥居の柱と額に「亀嵩大社」と記されていることからも、総氏神であったことを知ることができる。
宸旨をいただく祈願社であったことは、三代実録に清和天皇の貞観十年秋九月二十一日に従五位下、同十三年冬十一月十日に従五位上を授けられていることで知ることができる。
社地は往古字「宮地」と称するところに出湯があって、その地に四間四方の壮大な宮殿があったのを、北条時頼の特命を以てより以上の社殿を改建しようとして、約百米西の現社地に奉遷したのであるが、建立を果たさずしてついに仮宮が本社となって現在にいたっている。
当社には正神主・御權神主・下職・巫職が奉務し、又社の南西に接して常連寺があってその僧とともに祭祀をつかさどり、二十四石四斗ニ升の社領があった。
百六代正親町天皇の頃と思われるが、正神主の千原某が神社領地を専らにしようとして権神主と常連寺を焚殺す。
そのため天正の頃に現社家の祖先恩田大和(職名祝宇江衛門)が神主となって、新らしく神社の寺となった青龍寺の僧とともに祭祀にあたった。
巫職は世襲にして八乙女舞を奉納していたことは雲陽誌に記載されているが、その家系は中絶した。
文久辛酉の年になって、正神主恩田生男と青龍寺の僧寛開とが祭祀を争ってついに青龍寺の僧は祭祀にあずからないこととなる。その後、正神主は家系が「新宮」と改姓して祭祀にあたっている。
下職は明治四年郷社に列せられるまで勤務し、仁多町下阿井の加納六大夫がその家系である。
天正八年己卯三沢の城主三沢少輔八郎為虎にいたるまで、三沢氏が大檀那となって修めて、当時の棟札には氏子や職人の氏名が全くない。神主も三沢に仕えていたことは、天正二年十二月八日に三沢左京為清より当時の神主恩田大和正が猪子狩の手柄により土地を授けられていることからも知ることができる。三沢氏以前のことは判明しないが、三沢氏以後は氏子の修むるところとなっている。
亨和元年辛酉の日に亀嵩町が全焼し、その火がたまたま御修造中の工匠小屋に移り、本殿をはじめ全社殿を消失するも玉殿は無事に奉遷した。
慶応三年丁卯十二月晦日に正神主の家に火災があり、多数の文書や宝物が焼失した。
明治四年七月四日太政官達「郷社定制」により同年十二月十二日付を以って郷社に列せらる。
明治三十九年勅令第九十六号に依り、明治四十一年一月五日島根県告示第三百六十一号を以って「神饌幣帛を供進することを得べき神社」と指定せらる。又昭和六十一年七月一日島根県神社庁特別神社に指定される。
明治四十一年七月二十日村内字上分に鎮座春田神社・字梅木原鎮座鹿島神社・翌二十一日字西湯野鎮座星神社・字久比須鎮座久比須神社の各村社を、許可をえて合祀した。
境内神社「玉作神社」は古来玉作社・玉造社・玉上大明神と称し、出雲風土記所載の社である。往古は玉峰山上に大杉一株を神木とし、百間四方の社地を有して、同山より産出した水晶を以って玉を作った人々の祈願社であった。元文元年丙辰三月、三沢三郎左衛門為清が、隣接の鬱峰山に築城のため字原谷に遷座した。その後明治四十二年十月十四日、許可を得て同年同月二十二日に境内神社として遷座した。
以上


参拝 h14.6.4 8:20

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