藤並神社
有田郡有田川町天満722 its-mo

鳥居と泣沢女古墳

交通案内
きのくに線 藤並駅下車 金屋方面行きバス天満下車


祭神
菅原道真、水主神、菅原高視 配 菅原宣來子


摂社
山東神社「伊太祁曽大神」 伊太祁曽神社からの勧請
蔵王神社、祇園神社、秋葉神社、粟嶋神社

 摂社の山東神社は伊太祁曽神社の鎮座する山東から勧請されたと云う。 従って祭神は五十猛命。『紀伊続風土記』には山東社の記載は近辺の村々にも見あたらない。

社殿

藤並神社の由緒


 武内宿禰が勅命を奉じて水主神を勧請したのが創祀と伝えられている。 その後斉明天皇三年(657年)有間皇子が当国へ行啓の時、幣を捧げられ翌年の秋天皇が牟婁の湯に行幸の砌、幣帛を奠じたまい。神戸田を殖されたと云う。

 平安時代、天元三年(980年)紀伊国司菅原有忠郷が霊を感得されて、山城国北野天満宮から菅原道真公の霊を勧請合祀して天満宮と改称したとのこと。

 天正の頃、豊臣氏の南征により社領は没収されたとのことであるが、徳川時代に再興されている。

 明治以前は両部神道、その後唯一神道、明治末期周辺の神社を勧請し、藤竝神社と改称した。

山東神社を覆う社殿 なかに二祠あり  向こうは本社本殿

お姿
  吉備の平野はミカンの木々でいっぱいである。山々もミカンである。いわゆる有田ミカンの産地ということ。 元々は水田であった所がが、減反政策もあり、損の少ないミカン畑になったのだろう。

 その昔は有田川は流れを変えていたのであるが、神社境内に泣沢女古墳が造営されている。 通常古墳が出来る所は湿地帯ではない。7世紀頃には有田川の堤防は出来ていたことを示す古墳である。 逆に平地が多く、水に苦労していたので水主神が祀られたのかも知れない。

 藤並神社の古墳由来書には、斉明女帝(宝皇女)の御孫建皇子が八歳にして薨去、天皇は皇子の事が忘れられず、健康をそこなう有様なので、有馬皇子の勧めで白浜の湯へ湯治におもむいたとあります。 658年のこと。この吉備の地は大和の建王子を葬った地と似ていたので、皇子の遺骨を納めたとの説明です。 斉明女帝の名代に泣沢女がいたのかもしれません。

 有田川とその両側に山系、また下流にも丘が見える。糸我方面である。

 古墳は県の指定文化財、7世紀はじめの造営、径21m〜24mの円墳。 周囲3mの溝、巨石での横穴式石室の石材は県下最大。土器、金製耳飾り、ガラス玉などが出土。

お祭り
 例祭 10月 9日
 管粥占祭  1月15日
 


紀伊續風土記 巻之六十 在田郡 藤並荘 天満村から

○天満天神社  境内周二百六十間  禁殺生
 本 社  拜 殿  廳  鳥 居  神楽殿
 末社六社
  祇園社  
白太夫 少彦名命社  猿田彦神社
  紅梅殿  水舟神社  建豊羽頬別神社

村中野田村境にあり 荘中下津野村を除きて九箇村の氏神なり  古傳に天元三年國司菅原ノ有忠霊夢を蒙りて山城國北野ノ社より勧請すといふ  或はいふ 守護政俊といふ人霊夢を蒙りて祭るとそ 是は其時国司の命にて其事を奉行せしよりかく誤り傳へなるへし  寛文記に此時河内守もみちのかみ並松といふ三人を供奉として九月九日に渡御あリ 並松は社僧となり両人は禰宣神主となる  故に其日を祭日とすといふ 奥村の大顔明神を濱宮とし八幡宮を御旅所として祭礼の時神輿渡御あり 祭日には両社の神主に当社に來りて神事をなす  流鏑馬あり 畠山氏の時迄は社領ありしに豊太閤の時没収せらる 當社舊は両部に祀りしに今唯一となれり  兒玉記に日本国神名帳在田郡の中に天満天神并十萬五千眷属左右二氏神とあるは是なるへしとあり  今傳ふる所の帳には此神を戴せすといへとも異本にありしならん  神主堀氏あり 雷石の御影とて雷除けの神符を諸人に輿ふ 社家に電ふる当社の由緒書あり 近世の偽造にして盡付会の説なり  神器に享徳三年藤並某寄附の品あり 其形圓にして處々に金具を打たる板なり 銘に御正軆一面とあり 鏡を納たる箱の蓋の類なるへし
 

天元三年 980年  享徳三年 1454年



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