根来寺の神々 三部明神、九社明神
岩出市西坂本 its-mo九社明神


大門 嘉永三年(1850)再建

交通案内
和歌山線岩出駅よりバス紀伊駅行き根来下車
阪和線紀伊駅よりバス岩出行き根来下車

多宝塔 明応五年(1496)建立  大伝法堂
 


多宝塔は最も中心となる建物で、根来寺の宗教的心髄である。多宝塔として規模も大きく、我が国唯一の木造大塔である。国宝。
大伝法堂 根来寺を総括した本堂。中央に大日如来、左脇に混合菩薩、右脇に尊勝仏頂尊を安置。

祭神
円明寺(三部大権現、伊多岐僧社「五十猛命」)、豊福寺(九社明神「地主神」)ほか

不動尊 嘉永三年(1850)建立  行者堂 役行者を祀る
 

由緒
一乗山 大伝法院 根来寺と云う。根来寺は大治5年(1130年)、興教大師(覚鑁上人)が高野山に伝法院を開いたのに始源を持つ。 後に覚鑁は高野山と対立し、ここを離れて保延6年(11140年)に根来の豊福寺に居を移した。豊福寺は1300年前、役の行者が葛城28ケ所の行場を集約して創立したと伝わる。
 高野山と覚鑁上人はその後も反目が続き、大伝法院や密厳院などが移り、一大伽藍を備えた根来寺が成立したのである。

 紀ノ川下流域は日前国縣神宮の勢力下にあり、紀ノ川中流上流域は高野山の勢いが根強く、根来寺が領域とした地域は、地元の石手荘、岡田荘、弘田荘(岩出町)や山東荘(和歌山市)、相賀荘(橋本市)であった。山東荘は紀ノ川から一山南の地域で、熊野古道が通り、また伊太祁曽神社の鎮座地であった。根来寺は伊太祁曽神社と手を結んだのである。現在でも、伊太祁曽神社の奥の宮は矢田の伝法院の北側に鎮座する丹生神社である。覚鑁堂も隣にできている。
 いずれにしろ、ここに紀北の名刹の二つのグループができたのである。高野山金剛峯寺と丹生都比売神社のコンビに対して、根来寺と伊太祁曽神社のコンビは、その後も信者獲得、領域拡大に競ったのである。根来・伊太祁曽グループは泉南にまで勢力を伸ばしたのであり、未だにその地域の信奉は篤い。



お姿
 葛城連邦の山腹に位置し、東西二十町、南北十二町で、北を頂点とする三角形の地形で、約34万坪の広さ。
 鎮守社はそれぞれの社殿は大きくはないが、美しく造られている。
 しかし残念ながら伊多岐僧社は見当たらなかった。



三部大権現 この右側手前に伊多岐僧社が鎮座していたようだ。
 


紀伊国名所図会(紀伊国神々の考古学(菅原正明)から)

九社明神
 


根来寺奥の院(覚鑁上人の墓)


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