大川八幡神社
和歌山市大川48 ゼンリン

鳥居

交通案内
南海電鉄多奈川支線多奈川下車 赤バス小島住吉行き終点より65号線を海外沿いに南下15分


祭神
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后


摂社
住吉神社「住吉三神、船玉大明神」
鳴神神社 天王山に鎮座

江戸時代の大川浦の小祠(紀伊続風土記から)
福神社
社地周十六間 社中に神像二軆を安す。神功皇后伊太天の神像なりといふ 二軆を合わせて福の神と稱す  往古より村中にありしに天文年中孫右衛門先祖此地に移すという 
按するに伊太天は佛説にいふ韋駄天にはあらすして伊太の神にして五十猛神伊達神と同神にて此神新羅國へ下りましヽ事あれは三韓退治の時のよしなとありて 神功皇后に合祀せる成へし 社地に疱瘡神あり

摂社の住吉神社と大川八幡神社(右)


大川八幡神社の由緒
 廻船問屋中とい記銘された壮大な石灯籠が四基奉納されており、紀州廻船の一翼を担う廻線基地として江戸中期には繁栄したようである。圓光大師自らが刻んだとされる圓光大師木像を持つ報恩講寺も現存している。
 境内社の住吉神社は当神社の元の鎮座地にあったが、遷座していたようで、明治十八年再び当地へ遷座してきている。

飛び地社の鳴神神社



 鳴神神社の創建年代は不詳、大正十一年に家鳴りが大きくなり、夜になると外出できない程となり、調べてみると家鳴りを起こしている家に信仰する神社が大川天王山にあり、荒廃していた。急ぎ改築を行い、鳴神神社と名付けたと言う。


お姿
  海の香りのする港であり、人々は穏やかな様子。
 大川八幡神社の大きい石灯籠を横目に見ながら石段をのぼると、丁度、氏子の方が集会所から出てこられた。 神功皇后と伊太天の神像のことをお尋ねしたのだが、ご存じなさそうで、他の氏子の方にも確認してくれた。 で、その氏子の方は小生に順次御神体を見せてくれた。実にあっけらかんとしており、こちらが驚いてしまった。
 その中には残念ながら神像は見つからなかった。
 おそらくは鳴神神社はその鎮座地の山を天王山と言う。福神社の後裔社と思われるが、港の人々はこの神社に詣ることを怖がっているとのことで、一部の氏子の方がお祭りされているようだ。

 古墳前期の製塩遺跡や弥生式土器などが出土している。


お祭り
 例大祭  9月15日
 住吉神社  6月30日
 


紀伊續風土記 巻之二十三 海部郡 加太荘 大川浦から

○住吉社  境内周二十六間
  村の西にあり 一村の産土神にて拝殿もあり社壮麗なり

○八幡宮   境内周六十間
村の西の方海邊にあり 舊は住吉の境内に鎮座ありしを寛永年中本藩臣山本十太夫當所を領せしとき村民孫右衛門と心を合せて此地に遷すといふ 今村中の産土神とす 社壮麗にして尋常一村の産土神の盛りにあらす

小祠七社
山神社 
社地周十六間
福神社 
社地周十六間 社中に神像二軆を安す。神功皇后伊太天の神像なりといふ 二軆を合わせて福の神と稱す 往古より村中にありしに天文年中孫右衛門先祖此地に移すという 
按するに伊太天は佛説にいふ韋駄天にはあらすして伊太の神にして五十猛神伊達神と同神にて此神新羅國へ下りましヽ事あれは三韓退治の時のよしなとありて 神功皇后に合祀せる成へし 社地に疱瘡神あり
妙見社 
社地周十四間   里神社 社地周十四間
夷社      祇園社
八王子社社 
いずれも村中所々に散在す
 

天文年中 1、532年ー  

 参考 和歌山県神社誌

古代史街道 紀の国
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