高積神社(たかつみ)
和歌山市禰宜1557 上宮its-mo

上宮の参道と鳥居
 



交通案内
阪和線  天王寺→和歌山 (60分820円)
和歌山線 和歌山→布施屋(ほしや)
 南正面の高積山(和佐山)の西へ 1500m で下宮
 下宮の左側の山道を頂上に行く。25分の登りで上宮。

上宮の拝殿


祭神
『紀州名所図会』高積比古命、高積比売命

『紀伊続風土記』都麻津姫命、五十猛命、大屋都姫命



由緒
 延喜式神名帳に紀伊国名草郡に高積比古神社、高積比賣神社の名が見える。その神社の後裔社であろうと思われるが、神社由緒書きや郷土史家は全くこの事に触れず、ひたすら伊太祁曽神社の三神分祀の勅命による都麻都比売を祀った式内社都麻都比売神社の論社を主張する。どうやらその理由は上宮が鎮座する高積山は高山であり、高宮、高大明神と呼ばれていた神社を失われた高積の神々になぞられて「高」から「高積」としたと想定されること。また気鎮神を合祀したことで、三柱の神を祀っているので、それならば伊太祁曽三神になぞらえる事が出来ると考えたのであろう。要するに伊太祁曽三神の人気は今に至っても高いのである。

上宮の本殿
 


  上宮が紀ノ川下流の神奈備山である高積山の頂上にある。いつ頃からか、伊太祁曽三神を祀ったとされ、高三所大明神と呼ばれたようであるが、高積比古神社、高積比賣神社に比定するのが自然。『式内社調査報告』もその見解である。

 高積山の北側が和佐関戸であり、この地に妻御前社が鎮座していた。祀神は都麻津姫命とされる。五十猛命と大屋都比売を配祀している。また下宮の地は気鎮社であったようだ。



お姿
 下宮 熊野古道に面しており、王子社の川端王子を合祀している。本殿は木々に覆われ、流石に木の神である。

 
上宮 登り道はきついがいい道である。山の上としては驚く程の造りの神社である。感激する。本殿の背後の杉の木が立派。上宮周辺は照葉樹林で、その濃厚な葉の光は真冬とは思われないたたずまい。休息所がある。紀ノ川一円が見渡せる。

下宮の鳥居


下宮の拝殿



お祭り

 4月15日 春祭例大祭
旧6月30日 茅輪神事
10月10日 秋祭例大祭
12月15日 火焚の神事




下宮の本殿





紀伊国名所図絵から 上社 高御前社  下社 気鎮社




紀伊續風土記 巻之十一 名草郡 和佐荘 禰宣村から
○高三所大明神社  境内 
東西三十間 南北十五間 禁殺生
  五 十 猛 命
  都麻都比賣命  合殿 
方二間半
  大屋都比賣命  
   廳  瑞籬  鳥居
 末社七社
  帝釋天社  結神    山王社
  辨財天社  恵比須社  塚主神
  粟島社
 延喜式神名帳都麻都比賣神社 
名神大 月次新嘗
 本國神名帳従四位都摩都比賣大神
村の東和佐山の嶺にあり 和佐山一に高山といふ故に古より高社高宮高三所大明神又高御前とも稱す 關戸井ノ口禰宣中村の氏神なり 古は那賀郡小倉荘三毛村邉まで當社を氏神とすといふ 當社往古は伊太祈曾神大屋津比賣神と共に今の神宮郷日前國懸兩宮の地に在し後山東荘伊太祁曾の地に遷り大寶二年(702年)三神を分祀して都麻都比賣命は此山に遷り玉ふ 三代實録貞観元年(859年)従五位下勲八等伊太祁曾神大屋津比賣神都摩都比賣神並授従四位下とあり其後従四位上に授け給ふと見えたり 三神三所に分れ鎭り坐る後も三所とも各其御神を中央に祀り外二神を猶左右に祀る故に當社を三所大明神と稱す 寛文記に古は三社造りとあり
當社の事元禄年間(1688年〜)誤りて高積彦高積姫を祀るといふ其辨詳に伊太祇曾神社の條及神社考定部に載たり
祭禮九月二十日なり 舊は十一月十四日火踏[ヒフミ]の神事あり 日前宮神事記に當社の神事正月十一月十二月としるせり 又兩宮の社人及伊太祁曾の社人神事を勤るの事あり 昔は祭禮に神輿渡御あり 流鏑馬ありしに天正兵亂の後皆廢せりといふ 元和(1615年〜)以来廢を起し別當歓喜寺を罷て唯一に復せられ漸く今の姿となれり  後鳥羽院及達智門院領家藤原宰相等諸家より當社への寄附状今猶歓喜寺に傳えたり 神主を神下周防といふ




紀伊續風土記 巻之十一 名草郡 和佐荘 関戸村から
○妻御前社  境内 周十六間
村中にあり 祀神妻津姫命 寛文記に宮三社作り五十猛命大屋津姫ノ命を合祀するならんとあり其比まては伊太祁曽の社人毎年五節供に當社に來りて神事あり 事終りて高明神に至り神拝ありしとそ社前に黒木の鳥居あり




紀伊續風土記 巻之十一 名草郡 和佐荘 禰宣村から
○気鎮社  境内 
東西六十間 南北三十間 禁殺生
  本社  
方二間半 御供所  廳  瑞籬  鳥居
  末社  恵比須社
村の東三町許和佐山の麓にあり 祀神詳ならす 按するに気鎮は假字にて弦鎮と書を本字とす 弦鎮は後世蟇目なと云と同し義にて弓の弦音にて悪魔を降伏するの名なり 寛文記に此御神御装束は甲冑を御鎧魔王と軍をし玉ふ時の御姿を祝ひ申しにより荒神にて軍神とも申奉とあり
寛文記村民の説をそのまヽに書せし故三所明神と気鎮明神とを混同せる説なり 然れは神名は定かならされとも御手に弓なと執らせ玉ふ御姿にて弦鎮大明神と稱するなるへし 其詳なるは考定部に出せり 禰宣井ノ口関戸布施屋四箇村の氏神なり 古は国造家より高社を祭る事あり 其時此社前の楠樹を三遍匝りて後山上に登る 是を和佐の三匝りといふ事は国造旧記に見えたり 今は此式絶たり 神主を関本左内といふ



紀伊名所図会 気鎮神社、高御前神社

気鎮神社(きづめのじんじゃ)
 禰宣村東二町にあり。祀る神紀直祖天御食持神、例祭毎歳九月二十日。「本国神名帳」に云ふ、従四位上気津別神。社伝に大直日神と御同体なりといふ。あるひは和佐の山上に座すを高津比古の神とし、気鎮の神はすなはち高積比売の神なりとのいへり。尚ほくしくは次下高御前神社にいふべし。

高御前神社
 同じ村の東、山のうへにあり。祀る神三座、高津比古神、庚津比売神、気鎮社。当荘五箇村(禰宣・中村・関戸・井ノ口・栴檀木、以上五箇村)産神にして、例祭毎年九月二十日。又毎歳十一月十四日夜戌刻、薪十二束を積みてこれを燃やし、烈火中を社司ふみ渡るの神事あり。「延喜式神名帳」に云く、高積比古神社・高積比売神社。「本国神名帳」に云く、従四位上高積比古神・高積比売神社。社伝に云ふ、高神社(たかのじんじゃ)と申し奉るは、則大直日神にてます。魔神降服の御姿にして、甲冑を帯し、矛を持ちたまへり、されは軍神とも仰がれ玉ひ、または悪風邪気を駆除したまふをもて、小児疱瘡の憂を免れしめ給へりといふ。疱瘡流行のときは、山下気鎮社へ土人群参してこれをいのるに、かならずまぬがる々といふ。当社は或説に、天照大神の荒魂をまつるなりともいふ。「倭姫世紀」に曰く、多賀宮一座、豊受荒魂なり。伊弉那伎神所生神名伊吹土戸主亦名曰神直日比神云々。此の記によっていへるなるべし。多賀宮は宮社たがひありて、拠とするにたらざれども、社伝の大直日神といへるに、天照大神の荒魂なりといへるがよくも適へれば、さもあるべきか。按するに、「古事記」に、伊弉那伎大神、伊弉那美大神の黄泉国に至りたまふを、追求きたまうて、つひに穢國のけがれをうけ給ふをもて、筑紫日向橘小門之阿波岐原にいでまし、御身の汚垢(けがれ)を禊祓なし給へる段に、於是詔之上瀬者速。下瀬者瀬弱而。初於中瀬随迦豆伎而。滌時所成坐神名八十禍津日神。次大禍津日神。此の二神者。所至其穢繁国之時。因汚垢而所成之神なり。次為直其禍而所成神名神直毘神。次大直毘神。次伊豆能売神云々。これ今も世間にありませるなれば、神の御教えに、いにしへよりかく汚垢を除ふの禊わざはあるなり。扨(さて)神直毘・大直毘とは、其の禍を直したまふ所の御神なり。伊豆能売神とは、其の穢・悪・禍を神直びに直し清めて、明けくなし給へる御神なり。これをもて思ふに、社伝に当社の御神を大直毘神とし、魔神降服の御正体といへること、いと由縁ある事にこそ。魔神とは、則かの禍津日神をいふなり。また世に疱瘡の神などいへるものは、もとより夜見の国の穢気の成りませる神なれば、人の目には見えずして、もろ々々の禍害をなすなり。気のわざわひをなす例は、「書記」神武巻に曰く、天皇独與皇子手研耳命。帥軍而進至熊野荒坂津。因誅丹敷戸畔者。時神吐毒気人物咸瘁云々。又「古事記」水垣宮巻に、天皇の大御夢に、大物主神の詔に、令祭我御前者神気不起云々。これ天下疫気の行はるヽときのことなり。これらみな其証なり。こヽをもてその穢気を神直び大直びに直したまふ御神なるをもて、気鎮の義をとりて、気(いぶき)の伊夫と鎮の志とを略きて、伎豆の神とは称へたてまつるなり。或いは云ふ、気は疫気・神気などの気にて、祁豆の訛ならんといへるはわろし。気の伊を略ける類をいはば、なほ置の於を略きて日置・玉置などといはんがごとし。さて気鎮のことは、「遷都崇神祝詞」に、山川乃広久清地爾遷出坐弖。神奈我良鎮坐世止辞竟奉とあるも、その崇神をうつし鎮むるのことなり。また高積の美を豆の韻通にて、高とは是を美称ふる御名なり。また高津比古。比売の御名は、高積の美を略けるなり。されば当社三座の御神を大直毘の神と申し奉ること、是にていと々々明けくきこゆるなり。さてこれをわかちて、高津比古神は山上に齋き奉り、高津比売神は山下に齋き奉りしを、すべての御名を気鎮社と申せしなるを、のちにあやまりつたへて、三座の神のごと齋き祀るなるべし。しかるを或人のいへるは、高積比古神とは、紀直の祖天道根命の六世孫若積命にして、紀氏の祖廟なりといへり。若積命は「姓氏録」右京神別に大村直の祖とす。また紀直は「同書」河内國神別に、神魂命五世孫天道根命之後なり。「同書」和泉國神別に、神魂命子御食持命の後なりとも見えたり。さすれば若積命は、紀直の祖ならざること明けし。しかのみならす、紀國造
國造と直は同氏なり。 は、当国日前・国懸両大神天降の時、御従に奉仕せし神孫にして、「国造系図」に、第一天道根、第二比古麻、第三鬼刀禰、第四久志多麻、第五大名草比古、第六宇遅比古と序でたり、こは今の世若山の内に宇治といへるところあり、此の地によれる名なるべければ、いよいよ若積命ならざることをしるべし。中葉以来干戈の変によって、往々鵲巣にして居るものすくなからず、正さずんばあるべからず。
  以上



抓津姫命を祀る神社
(平尾)都麻津姫神社
(吉礼)都麻津姫神社

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