兵庫県の五十猛命


養父市養父町市場  養父神社

養父市大屋町宮本  御井神社

養父市関宮町三宅  大與比神社

養父市八鹿町石原字妙見1755-6  名草神社

加東市東条町天神  一之宮神社

姫路市今宿  高岳神社

姫路市田町  高岡神社

神戸市西区押部谷町  天一神社

神戸市須磨区権現町  証誠神社

神戸市須磨区南町  弓場八幡神社

姫路市広嶺山  広嶺神社

姫路市総社本町  射楯兵主神社

姫路市辻井  行矢射楯兵主神社

龍野市竜野町宮脇  小宅神社

龍野市揖保町  中臣印達神社

姫路市別所町  白髭神社

猪名川町柏原  八坂神社摂社八将神社

猪名川町杉生  八坂神社摂社八将神社

猪名川町笹尾  春日神社摂社五十猛神社・大屋神社

猪名川町清水  天満神社摂社金刀比羅神社

猪名川町北田原  高皇産神社摂社九頭社

川西市黒川  白瀧稲荷神社

川西市山原  戸隠神社摂社元宮社

三田市香下  八王子神社

兵庫県姫路市一宮町  伊和神社

姫路市林田町  林田八幡神社

上郡町山野里  高嶺神社

五十猛命ホームページ
神奈備に戻る



 養父神社
兵庫県養父市養父町市場宮ノ谷827-3  mapfan


交通案内
JR山陰線養父駅 線路沿いに北2km

祭神
倉稻魂命  米麦 養蚕 牛馬  に秀でた神
少彦名命  薬草 治病     に秀でた神
大己貴命  国土開発、統治   に秀でた神
谿羽道主命 国民生活の安定の方途に秀でた神
船帆足尼命 地方政治      に秀でた神

摂社 五社神社  天熊大人神、天照皇大神、素盞嗚命、月讀命、五十猛命
摂社 山野口神社 大山祇神
摂社 加遅屋神社 奧津彦命、奧津姫命、猿田彦命

由緒 
 907年の延喜式神名帳には養父郡30座筆頭に夜夫座神社 名神大2座、小3座とある。
 社伝によれば崇神天皇13年の創祀とある。当初は弥高山全体が神体とされ、山頂に上社、中腹に中社、現社地に下社が置かれていたと言う。現在上社中社の痕跡は残っていない。 「養父郡誌」は上社を保食神と五十猛神、中社を少彦名命、下社を丹波道主命と船帆足尼命としている。
 養父市場は但馬牛の牛市の中心地であった。延喜式には養父市場では五十猛命を牛取引の神様とするとあり、その頃には祭神に五十猛命が入っていたのであろう。 神の前で取引・取り決めをするのは古来からの風習であり、決して裏切らない事の証であった。五十猛命の父神が素盞嗚尊とされ牛頭天王とされている。牛との関連が見える。

お姿
 バス停養父明神下車すぐである。広い境内には紅葉が多い。近隣に住居はない。弥高山と円山川の間にはJRと道路があり、それで一杯である。かっては円山川はもっと東北に振っていたのであろう。 元禄年間に建立された水谷山普賢寺があったが社務所になっている。本殿も元禄9年の建立である。

神社



五社神社



お祭
お走り祭  4月14日から3日間
養父町指定の無形文化財、神輿を南18kmの斎神社「彦狭知命」まで渡御し翌日還御する。円山川や大屋川を渡る。
 円山川周辺の開拓の言い伝えは多く、泥海であったこの一体を彦狭知命が城崎の瀬戸の山を切り開いて泥海から田にしたと言う。この神恩に報いるべく、養父神社が五社明神(粟鹿、養父、出石、小田井、絹巻神社)の名代として斎神社にお礼参りを行ったのが御渡祭の起源と伝わる。
 宮下豊氏の「但馬国から邪馬台国へ」と著述には、出石神社に祀られている天日槍が円山川の河口を切り開き、但馬城崎豊岡地方を湖から水田にしたとの伝えを詳しく考証している。この中で大和地方の邪馬台国への陸行一ヶ月の道筋を出石から八鹿、福知山経由で考えられてる。投馬は但馬としている。



 御井神社
兵庫県養父市大屋町宮本字高尾481 mapfan


大屋町の風景、大屋川と大字市場

交通案内
山陰線八鹿駅 明延行きバス 宮本下車 東へ


祭神
御井神 配 脚摩乳命、天穂日命、素盞嗚命、手摩乳命、熊野橡日命、田心姫命、奇稲田姫命、天津彦根命、天忍穂耳命、市杵島姫命、活津彦根命、湍津姫命
『神社明細帳』には、上記に加えて、大屋彦命、大屋姫命、抓津姫命 を記している。

中腹の社域


由緒(式内社調査報告19)
 古記録がなく創立の年代など詳らかではない。 元は現社地より東北の御祓山頂に鎮座していたと言う。山頂周辺に宮屋敷、御井ヶ淵などの字名があるとのこと。 御祓山頂からその西南麓である現社地への遷座は天文十五年(1546年)かそれ以前と言う。
 天王社、岩井明神とかよばれていたそうだ。

御井神と大屋彦神  

 御井神は『古事記』によれば、大国主命と八上比売との間の子で、八上比売は大国主命の適妻須世理毘売を畏れて、生んだ子を木の俣に刺したので、木俣の神とも、御井の神とも言うとある。 V字型の場所は神の出現の場所であり、また井もそうであるとの注が武田祐吉氏によってなされている。
 神の出現は他に磐座や神木など幾多もあり、木俣と井戸だけではないので、御井神と木俣の神の関係はどうもよくわからない。 『古事記』の「根の堅州国」の条に確かに書いてあるのだが・・・。

 大国主命が根の堅州国に逃れる際、木の国の大屋彦神の御所に来て、大屋彦神が木の俣より逃がしている物語が『古事記』に記載されている。 祭神に大屋彦神が登場するのはこの辺りの話だろうか。それならば、更に大国主命、須世理毘売、八上比売も祭神に入っているのが自然だと思う。


銅板入母屋造の本殿


お姿
  明延川の西に民家の間をはいると鳥居がたっている。 しめしめと思って近づくとそこから山登りが始まる。それも2m程度の石ころと落ち葉だらけの参道である。赤土が目立つ。 標高で150m程度をつづら折れの道を登っていくとやがて、朽ち果てたような小祠が二社現れる。 また山門らしきものが見えるが、崖っぷちに建っているようだ。何となく不気味。
 この辺りをカカナベ峠と言うのだろうか。神奈備峠の訛か。
 摂社の八幡社の前を過ぎると、階段の向こうの左側に大きい杉の木が数本見える。町の天然記念物の夫婦杉と説明がある。

 広場は大きい焚き火の跡が残っている。正月以来、掃除はされていないようだ。この立地では年寄りは簡単には来られない。 もちろん、車は無理。
 明延川の上流には明延鉱山がある。明延からは一宮町の伊和神社方面に通じ、揖保川沿いの中臣印達神社を経由して瀬戸内海へ出る。 五十猛命ロードであろうか。


神社の配置




お祭り
 例祭  5月3日

 


『式内社調査報告19』



 大與比神社
兵庫県養父市関宮町三宅 mapion

鳥居と社域

交通案内
山陰線八鹿駅 鉢高原、村岡町行きバス 三宅下車西へ300m


祭神
葺不合尊、彦大大出見尊、玉依姫命、木花咲耶姫命(平成祭礼データ)

創立時点では大屋彦命(兵庫県神社誌)


摂社
稲荷神社「稲倉魂神」


由緒(平成祭礼データ)
 祭神大屋彦命と伝へ天日槍命と伝へて所伝區々なれども現在は葺不合尊以下を祀れり
創立は大屋彦命となす
推古天皇十五年冬十月三宅首が其祖神を祀りしものと云ふ
延喜式の制小社に列し、明治維新前須田の庄総一の宮と称したり。


三宅首
 『新撰姓氏録』は畿内の貴族豪族の素性をおそらくは自己申告で書かせたものを収録したのであろうが、 三宅連の祖神としては天日鉾の名前しか出てこない。 当地は但馬国であり、畿内ではないのであるが、上記由緒でも「大屋彦命と伝へ天日槍命と伝へ」と混乱が見られる。 これは共に新羅国からの渡来神と見なされていたことによるのだろう。

 ここ養父郡の養父神社には大屋彦神亦の名五十猛命は牛取引の神として祀られていたことが『延喜式』に見える。 また、当神社の北西方向にあたる妙見山に鎮座する三重の塔で有名な名草神社の創建に紀氏がかかわり、五十猛命を祭神とするとの説もあるようで、 五十猛命の色濃い地域である。 関宮町から琴引峠を越えると大屋町があり、やはり大屋彦神を祭神とする説のある御井神社が鎮座している。


覆殿中の柿葺流造一間屋の本殿と磐座


お姿
  背後の山を地元では「おおよい山」と言うそうだ。神社名とも大屋からの転訛と思われる。 鎮座は旧街道に面して鳥居が建ち、数十m参道を入ると随身門、拝殿、本殿、背後の磐座と続く。磐座は巨石が山壁となっている状態で、その表面が顔を出している状態、突出している訳ではない。
 古代からの聖地の磐座の前に社殿を建てたようだ。


本殿と磐座


お祭り
 秋季例大祭 10月第一土曜日 秋祭

 


神社本庁 『平成祭礼データCD』,『式内社調査報告19』




 名草神社
兵庫県養父市八鹿町石原字妙見1755-6 妙見山中腹 google

参道から見える三重塔



交通案内
八鹿駅から石原までバス、以降は2時間の登山。

祭神
『養父郡古事記』
天御中主神、高御産霊神、神御産霊神、五十猛神(亦名大屋津彦命)、大屋津姫神、抓津姫神

『但馬式社考』
主神 名草彦命

配 天御中主神、高御産霊神、神御産霊神、日本武尊、御祖神、比賣神

鳥居と石段

由緒
  社伝等によれば、敏達天皇十四年(585)、紀伊国名草郡出身の養父郡司であった高野直夫幡彦が当時流行した悪疫に苦しむ民を憐れんで、故郷の祖神を石原山(妙見山)に祀ったのを創祀としている。
 名草彦命は『旧事本紀』によれば、紀伊国造智名曽の娘の中名草姫の御子であり、当然の事ながら紀の国に多く鎮座している祭神。紀の国以外では以下の通りで、当社(妙見さん)からの勧請社も見られる。
京都府熊野郡久美浜町口馬地若宮 三社神社摂社稲荷神社
兵庫県豊岡市日高町野字引坂 北山神社(妙見社)
兵庫県豊岡市日高町観音寺字奥郷 馬止神社
兵庫県朝来市和田山町宮内 盈岡神社摂社妙見社

 祭神については名草彦神と五十猛神のどちらかか、と言うことに関心が向くのだが、一体名草彦神とは紀伊国造の孫であって、何をしたのか不明だが祖神として祀る、と言ったものではなかろう。名草の男神であり、五十猛神と考えるほうが自然。ましてや疫病除けであれば、素盞嗚尊がいいのだが、そこは名草の人、御子神を祀ったと思われる。

 平安末期より祭神中に星の神北辰とされる天御中主神を以て、神仏習合の妙見信仰の場となり、両部神道の典型を構成した。本地垂迹説である。

拝殿
桁行五間、梁間二間、割拝殿入母屋造檜皮葺
棟札に元禄元年(1688)五月から同二年
六月にかけて建立されたと伝えている。本殿
と庭をへだてて相対し、がけの淵に立っている。
柱は円柱。組物は出組で軒支輪をつけている。
中央間馬道の上部には大虹梁をかけ、中備えに
蟇股を置いている。組物、木鼻などは古調で見
るべきものがあり、保存も完好である。
江戸時代中期の代表的な割拝殿として貴重な遺
構である。  兵庫県教育委員会

庭から

お姿
 登りに登ってやっと到着、標高800mであり、そこへ小雨とガスのお出迎え。
 登り口には名草神社と刻まれた大きい石碑があり、砂利道を登っていく。ガスに煙った三重塔が浮かび上がって来る。重要文化財(国宝)である。元々、出雲大社に建てられていた塔を大社建築用の杉をこの山から提供した返礼に出雲から運ばれてきたと伝えられている。出雲には大永七年(1527)、当地には寛文五年(1655)。

 三間三重塔婆を過ぎると幅の広い石段が現れる。大きい鳥居の向こうに拝殿が見える。

 石段を登りきると本殿が登場する。息を呑むお姿。
 宝暦四年(1754)に造営されている。正面が九間、側面が五間、向拝付入母屋造で、屋根はこけら葺で正面に千鳥破風と軒に唐破風が付いている。向拝の両側の柱には口を押さえた獅子と耳を押さえた獅子、その上の軒下には力童子などの彫刻が多い江戸時代の神仏習合の神社建築である。

 参道には至る所に大きい杉の木が生え、恐らく雨の多い山のように思われる。紀伊国名草郡出身者なら、このような山を好むのは判るような気がする。

本殿

 

三重塔

お祭

 例祭  7月18日
 秋祭 10月13日

本殿の彫刻−力童子と獅子(パンフレットから)

本殿の彫刻−口を押さえた獅子(パンフレットから)

参考
「名草神社」の創建(出自)について、 『式内社調査報告』、『名草神社パンフレット』




 一之宮神社
兵庫県加東市天神601

鳥居

交通案内
中国自動車道 東条 北西500m its-mo



祭神
素盞嗚尊、配祀 大國主命、事代主命
『播磨国風土記』によると植樹の神が現れている。素盞嗚尊の御子の五十猛命と推理した。



由緒
 社記によると「昔神代に素盞嗚命天降りまして地方巡視の際、当地方に休憩遊ばされたその遺跡を奉祀したのが当一之宮神社で人皇第十代の崇神天皇の朝に御子大国主命御孫事代主命を配祀した。」とある。

 『播磨国風土記』賀毛(かも)の郡 端鹿(はしか)の里から
 右、端鹿とよぶのは、昔、神がもろもろの村に菓子((このみ)木の種)を頒けて[歩いた]が、この村まで来ると足りなくなった。 そこですなわち「間なるかも(半端になった)」と仰せられた。だから端鹿とよぶ。[今もその神が鎮座している。] この村は、現在になっても山の木に果実がない。(真木、、杉が生える。)

 『播磨国風土記』の上記の文を読んだ際、五十猛命が祀られている神社があるはずと探したが直接には出てこなかった。 一之宮神社、祭神は素盞嗚尊、おそらくは当社であろうと見当をつけていたところ、『東条町史』には「五十猛命が木の実を播いたとあるので、あるいは端鹿の里に現れたのはこの神かとも思われる。」 と記していた。同書によれば、一之宮神社の祭神とは想定していないようだが、『風土記』に「今もその神が鎮座している。」 と出ているので、当神社をして、五十猛命を祀るものとした。

社殿


お姿
 大阪駅前からJRバスで東条まで約90分。 天神の地名が残っている。菅公以前の天神。バスで隣に乗っていた人がたまたまこの地の人で、天満の天神ではないと強調されていたのが印象的だった。
 天神山の麓に南面して鎮座する。天神山頂へ行けそうな道があったが、夏の昼間ゆえ神社までとした。どうやら掎鹿寺があるようだ。
 随神門をくぐると掃き清められた庭があり、壮麗な拝殿が見える。背後に彫り柄のある本殿が時の流れを止めているような厳かさでたたずんでいる。

本殿近景


お祭り
 10月12日 例祭



参考:『東条町史』



 高岳神社
姫路市今宿8its-mo


神社正門


交通

姫新線播磨高岡駅 北 800m



祭神

應神天皇、仲哀天皇、崇道天皇、事代主命、猿田彦神、住吉大神、伊予親王、藤原夫人、宇賀魂神、市杵嶋姫神、水分神

社伝によれば、始め八丈岩山にあったのを、天長三年(826年)に蛤山に遷し、社殿を創祀したという。
また、『播磨国風土記』の中の因達の里 飾磨の郡 因達の里 因達と称するのは、息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海なされた時、御船前(先導神)の伊太 の神がこの処においでになる。
この二つの記述から祭神は五十猛命とも推定できる。


社殿



由緒

 式内社。鎮座地は蛤山の南端中腹。『播磨国風土記』の、「餝磨の郡・巨智の里(こち)」の条に、草上の村・大立の丘、右は巨智らが、始めてこの村に居住した。 だからこれによって名とした。
 草上というわけは、韓人の山村たちの上祖・柞巨智賀那
*1がこの地を請いうけて田を開墾したとき、一つの草叢があってひどく臭かった。だから草上とよぶ。
 大立の丘と称するわけは、品太天皇がこの丘にお立ちになって地形をご覧になった。だから大立の丘とよぶ。
*1:柞は奈良、巨智は朝鮮の地名、賀那は名。『姓氏録』では巨智氏は秦の太子故亥の後裔。(『風土記:吉野裕訳』)

 『風土記』から千年後に書かれた『播磨鑑』では應神天皇、仲哀天皇の二神を式内の神としていると『日本の神々2』に記されている。

 風土記の地名説話の「臭いから草」では草に失礼であり、『万葉集』巻九ー一七八四の
 贈入唐使歌一首
 海若之 何神乎 齊祈者歟 徃方毛来方毛 船之早兼
 海神のいづれの神を祈らばか行くさも来さも船の早けむ
 
わたつみの,いづれのかみを,いのらばか,ゆくさもくさも,ふねのはやけむ
 と歌われる往来方の地をクサとしたのではなかろうか。(『古代播磨の地名は語る』姫路文庫 より)
 この説明は納得できる。姫路平野は船の行き通う海であったことが、風土記の記述からも推測でき、紀の国の「名草」のクサも紀の川の船の往来の地に関係していないだろうか。 更に思いをはせれば、草香、日下などのクサも日の出に関連して説明されるのだが、同時にまた船着き場の様相もある。

 神社の社伝によれば、始め八丈岩山にあったのを、天長三年(826年)に蛤山に遷し、社殿を創祀したという。 確かに八丈岩山頂上には高丘神社舊地の石碑が立てられているが、蛤山の現社地は、巨大な磐座が屹立しており、古代からの聖地であったはずで、『風土記』の記事では八丈岩山が多く取り上げられており、蛤山は出てこないことが社伝に反映しているのであろうと思われる。


左が本殿、中央に桜、右に磐座



お姿 

 蛤山は振袖山ともよばれる。東からながめると南北に長い山で、振り袖を連想したのだろうか。木々が少なく岩がむき出している様子が見えるが、往古には木々も多く、紅葉したものをながめたのであろうか。

 神社は岩盤の上に鎮座しているようで、生石神社の石造物を切り出す以前のような雰囲気である。 屹立している磐座は幾つかあり、鳥居と玉垣で囲まれている。

 蛤山は崩れやすいのか、崩れたものが下部の住宅などの流れ込まない防止工事がなされている。 他の方法はないのだろうか。


磐座


お祭り 

 5月15日 春季大祭
 7月13日 夏季大祭
10月 9日、10日 秋祭 

平成祭礼データ 高丘神社から

御由緒
当社は延喜式内の社にして国内神名帳大神二十四社の内八所明神の一なる当国第五の 宮にして旧安室郷の総氏神なり時の武将世々の国司領主の尊崇厚く延暦元年坂上田村 麿幣帛を奉り寛元年中鎌倉幕府北条経時佐貫十郎を遣して祈雨祭を行い天文元年赤松 政則本殿を修復して草上の地五町を献じ寛永十八年姫路城主松平下総守神供料を寄附 し、以降累代の城主之を安堵とす。さて、初め当社は新在家八疊岩山に祀られしを天 長三年九月九日に此蛤山に奉遷す、此所は和名抄に草上郷とある所にして後安室郷と なれり。境内には巨大なる岩石多く殊に社殿の背後にそびゆるもの最も怪奇なり、昔 土地の人此岩上にて蛤を拾い福徳長寿の幸を得しかば名付けて蛤岩と称す。当社の宝 物に蛤の化石今に伝わり明治七年二月郷社に列し、昭和七年県社に昇格す。
以上

兵庫県神社誌(昭和十三年)
『播磨国風土記』を歩く 寺林峻 神戸新聞社
『日本の神々2』白水社
『風土記』吉野裕訳 平凡社



 八丈岩山(因達神山)と高岡神社
因達神山:姫路市新在家本町、高岡神社:姫路市田寺 its-mo高岡神社


高岡神社鳥居


交通

姫路県立大方面行きバス 新在家下車北へ400mで八丈岩山登り口、そこから山裾を西に回り込み1kmで神社



高岡神社祭神

應神天皇、仲哀天皇、崇道天皇、事代主命、猿田彦神、住吉大神、伊予親王、藤原夫人、宇賀魂神、市杵嶋姫神、水分神

高丘神社と同じである。



高岡神社由緒とお姿

 式内県社高岳神社分社の標識が境内にあるように、南西2kmの蛤山の南端に鎮座する高丘神社の分社である。 社殿は西向き、八丈岩山の北部の山頂を遥拝する形になっている。 しかし高岳神社の旧社地碑は南側の山頂部に置かれている。諸説があるのかも知れない。


高岡神社社殿 遠景は因達神山

お祭り 

 7月13日 夏季大祭
10月 9日 秋祭 



八丈岩山(因達神山)


山頂の祠と三つ葉ツツジ

 『播磨国風土記』の中の因達神山
 飾磨の郡 伊和の里
   昔、大汝命の子の火明命は、強情で行状も非常に猛々しかった。そのため父神はこれを思い悩んで、棄ててのがれようとした。則ち因達の神山まで来て、その子を水を汲みにやって、帰らない間に、すぐさま船を出して逃げ去った。 さて火明命は、水を汲んで帰ってきて、船が出て去ってゆくのを見て大いに怨み怒った。それで風波をまき起こしてその船に追い迫った。 父神の船は前に進むことが出来ないで、ついに打ち壊された。

 『播磨国風土記』の中の因達の里
 飾磨の郡 因達の里
  因達と称するのは、息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海なされた時、御船前(先導神)の伊太の神がこの処においでになる。だから神の名によって里の名とした。因達神山の南麓を言う。

 『射楯兵主神社由緒』の中の因達神山
  大和時代 射楯大神、飾磨郡因達里に御鎮座 八丈岩山とされる。

 『伊和神社由緒』の中の因達神山
  伊和神社の大神は伊和の地から因達神山に祀られ、射達兵主神社の祭神となった。

 大汝命と火明命の話は実に興味深いが、後にこれらの神々が因達神山に鎮座したと言う話は記載されていない。 それよりも、伊和神社、射達兵主神社の由緒と『風土記』での「伊太の神がこの地においでになる」との説話は符合しており、 伊和大神、射達兵主神、伊太の神とは同じ神をさしており、射達兵主神社の祭神の一柱である五十猛大神の事ではなかろうか。

 もうひとつ面白いのは、因達神山と蛤山の高丘神社との中間点に行矢射達兵主神社が鎮座しており、この神社は式内社の射達兵主神社の論社でもある。 そうすると高丘神社や分社の高岡神社の祭神は五十猛命であったのかも知れない。


山頂の磐座と高岳神社舊社地の石碑

 因達神山の風景

 登山道は狭く急である。それほど濃くはないが赤土が目立つ。 木々は大きくはなく、雑木林の雰囲気で、三つ葉ツツジ、山桜、木々の新芽の黄緑、新葉の赤い色など、春の山の彩りが美しい丘である。 頂上からは姫路城や蛤山、広峯山など『風土記』縁の山々が望める。 山頂とその付近には大きい岩が露出しており、神山にふさわしい。


参考書
『平成祭礼データ』神社本庁
『古代播磨の地名は語る』姫路文庫
『風土記』吉野裕訳 平凡社



 天一神社(てんいち)
神戸市西区押部谷町押部496 ゼンリン

交通案内

神戸電鉄粟生線 押部谷駅南側旧道沿い 東700m



祭神

須勢利姫命、五十猛命、抓津姫命、市杵嶋姫命、大屋津姫命、國常立命

由緒

 地域の支配者の忍海部氏一族が宝徳元年(1449)に創建。 境内にはいつ頃からか大歳神社、天満神社、稲荷神社が祀られていた。
 粟生線の駅を、木津、木幡、栄と過ぎるとこの神社がある。 いかにも木材にからんで栄えた地域だと思わせるが、神社の由緒は不明である。


お姿
 竹藪の一角に鎮座、鳥居はない。決して豊かな感じのしない神社であるが広場の周りにも杉の木が植えられており、静かにたたずんでいる気持ちの良い神社である。 地元の方が「明日は祭礼で昼からみんなで掃除をします。」と云われていた。気遣いであろう。謝。





お祭り

例祭 12月13日  



 証誠神社(しょうせい)
神戸市須磨区権現町1-3-2 ゼンリン


鳥居

交通案内
山陽電鉄(阪急阪神) 板宿と東須磨の中間の南側

祭神
五十猛命
境内摂社 素戔嗚尊、大己貴命、蛭子命、事代主命

拝殿

由緒
 永延元年(986年)、熊野の大神を御遷したと伝えられている。
 熊野大社の中殿である第三殿は証誠殿と言い、家都美御子大神(素戔嗚尊)が祀られている。 家都美御子神は木都御美子神とも表記されるように熊野の鬱そうとした森林に神を見た熊野坐神であり、人格神として素盞嗚尊や五十猛命のこととされる。 この神社の証誠権現宮という名前は明治初期に付けられたようである。宝永五(1,708)年の石灯籠には聖霊大権現と刻まれている。

 熊野からの勧請の神社の中に、五十猛命が祭神になっている神社を見かける。例えば大和広陵郡の熊野三柱神社である。

 証誠神社は福原に都した平家一門の信仰厚かったとのことである。

お姿
 妙法寺川沿いの住民の産土社として祀られてきた。
 昭和42年不審火により本殿以外は燃え、46年再建されている。また先の阪神淡路大震災で鳥居が崩壊し、再建されている。

 かって、樹齢1000年近い木(杉?)の大木があり、根本の穴で子供が3〜4人入れたとのことである。枯れてしまっている。紀伊の伊太祁曽神社も戦後同じように杉が枯れている。

 戦後の風潮にたいしての五十猛命がお怒りを示されたのであろう。

 楠木が大きい。遠くからこの神社を見ると木々が盛り上がっている。程良い間隔で楠木などが植えられている。 本殿は銅葺流れ造(権現造)である。

本殿

お祭

春祭  5月19日、20日
秋祭  9月23日、24日
例祭  9月26日
この神社の祭日には必ず少し編めが降るといわれ「しょぼしょぼ権現降る長田生田は降らぬことなし」と今なお言い習わされている。 


 弓場八幡神社
神戸市須磨区南町 3−2−11 ゼンリン



交通案内

祭神
誉田別命、五十猛尊、菅原道真

鳥居、拝殿

由緒
 一説に、永延年間(987〜989)第六六代一條天皇の御代に創建と伝えられるも、年月日は不詳。 明治中期に境内に権現社、天満宮を境内に祀り、昭和二九年本殿建て替えにあたり、両社の祭神を合祀した。
 権現社は五十猛命を祭神にしていたものと思われる。権現町の証誠神社の分祀の神社であったろうか。

 かって境内に三十三間の射場を持ち、旧暦二月一日の「御弓の当」(おゆみのとう)なる儀式を行っていた。

お姿
 狭い境内であり、弓瀧稲荷大明神社と地蔵堂がある。震災の影響で数本の木々が倒れたり枯れが、楠の木は健在である。

覆殿に被われた本殿


お祭

春季大祭  4月 3日 この近辺では最も早いお祭りである。
 



 広峯神社(ひろみね)
姫路市広嶺山52 its-mo



交通案内
JR山陽本線姫路から神姫バス広峯行き(1時間に一本)終点下車、山道を25分登る。

祭神
正殿 素戔嗚尊、五十猛命またの名を大屋彦神、射楯神という。
左殿 奇稲田媛、足摩乳命、手摩乳命
右殿 田心媛、湍津媛、市杵嶋媛(宗像三神)、天忍穂耳命、天穂日命 他

由緒
 播磨国広峯社祇園本社とされている。京都の八坂神社の本社である。吉備真備により735年に現在奥の院になっている白幣山に社殿が創祀され、972年現在地に遷座した。新羅国明神と呼ばれた。


本殿



お姿
 大きいスケールの神社である。この山中にしてである。本殿は室町時代の建築であり、重要文化財が多い。本殿は入母屋造りで檜皮葺である。拝殿は入母屋造りで本瓦葺である。摂社も多くそれぞれがまた立派で良く手入れされている。


山門



お祭

 御田植祭  4月3日、穂揃式  4月18日
 
参考文献 日本の神々2(浅田芳朗)白水社




 射楯兵主神社(いだてひょうず)
姫路市総社本町190 its-mo


鳥居


交通案内
JR山陽本線姫路から北へ15分、姫路城大手門の東

祭神
東殿 射楯大神(五十猛命)
中殿 空
西殿 兵主大神(大己貴命)
摂社 一の宮「兵主神荒魂」
摂社 二の宮「射楯神荒魂」
摂社 柿本社「柿本人麿」ほか

鳥居

神門

由緒
 播磨国の総社である。兵主神に射楯神を合祀し、また播磨国174座を一括して合祀している。 国司が赴任すると地元の神にお参りする慣わしであり、これは大変な労力と財政的負担であった。 逆に地域の神社をまとめて総社として、負担を軽くしたのである。いにしえの行財政改革である。
 「播磨国風土記」餝磨郡因達里の条に”因達”の説明として、息長帯比売命が韓国を平定しようと渡海された時、「御船前(みふねさき)<先導神>の伊太の神がここにおいでになる。よって神の名を里の名にした」とある。 『風土記』の伊和里の条に「因達の神山」の名もあり、八丈岩山とされている。此処にはかって高丘(たかみくら)神社が鎮座していた石碑がある。射楯神の痕跡は見えない。

 鎌谷木三次氏は因達里を因達北条と見て、楯楯神を航海の安全を司る住吉系の神とし、また市川の河口に近い阿成(あなせ)を大和穴師の兵主神社の神戸の地と比定し、そこへ穴師坐兵主神社が勧請されたとして、因達南条としている。 この因達南条の南側に現在は「大己貴命」を祭神としている早川神社「兵主神」が鎮座している。
 一方、北条の場所であるが南条の北に接してその地名が残っているが、射楯神に関連しそうな神社は存在していない。

 社記によれば、射楯神は欽明天皇二十五年に伊和里の水尾山(姫路市山野井町)に祀られたが、延暦六(787)年に坂上田村麿によって兵主神を小野江に遷し、後に射楯神を合祀したのが創祀とする。

  年表形式(社のしおりから)
大和時代 射楯大神 飾磨郡因達里に御鎮座(播磨風土記)八丈岩山とされる。
大和時代 兵主大神 欽明天皇二十五年(562年)飾磨郡伊和里に影向
奈良時代 天平宝字八年(764年)藤原貞国、兵主大神を水尾山に崇祠
奈良時代 延暦六年(787年)兵主大神を国衛小野江の梛本の遷座
奈良平安 射楯大神を梛本に遷し合せ祀り射楯兵主神社と号す
平安末期 安徳天皇養和元年(1181年)国内16郡の大小明神174座を合せ祀り播磨国総社と称さる
安土桃山 天正九年(1581年)羽柴秀吉、総社を現社地に遷す。


 陸奥国色麻郡四釜郷の伊達神社は、当社からの勧請である。イタテの名を持つ式内社は他には出雲の韓国伊太神社三座、播磨国揖保郡の中臣印達神社、丹波国桑田郡に伊達神社、紀伊国名草郡に伊達神社、伊豆国賀茂郡に伊大和気神社と十二社が鎮座している。

 日本の神々の神格を一つに決めてしまうのは至難の業だが、 吉野裕氏は「東洋文庫の風土記」の中で「松岡静雄氏:海人族の祀った神。松村武雄氏:射立ての意で山の狩猟者の行為との関係説。」を紹介され、ご自身は斎楯の神として水軍の祀った神とされている。 また、志賀剛氏は「湯立て」神、石塚尊俊氏は「射立」で「矢になって降臨された神」とされる。

社殿

お姿
 本殿は東に射楯大神、西に兵主大神を祀り、二間社流れ造りの形式である。建物も美しい神社である。

本殿後ろの十二号殿社(右端が柿本社)

お祭

 夏祭  7月10,11日 夏祭 
 姫路祭 11月14−16日
 特殊神事 一つ山祭  61年目
      三つ山祭  21年目

参考文献 日本の神々2(浅田芳朗)白水社
*2 古代の鉄と神々(真弓常忠)学生社

「兵主神」と「道教」との関係

 兵主神は秦氏によって日本に持ち込まれたと思われる。山東半島の近くの琅邪(ろうや)に八神が祀られている。

天主は天の神、地主は地の神、兵主は武器の神、陰主と陽主は陰陽を知る神、月主は月の神、日主は太陽の神、四時主は四季の神とされる。 兵主は「蚩尤:シユウ」という名を持つ。貝塚茂樹氏は「風を支配してきた蚩尤は、またふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物であった。 (『中国神話の起源』)。

 琅邪八神が道教の神かどうかは実際の所よくわからないが、山東半島の導士たちの信仰の対象であった。 剣に宗教的な意味をもたせるのは道教であり、剣の初めは蚩尤によるとの伝承がある。

 射楯兵主神社の一つ山祭には、青、黄、赤、白、紫の布で「置山」を巻く。「五色山」というが、五色は道教が儒教から借りてきた考え方とも言う。
 なお、道教の五色は紫のところが黒である。

        以上参考−『日本史を彩る道教の謎』から−
 


 行矢射楯兵主神社(いくやいだてひょうず)
姫路市辻井4−4−3 ゼンリン



交通案内
JR山陽本線姫路駅からバス41番辻井 西へ400m 

祭神
射楯大神、兵主大神

由緒
 播磨国の総社でもある射楯兵主神社からの勧請であろうか、それとも元社であろうか。神祗志料によれば射楯兵主神社は矢落村にあるを辻井村に遷し、行屋明神と称したとある。 これから考えると明治初年には式内社論社ではあった事が頷ける。
 しかし現在は総社を兼ねる射楯兵主神社が有力なようである。

 玄松子さんから頂いた情報を挿入させていただきます。
『式内社調査報告』抜粋
維新以後、明治二年姫路藩庁式内社調査の際、辻井の生矢神社(現在は行矢射楯兵主神社と称する)を式内社となした。(宮崎光彦を神官に任じ、知藩事酒井忠邦慢幕を寄進し竜野町三丁目の四ツ角に「式内射楯兵主神社在辻井村」と刻んだ石碑建立せり)これに対し、時の総社神官国学者上月爲彦は、明治三年十一月「射楯兵主神社考」を著し、藩の国学者庭山武正(射楯兵主神社社司)、春山弟彦調査副申の結果、式内射楯兵主神社は再び、元に返された。 だそうです。一年間だけのようですね。石碑があるようですが。射楯兵主神社は古文書がほとんど無いそうですが、根拠はなんだったんでしょうね。




 射楯兵主神社のしおりによれば、兵主神の軌跡を追いかけると、飾磨郡伊和里、水尾山、小野庄とどうも行矢方面は現れないようだ。射楯神は飾磨郡因達里、これは姫路市以東、最初は八丈岩山とされる、その後遷座したのかどうかは不明であるが、梛本に合祀されて現在地となっており、行矢へ現れたとすれば、射楯神単独祭祀の頃ではないか。従って、行矢は論社から消えたのであろう。
 神功皇后が三本の矢を投げて云々の話があるが、字面にとらわれてはいけないが、行矢とはいかにも射楯神の降臨の地にふさわしい名前である。射楯神とは「矢になって降臨された神」との見方がある。

鳥居

お姿
 鳥居から社域への道は、ゴミを分別して置くようになっている。社殿の東側は子供の遊び場になっている。

社殿

お祭

 夏季大祭  7月21日 
 秋祭  9月21日



 小宅神社
兵庫県たつの市龍野町宮脇287 its-mo

鳥居と長い参道

随神門



交通案内
JR姫神線 本竜野駅 南へ15分

祭神
應神天皇 配祀 神功皇后
摂社
靈神社「正豊靈神、素盞嗚尊、保食神、大歳神、五十猛尊、国常立神、少名彦命」
三神社「猿田彦神、天照大御神、天児屋根命」ほか

社殿

由緒
 『播磨国風土記』揖保郡の小宅の里に鎮座。揖保川と林田川の間の地域。元の名は、渡来漢人が住んでいたから漢部の里といっていた。小宅の秦君の娘と川原若狭の祖父が結婚し住んだ家を小宅と名付けた。とある。

 神社の由緒は『兵庫県神社誌』によると以下の通り。
 三韓征伐からの凱旋の際、御船萩原の里に碇せられし時、漢部里少宅秦公、坂王の叛逆を応神天皇に内奏せしかば、皇后これを喜し給い、楕円形の自然石を賜ひぬ。後、秦公は小宅氏を称し、彼の石を霊代として敬斎す。次いで川原の若狭の孫、智麻呂小宅の長となり、持統天皇四年、清浄の地に之を拝斎す。これ当社の創立なり。以上

 現在の靈神社の祭神は四位少将水尾民部橘朝臣以豊守神霊となっている。
 公卿で京都の上賀茂神社の社家。小宅神社の祠官として奉職、病にかかり困窮し、参拝者を枕元に招き、我が霊に茶を煎じて供進する者は、大患い忽ち直すべきなりと遺言。

摂社の鳥居


 『兵庫県神社誌』に引用の「神社明細帳」によると、靈神社には境内神社であった大地主神社、建速神社四社を昭和九年に合祀したと記している。五十猛尊が祭られている由緒は知ることができなかった。

靈神社 お茶が献じられている。

お姿
 参道は100mほどあり、両側をまださほど高くない杉の木が連なっている。式内社には名を見せていないが、由緒を感じる神社。奈良時代の寺院跡に建立されたようだ。
 随神門は18世紀後半、拝殿は寛保元年(1741)。

お祭

 例祭  10月15日

参考文献 平成祭礼データ、兵庫県神社誌、古代播磨の地名は語る  歴史地名辞典

「平成祭礼データ」の由緒

 神功皇后三韓征伐凱陣の際漢部里小宅秦公KAGO坂王の叛逆を應神天皇に内奏せしかば皇后之を嘉し給ひ楕円形の自然石を賜ひぬ後ち秦公は小宅氏を称し彼の石を霊代として之を敬齋す次いで川原の若狭の孫智麻呂小宅里の長となり持統天皇四年清浄の地に之を拝齋すこれ当社の創立なり天慶二年社殿を再建し寛保元年、天保七年本殿を屋根替し明治元年八幡宮を小宅神社と改称し明治七年二月村社に列し同十四年郷社に昇格す同三十三年幣殿拝殿を改築し大正十三年本殿の屋根替幣殿の増築をなせり。
以上
(注)KAGOは鹿の下に弓と耳
 



 中臣印達神社(なかとみいんだつ)
兵庫県たつの市揖保町中臣1360 ゼンリン



交通案内
JR山陽本線龍野から東へ揖保川大橋を渡り、揖保川上流へ1kmで中臣山(頂上にタンク)の麓

祭神
五十猛命
摂社 木種神社「素盞嗚尊」

由緒
 中臣氏に祭られた射楯神である。揖保川は中臣山の西や東を流れていたが、この丘はこの地域を開拓するのに拠点ともなり、祭祀の場でもあった。
 播磨国風土記にある天日槍と葦原志挙乎の国占伝承で名高い「粒丘」に比定されている。境内に「粒丘」と彫った石標がある。中臣粒大神とも呼ばれていた。 北2500mの対岸には粒坐天照神社がある。境内には式内阿波遅神社が合祀されている。


本殿



お姿
 鳥居と神社間は400mの参道である。楠の木や杉が多い神社である。木の神を祀る神社らしい。


拝殿



お祭

春祭り  4月20日
例祭 10月10日
 
参考文献 日本の神々2(糸田恒雄)白水社



 白髭神社
姫路市別所町佐土字北出口499 its-mo


鳥居


交通

JR山陽本線御着駅 北北東1500m



祭神
猿田彦大神



由緒

 『白髭神社縁起』によれば、天正元年(1573)増位山に拠点を持っていた黒田官兵衛の叔父が攻め込まれて寺社は焼失した。この時、叔父は衆徒と共に佐土村に退去、同時に鎮守神を移転したと云われる。それが別所町佐土字北出口の猿田彦神社で、その後当地大村山麓に遷座したと云う。
 僧円珍が唐からの帰国の際、その船縁に現れ、仏法守護を云われた新羅明神を白髭神と誤り伝えたと云われる。
 近江国の園城寺に新羅善神堂が鎮座、園城寺開祖の智証大師円珍が唐から帰朝の時、船中にあらわれた新羅の国神を祀ったと言う。これが新羅明神であり、素盞嗚尊とも五十猛神とも云われる。

 また、民間伝説では、神功皇后が半島征伐に行く途中、的形の沖にさしかかった時に波が荒れて思案の最中に波間から一人の老人が現れ「このまま行けば必ず遭難する。海が穏やかになってから出発せよ。」とのお告げがあったと云う。その老人を祀ったのが当白髭神社と云う。


絵馬殿と大村山頂上



お姿 

 佐土のバス停から北へ20分ほど歩く。木材団地を越して東側の山の中腹に鎮座する。南面。神社の背後の山は禿げ山であり、九州の豊国の香春神社を想起させる。境内に目立った磐は置かれていないが、磐座信仰がベースにあったような気がする。
 神社の裏は禿げ山の麓にあたり、ここには木々が多い。


絵馬殿   本殿


お祭り 

   10月 第二日曜日  例祭

神社本庁平成祭りデータCD

 当神社は初め飾磨郡増位山随願寺の鎮寺なりしも、天正元年別所長治のため寺堂を焼かれしかば衆徒は叔父黒田官兵衛のよれる御着城下なる当村に退きし時、共に村内北出口に遷座せられ、後、今の山麓に遷座した。

『姫路の神社』神戸新聞総合出版センター 『兵庫県神社誌』(昭和十三年) 『平成祭礼CD』神社本庁



 八坂神社摂社八将神社
兵庫県川辺郡猪名川町柏原字宮脇11 ゼンリン



交通案内
能勢電鉄日生中央から阪急バス 柏原行き終点下車 南へ300m

祭神
八坂神社 素戔嗚尊
八将神社 五十猛命、大屋姫命 ほか

由緒
 八坂神社が産土神社である。創建年代は元久二(1225)年と伝わる。この地は大野山の麓に当たる狭い峡谷の突き当たりになる。この大野は「おおや」ともよばれている。 この大野山は猪名川の源であり、縄文早期の末の土器が発見されている。
 一方、素盞嗚尊や五十猛命を奉戴する人々が生活を始めるのは、この地一帯に言える事だが、多田銀銅山が開発されてから以降の事ではなかろうか。 では、この鉱山の開発は奈良時代にまで遡ると言われるが、本格化するのは鎌倉時代である。外部者が病原菌を持ち込んで、はやり病が絶えず、牛頭天王をお迎えしたと言う所であろうか。
 銅の精錬に多量の木材を要したであろうから、その植林を行った人々の勧請したものと思われる。いかんせんこの地域は瀬戸内海気候の内陸部であり、現在の山の姿も木々が盛り上がっているようには見えない。


覆殿の中の本殿


八将神社



お姿
 巨杉二本の背後に鳥居と山門風の建物があって、二階が祭り場と面一となっている。この地は東にしか開いていない。神社も東向きである。


神社風景



お祭

 秋祭り 
 子供達が歌舞伎の名場面から取材した所作を演じながら練り歩く練り込みがあった。 境内には独楽回し式の回舞台を備えた農村歌舞伎の場がある。山門の二階である。
参考文献 日本歴史地名大系 兵庫県の地名 平凡社、兵庫県神社誌



 八坂神社摂社八将神社
兵庫県川辺郡猪名川町杉生(スキウ)字宮ノ下1 ゼンリン



交通案内
能勢電鉄日生中央駅より 阪急バス杉生行き・柏原行き杉生下車 北へ1km

祭神
八坂神社 素戔嗚尊
八将神社 五十猛命、大屋姫命 ほか

由緒
 承平六(936)年には大野山逢ヶ原に祭祀されていたと言う。 
 この地は多田銀銅山付きの地域である。奈良時代には奇妙山神教間歩で東大寺大仏を鋳造する銅を採掘していると伝わる。 一方、素盞嗚尊や五十猛命を奉戴する人々が生活を始めるのは、この地一帯に言える事だが、多田銀銅山が発見されて、精錬がなされて出してからではなかろうか。 金属の精錬には多量の木炭を要し、この為にはその重量の一桁上の木材を伐採したであろうから、その後の植林を行った人々の勧請になるものと考えられる。植林と疫病除けであろうか。
 後世にも作間稼ぎに吹屋用炭を作っていた。


摂社群 八将神社は特定できなかった。


江戸初期の造営の本殿



お姿
八坂神社は江戸初期の造営の建物が残っている。三間社流造、向拝一間、檜皮葺、軒唐破風を施す。天明二(1782)年と刻まれた石鳥居がある。 また社叢が素晴らしい。


鳥居



お祭

 10月17日 秋祭り 
 
参考文献 日本歴史地名大系 兵庫県の地名 平凡社、兵庫県神社誌



 天満神社摂社金刀比羅神社
兵庫県川辺郡猪名川町清水字北谷41 ゼンリン



神社風景

交通案内
能勢電鉄日生中央駅より 阪急バス杉生行き・柏原行き 清水下車



祭神
天満神社
金刀比羅神社 五十猛命、大屋姫 ほか



由緒
 多田銀銅山は織豊時代に最盛期を迎えている。特に秀吉の太閤軍資金として名をはせた。
大事あれば掘り出しても見よ摂津多田白銀の山に眠る宝を  と賞賛れた。

 清水村の氏神は 天神、山王、大歳。産土は天満。とされる。 氏神とは祖神もしくは氏の守護神と見て良い。氏族が入り交じり住むようになると、神社は氏族ではなく地域を媒介として住民と接するようになり、自分の生まれた土地を守護する産土神となっていった。 また、地域の人々の生死を司るともされる。

 金刀比羅神社に合祀されているようである。こうなると由緒は霧の彼方となってしまう。 特に兵庫県は神社数に比べて神職数が少なく、一人の神職が100社を掛け持ちと言う事態である。 食えないのだそうだが、こんな事では、これからの時代、地域の神社の存続、住民の崇敬の心すら薄くなっていかないか、と、心配になる。


神社風景



お姿
 この地域は覆殿の中に本殿が守られている。杉の多い社叢の中に静かに鎮座して、実にひしひしとした落ち着きを感じる。一種の感動すら覚える神社である。 摂社が多く、実は名札がないので、どれが金刀比羅神社か解らなかった。


本殿



お祭

 秋祭り 
 
参考文献 日本歴史地名大系 兵庫県の地名 平凡社、兵庫県神社誌


 春日神社摂社五十猛神社・大屋神社
兵庫県川辺郡猪名川町笹尾(ささう)字掛谷18 ゼンリン



交通案内
能勢電鉄日生中央駅より 阪急バス杉生行き・柏原行き 笹尾の町営北プール前下車

祭神
春日神社
五十猛神社 五十猛命
大屋神社 大屋姫命

由緒
 多田銀銅山は源満中の代、天禄元(970)年に採掘されたと言う。 確かな史料では長暦元(1037)年能勢郡から初めて銅が献上されたと扶桑略記に記されている。
五十猛命や大屋姫命を奉戴したのは、やはり多田銀銅山が発見されて、精錬がなされて出してからであろう。 一体どこから勧請されたのかであるが、五十猛命を祀る神社で五十猛神社の名が残っているのは
島根県大田市五十猛町が思い浮かぶ。この近くの大田市大屋町には大屋姫命神社があり、大屋都比売命を祭神としている。
岡山県玉野市広岡 五十猛神社
福岡市西区金武 五十猛神社
宮崎県日向市大字財光寺 五十猛神社
後の三社の祭神には大屋都姫は見えない。また大屋神社も近くにはない。こんな事が理屈になるのかどうかであるが・・。
もうひとつの候補は和歌山市伊太祈曽の伊太祁曽神社であろう。五十猛命を祀る本社とされるし、大屋都姫も祀られている。 近くにも大屋都姫神社が鎮座し、ともに延喜式の名神大社に列せられている。地域的には京都の八坂神社元宮とされる姫路の廣峯神社からかもしれない。
 なお他に
山形県羽黒町手向字羽黒山の出羽神社の摂社に五十猛神社
山形県立川町大字立谷沢字本沢の月山神社の摂社に五十猛神社、大屋津姫神社、抓津姫神社 がある。

 なお八王子をそれぞれ神の名をつけて祠を作ったと言う素直な解釈もできる。

 銀銅などの金属の精錬には多量の木炭を要し、この為にはその重量の一桁上の木材を伐採した。日本人はその後の植林を怠らなかったと言う。 これは大陸や半島の人々とは少々違うスピリットを持っていると言うべきであろう。 植林を行い、植林の神々を尊ぶ国として今後とも子々孫々に伝えていくべき「この国のかたち」のひとつである。
 作間稼ぎに吹屋用炭を作り、若干の鍛冶用炭をも作っていた。


摂社群と覆殿内の本殿


舞台 この地域の神社の造りはこの様になっている。



お姿
 この近辺は山方にて江戸より寒さ強御座候夫故暑気弱く御座候。村方土目真土砂まじり赤土に而御座候。とある。


神社風景



お祭

 秋祭り 
 
参考文献 日本歴史地名大系 兵庫県の地名 平凡社、兵庫県神社誌



高皇産神社
兵庫県川辺郡猪名川町北田原字上山31 nifty

鳥居



交通案内
 日生中央駅よりバス 北田原下車北東200m



祭神
 高皇産靈神

 摂社
 皇大神社「天照大御神」
 出雲神社「大國主命」
 恵比須神社「蛭兒神」
 戸隠神社「天手力雄命」
 愛宕神社「火之迦具土神」
 天満神社「菅原道眞」
 九頭社(渡津社)「五十猛神 御別名渡津神」
 稲荷神社「宇迦之御魂神」

拝殿



由緒
  『日本書紀神代上一書第四』と『古事記』は、高天原においでになる神の名を天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神というとある。産霊(ムスヒ)とは、生産を意味するムスと神霊を表すヒと言う語を結びつけたもの。
 特に、高皇産霊神は皇祖として天照大神より上位に座す神とされる。

 当地に高皇産霊神を祭る当社が鎮座した謂われや時期は不明。

 摂社に九頭社が鎮座、亦の名を渡津社と言い、祭神は五十猛神であり、別名を渡津神と言うとある。佐渡に式内の渡津神社が鎮座、祭神を五十猛神としており、『播磨国風土記』飾磨郡因達里の条に、「息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海なされた時、御船前の伊太の神がこの処においでになる。」と言われたとあり、五十猛神は渡津神として古くから崇拝されていたものと思われる。

 九頭社と渡津社との関連はよくわからない。

本殿



お姿
 南面して鎮座。山の中腹に鎮座、石段を100段ほど登る。
 本殿は覆殿と思われる。中は見えない。
 境内は杉、檜、楓などの木々が多い。また境内は綺麗に掃き清められていた。
 摂社のうち、先に記述した七社は西側に東面して鎮座。

九頭社


 一対の石灯籠は足下が狛犬になっている。珍しい狛犬というべきか。

灯籠形狛犬
 


お祭り
例祭 高皇産神社  10月17日   九頭社 3月 3日

平成祭礼データから

 天地が初めて開けたばかりの頃、高天原に最初にお生れになった神は天御中主神で、次に高御産巣日神(高皇産霊神)、その次に神産巣日神がお生れのなった。この三柱の神はみな独り神で姿をお隠しになった。と古事記はこうした書き出しで原古の神々の出現を物語る。この三柱はこれから次々と始まる宇宙の創成の原動力となり世の中にありとあらゆる事物は、皆この神の産霊(ムスビ)によって成りいずるもので根本的な神霊であるとし、この三柱の神を造化の三神と申し上げてきた。天地すべての物を造り育てた産霊の神、造化の神として仰ぎまつり当神社に御奉齋します。
以上
 

『平成祭礼CD』『社頭掲示』

平成22年 10月 6日



 白瀧稲荷神社
兵庫県川西市黒川字口滝谷 ゼンリン



交通案内
能勢電鉄妙見口駅よりロープウエイ乗り場へ徒歩20分 右手から10分ほど登る

祭神
倉稲魂命 配 常富大神
摂社 大神宮社 五十猛命 ほか

神社の鳥居、ここから下る



由緒
 鉱山師が祀った稲荷神である。黄銅鉱の鉱脈が妙見山にもあるようだ。 土地の人は箕面市の吉川八幡神社を氏神としていたのであるが、黒川は兵庫県に編入されており、この白瀧稲荷神社を氏神とした。
 参詣時宮司さんがおられたので、五十猛命を祀っている大神宮社のことを質問したのであるが、現在はないとのことである。 「一体何を見たんだね?」「兵庫県神社誌だよ」「だいぶ古いものだろうね。」「戦後版だけどね。」

 おそらくは、一時合祀されていたのであろうが、再度分祀されたのではないか、と言うことであるが、記録にはないようである。

 一時でも祀られていたのであれば、神霊は残っているはず。大神宮社とおぼしき社殿は?」「現在改修中のあれだよ。」「五十猛命に挨拶をしてこよう。」

 ところで荒熊天王社なる小祠が本殿前に鎮座していた。「これは素盞嗚尊ですか?」「そうだともちがうとも言えないなー」「天王は牛頭天王以外にあるんですかね」 「祭神名は残っていないんだよ、荒熊天王の社の神としかいいようがない。神様とは自らの心のなかに坐すもので、実体がないもの、心から祈ればいいんですよ。」 「・・・」

 荒熊天王、熊野と素盞嗚尊、その荒魂すなわち新魂、さすれば五十猛命と小生ならすぐにつながるんだが、宮司さんの言われたとおりなのでしょう。


荒熊天王社



お姿
 川西市の妙見山は見たところ変哲もないお山だが、妙見信仰の名残をとどめており、ロープウエイもあることから、老若男女の参詣者が多い。

 五十猛命の御霊の残る社殿



お祭

 2月23日 春祭
 7月23日 夏祭
 9月23日 願祭
10月23日 例大祭(秋祭)



参考文献 兵庫県神社誌


戸隠神社
兵庫県川西市山原字八岡19 nifty

鳥居



交通案内
 能勢電鉄山下駅 西北西800m



祭神
 天手力雄命

 摂社
 六神社「春日大神 枚岡大神 出雲大神 杵築大神 住吉大神 大鳥大神」
 元宮神社「五十猛神 御別名渡津神」
 稲荷神社「宇迦之御魂神」
 

拝殿



由緒
  天岩戸を引き開いて天照大神をお出しする際、天手力雄命の無双の神力を持って開かれた天岩戸の一部がこの杜に飛び落ち、この杜より白雲が龍の如く天高く立ち昇ったと伝えられ、その時この所に八つの丘が現れこの杜を八岡の森というようになったと伝えられています。その後、この所に社殿を創建して天手力雄命をお迎えし、御奉斎致しました。
 戸隠神社は古くは摂津戸隠大明神と呼ばれ、信州戸隠神社とともに皇室の平安と国家の繁栄をお祈りする祈願神社として知られました。
 中世には戸隠三千坊として山岳信仰に立脚した修験者の道場や霊場になり護摩焚き神事や神楽奉納なども行われていた。

 現在でも、厄払い祈願や七五三詣りの祈願が盛んな神社。

本殿


お姿
 南面して鎮座。山裾に鎮座。拝殿、本殿とも朱塗りで綺麗に保たれている。
 境内は杉などの木々が多い。元宮社は鳥居をくぐったすぐの東側に南面している。

元宮社

元宮社の説明


お祭り
例大祭 10月17日 

平成祭礼データから

 当神社古くは戸隠大明神と呼ばれ、皇室の繁栄と国家・国民の平安をお祈りする祈願神社として知られました。又中世には戸隠三千坊として山岳信仰を中心にした修験者の道場や霊場となり護摩焚神事や、神楽奉納等も行なわれていました。又一般庶民の招福祈願の神社として多くの人達の篤き信仰があり「戸隠さん参り」と親しまれ「一年に一度の大願参り、諸願成就の月参り」と云われ当社戸隠さんへの祈願参りが盛んに行なわれ、諸願成就祈願の目参りの参詣者が絶えることがなかったと伝えます。
  以上
 

『平成祭礼CD』『社頭掲示』

平成22年 10月 6日



 八王子神社
兵庫県三田市香下字岸崎1613 ゼンリン



交通案内
JR福知山線三田駅より神姫バス東部行き 香下下車 北の羽束山登山口

祭神
若年神、大市姫命、大屋姫命、若山姫命、事代主命、須勢姫命、八嶋條命、五十猛命

由緒
 創立年月不詳。至徳二(1385)年社殿が再建されている。
 京都の八坂神社の八柱御子神とは八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命 となっている。 式内社の研究をされた志賀剛氏は、八王子が祭られたのは、蘇民将来伝説に基づくものとされ、八王子とはたくさんの子供を救う王子達の意味とされている。 「蘇民」とは民を蘇らせる、「将来」とは渡来してきたとの意味とされる。


神社



お姿
 この神社を探している時、田圃の畦で休んでいた古老と呼ぶのにふさわしい老人がいたので話を聞いた。 神社が麓に鎮座している羽束山の羽束は「八将」とも書くようだ。そうすると東側の猪名川町に多く鎮座している八将神社もこの八王子神社からの勧請になるのかも知れない。 羽束山山頂に観音さんと背中合わせに羽束神社があるとの事だ。少彦名命を祭神としている。


羽束山



お祭

 10月13日 秋祭り 
 


 伊和神社
兵庫県姫路市一宮町須行名(すぎょうめ) mapfan

入り口の社叢



交通案内
姫路から山崎、山崎から徳倉又は横山行きバスで神社前

祭神
大己貴神
配 少彦名神、下照姫神

摂社 播磨十六郡神社「播磨国式内東八郡の神」
摂社 播磨十六郡神社「播磨国式内西八郡の神」
摂社 五柱社「天照大神、宇賀魂神、國底立神、素盞嗚命、猿田彦神」
摂社 市杵島姫神社「市杵嶋姫命」
摂社 宮山の祠、白倉山の祠、花咲山の祠、高畑山の祠「大己貴神」

摂社 射楯兵主神社 祭神 射楯神、兵主神(昭和十三年兵庫県神社誌)現在は見当たらない。

拝殿

伊和神社御由緒略記
  創祀
 大己貴神は国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、或は医薬の法を定めて、治病の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。
 大神は播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨国内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里(現在当神社のある地方)に至りまして、我が事業は終わった「おわ」と仰せられて鎮まりました。ここに於て人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当神社の創祀であります。
 その御神徳により、古来、農業・工業・商業等産業の神、縁結びの神、福の神、病気平癒の神、又、交通安全の神として崇敬されております。
 一説に、成務天皇甲申歳二月十一日丁卯(144年)、或は欽明天皇二五年甲申歳(564年)の創祀とも伝えております。

御社格
 延喜の制では名神大社に列し、播磨国の一の宮で、明治六年県社に、同一八年国幣小社に、同四五年国幣中社に列し、戦前までその御社格でありました。

御神階
 貞観元年(859年)従五位勲八等から従四位下に、元慶五年(881年)正四位下に進み、爾後累進して、正歴二年(991年)正一位を極め給うた。

神封
一、大同元年(806年)神封十三戸
一、天慶三年(940年)平将門征討の御願奉賽として神封五戸増加

奉幣
一、寛仁元年(1007年)幣帛神宝を奉らる。

御神領
一、天平宝字二年(758年)八月 伊和恒雄神領寄進
一、延元元年(1336年)四月 新田義貞、足利尊氏追討の祈願をなし神領及び甲冑寄進
一、明徳四年(1392年)七月 赤松上総介儀則、美作国粟井庄寄進
一、応仁二年(1468年)三月 赤松政則神領寄進
一、慶長十三年(1608年) 池田輝政神領寄進
一、寛文六年(1666年) 松平恒元神領寄進
一、延宝四年(1676年) 池田政元神領寄進

御造営
一、欽明天皇の御代(564年) 伊和恒郷に神託あり、西方の霊地(現在の鶴石上)に神殿を再築
一、建長元年(1249年)四月 炎上、朝廷より御再興
一、明徳三年(1392年)七月 赤松上総介儀則再興
一、永禄五年(1562年)二月 長水城主宇野越前守村頼再興
一、嘉永五年(1852年)二月一日 炎上、文久二年(1862年)二月 領主小笠原信濃守、本殿を造営、幣殿以下は国の一の宮たるの故を以て播磨国内より金銭木材等を寄進して安政五年(1858年)二月落成す

おもな行事 省略

境内
 16、613坪(54、920平方メートル)

宝物
新田義貞公寄進状外古文書類約二百通 新田義貞公奉納甲冑(焼損)等あり

鶴石
 本殿の裏にあり。欽明天皇甲申歳、伊和恒郷に「我れを祀れ」との御神託があり、一夜のうちに杉・桧等が群生して多くの鶴が舞っており、大きな白鶴が二羽石上に北向きに眠っていたのでその所に社殿を造営したという。その石を鶴石といい、社殿が北向きであるのもそのためであるという。

境内末社 省略

旧境外末社
庭田神社 祭神 事代主神 一宮町能倉にあり
志位神社 祭神 素盞嗚尊 稲田姫命 山崎町与位にあり
邇志神社 祭神 伊弊諾命 伊弊冊命 須佐之男命 波賀町皆木にあり
安志姫神社 祭神 安志姫命 安富町安志にあり

伊和神社の社殿

由緒
 『延喜式』神名帳記載の播磨国宍粟郡の伊和坐大名持御魂神社とされる。播磨国有数の古社。
 揖保川の東岸の大きい社叢の中に鎮座する。周辺の山々は削られたような跡と思われる谷が小刻みにあり、金属を採掘した跡と思われる。また気候のせいもあろうが、山々の木々はしょぼくれており、わびしい。恐らくは金属採取と精錬に揖保川沿いの山々の木々は燃料となってしまったのだろう。伊和神社の社叢の木々は、神域としてここ数百年は伐られたようには見えない。

 揖保川沿いは古代からの交通の要路でもあり、一宮町には縄文時代早期から一連の土器が出土している。弥生時代にはいって有力な支配者も登場したのであろうが、伊和神社の真西にあたる地点の山腹から銅鐸が出土している。一宮と銅鐸、谷川健一さんの『青銅の神の足跡』を思い出すが、この神を祀った氏族は鍛冶氏族でもあった証と思われる。 当社の創祀の伝承に鶴が登場する。鍛冶氏族は鳥の伝承を持つというが、銅鐸出土とともに興味深い。

 『日本の神々2』伊和神社では祭祀氏族の伊和君一族の居住地と伊和大神の伝承地とが重なるとしており、そこへかなり早い時期に中央の勢力が及んだと見ている。
 中央の勢力とは大和王権の勢力を言うのであろうが、その前に天日槍の侵攻伝承が『播磨国風土記』で語られており、さらに近隣の吉備や出雲からの侵入もあったのではなかろうか。延喜式の時代には社名を伊和坐大名持御魂神社としている所から見ると、基層の住民は出雲からの移住者であったとも考えられる。

 戦前刊行の『兵庫県神社誌』には、伊和神社の摂社に射楯兵主神社が記載されており、祭神を射楯神と兵主神としている。探してみたが見当たらない、また神社で頂いた『御由緒略記』にも記載はない。社務所でこれについて質問をさせていただいた。「(姫路総社の)射楯兵主神社は当社から分遷したものであり、当社は射楯兵主神社の元社です。射楯は偉大・威厳、兵主は兵庫の主と言うことです。但し、悠久の昔のことですから、はっきりしたことはわかりません。」との事であった。

東から見た本殿

『播磨国風土記』に登場する伊和大神
【5.大神の御子】【7.大汝命】餝磨郡・英賀の里(しかま あが) 伊和大神のみ子の阿賀比古・阿賀比売の二はしらの神がその処に鎮座しておいでになる。
姫路市飾磨区英賀宮町 英賀神社「英賀彦神、英賀姫神」式内社。

餝磨郡・伊和の里(しかま いわ)伊和部とよぶのは、積幡の郡の伊和君らの族人がやってきてここに住んだ。だから伊和部とよぶ。手苅丘とよぶわけは、近い国の神がここに来て、手で草を苅って食薦とした。だから手苅とよぶ。あるいは「韓人たちが始めて来たとき、鎌を使用することがわからず、素手で稲を刈ったからと言う。
 昔、大汝命の子の火明命は、強情で行状も非常に猛々しかった。そのため父神はこれを思い悩んで、棄ててのがれようとした。則ち因達の神山まで来て、その子を水汲みになって、帰らない間に、すぐさま船を出して逃げ去った。(逃げ切れなかったようだ。)
手苅丘 姫路市手柄 生矢神社「大国主命」もとは三輪明神
因達の神山 八状岩山のこと 射楯大神の鎮座した処と伝わる。姫路市総社本町 射楯兵主神社「射楯神、兵主神」

【3.国占め】揖保郡・香山の里(いひぼ かぐやま)鹿来墓とよぶわけは、伊和大神が国を占めなされた時、鹿が来て山の峰にたった。山の峰は墓の形に似ていた。
揖保郡新宮町香山

【3.国占め】揖保郡・阿豆の村 伊和大神が巡幸なされた時、「ああ 胸が熱い」いって、衣の紐を引きちぎった。だから阿豆という。
揖保郡新宮町宮内 字に風呂垣内がある。

【7.大汝命】揖保郡・御橋山 大汝命が俵を積んで橋(梯子)をお立てになった。
揖保郡新宮町觜崎(屏風岩)

【3.国占め】揖保郡・林田の里(元の名は談奈志(いはなし))談奈志と称するわけは、伊和大神が国をお占めなされたとき、御志(みしるし)をここに突き立てられると、それからついに楡(いはなし)の樹が生えた。
姫路市林田町上溝 祝田神社「罔象女命」

【5.大神の御子】揖保郡・林田の里・伊勢野 山の峰においでになる神は伊和大神のみ子の伊勢都比古命、伊勢都比売命である。
姫路市林田町上伊勢、下伊勢、大堤

【7.大汝命】揖保郡・林田の里・稲種山 大汝命と少日子根命の二柱の神が神前の郡の
姫路市下伊勢 峰相山

【6.天日槍命との闘争】揖保郡・揖保の里 粒丘とよぶわけは、天日槍命が韓国から渡って来て宇頭川下流の川口に着いて、宿所を葦原志挙乎命にお乞になって申されるには、「汝はこの国の主たる方である。私の泊まるところを与えてほしい」と。
龍野市竜野町日山 粒坐天照神社「天照國照彦火明命」

【5.大神の御子】揖保郡・出水の里(いづみ)・美奈志川(みなし) 伊和大神のみ子石龍比古命と妻の妹石龍比売命と二人の神が、水争いをしている。
龍野市揖西町清水王子前 祝田神社「石龍比古命、石龍比売命」 美奈志川は中垣内川

【2.国占め失敗】讃容の郡(さよう) (伊和)大神妹背二柱の神がおのおの先を争って国を占められた。妹は玉津日女命で、賛用都比売命と名付けられた。
佐用郡佐用町本位田 佐用都比売神社「市杵嶋姫命」

【2.国占め失敗】讃容の郡・讃容の里・吉川(えがは)(もとの名は玉落川) (伊和)大神の玉がこの川に落ちた。
佐用郡佐用町を流れる江川のこと 佐用町長尾の神場神社「天目一箇神」 佐用町仁方の神場神社「大友左手彦命」 

【1.出雲から播磨へ】讃容の郡・柏原の里(かしはばら)・筌戸(うへと)(大神)が出雲の国から来られた時、嶋の村の岡をもって呉床としてすわって、筌(やな)をこの川に仕掛けた。魚は入らず、鹿が入った。食べようとしたが口に入らず、落ちたので、ここを去った。
佐用郡佐用町南光 東徳久に天一神社「天之御中主大神 配 天目一箇神」式内社

【5.大神の御子】讃容の郡・雲濃の里(うぬ)(伊和)大神のみ子玉足日子。玉足比売のお生みになった子、大石命。
佐用郡佐用町南光の南部から佐用町上月櫛田

【4.国占め完了】穴禾の郡(しさわ) 伊和大神が国を作り堅め了えられてから後、ここの山川谷峰を境界として定めるため、御巡幸なされた。
姫路市 伊和神社

【4.国占め完了】穴禾の郡・比治の里(ひぢ)・宇波良の村(うはら) 葦原志挙乎命が国を占められた時、みことのりして「この地は小さく狭くまるで室戸のようだと仰せられた。だから表戸という。
姫路市山崎町宇原・下宇原 宇原に岩田神社「磐筒男神、磐筒女神」

【3.国占め】穴禾の郡・比治の里・比良美の村(ひらみ) (伊和)大神の褶(平帯)がこの村に落ちた。
揖保郡新宮町香山字平見

【3.国占め】穴禾の郡・比治の里・庭音の村(にはと)(もとの名は庭酒(にはき))(大神)の御乾飯が濡れてかびが生えた。すなわち酒を醸させ、それを庭酒として献って酒宴をした。
姫路市山崎町千本屋 雨祈神社「高

【6.天日槍命との闘争】穴禾の郡・比治の里・奪谷(うばひだに) 葦原志挙乎命と天日槍命の二人の神がこの谷を奪い合った。 
姫路市山崎町須賀沢の安志峠西側と川戸の断層地形

【3.国占め】穴禾の郡・比治の里・稲春の岑(いなつき) (伊和)大神がこの岑で、稲を春かせた。 
姫路市山崎町川戸の川戸山 岩田神社「磐筒男神、磐筒女神」

【6.天日槍命との闘争】穴禾の郡・柏野の里(かしはの)・伊奈加川(いなか) 葦原志挙乎命が天日槍命と競争して国を占められたとき、嘶く馬があって、この川で出会った。
姫路市山崎町を流れる菅野川

【3.国占め】穴禾の郡・柏野の里(かしはの)・土間の村(ひじま) 神の衣が土(泥)の上に付いた。 
姫路市山崎町土方

【3.国占め】穴禾の郡・柏野の里(かしはの)・敷草の村(しきくさ) 草を敷いてかみの御座所とした。 
姫路市千種町千草

【3.国占め】穴禾の郡・柏野の里(かしはの)・飯戸の阜(いひべノおか) 

【2.国占め失敗】穴禾の郡・安師の里(あなし)(もとの奈は酒加(すか)の里) (伊和)大神がここで冫食(飲食)をなされた。だから須加という。 伊和の大神は安師比売神を娶ろうとして妻問いされた。その時この女かみが固く辞退して許さない。そこで大神は大いに怒って、石を以て川の源を塞きとめた。
姫路市安富町と山崎町須賀沢 安富町三森 安志姫神社「安志姫命」

【9.その他】穴禾の郡・石作の里(いしつくり)(もとの名は伊和) 石作と名づけるわけは、石作首らがこの村に住んでいる。
姫路市一宮町の南部 伊和神社

【5.大神の御子】穴禾の郡・石作の里・阿和賀山(あわかやま) 伊和大神の妹の阿和加比売命がこの山においでになる。
但馬国朝来郡栗賀山 朝来市山東町粟鹿 粟鹿神社 但馬一ノ宮

【3.国占め】穴禾の郡・石作の里・伊加麻川 (伊和)大神が国を占められたとき、烏賊がこの川にあった。
姫路市山崎町梯川

【3.国占め】穴禾の郡・雲箇の里(うるか) (伊和)大神の妻の許乃波奈佐久夜比売命は、その容姿が美麗しかった。だたか宇留加という。
姫路市一宮町閏賀・西安積・杉田 閏賀に稲荷神社「宇賀今神 配 木華開耶姫命」

【6.天日槍命との闘争】穴禾の郡・雲箇の里・波加の村(はか) 国を占めなされた時、天日槍命が先にこの処に来、伊和大神はその後でここに来られた。
姫路市波賀町 上野に明神社「天火明神」、宝殿神社「大国主神」など

【6.天日槍命との闘争】穴禾の郡・御方の里(みかた)  葦原志挙乎命は天日槍命と黒土の志爾蒿(しにだけ)にお行きになり、お互いにそれぞれ黒葛を三条足に着けて投げあいた。その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に落ち、一条は夜夫の郡に落ち、一条はこの村に落ちた。天日槍命の黒葛は全て但馬の国に落ちた。


姫路市一宮町北部 姫路市一宮町森添 御方神社「葦原志挙乎命 配 高皇産霊神、月夜見神、素盞嗚神、天日槍神」

【4.国占め完了】穴禾の郡・御方の里・伊和の村(もとの名は神酒である) (伊和)大神が酒をこの村で醸したもうた。また(伊和)大神は国作りを終えてから後、「於和」と仰せられた。
姫路市一宮町伊和 伊和神社

【5.大神の御子】神前の郡(かむさき) 伊和大神のみ子の建石敷命は山使の村の神前においでになる。
神崎郡福崎町 山使の村は山崎 山崎明神社(未確認)

【7.大汝命】神前の郡・
神崎郡市川町・粟賀町、朝来郡生野町   

【6.天日槍命との闘争】神前の郡・多駝の里(ただ)・粳岡(ぬかおか) 伊和大神と天日桙命の二人の神がおのおの軍兵を発して互いに戦った。
姫路市船津町八幡

【5.大神の御子】託賀の郡(たか)・黒田の里(くろだ) 宗形の大神奥津島比売命が伊和大神のみ子をお孕みになり、この山まで来て仰せられた。
西脇市黒田庄町 古奈為神社「木花開耶姫命、稚産靈神」

【7.大汝命】賀毛の郡(かも)・下鴨の里 大汝命が碓を造って稲を春いた処は碓居谷とよび、箕を置いた処は箕谷とよび、酒屋を造った処は酒屋谷とよぶ。
下里川流域 

【7.大汝命】賀毛の郡・飯盛嵩 大汝命の御飯をこの嵩で盛った。
加西市豊倉町の飯盛山 

【7.大汝命】賀毛の郡・粳岡(ぬかおか) 大汝命が稲を下鴨の村で春かせると、粳が散ってこの岡に飛んだ。
加西市網引町、小野市西脇町の糠塚山

【8.五十猛命】賀毛の郡・端鹿の里(はしか) 昔、神がもろもろの村に菓子(このみ:木の種子)を頒けたが、この村まで来ると足りなくなった。
東条川流域 東条町天神 一之宮神社「素盞嗚尊」 五十猛命かも。


『風土記』から現在は大国主と同じ神とみなされている伊和大神、葦原天日槍命、大汝命の名前の出る土地をリストアップした。伊和大神は出雲から来たとあるのだが、【1.出雲から播磨へ】【2.国占め失敗】を見ると、物語の発端が西の佐用郡から始まっているようで、出雲か吉備辺りから奉戴する氏族がやってきたのであろう。
【3.国占め】【4.国占め完了】の「国占め」とは国土開拓も含めて考えることが出来る。原初の金属採取精錬も行われたのであろう。山の木々が枯渇して【8.五十猛命】のように積極的な植樹が必要だったのである。
『播磨国風土記』の圧巻は【6.天日槍命との闘争】であろう。よほど、印象に残った事件だったようだ。天日槍命は但馬の伊都志(出石)へ去ったのだが、後に品太天皇が但馬から播磨(飾磨郡安相の里)へ巡幸してきて、多くの足跡を残している。伊和大神の国土開拓以上の印象を受ける。天日槍命の子孫の逆襲であろうか。

鶴石

お姿
 本殿の真後ろの下がった所に鶴石が祀られている。磐座信仰が出発点だった神社の歴史を物語っているのだろうか。
 伊和神社は盆地の中央に鎮座している。真北の山が花咲山、東に白倉山、西に高畑山があり、それぞれ摂社にもなっている。頂上に磐座を持つ神の坐す峰である。また優美な東北方の宮山では頂上に幡を立てて本社から遥拝する祭りがあるとのこと。神は幡に降臨する。

 伊和神社の鎮座する盆地全体が一つの聖域に見えるのは先の山々の存在であるが、また神社の神域は素晴らしい社叢となっており、その広さもさることながら鬱蒼としていないが豊かさを感じさせる木々の香りが心地よい。南側に参道があり、森の中を通り抜けるのであるが、29号線を走る車の音が聞こえてくるのだが、何ともこぼれ日の射し込む心に響くとなっている。是非おすすめしたい。

お祭

 春季大祭・弁天祭  4月10日に近い日曜日
 夏祭 7月15日
 風鎮祭  8月26日頃
 秋季大祭  10月15・16日

参考文献
日本の神々2 白水社

古代播磨の地名は語る(播磨地名研究会)姫路文庫
播磨国風土記を歩く(寺林 峻)神戸新聞
風土記(吉野裕訳)平凡社


 林田八幡神社
姫路市林田町八幡 mapfan

鳥居

交通案内
神姫バス 林田経由山崎行き 六九谷下車 東へ800m


祭神
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后 配 五十猛命


摂社
高良神社「武内宿禰 配 吉備津彦神」
松尾神社「大山咋命、木花開姫命 配 市杵嶋命、蛭兒命」

神域


社頭掲示の由緒
 社伝によれば、寛平五年(893年(林田庄内八ヶ村の有志三十六名が山城石清水八幡宮より神体を勧請したという。三十六名の子孫で町内に在住している人々は小烏帽子とよばれ、年二回遥拝式を行うなど当社の神事に深く係わってきた。
 江戸時代の藩主建部氏は十代二百五十年にわたり当社を産土神・祈願所として崇敬し、政宇、政賢、政醇らが石灯籠や絵画などを奉納している。
姫路市教育委員会


由緒
 『播磨国風土記』の揖保郡の条に林田の里が出ている。
 もとの名は談奈志(いはなし)。談奈志と称するわけは、伊和大神が国を占めなされたとき、御志(みしるし:めじるしの棒)をここに突き立てられた。それからついに楡(いはなし)の樹が生えた。だからこの里を談奈志と称する。

 『風土記』地名説話集でもあるが、『播磨風土記』では伊和大神と品太天皇の話が多い。国津神と天津神とが交叉して地名説話に登場しているのであるが、この林田の八幡神社の祭神もいわゆる八幡関係の三神に武内宿禰を配した天津神系と五十猛命、大山咋命の国津神系が配されている。所が前に紹介した姫路市教育委員会の社頭掲示には祭神の名には主祭神ではない五十猛命は記されていない。これでは只の八幡宮と思われてしまう。 その昔の開拓神を配しているのがこの神社の値打ちだと思うので、是非五十猛命の名を入れてほしいものだ。

 祭礼に中臣印達祭がある。いわれは承知していないが、中臣印達神社の印達神とは五十猛命とみなされており、配祀祭神の五十猛命とこの祭礼とは無関係ではないと思われる。

本殿


お姿
  姫路駅からのバスで山崎方面に乗ったのだが、バス道からはほとんど神社らしい神社はお目にかからなかった。バス道は川沿いの道であり、山裾を走っていないからかも知れないが、他の地方とは違う印象であった。その分、神社それぞれは氏子地域も広いのだろうが、大きい神社があるようだ。
 林田八幡神社については理由のない勝手な想像だったが、小さい神社を予想していた。所がそうとうな規模の神社であり、山門、社殿、摂社、立派な様子だった。南側に神奈備山らしい優美な山があり、北側の山との間に鎮座しているように見える。境内はそれらの山も含まれるのだろうか、多くの種類の鳥が来るそうである。


お祭り
 厄除け祭  2月19日(高良神社)
 中臣印達祭  4月15日
 例大祭   10月 9、10日

社殿 上段には摂社が並ぶ


平成祭礼データから

八幡神社
御由緒
その創立は宇多天皇の寛平五年(八百九十三年)五月林田庄内(現在の林田町)であ る六九谷、口佐見、奥佐見、林谷、林構、松山、山田、大堤の八ケ部落の雄姿三十六 名国土安穏、子孫繁栄の為神祇を祈る思が強かった。その時今の鎮座地の中の峯に鈴 の鳴る音が頻に聞え、東の峯に鉾が立ち、西の峯に白羽の矢が立った。ここに有志の 評議が一決し、山城国石清水八幡宮の分霊を勧請し奉るために此の社地より南十町の 所に湧出する泉(塩阜)に沐浴潔斎して山城国男山に上り八幡宮の分霊を勧請供奉し て還った。
時に寛平五年八月十五日である。同月二十八日社地を定め幣物を捧げ、再び九月二日 三村左近藤原兼久以下三十五人列座して神酒を捧げ、同月八日仮殿を設けて遷し奉る 。是が当社の創立である。
以上

 


 『風土記』吉野裕訳 平凡社


 高嶺神社
兵庫県赤穂郡上郡町山野里 its-mo高嶺神社山宮高嶺神社里宮

里宮の社殿と天王山(右側)

交通案内
山陽本線上郡駅 南側の道を西へ500m 安室川を渡るとすぐ里宮
里宮から南南東の方角に、二上山ふうの山が見える。その麓に鳥居がある。一本道で山登り。 しっかりした靴が必要。


祭神
須佐之男命 配 手名椎名、足名椎命、櫛名田比売命


摂社
山宮の摂社(西)「武甕槌命、猿田毘売命、須勢理毘売命、少毘古那命、熊野命、天葺根命、五十猛命、穴牟遅命」
山宮の摂社(東)「天津彦根命、天忍穂月命、天穂日命、活津彦根命、田心毘売命、瑞津毘売命、瓊瓊杵命」

山宮への道


社頭掲示の由緒
 人皇第六十四代円融天皇天禄三年(972年)当地の柳田の森に霊光あり 有明山に天降りし灯籠の光と相照らし輝いて里人奇異の思いを懐き毎夜群衆しけるに貴みける者は利生をを蒙り慢る者は罰を受く 而してこのこと遂に天聴に達し博士に占わせるに天竺の摩訶陀国之牛頭天王(須佐之男命)が和国の鎮守の神となり給う御告なりと奏上しければ直ちに勅命を以てこの高嶺山に勧請ありて勅願所に定めらる。人皇第六十八代後一条天皇万寿二年(1025年)三月特に勅旨を奉じて大祭典が執り行われ 人皇第七十二代白河天皇応徳二年(1085年)乙丑の年から満寿の旧儀に倣い干支の乙丑の年に御開帳の大祭典を執り行うことが当社の慣例となり現今に踏襲さる。群雄割拠の戦国時代当社は満山赤土となる悲しい災禍に逢ったが足利尊氏山名持豊池田輝政浅野長直等有名な武将の尊崇と加護篤く西播磨は勿論備前中周辺の淳良な崇敬者に支えられ農業をはじめ諸産業の守護神として御神徳高く西の天王さんと仰ぎ親しまれ明治元年牛頭天王の社号を高嶺神社と改称す。 明治六年村社に列し同十五年郷社に翌十六年県社に加列す 大正十四年本開帳に際し境内の模様替え社殿の増改築あり昭和三十年四月中開帳の祭典ありて今日に至る。高嶺神社社務所

神木


お姿
  里宮から南南西の天王山は近づくとますます優美な神奈備山の姿になる。 道の向こうに鳥居が見える。参道は比較的広い山道であり、ハイキング気分で登って行くがなかなか目的地には到着しない。途中に天満宮の小祠があるが、その付近からは岩肌がむき出しの凄ましい道になる。でこぼこの岩と峻険な登りをどんどん行く。普通の参道らしい道にであい、再び登り始めると天王山の千年杉と呼ばれる樹齢約1000年の高嶺神社の神木の向こうに建物が見えてくる。社務所であった。どうやら改築中で、なんとミニトラックが止まっていた。

 

室町の様式を残す慶安二年(1649年)造営の本殿

山宮の本殿


お祭り
 御日待祭 1月14日 黒星祭とも言う。とんど神事。
 春祭 4月第二日曜日 御田植  
 秋祭 10月第二日曜日 渡御祭
 大開帳祭  4月第二日曜日 式年祭(60年に一度)
 中開帳祭  4月第二日曜日 式年祭(30年に一度)

平成祭礼データから

当社は今を去る約一千年の昔、人皇第六十四代円融天皇の御代、全国に疫病が流行し 、死者が続出するという悲惨な状況が続いたとき、当地、山野里の柳田の森に、毎夜 、天上から霊光が射し、有明山に天下った灯籠の光と相照らし合い、里人奇異の思い を懐き夜毎に群集したが貴む心を持つ人は利益を蒙り慢る心を持つ人は罰を受けた。 という。
やがて、この事が、国司を通じて天皇の御耳に入り、直ちに陰陽博士に占わせられた ところ「天竺の摩訶詑国の牛頭天王(須佐之男命)が鎮守の神として当地の高嶺山に お鎮まりになり、癘気を払い、民草を救わんとする兆しである。」との御託宣である ことがわかり、天禄三年壬申九月二十三日勅命を以って、この高嶺山に社殿を設け、 勧請申し上げたところ忽ち疫病は退散して再び平和がよみがえり、農業をはじめ諸々 の産業が繁栄し、民草の生活が安定したのである。
そこで、このお社が勅願所に定められ、勅祭が執り行われたのであるが、人皇第六十 八代後一条天皇の万寿二年乙丑三月、特に勅旨を奉じて大祭典が執り行われたのであ る。そして「人皇第七十二代白河天皇の応徳二年乙丑、時の神官等、夢に神あり、祀 典を挙ぐべし、と、告ぐ、覚めて語るに各々皆同じ、依って、万寿の旧儀を考え、祭 祀を修め、これより以降、干支の乙丑の年、大祭典を執り行うことが、当社の慣例と なる。」と伝えられている。
また群雄割拠の戦国時代、満山赤土となる悲運にも遭ったが、足利尊氏、山名持豊、 池田輝政、浅野長直等による武将の尊崇篤く、西播磨はもとより、備前、備中周辺の 純朴なる崇敬者に支えられ、西の天王さん、と仰ぎ親しまれ昭和の御代に至る。
以上
 


神社本庁 『平成祭礼データCD』

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