伊和神社
兵庫県宍粟市一宮町須行名(すぎょうめ) mapfan

入り口の社叢



交通案内
姫路から山崎、山崎から徳倉又は横山行きバスで神社前

祭神
大己貴神
配 少彦名神、下照姫神

摂社 播磨十六郡神社「播磨国式内東八郡の神」
摂社 播磨十六郡神社「播磨国式内西八郡の神」
摂社 五柱社「天照大神、宇賀魂神、國底立神、素盞嗚命、猿田彦神」
摂社 市杵島姫神社「市杵嶋姫命」
摂社 宮山の祠、白倉山の祠、花咲山の祠、高畑山の祠「大己貴神」

摂社 射楯兵主神社 祭神 射楯神、兵主神(昭和十三年兵庫県神社誌)現在は見当たらない。

拝殿

伊和神社御由緒略記
  創祀
 大己貴神は国土を開発し、産業を勧めて生活の道を開き、或は医薬の法を定めて、治病の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。
 大神は播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨国内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里(現在当神社のある地方)に至りまして、我が事業は終わった「おわ」と仰せられて鎮まりました。ここに於て人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当神社の創祀であります。
 その御神徳により、古来、農業・工業・商業等産業の神、縁結びの神、福の神、病気平癒の神、又、交通安全の神として崇敬されております。
 一説に、成務天皇甲申歳二月十一日丁卯(144年)、或は欽明天皇二五年甲申歳(564年)の創祀とも伝えております。

御社格
 延喜の制では名神大社に列し、播磨国の一の宮で、明治六年県社に、同一八年国幣小社に、同四五年国幣中社に列し、戦前までその御社格でありました。

御神階
 貞観元年(859年)従五位勲八等から従四位下に、元慶五年(881年)正四位下に進み、爾後累進して、正歴二年(991年)正一位を極め給うた。

神封
一、大同元年(806年)神封十三戸
一、天慶三年(940年)平将門征討の御願奉賽として神封五戸増加

奉幣
一、寛仁元年(1007年)幣帛神宝を奉らる。

御神領
一、天平宝字二年(758年)八月 伊和恒雄神領寄進
一、延元元年(1336年)四月 新田義貞、足利尊氏追討の祈願をなし神領及び甲冑寄進
一、明徳四年(1392年)七月 赤松上総介儀則、美作国粟井庄寄進
一、応仁二年(1468年)三月 赤松政則神領寄進
一、慶長十三年(1608年) 池田輝政神領寄進
一、寛文六年(1666年) 松平恒元神領寄進
一、延宝四年(1676年) 池田政元神領寄進

御造営
一、欽明天皇の御代(564年) 伊和恒郷に神託あり、西方の霊地(現在の鶴石上)に神殿を再築
一、建長元年(1249年)四月 炎上、朝廷より御再興
一、明徳三年(1392年)七月 赤松上総介儀則再興
一、永禄五年(1562年)二月 長水城主宇野越前守村頼再興
一、嘉永五年(1852年)二月一日 炎上、文久二年(1862年)二月 領主小笠原信濃守、本殿を造営、幣殿以下は国の一の宮たるの故を以て播磨国内より金銭木材等を寄進して安政五年(1858年)二月落成す

おもな行事 省略

境内
 16、613坪(54、920平方メートル)

宝物
新田義貞公寄進状外古文書類約二百通 新田義貞公奉納甲冑(焼損)等あり

鶴石
 本殿の裏にあり。欽明天皇甲申歳、伊和恒郷に「我れを祀れ」との御神託があり、一夜のうちに杉・桧等が群生して多くの鶴が舞っており、大きな白鶴が二羽石上に北向きに眠っていたのでその所に社殿を造営したという。その石を鶴石といい、社殿が北向きであるのもそのためであるという。

境内末社 省略

旧境外末社
庭田神社 祭神 事代主神 一宮町能倉にあり
志位神社 祭神 素盞嗚尊 稲田姫命 山崎町与位にあり
邇志神社 祭神 伊弊諾命 伊弊冊命 須佐之男命 波賀町皆木にあり
安志姫神社 祭神 安志姫命 安富町安志にあり

伊和神社の社殿

由緒
 『延喜式』神名帳記載の播磨国宍粟郡の伊和坐大名持御魂神社とされる。播磨国有数の古社。
 揖保川の東岸の大きい社叢の中に鎮座する。周辺の山々は削られたような跡と思われる谷が小刻みにあり、金属を採掘した跡と思われる。また気候のせいもあろうが、山々の木々はしょぼくれており、わびしい。恐らくは金属採取と精錬に揖保川沿いの山々の木々は燃料となってしまったのだろう。伊和神社の社叢の木々は、神域としてここ数百年は伐られたようには見えない。

 揖保川沿いは古代からの交通の要路でもあり、一宮町には縄文時代早期から一連の土器が出土している。弥生時代にはいって有力な支配者も登場したのであろうが、伊和神社の真西にあたる地点の山腹から銅鐸が出土している。一宮と銅鐸、谷川健一さんの『青銅の神の足跡』を思い出すが、この神を祀った氏族は鍛冶氏族でもあった証と思われる。 当社の創祀の伝承に鶴が登場する。鍛冶氏族は鳥の伝承を持つというが、銅鐸出土とともに興味深い。

 『日本の神々2』伊和神社では祭祀氏族の伊和君一族の居住地と伊和大神の伝承地とが重なるとしており、そこへかなり早い時期に中央の勢力が及んだと見ている。
 中央の勢力とは大和王権の勢力を言うのであろうが、その前に天日槍の侵攻伝承が『播磨国風土記』で語られており、さらに近隣の吉備や出雲からの侵入もあったのではなかろうか。延喜式の時代には社名を伊和坐大名持御魂神社としている所から見ると、基層の住民は出雲からの移住者であったとも考えられる。

 戦前刊行の『兵庫県神社誌』には、伊和神社の摂社に射楯兵主神社が記載されており、祭神を射楯神と兵主神としている。探してみたが見当たらない、また神社で頂いた『御由緒略記』にも記載はない。社務所でこれについて質問をさせていただいた。「(姫路総社の)射楯兵主神社は当社から分遷したものであり、当社は射楯兵主神社の元社です。射楯は偉大・威厳、兵主は兵庫の主と言うことです。但し、悠久の昔のことですから、はっきりしたことはわかりません。」との事であった。

東から見た本殿

『播磨国風土記』に登場する伊和大神
【5.大神の御子】【7.大汝命】餝磨郡・英賀の里(しかま あが) 伊和大神のみ子の阿賀比古・阿賀比売の二はしらの神がその処に鎮座しておいでになる。
姫路市飾磨区英賀宮町 英賀神社「英賀彦神、英賀姫神」式内社。

餝磨郡・伊和の里(しかま いわ)伊和部とよぶのは、積幡の郡の伊和君らの族人がやってきてここに住んだ。だから伊和部とよぶ。手苅丘とよぶわけは、近い国の神がここに来て、手で草を苅って食薦とした。だから手苅とよぶ。あるいは「韓人たちが始めて来たとき、鎌を使用することがわからず、素手で稲を刈ったからと言う。
 昔、大汝命の子の火明命は、強情で行状も非常に猛々しかった。そのため父神はこれを思い悩んで、棄ててのがれようとした。則ち因達の神山まで来て、その子を水汲みになって、帰らない間に、すぐさま船を出して逃げ去った。(逃げ切れなかったようだ。)
手苅丘 姫路市手柄 生矢神社「大国主命」もとは三輪明神
因達の神山 八状岩山のこと 射楯大神の鎮座した処と伝わる。姫路市総社本町 射楯兵主神社「射楯神、兵主神」

【3.国占め】揖保郡・香山の里(いひぼ かぐやま)鹿来墓とよぶわけは、伊和大神が国を占めなされた時、鹿が来て山の峰にたった。山の峰は墓の形に似ていた。
揖保郡新宮町香山

【3.国占め】揖保郡・阿豆の村 伊和大神が巡幸なされた時、「ああ 胸が熱い」いって、衣の紐を引きちぎった。だから阿豆という。
揖保郡新宮町宮内 字に風呂垣内がある。

【7.大汝命】揖保郡・御橋山 大汝命が俵を積んで橋(梯子)をお立てになった。
揖保郡新宮町觜崎(屏風岩)

【3.国占め】揖保郡・林田の里(元の名は談奈志(いはなし))談奈志と称するわけは、伊和大神が国をお占めなされたとき、御志(みしるし)をここに突き立てられると、それからついに楡(いはなし)の樹が生えた。
姫路市林田町上溝 祝田神社「罔象女命」

【5.大神の御子】揖保郡・林田の里・伊勢野 山の峰においでになる神は伊和大神のみ子の伊勢都比古命、伊勢都比売命である。
姫路市林田町上伊勢、下伊勢、大堤

【7.大汝命】揖保郡・林田の里・稲種山 大汝命と少日子根命の二柱の神が神前の郡の堲岡の里の生野の峰にいて、この山を望み見て、「あの山には稲種を置くことにしよう」と仰せられた。 山の形も稲積に似ている。
姫路市下伊勢 峰相山

【6.天日槍命との闘争】揖保郡・揖保の里 粒丘とよぶわけは、天日槍命が韓国から渡って来て宇頭川下流の川口に着いて、宿所を葦原志挙乎命にお乞になって申されるには、「汝はこの国の主たる方である。私の泊まるところを与えてほしい」と。
龍野市竜野町日山 粒坐天照神社「天照國照彦火明命」

【5.大神の御子】揖保郡・出水の里(いづみ)・美奈志川(みなし) 伊和大神のみ子石龍比古命と妻の妹石龍比売命と二人の神が、水争いをしている。
龍野市揖西町清水王子前 祝田神社「石龍比古命、石龍比売命」 美奈志川は中垣内川

【2.国占め失敗】讃容の郡(さよう) (伊和)大神妹背二柱の神がおのおの先を争って国を占められた。妹は玉津日女命で、賛用都比売命と名付けられた。
佐用郡佐用町本位田 佐用都比売神社「市杵嶋姫命」

【2.国占め失敗】讃容の郡・讃容の里・吉川(えがは)(もとの名は玉落川) (伊和)大神の玉がこの川に落ちた。
佐用郡佐用町を流れる江川のこと 佐用町長尾の神場神社「天目一箇神」 佐用町仁方の神場神社「大友左手彦命」 

【1.出雲から播磨へ】讃容の郡・柏原の里(かしはばら)・筌戸(うへと)(大神)が出雲の国から来られた時、嶋の村の岡をもって呉床としてすわって、筌(やな)をこの川に仕掛けた。魚は入らず、鹿が入った。食べようとしたが口に入らず、落ちたので、ここを去った。
佐用郡佐用町南光 東徳久に天一神社「天之御中主大神 配 天目一箇神」式内社

【5.大神の御子】讃容の郡・雲濃の里(うぬ)(伊和)大神のみ子玉足日子。玉足比売のお生みになった子、大石命。
佐用郡佐用町南光の南部から佐用町上月櫛田

【4.国占め完了】穴禾の郡(しさわ) 伊和大神が国を作り堅め了えられてから後、ここの山川谷峰を境界として定めるため、御巡幸なされた。
宍粟市 伊和神社

【4.国占め完了】穴禾の郡・比治の里(ひぢ)・宇波良の村(うはら) 葦原志挙乎命が国を占められた時、みことのりして「この地は小さく狭くまるで室戸のようだと仰せられた。だから表戸という。
宍粟市山崎町宇原・下宇原 宇原に岩田神社「磐筒男神、磐筒女神」

【3.国占め】穴禾の郡・比治の里・比良美の村(ひらみ) (伊和)大神の褶(平帯)がこの村に落ちた。
揖保郡新宮町香山字平見

【3.国占め】穴禾の郡・比治の里・庭音の村(にはと)(もとの名は庭酒(にはき))(大神)の御乾飯が濡れてかびが生えた。すなわち酒を醸させ、それを庭酒として献って酒宴をした。
宍粟市山崎町千本屋 雨祈神社「高

【6.天日槍命との闘争】穴禾の郡・比治の里・奪谷(うばひだに) 葦原志挙乎命と天日槍命の二人の神がこの谷を奪い合った。 
宍粟市山崎町須賀沢の安志峠西側と川戸の断層地形

【3.国占め】穴禾の郡・比治の里・稲春の岑(いなつき) (伊和)大神がこの岑で、稲を春かせた。 
宍粟市山崎町川戸の川戸山 岩田神社「磐筒男神、磐筒女神」

【6.天日槍命との闘争】穴禾の郡・柏野の里(かしはの)・伊奈加川(いなか) 葦原志挙乎命が天日槍命と競争して国を占められたとき、嘶く馬があって、この川で出会った。
宍粟市山崎町を流れる菅野川

【3.国占め】穴禾の郡・柏野の里(かしはの)・土間の村(ひじま) 神の衣が土(泥)の上に付いた。 
宍粟市山崎町土方

【3.国占め】穴禾の郡・柏野の里(かしはの)・敷草の村(しきくさ) 草を敷いてかみの御座所とした。 
姫路市千種町千草

【3.国占め】穴禾の郡・柏野の里(かしはの)・飯戸の阜(いひべノおか) 

【2.国占め失敗】穴禾の郡・安師の里(あなし)(もとの奈は酒加(すか)の里) (伊和)大神がここで冫食(飲食)をなされた。だから須加という。 伊和の大神は安師比売神を娶ろうとして妻問いされた。その時この女かみが固く辞退して許さない。そこで大神は大いに怒って、石を以て川の源を塞きとめた。
姫路市安富町と山崎町須賀沢 安富町三森 安志姫神社「安志姫命」

【9.その他】穴禾の郡・石作の里(いしつくり)(もとの名は伊和) 石作と名づけるわけは、石作首らがこの村に住んでいる。
宍粟市一宮町の南部 伊和神社

【5.大神の御子】穴禾の郡・石作の里・阿和賀山(あわかやま) 伊和大神の妹の阿和加比売命がこの山においでになる。
但馬国朝来郡栗賀山 朝来市山東町粟鹿 粟鹿神社 但馬一ノ宮

【3.国占め】穴禾の郡・石作の里・伊加麻川 (伊和)大神が国を占められたとき、烏賊がこの川にあった。
宍粟市山崎町梯川

【3.国占め】穴禾の郡・雲箇の里(うるか) (伊和)大神の妻の許乃波奈佐久夜比売命は、その容姿が美麗しかった。だたか宇留加という。
宍粟市一宮町閏賀・西安積・杉田 閏賀に稲荷神社「宇賀今神 配 木華開耶姫命」

【6.天日槍命との闘争】穴禾の郡・雲箇の里・波加の村(はか) 国を占めなされた時、天日槍命が先にこの処に来、伊和大神はその後でここに来られた。
宍粟市波賀町 上野に明神社「天火明神」、宝殿神社「大国主神」など

【6.天日槍命との闘争】穴禾の郡・御方の里(みかた)  葦原志挙乎命は天日槍命と黒土の志爾蒿(しにだけ)にお行きになり、お互いにそれぞれ黒葛を三条足に着けて投げあいた。その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に落ち、一条は夜夫の郡に落ち、一条はこの村に落ちた。天日槍命の黒葛は全て但馬の国に落ちた。


姫路市一宮町北部 姫路市一宮町森添 御方神社「葦原志挙乎命 配 高皇産霊神、月夜見神、素盞嗚神、天日槍神」

【4.国占め完了】穴禾の郡・御方の里・伊和の村(もとの名は神酒である) (伊和)大神が酒をこの村で醸したもうた。また(伊和)大神は国作りを終えてから後、「於和」と仰せられた。
宍粟市一宮町伊和 伊和神社

【5.大神の御子】神前の郡(かむさき) 伊和大神のみ子の建石敷命は山使の村の神前においでになる。
神崎郡福崎町 山使の村は山崎 山崎明神社(未確認)

【7.大汝命】神前の郡・
神崎郡市川町・粟賀町、朝来郡生野町   

【6.天日槍命との闘争】神前の郡・多駝の里(ただ)・粳岡(ぬかおか) 伊和大神と天日桙命の二人の神がおのおの軍兵を発して互いに戦った。
姫路市船津町八幡

【5.大神の御子】託賀の郡(たか)・黒田の里(くろだ) 宗形の大神奥津島比売命が伊和大神のみ子をお孕みになり、この山まで来て仰せられた。
西脇市黒田庄町 古奈為神社「木花開耶姫命、稚産靈神」

【7.大汝命】賀毛の郡(かも)・下鴨の里 大汝命が碓を造って稲を春いた処は碓居谷とよび、箕を置いた処は箕谷とよび、酒屋を造った処は酒屋谷とよぶ。
下里川流域 

【7.大汝命】賀毛の郡・飯盛嵩 大汝命の御飯をこの嵩で盛った。
加西市豊倉町の飯盛山 

【7.大汝命】賀毛の郡・粳岡(ぬかおか) 大汝命が稲を下鴨の村で春かせると、粳が散ってこの岡に飛んだ。
加西市網引町、小野市西脇町の糠塚山

【8.五十猛命】賀毛の郡・端鹿の里(はしか) 昔、神がもろもろの村に菓子(このみ:木の種子)を頒けたが、この村まで来ると足りなくなった。
東条川流域 東条町天神 一之宮神社「素盞嗚尊」 五十猛命かも。


『風土記』から現在は大国主と同じ神とみなされている伊和大神、葦原天日槍命、大汝命の名前の出る土地をリストアップした。伊和大神は出雲から来たとあるのだが、【1.出雲から播磨へ】
【2.国占め失敗】を見ると、物語の発端が西の佐用郡から始まっているようで、出雲か吉備辺りから奉戴する氏族がやってきたのであろう。
【3.国占め】
【4.国占め完了】の「国占め」とは国土開拓も含めて考えることが出来る。原初の金属採取精錬も行われたのであろう。山の木々が枯渇して【8.五十猛命】のように積極的な植樹が必要だったのである。
『播磨国風土記』の圧巻は【6.天日槍命との闘争】
であろう。よほど、印象に残った事件だったようだ。天日槍命は但馬の伊都志(出石)へ去ったのだが、後に品太天皇が但馬から播磨(飾磨郡安相の里)へ巡幸してきて、多くの足跡を残している。伊和大神の国土開拓以上の印象を受ける。天日槍命の子孫の逆襲であろうか。

鶴石

お姿
 本殿の真後ろの下がった所に鶴石が祀られている。磐座信仰が出発点だった神社の歴史を物語っているのだろうか。
 伊和神社は盆地の中央に鎮座している。真北の山が花咲山、東に白倉山、西に高畑山があり、それぞれ摂社にもなっている。頂上に磐座を持つ神の坐す峰である。また優美な東北方の宮山では頂上に幡を立てて本社から遥拝する祭りがあるとのこと。神は幡に降臨する。

 伊和神社の鎮座する盆地全体が一つの聖域に見えるのは先の山々の存在であるが、また神社の神域は素晴らしい社叢となっており、その広さもさることながら鬱蒼としていないが豊かさを感じさせる木々の香りが心地よい。南側に参道があり、森の中を通り抜けるのであるが、29号線を走る車の音が聞こえてくるのだが、何ともこぼれ日の射し込む心に響くとなっている。是非おすすめしたい。

お祭

 春季大祭・弁天祭  4月10日に近い日曜日
 夏祭 7月15日
 風鎮祭  8月26日頃
 秋季大祭  10月15・16日

参考文献
日本の神々2 白水社

古代播磨の地名は語る(播磨地名研究会)姫路文庫
播磨国風土記を歩く(寺林 峻)神戸新聞
風土記(吉野裕訳)平凡社

五十猛命ホームページ

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